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第二話 壊れた店を建て直す
第一節
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第二話 壊れた店を立て直す(第一節)
今日も、増田家ではいつも通りに朝食を食べていた。どんなに忙しいときであっても、朝食だけは全員一緒に食べるのが、増田家の家訓になっている。
「相変わらず、友子さんは、食べるんですね。一日ご飯を何杯食べたら気が済むんですか。」
隣の裕がそういうほど、友子は大食いであった。一回の食事で、少なくともご飯を三、四杯は食べている。
「きっとそのうち、この家のご飯代が火の車になるわよ。」
梅子がちょっと嫌味っぽく言った。
「それにしても、なんでそれだけ食べても同じ体型のままなんですかね。」
弟の新五郎は、そちらのほうに目が行ってしまうようである。梅子が、彼の袖を引っ張った。
「まあ、いいじゃないの。食べることは健康的な証拠よ。」
いつもと変わらない姿勢でいられるのは、寿々子だけであった。
「そういえばお前、今日そばを習いに行く日だったよな。」
不意に誠一がそんなことを言った。
「あ、そういえばそうでした。お昼には帰ってくると思いますので、よろしくお願いします。」
「そうなると、ご飯はそれほど炊かなくてよいわけね。助かるわあ。もし毎日でも習いに行ってくれたら、ご飯代はそれほどでもないのにねえ。お兄さんも、こんなおかしな人をお嫁さんにしたんだから責任取ってくださいよ。」
梅子は、何かにつけてとも子に文句を言いたいらしかった。
「おかしな人じゃないわよ、私。食べたいんだもの、食べればいいでしょ。」
「だから、そういうところがおかしいの。周りのことをまったく気にしないところが。」
「気にしていたら、何もできなくなっちゃうじゃないの。」
「できないことのほうが多いのよ!」
「二人とも、そういう変な言い合いはやめてくださいよ。ご飯の時間なんですから。」
裕がそうやって止めに入らないと、この意味のないガチバトルは、いつまでも続いてしまうのであった。
「じゃあ、もう少したったら行ってきなさいよ。宇多川先生、この前祝いにそばを持って来てくれたんだから、お礼でもしないとね。」
寿々子が、箸をおいて立ち上がり、何かお礼としてわたすものを取りにいった。
「どこへ習いに行くんでしたっけ?」
「急に話を変えるのも、友子さんだな。」
誠一がそういうが、友子は全く悪びれた様子もなかった。
「ああ、ちょっと辺境のほうにある、そばの店宇多川というところですよ。」
「じゃあ、私もご挨拶に行こうかな。」
「いや、やめたほうがいいんじゃない。」
と、新五郎が発言した。
「きっと、宇多川先生もああしてしゃべると、困ると思うぞ。」
「え、なんで?どうしてよ。ご挨拶ぐらいしたほうがいいのではないの?」
「そうなんですけどね。話しても通じますかね。」
「当り前じゃない。裕さんと家族になったんだから、挨拶するのは当然のことでしょう。」
「まあ、そうなんですけどね、そういうわけにもいかないんです。紹介くらいのことであれば、僕がしておきます。」
「何を言っているの!本人であるわたしが行かないでどうするの。紹介なんかされるよりもそのほうがよほどわかりやすくていいわ。それとも、稽古の間に邪魔になるということかしら、それだったら、私、稽古の間は茶店にでも行って待っているからいいわ。」
「だから、そういうことでもないんです。」
「だったら何?」
「裕、これは連れて行ったほうがいいかもしれないぞ。」
と、誠一が言った。
「でもお父さん、宇多川先生に迷惑が掛かってしまうかもしれませんよ。」
「いや、体験したほうが、こういう人には一番わかりやすいのではないかしら!」
梅子が馬鹿にしたように言ったので、
「わかりました。じゃあですね、必ず紙と筆を用意してからにしてくださいよ。」
裕は、心配で仕方ないという顔をして、一つため息をついた。
数時間後。裕と友子は、二人連れだって日野のはずれにあるという蕎麦屋、「そばの店宇多川」に向かった。日野のはずれと言っても、歩いて行ける距離であるので、さほど遠いというわけでもないのだが、高幡不動を通り越してしまえば、かなりのへき地であった。周りは水田か森ばかりで、かろうじて二人か三人くらいの人が歩けるくらいの道の道端にその店はあった。
ところが、ただの瓦屋根の一軒家で、看板もなにもなかった。
「変だわ。蕎麦屋さんなら、のれんを出すとか、看板を立てるとか、そういうことが必要なはずなのに。」
「まあ、そうなんですけどね。行けばわかりますよ。」
裕はちょっと口ごもりながら、すぐに店の戸を開けた。
「ご挨拶とかしないの?」
「いや、いいんです。もう、どんどん入ってくれて。というか、そうしなければこの店は入店できないので。」
店の中を見渡すと、座布団を二つ敷いたちゃぶ台が三つあるだけの本当に小さな店である。かつて友子が江戸市内で見ていた蕎麦屋とはまるで違っていた。壁には一枚の波を描いた絵が一枚貼られているだけで、お品書きもなく、店から庭園がのぞけるとか、そのような設備は一切ない。ただ、店の隅には、誰かが生けたものなのか、赤い曼珠沙華の花が飾られていた。
一番手前のちゃぶ台に、一人の男性が正座で座っていて、ちゃぶ台を雑巾で拭いていた。
「こんにちは!」
声を掛けても振りむかない。
「こんにちは!」
もう一度、声を大きくしても振りむかない。
「こんにちは!」
三度言っても、彼は振り向かず、雑巾でちゃぶ台を拭きつづけるのであった。
「友子さん、こういうときはね、たたいて呼ばないと通用しないんです。事情がはっきり分かったでしょ。」
裕が、そう解説してくれて、友子はやっと理解できた。
「だったらはじめっからそういえばよかったのに。なんであんなに恥ずかしがるのよ。」
「だって、びっくりするかなあと思って、、、。」
確かに、一般的に言うと、こういう人間に対して戸惑うと思われる。言葉だって、全く通じないわけだから。
「仕方ないものは仕方ないじゃないの。現に私たちが、こうしてしゃべっていても何も言わないところからわかるわよ。」
確かに友子の言う通り、二人が話していても、無視してちゃぶ台を拭き続けていた。
「じゃあ、ご挨拶するにはどうしたら?」
「だから、いったじゃないですか。紙と筆をもっていかないと。僕が、ご挨拶しますから、しっかりと紙に書いて、自己紹介してくださいよ。宇多川先生、宇多川先生!今日稽古の日でしたよね。」
裕が、彼の肩をトントンとたたくと、やっと雑巾がけの手を休めてこっちを向いてくれた。もう、そんな時間なの?とでもいいたげな顔である。
「初めまして。私、増田友子です。今年から、増田裕さんの妻になりました。よろしくお願いいたします!」
そういって、友子はへたくそな字で自己紹介を書いた紙を見せた。彼は多少驚きもしたようであるが、二人の顔を見て納得はしてくれたようだ。彼も近くにあった引き出しから紙と筆を出して、「宇多川玉」と書いた。
「それが先生のお名前ですか。うだがわたま、ですか?」
と、友子は聞いたが、理解できなかったらしくそのままであったので、もう一度紙を出して、
「どう読めばいいですか。」
と書いた。すると、先ほどの氏名の横に、
「うだがわひかる」
と書いてくれた。
「わあ、うれしい。これからまた来ますから、どうぞよろしくお願いしますね。あ、そうじゃないんだった!」
急いで紙を取り出し、
「宜しくお願いします。お会いできてうれしいです。」
と書いた。玉も、
「こちらこそよろしく。」
と書いて、初めて笑顔になってくれたので、隣の裕は、やっと力が抜けたらしく、大きなため息をついた。
「どうしたのよ。裕さん。そんなに緊張した?」
「いや、すみません。不安でしかたなかったので、、、。」
裕は相当不安だったのか、額を手拭いで拭いていた。
「宇多川先生、今日は私も、お稽古を見学していいかしら、できることなら一緒にそば打ちを習ってみたいものですわ。私もこれから一緒に来てみたいわ。あ、そうか、ごめんなさい。」
友子は、もう一度紙を出して、「お稽古を見学させていただけませんか」と書いた。玉は「どうぞ、」と書いてくれた。友子は続いて、「これからは私も一緒にお稽古に来てもいいですか」と書き加えた。すると、玉はちょっと悲しそうな顔をして、
「たぶん今月で店を閉めることになると思うのですが、」
と、書いた。
「えっ!どういうことですか。だって、お稽古はこれからも続いていくでしょうに。どうして店を閉めるんです?」
裕が、思わずそう言ってしまったほど、二人は驚いた。友子が筆をとって、
「どうして店を閉めるんですか」と書いた。玉は、申し訳なさそうな顔をして、
「近隣に、てんぷら屋ができてからがだめで」と理由を書いてくれた。
「こんな辺境にてんぷら屋があるんですか。だって、この辺り何もないから、貴重な店だと思うんですけど。」
友子は発言したが
「ここからもう少し行くと八王子にいけるからですよ。」
と。裕が解説して納得した。
「ほら、花は吉野よ紅葉は高尾、って歌うくらい、いろんな人が集まるじゃないですか。」
確かに、高尾山は紅葉で有名であって、そこに人が行きたがるという話は、聞いたことがあった。そうなれば、自動的に飲食店も作られるだろう。
「最近は、相模原のほうからも、いけるようになったらしいので、日野より八王子を利用する人が多くなりましたよね。」
そうなれば、客を取られてしまったと言われても不思議はない。
「まあ、これからはきっと、八王子のほうが、栄えるのかな。」
裕はそうつぶやいた。
「でも、あたしは、絶対につぶれてもらいたくないです!だって、あたしが、裕さんに身請けされてこっちに来た時に、食べさせてもらったそばが、宇多川先生のそばでしたからね!あの味は到底忘れられませんよ。耳が遠いんじゃ、味については非常に過敏なんじゃないですか。だからこそ、ああいうそばができるのではないでしょうか!」
玉は、いったいこの人何を言っているのか、と言いたげな表情で、裕を見た。裕は、急いで友子の発言を要約し、紙に書いた。
「何とかならないものでしょうか。そのてんぷら屋に負けないくらい、この店をみんなに知ってもらう方法。」
裕がもう一度紙に書くと、玉はどうしようかという顔で首をひねった。
「とにかくね、あの味は忘れられませんから、何とかしてこの店をつぶさないようにしたいんですよ。何か良い方法でもないでしょうか!」
裕の書いた紙を見て、玉は返答を書き始める。
「無理ですね。耳の遠い自分ではどうしても、店をやっていくのには支障が出てしまうので。今までのお客さんは、耳の遠い自分のことがわかってくれていたから店に来てくれたようなものですが、これから八王子が観光化されれば、そうではない人もきっと来る。そうはいいますけどね、だから商売という物はすごいのだと思うのですが、、、。」
友子は、彼の達筆な文字を声に出して読んだ。
「友子さん、体で商売というわけにはいかないんですよ。」
裕も、なんとなくであるが、事情を理解したようである。
「まあ、確かに八王子が観光化されて、いろんなところから人が来れば、全聾の人間がなぜ店をやっているのかとか、そういう心無いことを平気で言う人もいますよね。確かにそうなる前に、撤退するという発想もないわけではないですね。」
「でも、逃げるが勝ちがすべてではないわよ!それなら、なおさらぶつかっていかなくちゃ!」
裕が今のことばを紙に書こうとすると、それを止めて玉が何か書き始めた。友子はそれをでかい声で朗読した。
「何を言っているのかは理解できませんが、一生懸命擁護してくれているのはわかります。でも、やっぱりこういう人間に対しては冷たいというか、こういう人間は必要ないというのが、今なんじゃないでしょうか、って、そういうことじゃないでしょう。あたしがおかしいと思うのは、なぜ何も起きてないうちから負け犬になってしまうのかなということですよ!」
「書物ばかり読んでいるとこうなるのかな、、、。確かに書物は現実に対して、二度とそういう事例が起こらないように、という願いもあって出されていますからね。」
裕が、思わずそうつぶやいたのを友子は聞き逃さなかった。
「当り前よ!実現できなかったからこそ実現していくのが義務なんじゃないの!」
「勇敢な女性を貰いましたね。」
玉が、そう紙に書いた。
「畢竟として、この店を絶対につぶしてほしくはありません!その為に何かして、八王子のてんぷら屋に負けないほどすごいところにするのが目下の急務だと思います!」
友子は、玉から紙をひったくって、「この店をつぶさないでください」とだけ書いた。玉は、返答に困ってしまったらしく、それ以上何も書かなかった。
一方、増田家では、客として、近隣で旅館「丸野庵」をやっている丸野さんが、両替のためやってきていた。
「はい、これでいいんですか。一両を、銀銭に変えるのね。これで全部。」
この丸野さんは、愚痴が多いことで有名である。新五郎が、一両小判を受け取って、代わりに銀銭を渡すと、丸野さんはそれを受け取って、許可もないのに受付台の前にドスンと座って、いきなり話し始めた。
「それにしてもさ、新五郎ちゃん。」
「ああ、また丸野さんのボヤキが始まった。」
受付の新五郎は嫌そうに言った。
「そんなこと言わないで聞いてくれよ。近いうちに、旗本の野上様が、こっちへやってくるのは知っていると思うけど。」
「ああ、そういう事ならとっくに知ってます。泊るところも決まったんですか?」
丸野庵は、このあたりで最も大規模な旅館だったから、たぶん丸野庵に泊まることになるだろうなと周りの人からは思われていた。
「なぜか、当然のようにうちがもてなすことになってしまった。」
「そりゃあ、当たり前でしょう。お宅の旅館が一番高級と言われますでしょ。」
「そうなんだけどさあ、問題はここからだ、ちょっと聞いてくれよ。」
「なんですか。次のお客さんが来るかもしれないですから、早くしてくださいね。」
新五郎は、またか、という顔をして身構えた。こうして置かないと、丸野さんの長い愚痴を聞くことはできない。少なくとも30分はこうしていなければ。
「実はさ、野上様本人だけではなく、お嬢様の花子様も一緒だというのだ。」
「それは困りましたね。」
こればかりは、新五郎も同情した。というよりせざるを得なかった。
「だろ?もう何とかして、害のない食べ物を探しているけれど、何しろ、肉魚一切抜きでしかし食べごたえのあるものを作らなければいかんので、、、。」
「そうですね。あのお嬢様の食わず嫌いは、本当に有名ですからね。あえて食べさせてしまうと、大変なことになりますよね。昨年やってきたときは、どうなりましたっけ?」
「ああ、間違えてご飯を出してしまって、大変に怒られてしまった。もし間違って食べたらどうするんだと怒鳴られてしまった。」
「なんですか。おかゆとか、そういうものにしてもだめ?」
「ああ。米全般は絶対にいけないのだそうだ。あと、肉魚、油も一切抜き。それゆえに食べごたえのある物なんてあるんだろうか。うちの花板も匙を投げてしまった。しかも、お嬢様が滞在している間、お嬢様が飽きないように工夫もしなければならないので、、、。誤ってご飯を食べると、命に関わることもあるらしい。」
「そうなんですよね。しかし、俺たちはご飯という物は本当に貴重なのに、ご飯を食べると命に関わるというのは、本当に憎たらしいですなあ。全く、お嬢様は変な体質になってしまわれたものだ。」
「だろ!だから困っているんだよ!うちにも三人の花板がいたが、皆嫌だったんだろうね、先月から雇っていた板前が全員やめてしまって、三人目の花板も昨日やめて行った。どうしたら、お嬢様をもてなす料理が作れるものだろうか。」
「そうですねえ、、、。できれば、お嬢様に来ないでもらいたいと言いたいところですが、旗本様も一人娘ですから、そばに置いておきたいんでしょうな。全く、身分の高い人は、そういう情愛ばかりが強くなって、困ったものだ。」
新五郎は、大きなため息をついた。
「なあに、新五郎さんの絶望的なため息。」
いつの間にか、友子と裕が帰ってきていて、二人の話を聞いていた。
「新五郎ちゃん、誰ですか、この人は。」
「初めまして、私、増田友子です!」
友子は、丸野さんの質問に即答した。
「兄の嫁さんです。」
「そうなんだ!裕ちゃんがこんなかわいい嫁さんもらったの!」
「はい。そういうことです。変わり者ではありますが、付き合ってやってくださいませ、丸野さん。」
裕がそういうと、丸野さんはしばらく驚きのあまり黙ってしまった。裕が、近隣の旅館である「丸野庵」の経営者の丸野さんだと、友子に紹介してやった。
「えーと、丸野さんって言ってたわよね。ちょっと今の話を詳しく教えて頂戴。先ほど、お嬢様はご飯を食べれないと言っていたのね。」
友子は丸野さんに話しかけた。
「あ、ああ、確かにそうだけど、、、。」
「じゃあ、うどんは?」
「あ、うどんね、、、。しばらく出してないけど、、、。」
「前に出したことありましたよね。あまり好きではなさそうでしたけれどね。」
と、裕が口をはさんだところを見ると、彼女の食わず嫌いは相当有名なのだろう。
「じゃあ、そばは?」
「そば!そうか、それがあった!あれなら食べてくれるかもしれないぞ!」
丸野さんは、ぱんと手を打った。しかし、すぐなえてしまった。
「ダメだ、うちの旅館には今有能なそば職人もいないので、、、。」
「結局それですか。まあ、確かに、そばは江戸市内で流行ってますから、いい職人は取られちゃいますよね。」
新五郎の現実的な意見で、丸野さんは再びしょぼくれた顔に戻ってしまった。
「いい人材がいた!」
急に頭上からでかい声がしたので、丸野さんは驚きでまた背筋がしゃきっとしたほどである。
「誰ですか、友子さん。あんまりでかい声で、びっくりするじゃないですか。」
「私たちが先ほど訪問していたところに、本当に有能な職人が一人いるんですよ。彼なら、上手にやってくれるんじゃないかしら。私、心から、推薦するから!」
「宇多川先生?よしてください!かわいそうすぎますよ、友子さん。」
裕は、そう主張したが、
「何!どこにいるんだって?」
と丸野さんが聞いた。
「八王子の近くに住んでいます。名前は宇多川玉先生。私が、こっちへ来た時に一番最初に食べたのが宇多川先生のそばでしたけど、すごくおいしかったんですよ!」
「友子さんやめて!いくらなんでも、宇多川先生を旗本様のお嬢様の前へ出させるなんて、あんまりという物です。もし、全聾だとばれてしまったら、もしかしたら無礼だとか言って、磔にでもなるかもしれませんよ。」
「いや、裕ちゃん、今は、本当に人手不足で困っているので、やってもらいたいよ。」
丸野さんは、やっと安堵したように言った。
「そうだよ兄ちゃん。それに、もしかしたら宇多川先生が大出世するきっかけになるのかもしれないし。」
新五郎が少しからかい気味に言うと、
「絶対にそういう事はあり得ないですよ!欠陥者でないからそういう事が言えますけどね、おそらく宇多川先生のような人が、お偉いさんの前に出ても、誰かほかの人が代理でやったと言いがかりをつけられて、結局出世どころか、犠牲になる可能性のほうが大きいんです!宇多川先生をそういう目にはさせたくありませんね。」
裕はそう反論した。
「だって、店がつぶれるほうがもっとかわいそうよ!それに、偉い人が、もしうまいと言ってくれたら、店が大繁盛は間違いなしよ。私の経験から言うとね、そういう偉い人の名を借りることも、出世するには必要よ。」
「友子さんは、女には珍しく、大きな店などで奉公でもしていたのですかね。確かにその通りですよ。うちの旅館だって、そういう事があったから、これまでやってこられたようなものだ。よし、すぐにでも呼び出して、こっちへきてもらいましょうか。そして、お嬢様のためにそばを作ってもらおう。」
「丸野さん、本当に、無理なんですよ。第一言葉が、、、。」
裕は、心配そうだったが、丸野さんは頭の中でもう決定させてしまったようだった。
「じゃあ、わしの方から、その宇多川という方に手紙を書こう。」
「待ってください。本当にそういう事は僕はかわいそうだと思うのです。だって、明らかに失敗するとわかっているようなものでしょうに、それをわざわざお願いするというのは、酷というものでは、」
「兄ちゃん、あんまり心配しすぎるのもどうかと思うぞ。俺からしてみれば、兄ちゃんのような心配は、かえって宇多川先生の出世を邪魔しているように見える。こういう機会はなかなかやっては来ないんだから、聾でもいいじゃん!くらいのつもりで考えたら。」
人生経験のまだ少ない新五郎は、そんなことを言っている。
「でも、大丈夫ですかね。」
「裕さん、やってみなければわからないことだってあるわ。」
「今回ばかりは、新五郎ちゃんに軍配だな。えーと、どこに住んでいるんだっけ?」
丸野さんは、そういって早くも手紙の文面を考え始めているようである。裕も、少し考えて、
「そうですね、、、。」
と言って、大きなため息をついた。丸野さんは、長年の課題が解決されたようで、非常に嬉しそうだった。
数日後。
丸野庵の正門前に、40くらいの男性が立っていた。
「おい、あんた、どっから来た!なんか用でもあるんかい!」
玄関を掃除していた手代の若者がそういっても何も返答は返ってこず、彼はぽかんと手代を見つめているのである。
「いったい何か用でもあるの!」
手代が怒鳴りつけても、彼は首をかしげるだけで何も返答もしない。ただ、「魔除け」のように、丸野庵の経営者が書いた手紙を差し出した。
「あれ、大旦那様は、いつの間にこんな手紙を出したんだろうか、でも確かに大旦那様の筆跡であることは間違いないんだが、、、。」
手代がそんなことを言っていると、彼は紙と筆をどこからか取り出して、「大旦那様から呼び出された聾唖のものです」と書いた。
「あ、そ、そういう事情だったわけですか、す、すみませんです、いま、呼んできますから、こ、ここで待っててくださいよ。」
手代はそういって、何とかして待ってもらおうと試みたが、どうしても通じていないらしく、頭を傾けたままであるので、
「ちょっときてくれちょっと!」
と、建物の中に飛び込んでいった。数分後、今度は手代と大番頭がやってきて、
「どこの誰ですかな?」
と聞いた。返事の代わりに、彼は紙と筆を差し出した。そこで大番頭は、
「お名前をどうぞ。」
とそこへ書き込んだ。すると彼は大変達筆な字で「宇多川玉」と書いた。
「あ、宇多川さんね。大旦那様がお待ちですよ。中に入ってくださいな。」
と、大番頭は改めて「中へどうぞいらしてください」と書いた。玉は、「よろしくおねがいします」と書き込み、大番頭と一緒に中へ入っていった。
「こ、この人が、大旦那様が言っていたつんぼとおしの料理人さんですか。し、しかし、つんぼというからかなり年の人かと思っていたが、全然そんなことないじゃないか、、、。」
手代は頭をひねりながら大番頭の後に続いた。確かに、こういう人間に対して、若い人はあまり免疫がないかもしれなかった。たぶん、耳が遠いと言ったら、若い人は年よりを連想してしまうのだろう。
玉は、大番頭に手を引かれて、丸野庵の奥の間へ通された。
「旦那、来ましたよ。宇多川さんです。手代のものが、いくら怒鳴ってもわからなかったみたいなので、慎重に話してあげてくださいね。」
丸野さんは、碁を打つ手を止めて、
「まあ、そこへ座ってくださいませ。」
と言ったが、やっぱりわからなかったらしい。
「ここ。」
丸野さんと、大番頭が促してやっと座った。
「まあ、概要は手紙で書いた通りなんだがね、やってくれますかね。」
玉は、もう一度首を傾げた。大番頭が持っていた手紙をそっと持ち上げたので、これでやっと通じたようで、何か書き始めた。
「ああ、そういう事ね。」
丸野さんも返事を書く。これが、何回も繰り返され、手代が勘定しただけでも少なくとも10回は超えてしまった。
「大番頭さん、どうしてあの二人はああして紙に書いて言葉が交わせるようになったのでしょうか。大旦那様も、あの人も、面倒くさいとか、どうしたらいいかわからないとか、そういう感情はわいてこないもんですかね。」
手代が大番頭にそう耳打ちしたが、
「あ、別に、こうしなくてもいいんでしたっけ。あの人、俺がでかい声で怒鳴っても全く反応しなかったからなあ。」
と、大番頭から離れて普通に話し始めた。
「耳が全く聞けないんじゃ、いろんなところで変な問題がおこるのではないですかね。」
「いや、そんなことを言ってはいけないよ。」
大番頭は、若い手代にそう言い聞かせた。
「ああいう人だってね、いつかはこうして一緒に働こうと思いたくなるもんだからね。きっと旦那は見越してこっちに来てくれるようにお願いしたんだ。」
「でも、俺たちはいい迷惑が、、、。」
「ダメダメ、そんなことを言っては。一緒にやろうという気持ちが大切なんだから。」
それを尻目に、新しい料理人と主人は、「筆談」によって、雇用形態について話していた。
今日も、増田家ではいつも通りに朝食を食べていた。どんなに忙しいときであっても、朝食だけは全員一緒に食べるのが、増田家の家訓になっている。
「相変わらず、友子さんは、食べるんですね。一日ご飯を何杯食べたら気が済むんですか。」
隣の裕がそういうほど、友子は大食いであった。一回の食事で、少なくともご飯を三、四杯は食べている。
「きっとそのうち、この家のご飯代が火の車になるわよ。」
梅子がちょっと嫌味っぽく言った。
「それにしても、なんでそれだけ食べても同じ体型のままなんですかね。」
弟の新五郎は、そちらのほうに目が行ってしまうようである。梅子が、彼の袖を引っ張った。
「まあ、いいじゃないの。食べることは健康的な証拠よ。」
いつもと変わらない姿勢でいられるのは、寿々子だけであった。
「そういえばお前、今日そばを習いに行く日だったよな。」
不意に誠一がそんなことを言った。
「あ、そういえばそうでした。お昼には帰ってくると思いますので、よろしくお願いします。」
「そうなると、ご飯はそれほど炊かなくてよいわけね。助かるわあ。もし毎日でも習いに行ってくれたら、ご飯代はそれほどでもないのにねえ。お兄さんも、こんなおかしな人をお嫁さんにしたんだから責任取ってくださいよ。」
梅子は、何かにつけてとも子に文句を言いたいらしかった。
「おかしな人じゃないわよ、私。食べたいんだもの、食べればいいでしょ。」
「だから、そういうところがおかしいの。周りのことをまったく気にしないところが。」
「気にしていたら、何もできなくなっちゃうじゃないの。」
「できないことのほうが多いのよ!」
「二人とも、そういう変な言い合いはやめてくださいよ。ご飯の時間なんですから。」
裕がそうやって止めに入らないと、この意味のないガチバトルは、いつまでも続いてしまうのであった。
「じゃあ、もう少したったら行ってきなさいよ。宇多川先生、この前祝いにそばを持って来てくれたんだから、お礼でもしないとね。」
寿々子が、箸をおいて立ち上がり、何かお礼としてわたすものを取りにいった。
「どこへ習いに行くんでしたっけ?」
「急に話を変えるのも、友子さんだな。」
誠一がそういうが、友子は全く悪びれた様子もなかった。
「ああ、ちょっと辺境のほうにある、そばの店宇多川というところですよ。」
「じゃあ、私もご挨拶に行こうかな。」
「いや、やめたほうがいいんじゃない。」
と、新五郎が発言した。
「きっと、宇多川先生もああしてしゃべると、困ると思うぞ。」
「え、なんで?どうしてよ。ご挨拶ぐらいしたほうがいいのではないの?」
「そうなんですけどね。話しても通じますかね。」
「当り前じゃない。裕さんと家族になったんだから、挨拶するのは当然のことでしょう。」
「まあ、そうなんですけどね、そういうわけにもいかないんです。紹介くらいのことであれば、僕がしておきます。」
「何を言っているの!本人であるわたしが行かないでどうするの。紹介なんかされるよりもそのほうがよほどわかりやすくていいわ。それとも、稽古の間に邪魔になるということかしら、それだったら、私、稽古の間は茶店にでも行って待っているからいいわ。」
「だから、そういうことでもないんです。」
「だったら何?」
「裕、これは連れて行ったほうがいいかもしれないぞ。」
と、誠一が言った。
「でもお父さん、宇多川先生に迷惑が掛かってしまうかもしれませんよ。」
「いや、体験したほうが、こういう人には一番わかりやすいのではないかしら!」
梅子が馬鹿にしたように言ったので、
「わかりました。じゃあですね、必ず紙と筆を用意してからにしてくださいよ。」
裕は、心配で仕方ないという顔をして、一つため息をついた。
数時間後。裕と友子は、二人連れだって日野のはずれにあるという蕎麦屋、「そばの店宇多川」に向かった。日野のはずれと言っても、歩いて行ける距離であるので、さほど遠いというわけでもないのだが、高幡不動を通り越してしまえば、かなりのへき地であった。周りは水田か森ばかりで、かろうじて二人か三人くらいの人が歩けるくらいの道の道端にその店はあった。
ところが、ただの瓦屋根の一軒家で、看板もなにもなかった。
「変だわ。蕎麦屋さんなら、のれんを出すとか、看板を立てるとか、そういうことが必要なはずなのに。」
「まあ、そうなんですけどね。行けばわかりますよ。」
裕はちょっと口ごもりながら、すぐに店の戸を開けた。
「ご挨拶とかしないの?」
「いや、いいんです。もう、どんどん入ってくれて。というか、そうしなければこの店は入店できないので。」
店の中を見渡すと、座布団を二つ敷いたちゃぶ台が三つあるだけの本当に小さな店である。かつて友子が江戸市内で見ていた蕎麦屋とはまるで違っていた。壁には一枚の波を描いた絵が一枚貼られているだけで、お品書きもなく、店から庭園がのぞけるとか、そのような設備は一切ない。ただ、店の隅には、誰かが生けたものなのか、赤い曼珠沙華の花が飾られていた。
一番手前のちゃぶ台に、一人の男性が正座で座っていて、ちゃぶ台を雑巾で拭いていた。
「こんにちは!」
声を掛けても振りむかない。
「こんにちは!」
もう一度、声を大きくしても振りむかない。
「こんにちは!」
三度言っても、彼は振り向かず、雑巾でちゃぶ台を拭きつづけるのであった。
「友子さん、こういうときはね、たたいて呼ばないと通用しないんです。事情がはっきり分かったでしょ。」
裕が、そう解説してくれて、友子はやっと理解できた。
「だったらはじめっからそういえばよかったのに。なんであんなに恥ずかしがるのよ。」
「だって、びっくりするかなあと思って、、、。」
確かに、一般的に言うと、こういう人間に対して戸惑うと思われる。言葉だって、全く通じないわけだから。
「仕方ないものは仕方ないじゃないの。現に私たちが、こうしてしゃべっていても何も言わないところからわかるわよ。」
確かに友子の言う通り、二人が話していても、無視してちゃぶ台を拭き続けていた。
「じゃあ、ご挨拶するにはどうしたら?」
「だから、いったじゃないですか。紙と筆をもっていかないと。僕が、ご挨拶しますから、しっかりと紙に書いて、自己紹介してくださいよ。宇多川先生、宇多川先生!今日稽古の日でしたよね。」
裕が、彼の肩をトントンとたたくと、やっと雑巾がけの手を休めてこっちを向いてくれた。もう、そんな時間なの?とでもいいたげな顔である。
「初めまして。私、増田友子です。今年から、増田裕さんの妻になりました。よろしくお願いいたします!」
そういって、友子はへたくそな字で自己紹介を書いた紙を見せた。彼は多少驚きもしたようであるが、二人の顔を見て納得はしてくれたようだ。彼も近くにあった引き出しから紙と筆を出して、「宇多川玉」と書いた。
「それが先生のお名前ですか。うだがわたま、ですか?」
と、友子は聞いたが、理解できなかったらしくそのままであったので、もう一度紙を出して、
「どう読めばいいですか。」
と書いた。すると、先ほどの氏名の横に、
「うだがわひかる」
と書いてくれた。
「わあ、うれしい。これからまた来ますから、どうぞよろしくお願いしますね。あ、そうじゃないんだった!」
急いで紙を取り出し、
「宜しくお願いします。お会いできてうれしいです。」
と書いた。玉も、
「こちらこそよろしく。」
と書いて、初めて笑顔になってくれたので、隣の裕は、やっと力が抜けたらしく、大きなため息をついた。
「どうしたのよ。裕さん。そんなに緊張した?」
「いや、すみません。不安でしかたなかったので、、、。」
裕は相当不安だったのか、額を手拭いで拭いていた。
「宇多川先生、今日は私も、お稽古を見学していいかしら、できることなら一緒にそば打ちを習ってみたいものですわ。私もこれから一緒に来てみたいわ。あ、そうか、ごめんなさい。」
友子は、もう一度紙を出して、「お稽古を見学させていただけませんか」と書いた。玉は「どうぞ、」と書いてくれた。友子は続いて、「これからは私も一緒にお稽古に来てもいいですか」と書き加えた。すると、玉はちょっと悲しそうな顔をして、
「たぶん今月で店を閉めることになると思うのですが、」
と、書いた。
「えっ!どういうことですか。だって、お稽古はこれからも続いていくでしょうに。どうして店を閉めるんです?」
裕が、思わずそう言ってしまったほど、二人は驚いた。友子が筆をとって、
「どうして店を閉めるんですか」と書いた。玉は、申し訳なさそうな顔をして、
「近隣に、てんぷら屋ができてからがだめで」と理由を書いてくれた。
「こんな辺境にてんぷら屋があるんですか。だって、この辺り何もないから、貴重な店だと思うんですけど。」
友子は発言したが
「ここからもう少し行くと八王子にいけるからですよ。」
と。裕が解説して納得した。
「ほら、花は吉野よ紅葉は高尾、って歌うくらい、いろんな人が集まるじゃないですか。」
確かに、高尾山は紅葉で有名であって、そこに人が行きたがるという話は、聞いたことがあった。そうなれば、自動的に飲食店も作られるだろう。
「最近は、相模原のほうからも、いけるようになったらしいので、日野より八王子を利用する人が多くなりましたよね。」
そうなれば、客を取られてしまったと言われても不思議はない。
「まあ、これからはきっと、八王子のほうが、栄えるのかな。」
裕はそうつぶやいた。
「でも、あたしは、絶対につぶれてもらいたくないです!だって、あたしが、裕さんに身請けされてこっちに来た時に、食べさせてもらったそばが、宇多川先生のそばでしたからね!あの味は到底忘れられませんよ。耳が遠いんじゃ、味については非常に過敏なんじゃないですか。だからこそ、ああいうそばができるのではないでしょうか!」
玉は、いったいこの人何を言っているのか、と言いたげな表情で、裕を見た。裕は、急いで友子の発言を要約し、紙に書いた。
「何とかならないものでしょうか。そのてんぷら屋に負けないくらい、この店をみんなに知ってもらう方法。」
裕がもう一度紙に書くと、玉はどうしようかという顔で首をひねった。
「とにかくね、あの味は忘れられませんから、何とかしてこの店をつぶさないようにしたいんですよ。何か良い方法でもないでしょうか!」
裕の書いた紙を見て、玉は返答を書き始める。
「無理ですね。耳の遠い自分ではどうしても、店をやっていくのには支障が出てしまうので。今までのお客さんは、耳の遠い自分のことがわかってくれていたから店に来てくれたようなものですが、これから八王子が観光化されれば、そうではない人もきっと来る。そうはいいますけどね、だから商売という物はすごいのだと思うのですが、、、。」
友子は、彼の達筆な文字を声に出して読んだ。
「友子さん、体で商売というわけにはいかないんですよ。」
裕も、なんとなくであるが、事情を理解したようである。
「まあ、確かに八王子が観光化されて、いろんなところから人が来れば、全聾の人間がなぜ店をやっているのかとか、そういう心無いことを平気で言う人もいますよね。確かにそうなる前に、撤退するという発想もないわけではないですね。」
「でも、逃げるが勝ちがすべてではないわよ!それなら、なおさらぶつかっていかなくちゃ!」
裕が今のことばを紙に書こうとすると、それを止めて玉が何か書き始めた。友子はそれをでかい声で朗読した。
「何を言っているのかは理解できませんが、一生懸命擁護してくれているのはわかります。でも、やっぱりこういう人間に対しては冷たいというか、こういう人間は必要ないというのが、今なんじゃないでしょうか、って、そういうことじゃないでしょう。あたしがおかしいと思うのは、なぜ何も起きてないうちから負け犬になってしまうのかなということですよ!」
「書物ばかり読んでいるとこうなるのかな、、、。確かに書物は現実に対して、二度とそういう事例が起こらないように、という願いもあって出されていますからね。」
裕が、思わずそうつぶやいたのを友子は聞き逃さなかった。
「当り前よ!実現できなかったからこそ実現していくのが義務なんじゃないの!」
「勇敢な女性を貰いましたね。」
玉が、そう紙に書いた。
「畢竟として、この店を絶対につぶしてほしくはありません!その為に何かして、八王子のてんぷら屋に負けないほどすごいところにするのが目下の急務だと思います!」
友子は、玉から紙をひったくって、「この店をつぶさないでください」とだけ書いた。玉は、返答に困ってしまったらしく、それ以上何も書かなかった。
一方、増田家では、客として、近隣で旅館「丸野庵」をやっている丸野さんが、両替のためやってきていた。
「はい、これでいいんですか。一両を、銀銭に変えるのね。これで全部。」
この丸野さんは、愚痴が多いことで有名である。新五郎が、一両小判を受け取って、代わりに銀銭を渡すと、丸野さんはそれを受け取って、許可もないのに受付台の前にドスンと座って、いきなり話し始めた。
「それにしてもさ、新五郎ちゃん。」
「ああ、また丸野さんのボヤキが始まった。」
受付の新五郎は嫌そうに言った。
「そんなこと言わないで聞いてくれよ。近いうちに、旗本の野上様が、こっちへやってくるのは知っていると思うけど。」
「ああ、そういう事ならとっくに知ってます。泊るところも決まったんですか?」
丸野庵は、このあたりで最も大規模な旅館だったから、たぶん丸野庵に泊まることになるだろうなと周りの人からは思われていた。
「なぜか、当然のようにうちがもてなすことになってしまった。」
「そりゃあ、当たり前でしょう。お宅の旅館が一番高級と言われますでしょ。」
「そうなんだけどさあ、問題はここからだ、ちょっと聞いてくれよ。」
「なんですか。次のお客さんが来るかもしれないですから、早くしてくださいね。」
新五郎は、またか、という顔をして身構えた。こうして置かないと、丸野さんの長い愚痴を聞くことはできない。少なくとも30分はこうしていなければ。
「実はさ、野上様本人だけではなく、お嬢様の花子様も一緒だというのだ。」
「それは困りましたね。」
こればかりは、新五郎も同情した。というよりせざるを得なかった。
「だろ?もう何とかして、害のない食べ物を探しているけれど、何しろ、肉魚一切抜きでしかし食べごたえのあるものを作らなければいかんので、、、。」
「そうですね。あのお嬢様の食わず嫌いは、本当に有名ですからね。あえて食べさせてしまうと、大変なことになりますよね。昨年やってきたときは、どうなりましたっけ?」
「ああ、間違えてご飯を出してしまって、大変に怒られてしまった。もし間違って食べたらどうするんだと怒鳴られてしまった。」
「なんですか。おかゆとか、そういうものにしてもだめ?」
「ああ。米全般は絶対にいけないのだそうだ。あと、肉魚、油も一切抜き。それゆえに食べごたえのある物なんてあるんだろうか。うちの花板も匙を投げてしまった。しかも、お嬢様が滞在している間、お嬢様が飽きないように工夫もしなければならないので、、、。誤ってご飯を食べると、命に関わることもあるらしい。」
「そうなんですよね。しかし、俺たちはご飯という物は本当に貴重なのに、ご飯を食べると命に関わるというのは、本当に憎たらしいですなあ。全く、お嬢様は変な体質になってしまわれたものだ。」
「だろ!だから困っているんだよ!うちにも三人の花板がいたが、皆嫌だったんだろうね、先月から雇っていた板前が全員やめてしまって、三人目の花板も昨日やめて行った。どうしたら、お嬢様をもてなす料理が作れるものだろうか。」
「そうですねえ、、、。できれば、お嬢様に来ないでもらいたいと言いたいところですが、旗本様も一人娘ですから、そばに置いておきたいんでしょうな。全く、身分の高い人は、そういう情愛ばかりが強くなって、困ったものだ。」
新五郎は、大きなため息をついた。
「なあに、新五郎さんの絶望的なため息。」
いつの間にか、友子と裕が帰ってきていて、二人の話を聞いていた。
「新五郎ちゃん、誰ですか、この人は。」
「初めまして、私、増田友子です!」
友子は、丸野さんの質問に即答した。
「兄の嫁さんです。」
「そうなんだ!裕ちゃんがこんなかわいい嫁さんもらったの!」
「はい。そういうことです。変わり者ではありますが、付き合ってやってくださいませ、丸野さん。」
裕がそういうと、丸野さんはしばらく驚きのあまり黙ってしまった。裕が、近隣の旅館である「丸野庵」の経営者の丸野さんだと、友子に紹介してやった。
「えーと、丸野さんって言ってたわよね。ちょっと今の話を詳しく教えて頂戴。先ほど、お嬢様はご飯を食べれないと言っていたのね。」
友子は丸野さんに話しかけた。
「あ、ああ、確かにそうだけど、、、。」
「じゃあ、うどんは?」
「あ、うどんね、、、。しばらく出してないけど、、、。」
「前に出したことありましたよね。あまり好きではなさそうでしたけれどね。」
と、裕が口をはさんだところを見ると、彼女の食わず嫌いは相当有名なのだろう。
「じゃあ、そばは?」
「そば!そうか、それがあった!あれなら食べてくれるかもしれないぞ!」
丸野さんは、ぱんと手を打った。しかし、すぐなえてしまった。
「ダメだ、うちの旅館には今有能なそば職人もいないので、、、。」
「結局それですか。まあ、確かに、そばは江戸市内で流行ってますから、いい職人は取られちゃいますよね。」
新五郎の現実的な意見で、丸野さんは再びしょぼくれた顔に戻ってしまった。
「いい人材がいた!」
急に頭上からでかい声がしたので、丸野さんは驚きでまた背筋がしゃきっとしたほどである。
「誰ですか、友子さん。あんまりでかい声で、びっくりするじゃないですか。」
「私たちが先ほど訪問していたところに、本当に有能な職人が一人いるんですよ。彼なら、上手にやってくれるんじゃないかしら。私、心から、推薦するから!」
「宇多川先生?よしてください!かわいそうすぎますよ、友子さん。」
裕は、そう主張したが、
「何!どこにいるんだって?」
と丸野さんが聞いた。
「八王子の近くに住んでいます。名前は宇多川玉先生。私が、こっちへ来た時に一番最初に食べたのが宇多川先生のそばでしたけど、すごくおいしかったんですよ!」
「友子さんやめて!いくらなんでも、宇多川先生を旗本様のお嬢様の前へ出させるなんて、あんまりという物です。もし、全聾だとばれてしまったら、もしかしたら無礼だとか言って、磔にでもなるかもしれませんよ。」
「いや、裕ちゃん、今は、本当に人手不足で困っているので、やってもらいたいよ。」
丸野さんは、やっと安堵したように言った。
「そうだよ兄ちゃん。それに、もしかしたら宇多川先生が大出世するきっかけになるのかもしれないし。」
新五郎が少しからかい気味に言うと、
「絶対にそういう事はあり得ないですよ!欠陥者でないからそういう事が言えますけどね、おそらく宇多川先生のような人が、お偉いさんの前に出ても、誰かほかの人が代理でやったと言いがかりをつけられて、結局出世どころか、犠牲になる可能性のほうが大きいんです!宇多川先生をそういう目にはさせたくありませんね。」
裕はそう反論した。
「だって、店がつぶれるほうがもっとかわいそうよ!それに、偉い人が、もしうまいと言ってくれたら、店が大繁盛は間違いなしよ。私の経験から言うとね、そういう偉い人の名を借りることも、出世するには必要よ。」
「友子さんは、女には珍しく、大きな店などで奉公でもしていたのですかね。確かにその通りですよ。うちの旅館だって、そういう事があったから、これまでやってこられたようなものだ。よし、すぐにでも呼び出して、こっちへきてもらいましょうか。そして、お嬢様のためにそばを作ってもらおう。」
「丸野さん、本当に、無理なんですよ。第一言葉が、、、。」
裕は、心配そうだったが、丸野さんは頭の中でもう決定させてしまったようだった。
「じゃあ、わしの方から、その宇多川という方に手紙を書こう。」
「待ってください。本当にそういう事は僕はかわいそうだと思うのです。だって、明らかに失敗するとわかっているようなものでしょうに、それをわざわざお願いするというのは、酷というものでは、」
「兄ちゃん、あんまり心配しすぎるのもどうかと思うぞ。俺からしてみれば、兄ちゃんのような心配は、かえって宇多川先生の出世を邪魔しているように見える。こういう機会はなかなかやっては来ないんだから、聾でもいいじゃん!くらいのつもりで考えたら。」
人生経験のまだ少ない新五郎は、そんなことを言っている。
「でも、大丈夫ですかね。」
「裕さん、やってみなければわからないことだってあるわ。」
「今回ばかりは、新五郎ちゃんに軍配だな。えーと、どこに住んでいるんだっけ?」
丸野さんは、そういって早くも手紙の文面を考え始めているようである。裕も、少し考えて、
「そうですね、、、。」
と言って、大きなため息をついた。丸野さんは、長年の課題が解決されたようで、非常に嬉しそうだった。
数日後。
丸野庵の正門前に、40くらいの男性が立っていた。
「おい、あんた、どっから来た!なんか用でもあるんかい!」
玄関を掃除していた手代の若者がそういっても何も返答は返ってこず、彼はぽかんと手代を見つめているのである。
「いったい何か用でもあるの!」
手代が怒鳴りつけても、彼は首をかしげるだけで何も返答もしない。ただ、「魔除け」のように、丸野庵の経営者が書いた手紙を差し出した。
「あれ、大旦那様は、いつの間にこんな手紙を出したんだろうか、でも確かに大旦那様の筆跡であることは間違いないんだが、、、。」
手代がそんなことを言っていると、彼は紙と筆をどこからか取り出して、「大旦那様から呼び出された聾唖のものです」と書いた。
「あ、そ、そういう事情だったわけですか、す、すみませんです、いま、呼んできますから、こ、ここで待っててくださいよ。」
手代はそういって、何とかして待ってもらおうと試みたが、どうしても通じていないらしく、頭を傾けたままであるので、
「ちょっときてくれちょっと!」
と、建物の中に飛び込んでいった。数分後、今度は手代と大番頭がやってきて、
「どこの誰ですかな?」
と聞いた。返事の代わりに、彼は紙と筆を差し出した。そこで大番頭は、
「お名前をどうぞ。」
とそこへ書き込んだ。すると彼は大変達筆な字で「宇多川玉」と書いた。
「あ、宇多川さんね。大旦那様がお待ちですよ。中に入ってくださいな。」
と、大番頭は改めて「中へどうぞいらしてください」と書いた。玉は、「よろしくおねがいします」と書き込み、大番頭と一緒に中へ入っていった。
「こ、この人が、大旦那様が言っていたつんぼとおしの料理人さんですか。し、しかし、つんぼというからかなり年の人かと思っていたが、全然そんなことないじゃないか、、、。」
手代は頭をひねりながら大番頭の後に続いた。確かに、こういう人間に対して、若い人はあまり免疫がないかもしれなかった。たぶん、耳が遠いと言ったら、若い人は年よりを連想してしまうのだろう。
玉は、大番頭に手を引かれて、丸野庵の奥の間へ通された。
「旦那、来ましたよ。宇多川さんです。手代のものが、いくら怒鳴ってもわからなかったみたいなので、慎重に話してあげてくださいね。」
丸野さんは、碁を打つ手を止めて、
「まあ、そこへ座ってくださいませ。」
と言ったが、やっぱりわからなかったらしい。
「ここ。」
丸野さんと、大番頭が促してやっと座った。
「まあ、概要は手紙で書いた通りなんだがね、やってくれますかね。」
玉は、もう一度首を傾げた。大番頭が持っていた手紙をそっと持ち上げたので、これでやっと通じたようで、何か書き始めた。
「ああ、そういう事ね。」
丸野さんも返事を書く。これが、何回も繰り返され、手代が勘定しただけでも少なくとも10回は超えてしまった。
「大番頭さん、どうしてあの二人はああして紙に書いて言葉が交わせるようになったのでしょうか。大旦那様も、あの人も、面倒くさいとか、どうしたらいいかわからないとか、そういう感情はわいてこないもんですかね。」
手代が大番頭にそう耳打ちしたが、
「あ、別に、こうしなくてもいいんでしたっけ。あの人、俺がでかい声で怒鳴っても全く反応しなかったからなあ。」
と、大番頭から離れて普通に話し始めた。
「耳が全く聞けないんじゃ、いろんなところで変な問題がおこるのではないですかね。」
「いや、そんなことを言ってはいけないよ。」
大番頭は、若い手代にそう言い聞かせた。
「ああいう人だってね、いつかはこうして一緒に働こうと思いたくなるもんだからね。きっと旦那は見越してこっちに来てくれるようにお願いしたんだ。」
「でも、俺たちはいい迷惑が、、、。」
「ダメダメ、そんなことを言っては。一緒にやろうという気持ちが大切なんだから。」
それを尻目に、新しい料理人と主人は、「筆談」によって、雇用形態について話していた。
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