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第三話 初孫誕生
第一節
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第三話 初孫誕生、第一節
四月になって、桜が満開になったころのこと。今日も増田寿々子は、小さな三味線のような形をした楽器を持って、これはまたある小さな家に通うのであった。なぜかその楽器には、楽器よりもはるかに長い大きな弓が付属していた。この楽器を、こんなに巨大な弓で弾くのかと思うと、驚いてしまうほどの巨大さだった。それはかえって演奏しにくいのではないかと思われるほど巨大なのである。全く巨大すぎて、風呂敷で包めないほどであった。
「先生、こんにちは。増田です。」
入り口の戸を軽くたたくと、ハイどうぞという声と同時に、庭に設置されている鹿威しがカーンとなって彼女を迎えた。戸を開けると、丁度先の生徒が部屋を出るところだった。まだ、十代そこそこの若い女性。最近、若い女性の入門が増えていると聞いた。この楽器に触れたいという人は、少し前なら中年以降であったが、最近はそうでもないらしいのである。彼女もその一人で、やや高齢の寿々子を見ると、丁寧に頭を下げて、自身の楽器と巨大弓を持って、足早に出て行った。寿々子は、それを見届けると、土間に草履を脱いで、失礼しますと言いながら、中に入った。その家には珍しく上がり框がなくて、敷居もふすまもなく、まさしく、部屋がむき出しの状態になっている家だった。玄関から入ってすぐの部屋が稽古場になっていて、この家の持ち主で、増田寿々子が長年の師匠としている阿部千春が、持っている自身の胡弓を調弦していた。この三味線をやや小さくした胡弓というものは、なんとも言えない悲しさというか、本当に繊細すぎる音を出す楽器で、もしかしたら好き嫌いのはっきり分かれる楽器なのかもしれない。
「どうぞよろしくお願いします。」
寿々子は彼の前に正座で座り、自身の胡弓を風呂敷から取り出し、急いで駒を付けて調弦し、指すりを付けた。
「さて、今日は何を稽古します?」
すでに習って三十年以上、寿々子は大体の曲は知っている。だから、稽古するときの課題曲は、大体彼女が曲を決定するようにしている。
「じゃあ、六段の調べで、、、。」
千春は、またそれですかということもなく、行きますよと言って、さらさらと弾いていく。いくら練習しても、この先生には叶わないなあと寿々子は思う。でも、彼の手は、本当に巨大だなあと思う。彼の手くらいの大きさで初めてこの巨大な弓が丁度いいのではないかと思われる。そして、一見しただけでは性別のわかりにくいその顔でなければ、このかなしくて、ある意味では妖艶な音が合致しないような気もしないわけではない。
何回か繰り返して稽古は終わってしまう。本当は、小一時間程度ではなくて、もっともっと稽古できたらいいのになあと思う。
「どうもありがとうございます。先生。」
稽古が終了して、胡弓を風呂敷で再び包む。いつもなら、千春先生は、次の生徒さんのために楽器を変えたり、調弦を直したりし始めるのであるが、今日は胡弓の駒をとったので、
「あら、先生、今日はこのあと、生徒さんはいらっしゃらないんですか?」
と、寿々子は思わず言った。
「ああ、なんとも、親戚で法事があるとかで、今日は欠席するみたいなのです。」
千春はそう答えたので、今だ!と思い、こう切り出してみた。
「先生、ちょっとお時間よろしいかしら。」
「あ、どうぞ。どうせ、今日は、この後は特に生徒さんも来ませんので。」
「ありがとうございます!じゃあ、ちょっとあたしが日ごろから悩んでいることを聞いてくれますか。」
「またですか。」
ここで千春先生は、初めてそういう言葉を使う。
「いいじゃありませんか。先生ほど、私の気持ちをわかってくれる方はいませんよ。うちの亭主だって、本当に頑固おやじで、いつまでも意見なんかしてはくれませんもの。」
「はい、仕方ないですね。用件は。」
寿々子がお願いすると、千春先生は、その長く伸ばした黒髪を軽く掻き上げた。寿々子は、それを肯定と受け取って、すぐに話し始めた。
「先生、ようやくうちの裕も、お嫁さんを連れてきてくれました。まあこれで、いつまでも独り者と言われるつらさからは解放されましたわ。裕も、新五郎もよいお嫁さんを見つけてくれて、それなりに楽しそうにやってくれています。でも、どういうわけか私、まだ満足できないと言いますか、まだつらさが抜けないというか、そういうところがありまして。」
「それがどうしたのですか。つらさが抜けないとは?」
「ええ、私のわがままかもしれないですけど、嫁を得てくれたのだから、どちらかが、うちの店の後継者を設けてくれはしないかと、うっすらとですけど、期待をしてしまうのです。」
「期待?」
「はい。これまで、他人と同じようなことは得られないと、先生から言われておりましたので、一生懸命自分に言い聞かせておりましたが、同じことに少し近づいてくると、もしかしたら、後継者を設けてくれるのではないかと思ってしまうのです。」
「寿々子さん、すでに三十年以上お付き合いをしてきましたが、習いたてのころ、盛んに口にしていたことをお忘れですか?」
千春先生の顔は厳しかった。
「習いたてのころ?」
「はい。あなた、裕さんが生まれて間もないころからこちらに習いに来ていますね。その時、あなたは、こうおっしゃっていました。裕が、あまりにもほかの子と違うために、もう子作りはこりごりだと。次に子を作れば、大丈夫だと亭主が言うが、自分はまたああいう子を産んでしまったらと思うともっと怖いとも言いましたよ。その不安を裕さんや、新五郎さんに押し付けるというわけですか?なんとも贅沢な悩みですな。」
「そうですか、そんなこと、私、言っていたんですか。」
「そうですよ。はっきりと記憶しています。そして、ご主人に責められてもう一度身ごもったときは、堕胎するにはどうするのかを聞いてきたことさえあったでしょ。まあ、生まれてきたのが、新五郎さんだったので、よかったようなものだけど、欠陥者の後に、健康な人間が生まれてくる確率は、きわめて低いのですから、むしろ奇跡です。私が、長年付き合ってきた生徒さんで、欠陥者を設けてしまった方も何人か知っていますけど、基本的に最初の子供さんが何かしら障害を持っていた場合、次の子供さんも同じようになっている人がほとんどです。先ほども言いましたが、新五郎さんのような欠陥のない子供さんを設けられただけでも、幸せだと思わないと。それに、欠陥のある子供を産んでしまった場合、嫁として失格だとか言われて離婚させられたり、無理やりお妾さんを付けられたりしてしまうことが多いんですよ。そういう事を私は、何度か話してきたつもりです。同じ悲しみを裕さんや新五郎さんのお嫁さんに与えるのはどうかと思いますね。もし、そうなったと考えた場合、あなた自身もそれを無理やり命じるのは、女性として悲しいでしょうし。ですから、孫を望むというのは、本当に贅沢なんです。ぜいたくは敵とは言い過ぎだとは思いますが、分不相応な贅沢は何も良いものを産みません。」
「あ、ごめんなさい、、、。先生。先生はやっぱり厳しいですね、、、。」
「厳しいのではなく、現実にそうなるということを述べたのです。まあ、そういう事を悩めるということは、体も心も健康に近づいているということも、言えますね。そういう贅沢な悩みを持てるというのは健康な人でなければできませんから。ある意味、それは年を取ってきて、おごりが生じたという事にもなりますよ。私のような、座っているだけで精いっぱいで、立つということがまるでできない人間には、いくら年はとっても、子孫を残そうという感情は生じませんね。」
確かに、容姿こそ独特だが、千春先生は一日中座ったままだ。つまりどういう事かというと、歩けないという事である。移動する時には手で這って移動している。
「じゃあ先生、あたしは、どこに幸せを見出したらいいんでしょう。」
寿々子は思わず本音をポロリと言った。
「簡単なことじゃないですか。健康な体に近づいたことに喜びを持ちなさい。それを感じ取ることができれば、長年の弄斎も快方に向かうかもしれない。」
寿々子が、胡弓を習おうと思ったのも、この弄斎から快方するためである。逆をいえば、彼女はこれのおかげで、精神の安定を保つことができたので、発狂することはなく、増田屋にいることができたと言ってもいい。
「そうですか、、、。そうね、健康は宝ですもんね。」
彼女は、自分に言い聞かせるように強く言った。
「私は、生かせてもらっているだけで幸せだと思わなきゃ。他にも恵まれない方はたくさんいるんだから!」
「そうですよ。自分がこれでいいと思うことが一番の薬ですよ、弄斎というのはね。」
再び庭に付けられた鹿威しがカーンとなった。
自分はこれでいい、か。少なくとも今の環境でそういう言葉が言えるだろうか。そんなことを考えながら、寿々子が稽古場から歩いて増田屋に帰ってくると、丁度昼食の準備が行われている時間だった。というか、そのはずだった。
ところが、増田屋の建物に入っても、ご飯のにおいがしない。いつもなら、友子が大食いであるという理由もあり、大量にご飯を炊くので、ご飯のにおいが充満しているはずなのだが。
「ただいま、、、。」
心配して寿々子が中に入ると、
「あ、お母様、ちょっときていただけませんか。」
友子が血相を変えてやってきた。
「何?どうしたの?ご飯は、、、?」
「いや、ご飯は炊けないんです。」
友子は、事情を説明するのが苦手である。何が起きたのか順序良く説明するより、自身の感情のほうが先に現れてしまう。
「ご飯が炊けないって、おかまでも壊れたの?」
「そういう事じゃなくて、梅子さんが大変なんですよ。」
「梅子さんが、どうかしたの?」
「いいから早く来てください!こちらです。」
いったい何があったのか、寿々子にはわからなかった。何が何だかわからないまま、寿々子は友子に連れられて、部屋に入った。梅子が、部屋の中に蹲っていて、隣の台所では、裕が釜の前を雑巾で拭いている。
部屋は、黄色い嘔吐物で畳が汚れていた。しかも嘔吐したのは一度ばかりではないらしい。
「すみません、お母さん。梅子さん、お米をとぐところまではよかったんですけど、ご飯を炊き始めたら、急に吐き出してしまって、止まらなくなってしまって、、、。」
裕の説明でやっと事情を知ることができた寿々子は、直感的にそういうことか!と、すぐにわかった。
「友子さん、悪いけど、梅子さんを隣の部屋へ連れて行ってくれないかな。」
「はい、わかりました。」
友子は梅子をそっと支えて、隣の部屋へ連れて行った。
後には、寿々子と、まだ掃除をしている裕が残った。
「裕、新五郎はどこに?」
「買い物に出かけてまだ帰ってきてないですけど?」
「じゃあね、帰ってきてから、お父さんと一緒に話しあったほうがいいかもね。悪いけど、梅子さんは友子さんについていてもらって。これからね、裕、非常に大事なことになるからね。」
「ああ、そういうことですか。つまり、悪いのは、、、僕なのでしょうか。」
裕も、何があったのかすぐわかったらしい。本来なら大喜びのはずなのだが、がっかりするのが増田家なのである。
「あんたのせいとか、そういう事ではないけれど。」
「いや、新五郎のときだってそうだったんだから、わかります。五歳ながらに、複雑な気持ちでした。」
裕は正直に答えを言った。あれから三十年経っているのに、はっきり答えが出るということは、強烈に印象に残っているのだろう。
「なんとなくというか、、、自分が悪いんだなって、それなりに知ってましたから。まあ、今回も、僕みたいになったら、困ったなと心配しているんでしょ、お母さん。まあ確かに、僕みたいなのが増えてしまったら、確かに困りますものね。」
「ごめんねえ、あんたまで困らせちゃって。とりあえず、お父さんにも相談してみようか。」
二人は、顔を見合わせて、ため息をついた。
「ただいまあ。」
と、声がして、新五郎が戻ってきた。
「帰ってきた。」
裕が、そっと言った。
「ちょっと、こっちに来て。」
寿々子が新五郎を部屋に呼び出して、妻の梅子の身に何があったか、そしてこれから何がおきるのか、新五郎の立場がどのように変わるかを言い聞かせた。
「赤ちゃん!俺に息子か娘が?」
一瞬、新五郎は凍り付いた感じだったが、すぐに大喜びの顔になった。
「本当にのんきだなあ、、、。」
裕が、そういうくらい新五郎は喜んでいた。
「梅子は?」
「そうなんだけどね、新五郎。ちょっと考えてほしいこともあるのよ。」
寿々子がたしなめても、新五郎は大喜びのままやったとつぶやいているのであった。そのうちに、誠一も帰ってきたので、改めてこの話をした。
「そうか。でも、とりあえずは喜ばしいことであるから、喜んであげよう。そうでないと、肝心なものまでなくしてしまうのかもしれない。」
誠一は、家長らしくそういう事を言った。深刻な話をそうして喜ぼうというのだから、やっぱり父はすごかった。
「でも、私たちがしてきたようなことが、おこらないといいのですが、、、。」
「おこらないじゃなくて、おこるんだ。」
誠一は、耳の痛い話をはじめた。本当なら、聞きたくない言葉だった。
「だって、梅子さんには私と、同じような気持ちにはさせたくないじゃないですか。せっかくね、この家にきてくれたんですよ。それだけでも感謝しなきゃならないのに、それ以上悲しい気持ちには、させたくないじゃないですか。」
寿々子は、現実的な意見を述べたが、誠一は前向きなままだった。
「悲しいとか、つらいとか、そういうのを回避するのはだめなんだ。逃げてはならない。
そうじゃなくて、そういうことは、与えられたものだから、よろこばなくては。そして、全部を受け入れて、感謝していけば、幸せにはなれるさ!これまでもそうしてやってきたのだし、同じことがまた起こるのなら、同じことをやればいいだけのことだから、心配はいらない。」
「お父さんは、不安ではないのですか。」
裕が言うと、
「裕、そういうところが意気地なしというんだ。男なら、あるものを受け入れて立ち向かえ!」
父は、そう気弱な長男を叱責するのだった。
「はい、すみません、、、。」
裕は、こういわれると小さくなってしまう癖があった。新五郎だけ一人にこにこしていた。
「よし、ご飯にしよう。まだ誰も食べていないだろうし。」
すぐに切り替えができるのも、誠一ならではである。
「そうですけどね、ご飯どころではありませんよ。だって、梅子さんは、ご飯など炊けるどころでは、、、。」
「裕、お前が習ってきたそばがあるだろ。それを出せばいい。」
「あ、ああ、すみません、お父さん。」
「ついでに、梅子さんにも何か食べさせてやれ。これからは大事な体になるのだから、何も食べないのは困るだろう。」
「でも、お父さん、ご飯だって炊けないわけですから、嫌がるのではないですか。」
「そういう時は、心を鬼にして滋養を付けてもらわなければだめだ。」
「俺、そばがき作ってきます!父親としての初仕事だ!」
新五郎が、急に立ち上がった。その瞬間を待っていたようだった。
一方、隣の部屋では。
「お茶ぐらいだったら、飲めるかしら。」
友子が、まだ吐きそうになっている、梅子の前に茶を置いた。
「せめてお茶くらい飲んだほうがいいわよ。」
そう言われて、梅子は湯呑を唇に近づけたが、また吐き出してしまって、湯呑を落としてしまった。
「お茶もだめか、、、。水もだめかしら。何か口にしたほうがいいわよ。」
「友子さん。」
梅子はとても悲しそうだった。
「あたし、本当に申し訳ないことをしでかしてしまった気がするんです。なんか、この家では、こういう事は、悪いことと言いますか、やってはいけないというか、そんな気がするんです。」
「何を言ってるの?こんなにうれしいことはないと思うけど?」
「友子さん。」
不意に梅子はそういった。
「廓にいた時に、やっぱりこういう事もあったんじゃないですか。そういう時って、早いうちにおろしてしまうでしょう。それって、教えていただくわけにはいかないですか?」
まあ、確かに、女郎屋というところでは、望まない事例というものは結構ある。その結果として生まれた子は、基本的に禿になって、母親と同じ職業に就くのがお決まりになっている。ただそういう事ができるには、かなり高名な女郎でないとできないことも確かで、新造などがその事例に該当してしまった場合は、確かに大事になったことはあった。
「まあ、確かにないわけじゃないけど。」
友子は正直に答えた。全くないなんて言えるはずもなかった。
「あたしは、むやみに殺すというのは、どうかなと思うわ。だって、あたしたちは仕事としてやるからそういう事になるけれど、普通の一般的な家庭では、喜ばしいことになるはずだから。」
「そうだけど、、、。」
梅子は、かなり不安定になってしまったらしい。おそらくよほど思い詰めてしまったのだろう。
「でも、辛くて仕方ないのよ。だって、もし、本当におかしな子だったらどうしようって、どうしてもそればかり考えてしまうの。このまま十月も私の中で育てていたら、そのうちに愛着がわいてきて、いざ間引きに出そうとしたとき、素直に差し出せなくなったりしたら、皆必ずおこるわよ!」
「何をめちゃくちゃなことを言っているの?こんなときに間引きなんて!」
「だってそうなるに決まってるじゃないの!お兄さんがああいう体をして生まれてきたんだから!」
「裕さんと、新五郎さんは違うわよ!勝手に裕さんのせいにはしないでよ!」
「でも兄弟でしょ!同じ血を引いている訳だし、不安になるのは当り前よ!だから、はじめから作らないほうがいいのよ、子供なんて!それなのに、私どうしよう、、、。そうなると、すごい責任感と、産んでも間引きされちゃうってわかってるのと、私も、この家を出なきゃいけなくなるんじゃないかって、、、。」
「考えすぎよ!大丈夫、家を出て行くことは絶対にないから!その証拠に、私だって、ここにいさせてもらっているじゃない!私みたいなダメな人が、ここにいさせてもらっているんだから、この家はそういう人を間引きなんかしないわよ!大丈夫だってば!」
友子は、一生懸命梅子を励ましたが、梅子は生まれた子は確実に障碍者で、そして、それ故に間引きをされて、さらに自分は、障害児を産んだ責任を問われて家を追い出されると、信じ切っているようだった。
「だったら聞くけど、どうして間引きをされると思うの?誰がそういったの?」
友子が聞くと、
「聞こえてくるのよ!誰なのか、わからないけど、聞こえてくるのよ!きっとそうなるんだって!」
ということは幻聴だろうか?
「具体的に言いなさいよ!誰の声なの?」
友子もしまいには苛立ってきて、声を荒げて質問した。
「知らないわよそんなこと!」
梅子もこれまた金切り声で答える。
「だったら教えてあげる。あたしたちの廓でも、そういう事はたまにあってね、そういうときは、薬もらって無理やり出したりしたんだけどね。でも、大体の子はそれでおしまいよ。きっと、身請けされたり、契約が終了したりして自由になって、いざ、好きな人ができて、子を作ろうと思ったときはもう手遅れ。」
「そのほうがよほど楽じゃない!二度と子を作れなくなったほうが幸せになれる場合だってあるでしょ!」
梅子の結った島田がばらばらとほどけて、まるで狂女という顔になった。
「だけど、よく考えて!そうやったときは確かに楽になれるかもしれないけどね、でも、次に、健康な子を作ることだってできないのよ!何れにしても、子をおろすなんて、一時しのぎなだけ。皆、自分の子を殺して、後悔しないことはなかったわ。中にはずっと自分を責め続けて、発狂したりすることだって、あった!教えてあげるけど、そうなったほうが、よほど追い出される確率は高くなるわよ!」
「でも、自信ないわよ!母親なんて!ましてや、こういう家だから、普通の子にするような子育てはたぶん通用しないわよ。そんなやり方、何も知らないし、そういう子を、一人前の大人にする自信もないし、、、。」
梅子の声は次第に小さくなっていく。子ができるなんて、史上最大の喜びであっていいはず。でも、それができないのが、この家なのである。
「それなら心配いらないわ。よいお手本は、そばにいるから。」
友子はさらりと言った。
「お手本?」
「あったりまえじゃない。お母様よ!裕さんを無事に育て上げたじゃないの。それに、旗本の野上様だって、食わず嫌いのお嬢様をああして育てているんだし!」
「でも、お母様は、胡弓の阿部先生とか、いろんな人に力を貸してもらっていたのよ。わからないことがあったら、すぐに聞きに行ける人がいたのよ。私には、そういう人はいないわ。それに、そうやって手を出してくれる人なんて、私では見つけられないだろうし。」
「あのね、梅子さん。結論から言えば、一人で子育て何かできるはずもないのよ。みんな誰かに協力してもらって当たり前なの。この世に一人ぼっちで、子供とだけ生きるなんて、絶対あり得ない話よ。お母様と同じことをしなければ、子供は育てられないわ。」
「だけど、」
梅子は、涙を流して泣きじゃくった。
「お母様は、すぐに阿部先生に相談に行けたからよかったのよ。裕さんたちが生まれる前からそういう偉い人と付き合えていたからよかったのよ!でも、私はそういう人はいないわ。あたしは、お母様とはそこが違うのよ!」
「だったら探しに行けば!」
友子は、梅子の肩に手をやって、落ち着かせた。
「なければ探しに行けばいい話よ。それだけの事じゃないの。すでにお母様がそうして答えを出してくれているんだったら、これ以上好都合なことはないじゃない。真似をすればいいんだから。わからないことは取り合えず真似をすればそれでいいし、教える側だってただ手本を見せていれば通じるの。世の中って、複雑そうに見えるけど、意外に単純なことでもあるんだって、馬琴先生の本に書いてあったわ!」
「友子さんが、一生懸命教えてくれるのはわかるんだけど、、、。」
泣きじゃくりながら梅子はそういう。
「私はやっぱり産めない。不安のほうが大きくて仕方ない、、、。それに、一度産んだらもう取り返しがつかないことを考えると、怖くて、やっぱり我慢はできないわ。」
「だったら、それを我慢しないで、口にしてしまって、頭を空っぽにしてしまう事ね。それを成し遂げて、初めて梅子さんは前に進めるのかもしれないわね。古いものを出さなければ、新しいものは入らないわ。まあ、全部を出すまでにはうんと苦しいかもしれないけど、それを成し遂げるには、一日二日ではできないで、何十日もかかるわよ。その渦中はうんと苦しいけど、とにかくひたすら口にして不安を和らげるとか、そういう事をするべきでしょう!誰でも、全部のことを諦めて、ただひたすら今のことをしなければいけない時期はあるからね!」
「でも、口に出していたら、皆迷惑するわ、皆忙しいんだし。やっぱり私だけが、いつまでも同じことばかり考えるなとか、早く受け入れて覚悟を決めろとか、言われるんでしょう。でも、私、今のままではどうしても切り替えられないから、、、。」
「ならいいわ!あたしが付き合うから!あたしだったら、お手伝いできるかもしれない。だって、あたしは、他の人と、違うんだってことは一目瞭然なんだから!」
半分やけくそであった。
「本当?」
梅子は確認をとる。
「いいわよ。両替屋の商売は裕さんと新五郎さんに任せればいいし、家のことはお父様とお母様が取り仕切っているし。あたしは、居候のようなものだわ。だから、あたし、梅子さんに付き合うから!」
友子は、他人の話を聞くのは得意だと自分で自信があった。女郎屋にいた時は、一晩中客のくだらない愚痴をひたすら聞かされることも多かったからだ。
「本当なのね?」
「ええ!」
やっと切羽詰まっていた梅子の表情が少し和らいだ。友子はそれを見て、少し安心した。
今は、産むか産まないかというよりも、彼女の不安をひたすらに聞いて、彼女が頭を空っぽにしてくれるのを待つのが先決だと思った。例えば、桐たんすは中身がぎっちり詰まっていたら何もしまえないが、人間の場合もそれと同じことが言える。古いものを出してしまわないと新しいものは入らない。ただ、人間は簡単に古いものが取り出せるということはまずできず、大体が苦痛を伴うのが、桐たんすと大幅に違っていることである。
「でも、一つだけ訂正しておきたいことがあるの。梅子さんが、一つだけ間違えていること。」
友子は、どうしてもこれだけは義理の妹に伝えておきたいと思った。
「何?」
妹は、そんなことはないというように姉を見る。
「梅子さんは、子供ができたことを、皆に迷惑かけたと思っているようだけど、そういう事はないわよ!」
「そんなこと、絶対にないわ!皆、怖そうな顔して私を見てるわ。」
「あら、そうなら、あの足音は何かしら?」
不意に友子が話題をそらした。
そこへ、どかどかと走ってくる音が聞こえてきた。新五郎がそばがきを持ってきたのだ。
「あの足音で、嫌がってると思う?よく考えてごらんなさいな。」
四月になって、桜が満開になったころのこと。今日も増田寿々子は、小さな三味線のような形をした楽器を持って、これはまたある小さな家に通うのであった。なぜかその楽器には、楽器よりもはるかに長い大きな弓が付属していた。この楽器を、こんなに巨大な弓で弾くのかと思うと、驚いてしまうほどの巨大さだった。それはかえって演奏しにくいのではないかと思われるほど巨大なのである。全く巨大すぎて、風呂敷で包めないほどであった。
「先生、こんにちは。増田です。」
入り口の戸を軽くたたくと、ハイどうぞという声と同時に、庭に設置されている鹿威しがカーンとなって彼女を迎えた。戸を開けると、丁度先の生徒が部屋を出るところだった。まだ、十代そこそこの若い女性。最近、若い女性の入門が増えていると聞いた。この楽器に触れたいという人は、少し前なら中年以降であったが、最近はそうでもないらしいのである。彼女もその一人で、やや高齢の寿々子を見ると、丁寧に頭を下げて、自身の楽器と巨大弓を持って、足早に出て行った。寿々子は、それを見届けると、土間に草履を脱いで、失礼しますと言いながら、中に入った。その家には珍しく上がり框がなくて、敷居もふすまもなく、まさしく、部屋がむき出しの状態になっている家だった。玄関から入ってすぐの部屋が稽古場になっていて、この家の持ち主で、増田寿々子が長年の師匠としている阿部千春が、持っている自身の胡弓を調弦していた。この三味線をやや小さくした胡弓というものは、なんとも言えない悲しさというか、本当に繊細すぎる音を出す楽器で、もしかしたら好き嫌いのはっきり分かれる楽器なのかもしれない。
「どうぞよろしくお願いします。」
寿々子は彼の前に正座で座り、自身の胡弓を風呂敷から取り出し、急いで駒を付けて調弦し、指すりを付けた。
「さて、今日は何を稽古します?」
すでに習って三十年以上、寿々子は大体の曲は知っている。だから、稽古するときの課題曲は、大体彼女が曲を決定するようにしている。
「じゃあ、六段の調べで、、、。」
千春は、またそれですかということもなく、行きますよと言って、さらさらと弾いていく。いくら練習しても、この先生には叶わないなあと寿々子は思う。でも、彼の手は、本当に巨大だなあと思う。彼の手くらいの大きさで初めてこの巨大な弓が丁度いいのではないかと思われる。そして、一見しただけでは性別のわかりにくいその顔でなければ、このかなしくて、ある意味では妖艶な音が合致しないような気もしないわけではない。
何回か繰り返して稽古は終わってしまう。本当は、小一時間程度ではなくて、もっともっと稽古できたらいいのになあと思う。
「どうもありがとうございます。先生。」
稽古が終了して、胡弓を風呂敷で再び包む。いつもなら、千春先生は、次の生徒さんのために楽器を変えたり、調弦を直したりし始めるのであるが、今日は胡弓の駒をとったので、
「あら、先生、今日はこのあと、生徒さんはいらっしゃらないんですか?」
と、寿々子は思わず言った。
「ああ、なんとも、親戚で法事があるとかで、今日は欠席するみたいなのです。」
千春はそう答えたので、今だ!と思い、こう切り出してみた。
「先生、ちょっとお時間よろしいかしら。」
「あ、どうぞ。どうせ、今日は、この後は特に生徒さんも来ませんので。」
「ありがとうございます!じゃあ、ちょっとあたしが日ごろから悩んでいることを聞いてくれますか。」
「またですか。」
ここで千春先生は、初めてそういう言葉を使う。
「いいじゃありませんか。先生ほど、私の気持ちをわかってくれる方はいませんよ。うちの亭主だって、本当に頑固おやじで、いつまでも意見なんかしてはくれませんもの。」
「はい、仕方ないですね。用件は。」
寿々子がお願いすると、千春先生は、その長く伸ばした黒髪を軽く掻き上げた。寿々子は、それを肯定と受け取って、すぐに話し始めた。
「先生、ようやくうちの裕も、お嫁さんを連れてきてくれました。まあこれで、いつまでも独り者と言われるつらさからは解放されましたわ。裕も、新五郎もよいお嫁さんを見つけてくれて、それなりに楽しそうにやってくれています。でも、どういうわけか私、まだ満足できないと言いますか、まだつらさが抜けないというか、そういうところがありまして。」
「それがどうしたのですか。つらさが抜けないとは?」
「ええ、私のわがままかもしれないですけど、嫁を得てくれたのだから、どちらかが、うちの店の後継者を設けてくれはしないかと、うっすらとですけど、期待をしてしまうのです。」
「期待?」
「はい。これまで、他人と同じようなことは得られないと、先生から言われておりましたので、一生懸命自分に言い聞かせておりましたが、同じことに少し近づいてくると、もしかしたら、後継者を設けてくれるのではないかと思ってしまうのです。」
「寿々子さん、すでに三十年以上お付き合いをしてきましたが、習いたてのころ、盛んに口にしていたことをお忘れですか?」
千春先生の顔は厳しかった。
「習いたてのころ?」
「はい。あなた、裕さんが生まれて間もないころからこちらに習いに来ていますね。その時、あなたは、こうおっしゃっていました。裕が、あまりにもほかの子と違うために、もう子作りはこりごりだと。次に子を作れば、大丈夫だと亭主が言うが、自分はまたああいう子を産んでしまったらと思うともっと怖いとも言いましたよ。その不安を裕さんや、新五郎さんに押し付けるというわけですか?なんとも贅沢な悩みですな。」
「そうですか、そんなこと、私、言っていたんですか。」
「そうですよ。はっきりと記憶しています。そして、ご主人に責められてもう一度身ごもったときは、堕胎するにはどうするのかを聞いてきたことさえあったでしょ。まあ、生まれてきたのが、新五郎さんだったので、よかったようなものだけど、欠陥者の後に、健康な人間が生まれてくる確率は、きわめて低いのですから、むしろ奇跡です。私が、長年付き合ってきた生徒さんで、欠陥者を設けてしまった方も何人か知っていますけど、基本的に最初の子供さんが何かしら障害を持っていた場合、次の子供さんも同じようになっている人がほとんどです。先ほども言いましたが、新五郎さんのような欠陥のない子供さんを設けられただけでも、幸せだと思わないと。それに、欠陥のある子供を産んでしまった場合、嫁として失格だとか言われて離婚させられたり、無理やりお妾さんを付けられたりしてしまうことが多いんですよ。そういう事を私は、何度か話してきたつもりです。同じ悲しみを裕さんや新五郎さんのお嫁さんに与えるのはどうかと思いますね。もし、そうなったと考えた場合、あなた自身もそれを無理やり命じるのは、女性として悲しいでしょうし。ですから、孫を望むというのは、本当に贅沢なんです。ぜいたくは敵とは言い過ぎだとは思いますが、分不相応な贅沢は何も良いものを産みません。」
「あ、ごめんなさい、、、。先生。先生はやっぱり厳しいですね、、、。」
「厳しいのではなく、現実にそうなるということを述べたのです。まあ、そういう事を悩めるということは、体も心も健康に近づいているということも、言えますね。そういう贅沢な悩みを持てるというのは健康な人でなければできませんから。ある意味、それは年を取ってきて、おごりが生じたという事にもなりますよ。私のような、座っているだけで精いっぱいで、立つということがまるでできない人間には、いくら年はとっても、子孫を残そうという感情は生じませんね。」
確かに、容姿こそ独特だが、千春先生は一日中座ったままだ。つまりどういう事かというと、歩けないという事である。移動する時には手で這って移動している。
「じゃあ先生、あたしは、どこに幸せを見出したらいいんでしょう。」
寿々子は思わず本音をポロリと言った。
「簡単なことじゃないですか。健康な体に近づいたことに喜びを持ちなさい。それを感じ取ることができれば、長年の弄斎も快方に向かうかもしれない。」
寿々子が、胡弓を習おうと思ったのも、この弄斎から快方するためである。逆をいえば、彼女はこれのおかげで、精神の安定を保つことができたので、発狂することはなく、増田屋にいることができたと言ってもいい。
「そうですか、、、。そうね、健康は宝ですもんね。」
彼女は、自分に言い聞かせるように強く言った。
「私は、生かせてもらっているだけで幸せだと思わなきゃ。他にも恵まれない方はたくさんいるんだから!」
「そうですよ。自分がこれでいいと思うことが一番の薬ですよ、弄斎というのはね。」
再び庭に付けられた鹿威しがカーンとなった。
自分はこれでいい、か。少なくとも今の環境でそういう言葉が言えるだろうか。そんなことを考えながら、寿々子が稽古場から歩いて増田屋に帰ってくると、丁度昼食の準備が行われている時間だった。というか、そのはずだった。
ところが、増田屋の建物に入っても、ご飯のにおいがしない。いつもなら、友子が大食いであるという理由もあり、大量にご飯を炊くので、ご飯のにおいが充満しているはずなのだが。
「ただいま、、、。」
心配して寿々子が中に入ると、
「あ、お母様、ちょっときていただけませんか。」
友子が血相を変えてやってきた。
「何?どうしたの?ご飯は、、、?」
「いや、ご飯は炊けないんです。」
友子は、事情を説明するのが苦手である。何が起きたのか順序良く説明するより、自身の感情のほうが先に現れてしまう。
「ご飯が炊けないって、おかまでも壊れたの?」
「そういう事じゃなくて、梅子さんが大変なんですよ。」
「梅子さんが、どうかしたの?」
「いいから早く来てください!こちらです。」
いったい何があったのか、寿々子にはわからなかった。何が何だかわからないまま、寿々子は友子に連れられて、部屋に入った。梅子が、部屋の中に蹲っていて、隣の台所では、裕が釜の前を雑巾で拭いている。
部屋は、黄色い嘔吐物で畳が汚れていた。しかも嘔吐したのは一度ばかりではないらしい。
「すみません、お母さん。梅子さん、お米をとぐところまではよかったんですけど、ご飯を炊き始めたら、急に吐き出してしまって、止まらなくなってしまって、、、。」
裕の説明でやっと事情を知ることができた寿々子は、直感的にそういうことか!と、すぐにわかった。
「友子さん、悪いけど、梅子さんを隣の部屋へ連れて行ってくれないかな。」
「はい、わかりました。」
友子は梅子をそっと支えて、隣の部屋へ連れて行った。
後には、寿々子と、まだ掃除をしている裕が残った。
「裕、新五郎はどこに?」
「買い物に出かけてまだ帰ってきてないですけど?」
「じゃあね、帰ってきてから、お父さんと一緒に話しあったほうがいいかもね。悪いけど、梅子さんは友子さんについていてもらって。これからね、裕、非常に大事なことになるからね。」
「ああ、そういうことですか。つまり、悪いのは、、、僕なのでしょうか。」
裕も、何があったのかすぐわかったらしい。本来なら大喜びのはずなのだが、がっかりするのが増田家なのである。
「あんたのせいとか、そういう事ではないけれど。」
「いや、新五郎のときだってそうだったんだから、わかります。五歳ながらに、複雑な気持ちでした。」
裕は正直に答えを言った。あれから三十年経っているのに、はっきり答えが出るということは、強烈に印象に残っているのだろう。
「なんとなくというか、、、自分が悪いんだなって、それなりに知ってましたから。まあ、今回も、僕みたいになったら、困ったなと心配しているんでしょ、お母さん。まあ確かに、僕みたいなのが増えてしまったら、確かに困りますものね。」
「ごめんねえ、あんたまで困らせちゃって。とりあえず、お父さんにも相談してみようか。」
二人は、顔を見合わせて、ため息をついた。
「ただいまあ。」
と、声がして、新五郎が戻ってきた。
「帰ってきた。」
裕が、そっと言った。
「ちょっと、こっちに来て。」
寿々子が新五郎を部屋に呼び出して、妻の梅子の身に何があったか、そしてこれから何がおきるのか、新五郎の立場がどのように変わるかを言い聞かせた。
「赤ちゃん!俺に息子か娘が?」
一瞬、新五郎は凍り付いた感じだったが、すぐに大喜びの顔になった。
「本当にのんきだなあ、、、。」
裕が、そういうくらい新五郎は喜んでいた。
「梅子は?」
「そうなんだけどね、新五郎。ちょっと考えてほしいこともあるのよ。」
寿々子がたしなめても、新五郎は大喜びのままやったとつぶやいているのであった。そのうちに、誠一も帰ってきたので、改めてこの話をした。
「そうか。でも、とりあえずは喜ばしいことであるから、喜んであげよう。そうでないと、肝心なものまでなくしてしまうのかもしれない。」
誠一は、家長らしくそういう事を言った。深刻な話をそうして喜ぼうというのだから、やっぱり父はすごかった。
「でも、私たちがしてきたようなことが、おこらないといいのですが、、、。」
「おこらないじゃなくて、おこるんだ。」
誠一は、耳の痛い話をはじめた。本当なら、聞きたくない言葉だった。
「だって、梅子さんには私と、同じような気持ちにはさせたくないじゃないですか。せっかくね、この家にきてくれたんですよ。それだけでも感謝しなきゃならないのに、それ以上悲しい気持ちには、させたくないじゃないですか。」
寿々子は、現実的な意見を述べたが、誠一は前向きなままだった。
「悲しいとか、つらいとか、そういうのを回避するのはだめなんだ。逃げてはならない。
そうじゃなくて、そういうことは、与えられたものだから、よろこばなくては。そして、全部を受け入れて、感謝していけば、幸せにはなれるさ!これまでもそうしてやってきたのだし、同じことがまた起こるのなら、同じことをやればいいだけのことだから、心配はいらない。」
「お父さんは、不安ではないのですか。」
裕が言うと、
「裕、そういうところが意気地なしというんだ。男なら、あるものを受け入れて立ち向かえ!」
父は、そう気弱な長男を叱責するのだった。
「はい、すみません、、、。」
裕は、こういわれると小さくなってしまう癖があった。新五郎だけ一人にこにこしていた。
「よし、ご飯にしよう。まだ誰も食べていないだろうし。」
すぐに切り替えができるのも、誠一ならではである。
「そうですけどね、ご飯どころではありませんよ。だって、梅子さんは、ご飯など炊けるどころでは、、、。」
「裕、お前が習ってきたそばがあるだろ。それを出せばいい。」
「あ、ああ、すみません、お父さん。」
「ついでに、梅子さんにも何か食べさせてやれ。これからは大事な体になるのだから、何も食べないのは困るだろう。」
「でも、お父さん、ご飯だって炊けないわけですから、嫌がるのではないですか。」
「そういう時は、心を鬼にして滋養を付けてもらわなければだめだ。」
「俺、そばがき作ってきます!父親としての初仕事だ!」
新五郎が、急に立ち上がった。その瞬間を待っていたようだった。
一方、隣の部屋では。
「お茶ぐらいだったら、飲めるかしら。」
友子が、まだ吐きそうになっている、梅子の前に茶を置いた。
「せめてお茶くらい飲んだほうがいいわよ。」
そう言われて、梅子は湯呑を唇に近づけたが、また吐き出してしまって、湯呑を落としてしまった。
「お茶もだめか、、、。水もだめかしら。何か口にしたほうがいいわよ。」
「友子さん。」
梅子はとても悲しそうだった。
「あたし、本当に申し訳ないことをしでかしてしまった気がするんです。なんか、この家では、こういう事は、悪いことと言いますか、やってはいけないというか、そんな気がするんです。」
「何を言ってるの?こんなにうれしいことはないと思うけど?」
「友子さん。」
不意に梅子はそういった。
「廓にいた時に、やっぱりこういう事もあったんじゃないですか。そういう時って、早いうちにおろしてしまうでしょう。それって、教えていただくわけにはいかないですか?」
まあ、確かに、女郎屋というところでは、望まない事例というものは結構ある。その結果として生まれた子は、基本的に禿になって、母親と同じ職業に就くのがお決まりになっている。ただそういう事ができるには、かなり高名な女郎でないとできないことも確かで、新造などがその事例に該当してしまった場合は、確かに大事になったことはあった。
「まあ、確かにないわけじゃないけど。」
友子は正直に答えた。全くないなんて言えるはずもなかった。
「あたしは、むやみに殺すというのは、どうかなと思うわ。だって、あたしたちは仕事としてやるからそういう事になるけれど、普通の一般的な家庭では、喜ばしいことになるはずだから。」
「そうだけど、、、。」
梅子は、かなり不安定になってしまったらしい。おそらくよほど思い詰めてしまったのだろう。
「でも、辛くて仕方ないのよ。だって、もし、本当におかしな子だったらどうしようって、どうしてもそればかり考えてしまうの。このまま十月も私の中で育てていたら、そのうちに愛着がわいてきて、いざ間引きに出そうとしたとき、素直に差し出せなくなったりしたら、皆必ずおこるわよ!」
「何をめちゃくちゃなことを言っているの?こんなときに間引きなんて!」
「だってそうなるに決まってるじゃないの!お兄さんがああいう体をして生まれてきたんだから!」
「裕さんと、新五郎さんは違うわよ!勝手に裕さんのせいにはしないでよ!」
「でも兄弟でしょ!同じ血を引いている訳だし、不安になるのは当り前よ!だから、はじめから作らないほうがいいのよ、子供なんて!それなのに、私どうしよう、、、。そうなると、すごい責任感と、産んでも間引きされちゃうってわかってるのと、私も、この家を出なきゃいけなくなるんじゃないかって、、、。」
「考えすぎよ!大丈夫、家を出て行くことは絶対にないから!その証拠に、私だって、ここにいさせてもらっているじゃない!私みたいなダメな人が、ここにいさせてもらっているんだから、この家はそういう人を間引きなんかしないわよ!大丈夫だってば!」
友子は、一生懸命梅子を励ましたが、梅子は生まれた子は確実に障碍者で、そして、それ故に間引きをされて、さらに自分は、障害児を産んだ責任を問われて家を追い出されると、信じ切っているようだった。
「だったら聞くけど、どうして間引きをされると思うの?誰がそういったの?」
友子が聞くと、
「聞こえてくるのよ!誰なのか、わからないけど、聞こえてくるのよ!きっとそうなるんだって!」
ということは幻聴だろうか?
「具体的に言いなさいよ!誰の声なの?」
友子もしまいには苛立ってきて、声を荒げて質問した。
「知らないわよそんなこと!」
梅子もこれまた金切り声で答える。
「だったら教えてあげる。あたしたちの廓でも、そういう事はたまにあってね、そういうときは、薬もらって無理やり出したりしたんだけどね。でも、大体の子はそれでおしまいよ。きっと、身請けされたり、契約が終了したりして自由になって、いざ、好きな人ができて、子を作ろうと思ったときはもう手遅れ。」
「そのほうがよほど楽じゃない!二度と子を作れなくなったほうが幸せになれる場合だってあるでしょ!」
梅子の結った島田がばらばらとほどけて、まるで狂女という顔になった。
「だけど、よく考えて!そうやったときは確かに楽になれるかもしれないけどね、でも、次に、健康な子を作ることだってできないのよ!何れにしても、子をおろすなんて、一時しのぎなだけ。皆、自分の子を殺して、後悔しないことはなかったわ。中にはずっと自分を責め続けて、発狂したりすることだって、あった!教えてあげるけど、そうなったほうが、よほど追い出される確率は高くなるわよ!」
「でも、自信ないわよ!母親なんて!ましてや、こういう家だから、普通の子にするような子育てはたぶん通用しないわよ。そんなやり方、何も知らないし、そういう子を、一人前の大人にする自信もないし、、、。」
梅子の声は次第に小さくなっていく。子ができるなんて、史上最大の喜びであっていいはず。でも、それができないのが、この家なのである。
「それなら心配いらないわ。よいお手本は、そばにいるから。」
友子はさらりと言った。
「お手本?」
「あったりまえじゃない。お母様よ!裕さんを無事に育て上げたじゃないの。それに、旗本の野上様だって、食わず嫌いのお嬢様をああして育てているんだし!」
「でも、お母様は、胡弓の阿部先生とか、いろんな人に力を貸してもらっていたのよ。わからないことがあったら、すぐに聞きに行ける人がいたのよ。私には、そういう人はいないわ。それに、そうやって手を出してくれる人なんて、私では見つけられないだろうし。」
「あのね、梅子さん。結論から言えば、一人で子育て何かできるはずもないのよ。みんな誰かに協力してもらって当たり前なの。この世に一人ぼっちで、子供とだけ生きるなんて、絶対あり得ない話よ。お母様と同じことをしなければ、子供は育てられないわ。」
「だけど、」
梅子は、涙を流して泣きじゃくった。
「お母様は、すぐに阿部先生に相談に行けたからよかったのよ。裕さんたちが生まれる前からそういう偉い人と付き合えていたからよかったのよ!でも、私はそういう人はいないわ。あたしは、お母様とはそこが違うのよ!」
「だったら探しに行けば!」
友子は、梅子の肩に手をやって、落ち着かせた。
「なければ探しに行けばいい話よ。それだけの事じゃないの。すでにお母様がそうして答えを出してくれているんだったら、これ以上好都合なことはないじゃない。真似をすればいいんだから。わからないことは取り合えず真似をすればそれでいいし、教える側だってただ手本を見せていれば通じるの。世の中って、複雑そうに見えるけど、意外に単純なことでもあるんだって、馬琴先生の本に書いてあったわ!」
「友子さんが、一生懸命教えてくれるのはわかるんだけど、、、。」
泣きじゃくりながら梅子はそういう。
「私はやっぱり産めない。不安のほうが大きくて仕方ない、、、。それに、一度産んだらもう取り返しがつかないことを考えると、怖くて、やっぱり我慢はできないわ。」
「だったら、それを我慢しないで、口にしてしまって、頭を空っぽにしてしまう事ね。それを成し遂げて、初めて梅子さんは前に進めるのかもしれないわね。古いものを出さなければ、新しいものは入らないわ。まあ、全部を出すまでにはうんと苦しいかもしれないけど、それを成し遂げるには、一日二日ではできないで、何十日もかかるわよ。その渦中はうんと苦しいけど、とにかくひたすら口にして不安を和らげるとか、そういう事をするべきでしょう!誰でも、全部のことを諦めて、ただひたすら今のことをしなければいけない時期はあるからね!」
「でも、口に出していたら、皆迷惑するわ、皆忙しいんだし。やっぱり私だけが、いつまでも同じことばかり考えるなとか、早く受け入れて覚悟を決めろとか、言われるんでしょう。でも、私、今のままではどうしても切り替えられないから、、、。」
「ならいいわ!あたしが付き合うから!あたしだったら、お手伝いできるかもしれない。だって、あたしは、他の人と、違うんだってことは一目瞭然なんだから!」
半分やけくそであった。
「本当?」
梅子は確認をとる。
「いいわよ。両替屋の商売は裕さんと新五郎さんに任せればいいし、家のことはお父様とお母様が取り仕切っているし。あたしは、居候のようなものだわ。だから、あたし、梅子さんに付き合うから!」
友子は、他人の話を聞くのは得意だと自分で自信があった。女郎屋にいた時は、一晩中客のくだらない愚痴をひたすら聞かされることも多かったからだ。
「本当なのね?」
「ええ!」
やっと切羽詰まっていた梅子の表情が少し和らいだ。友子はそれを見て、少し安心した。
今は、産むか産まないかというよりも、彼女の不安をひたすらに聞いて、彼女が頭を空っぽにしてくれるのを待つのが先決だと思った。例えば、桐たんすは中身がぎっちり詰まっていたら何もしまえないが、人間の場合もそれと同じことが言える。古いものを出してしまわないと新しいものは入らない。ただ、人間は簡単に古いものが取り出せるということはまずできず、大体が苦痛を伴うのが、桐たんすと大幅に違っていることである。
「でも、一つだけ訂正しておきたいことがあるの。梅子さんが、一つだけ間違えていること。」
友子は、どうしてもこれだけは義理の妹に伝えておきたいと思った。
「何?」
妹は、そんなことはないというように姉を見る。
「梅子さんは、子供ができたことを、皆に迷惑かけたと思っているようだけど、そういう事はないわよ!」
「そんなこと、絶対にないわ!皆、怖そうな顔して私を見てるわ。」
「あら、そうなら、あの足音は何かしら?」
不意に友子が話題をそらした。
そこへ、どかどかと走ってくる音が聞こえてきた。新五郎がそばがきを持ってきたのだ。
「あの足音で、嫌がってると思う?よく考えてごらんなさいな。」
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