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第五章 運転手さんそのバスに
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その日は曇っていて、もうすぐ雨が降ってくることがよく分かるような天気でもあった。今日の練習は取りやめになるかなと思われるのであるが、双葉社の出席率はとても良く、一人も欠席したものはいなかった。もちろんみんなマンドリンが好きというだけではなく、なにか別な事情があって双葉社にやってくるのである。それは人によりけりだけど、いろんな事情を抱えていて、家にいるのが難しいのである。
その日もみんな練習が終わって、さあ帰るかと文化センターの外へ出たところ、予想通りに雨が降り出していて、まるで車軸を流すような雨になっていた。車を持っているメンバーさんであれば、そのまま自分の車で帰ることができるけど、たまたま車を家族に貸してしまったヤスシと、ヌルハチさんは、徒歩で帰らなければならなかった。
「あれまあ、こんな大雨じゃ、歩いて帰るんじゃ濡れてしまいますよ。」
ヌルハチさんはそう言うと、
「仕方ありませんね。家族に迎えに来てもらいましょうか?でも、うちは軽自動車一台しかないし、車椅子が乗れそうな設備はありません。」
ヤスシは、申し訳無さそうに言った。
「いえ、大丈夫です。仕方ありませんので、侍従長か誰かに迎えに来てもらいます。それまでは一人で待ちますから、横山さんは、お先にお帰りください。」
ヌルハチさんはそう言うが、こんなひどい雨の中、ヌルハチさんを一人で待たせるなんて、ヤスシはどう考えてもできないのだった。
「それなら、近くのカフェで待たせてもらいましょうか?」
ヤスシはそう言って、スマートフォンでカフェの混雑状況を調べてみたが、考えていることはみな同じであるようで、どこのカフェも満席であった。
「大丈夫ですよ。私は、侍従長に迎えに来てもらいますから。」
ヌルハチさんはそういうのであるが、
「いえ、横山さん、ハチ公さん。それなら私にいい考えがあります。」
と、須田陽子さんという、パーカッションの担当の女性が、二人に声をかけた。
「大丈夫です。このあたりに格安レンタカーの店がありますから、そこでワゴン車を一台頼みましょう。運転だったら私に任せてください。幸いなことに道だけはよく知ってますから。」
「はあ、でもレンタカーは高いのではないですか?」
ヤスシがそう言うと、
「大丈夫です。一日借りても2000円で済むのです。電話すれば持ってきてくださいます。」
陽子さんは直ぐに言った。
「それなら、お願いしましょうか。わたしたちも帰る手段が無いわけですから。」
ヌルハチさんがそう言うと、陽子さんは直ぐにスマートフォンで電話をかけ始めた。
「もしもし、オープンレンタカーさんですか?あの、直ぐに一台ワゴン車を貸してほしいんですけど。ええ。私が運転します。私は須田陽子。今、文化センターの前にいます。ええ、ええ、はい。お願いします。」
陽子さんはそう言って電話を切った。
「今予約が取れました。一台、来てくださるそうです。」
「そうですか。タクシー取ったほうが早かったかなあ?」
ヤスシが、心配そうにそういうと、
「いえ、きっと介護車両とか、そういうものになると、基本介助料とか、そういうものがかかってしまうのではないかしら。それなら、格安レンタカーを借りたほうがよほど安く済みますわ。それに、私が介助すれば良いわけで、わざわざ、介助スタッフをよこさなくてもいいじゃありませんか。」
と、陽子さんは言うのだった。数分経って、一台のワゴン車が三人の前にやってきた。陽子さんは、直ぐにそこのスタッフと話をして、使用料金である2000円を支払った。そして、手際よくびしょ濡れになりながらヌルハチさんを、後部座席に乗せ、ヤスシには助手席に座ってもらうように言った。ヤスシがそうすると、陽子さんは、直ぐに運転席に座って、
「じゃあ行きますよ。横山さんのお家と、ハチ公さんのお家ですと、そんなに距離的には変わらないですよね。今はカーナビもあるし、良い時代になったものです。良かった良かった。」
と言いながら、エンジンを掛けて走り始めた。ヤスシは、こんなに格安のレンタカーなので、もうボロボロの車を送ってよこすのかと心配したが、意外にそうでもなかった。ちゃんと乗れるように工夫されているレンタカーである。
「ありがとうございます。レンタカーまで取っていただいて。」
ヌルハチさんが、運転している陽子さんに言った。
「いえ、大丈夫ですよ。これくらい歩ける人がしてもいいじゃありませんか。道だけはよく知ってるんです。えーとヤスシさんのお宅は確か、大通りを右に曲がったところでしたよね?」
陽子さんは、明るく言うのだった。ヤスシは驚いて、
「ええ、そうですが、なんで陽子さんが道を知っているのですか?」
と陽子さんに聞いてしまった。
「だからさっきも言ったじゃないですか。道だけはよく知っているんですよ。それだけのことです。」
陽子さんは明るく答える。そして、大通りに出て、確かに右に曲がり、住宅が密集しているところに出た。ヤスシの家はその一角にある一軒家である。
「ここですよね。ヤスシさん。じゃあ、雨で大変ですけど、降りてください。」
陽子さんはそう言って、車をヤスシさんの家の前で止めた。
「返却は一体どうするんです?」
ヤスシさんが思わず聞くと、
「はい。大丈夫ですよ。スマートフォンのアプリで借りた人の現在地はわかるようになっていますし、電話すれば、すぐに取りに来てくれるシステムがあります。」
と陽子さんは明るく言うのだった。
「だから、ハチ公さんをおろして、その近くで電話すれば、オープンレンタカーの従業員さんが取りに来てくださいますから。」
「へえ、そんな便利なシステムがあるんですか。今はすごいなあ、かえってタクシーを頼むより、安く済むかもしれないですよ。あ、もちろん、運転手がいなければ行けないですけど。」
ヤスシは、感心して思わず言ってしまった。
「ええ、意外に知られていないレンタカーシステムですが、こういう便利な事もできるんですよ。」
と、陽子さんは明るく言う。
「ありがとうございました。」
ヤスシは、そう言って、雨の中家に帰っていった。陽子さんは再びエンジンを掛けて、
「じゃあ、ハチ公さんの御用邸まで行きますから、侍従長さんか誰かに、今から帰るとでも連絡しておいてもらえますか?あんな大きな屋敷では、帰ってきても車の音がしないでしょうから。」
とヌルハチさんにいった。
「ええ。ありがとうございます。ですがなぜ、私の屋敷が、車の音がしないほど敷地が広いことを知っているんですか?もしかしたら、通ったことがお有りなのでしょうか?」
ヌルハチさんは、そう陽子さんに聞いた。
「ああ、それはさっきも言ったでしょう。道だけはよく知っているって。それだけのことですよ。」
陽子さんはそういうのであるが、
「なぜ、道だけはよく知っているのでしょう?」
ヌルハチさんはそう聞いた。陽子さんは、それはと応えるのを渋ったが、でもヌルハチさんのような高尚な身分の人の前では、答えを言わなければならないと思ったのだろうか、こう話し始めた。
「あたし、病気になる前はバスの運転手をしてたんです。あの、路線バスですけどね。いろんな路線バスの担当になって、いろんなところを走りましたから、それで道だけはよく知っているんですよ。」
「そうでしたか。それでは、バスの運転手をされていて、病気になったのですか?」
ヌルハチさんは、彼女を何も批判せずに聞いた。
「ええ、そういうことなんです。まあただでさえ、この世界女が運転手になることは珍しいものですし、そういうわけですからいじめというのもかなりあります。結構いろんなところで女はダメだと言われてしまうことも多くてですね。それで私、病気になってしまったんです。対人恐怖症ですね。それで、引きこもりになってしまって、それではダメだと思った私の両親の計らいで、私は双葉社に入れてもらったんですけどね。他のメンバーさんみたいに楽器の経験があるわけでもないし。それで、ハチさんに言われて打楽器にさせてもらったんですよ。」
陽子さんはとても恥ずかしそうに言った。
「そうですか。でもそれは陽子さんの経歴でもあるし、歴史ですから、良いのではありませんか?」
ヌルハチさんは、そう静かに言った。
「そうなんでしょうか。そんな事言われるのは初めてです。あたしなんて、碌な学校も出てないし、持ってる資格は普通自動車免許とバスの運転手になるために取った二種免許しか無いし。まあ、それが剥奪されることはなかったんですけど、こういう病気になると、運転できなくなる人もいますよね。」
陽子さんは、車を運転しながら言った。
「確かに、運転できなくなる方もいます。今の世の中ですと、例えば癲癇を持っているせいで、大事故を起こしてしまったという例もありますから、精神疾患のある方が車を運転できなくなるというのはよくあることです。」
ヌルハチさんは、一般的な例を言った。
「ええ、そうなんですよね。でもそれは私から仕事を奪っていきました。私は、普通自動車免許と、二種免許しか取り柄がありません。別の仕事へ付けばいいと言われても何をしたら良いのか思いつかないのです。だから、もう何をしたら良いのかわからなくて、今はプータロー状態。それでは行けないけれど、どうしたら良いのかわからないというのが、今の現状でしょうか。」
陽子さんは、自分の本音を言った。
「ええ、そうかも知れませんが、でも、なにかできるようになるのを待つというのも、立派な希望ですよ。もしかしたら、希望というのは大きな事をするのではなくて、夜空が晴れてくるのを静かに何もしないで待つということなのかもしれません。古代の書物によく書かれていました。」
ヌルハチさんは、そう陽子さんを慰めるように言った。
「幸い、双葉社でやらせていただいて、ある程度人が怖いとか、そういう症状は改善されて、ヤスシさんも、嫌なやつだと思って、太鼓をたたけとか言ってくれるんですけどね。それだけじゃまだ自信が持てなくて、まだ、仕事に戻ることはできないでいるんです。」
陽子さんが現状を語ると、
「でも、こうして私を車に乗せて、道だけはよく知っていらっしゃるのだったら、あとは病気を何とかすることができるのなら、仕事ができるのではないかと思います。」
と、ヌルハチさんは優しく言った。
「そうですね、ハチ公さんの言うとおりですわ。でも、あたし、どうしてもできないんです。ハチ公さんも他の人見てるからわかると思うけど、私は、どうしても、人が怖くなってしまって、その私をいじめた人たちに似たような顔の人に遭遇してしまうと直ぐパニックになってしまうんですよ。だから、バスの運転手をするにも、そういう顔の人が乗ってこられたら、もうパニックになってしまうのではないかと思って、エントリーできないんですね。」
陽子さんはそういった。おそらくヌルハチさんの言い方がとても優しかったので、陽子さんは真実を語ることができたのだろう。中にはこういう事をとても批判的にきいてくる人もいる。そして、働かなければダメだと、豪語する人もいる。それでは、まるで相手の病んでいる人が、余計に辛い思いをしてしまうのに気が付かないで、自分は偉いとおもってしまう治療者がいるから困ったものである。
「それだから私、時々バスの運転手募集の広告とか見るんですけど、どうしてもエントリーできなくて。それでは行けないですよね。働かなくちゃいけないってことはわかるんですけど、どうしても、似たような顔の人が乗ってくるんじゃないかという不安に苛まされて仕事をするのは辛くて。それで私、いつまで経っても変わらないと言うか、買えられないんですね。ほんとダメな人間ですよね。ハチ公さん。」
陽子さんは、車を動かしながらそういう事を言った。
「ええ、でも、それは必要なことだから、症状としてあるのでは無いでしょうか。」
ヌルハチさんはそっと言った。
「多分きっと、症状とかそういうものは、人生を邪魔するためにあるわけじゃないと思うんです。それは、人生を助けてくれるためにあると解釈してもいいと思うんですね。私も、実は、足が悪くなったのは、幼い頃、平野神社に言った際に、謝って石段から転落したことによるものですけど、そういうわけで私は、正式な後継者から外れました。でも、おかげでいろんな事を学ぶことができたんですよ。だから、そう考えると、障害とか症状も、悪いことではないのかもしれないと私は思うんですね。」
「そうですか。ハチ公さんは、いろんな事を侍従長さんや、他の使用人さんにしてもらえるから、そういうことが言えるんですわ。私はそうではなくて、自分のことは自分でできなければなりませんもの。それを、できないということは、やっぱり辛いですよ。」
陽子さんがそう言うと、
「そうかも知れませんが、でも必要だからあるんだと考え直すのはあってもいいと思います。」
ヌルハチさんはそういった。
「そうですね。ハチ公さんはそう考えられてすごいですね。私は、とてもできない。みんなから、こんなやつ役に立たなくて困ると言われている始末です。さあ、もう少しで御用邸につきますよ。」
陽子さんが信号機の角を左に曲がると、ヌルハチさんの住まいである御用邸が見えてきた。ちょうど、正門の前にあの年老いた侍従長が待っていた。ヌルハチさんは、事前にメールして、呼び出しておいたのだと、説明した。
「じゃあ、また双葉社の練習でお会いしましょうね。今日は本当にありがとうございました。」
「いいえ、あたしこそ。今日は難しいこと言われちゃったけど、なんとか解読できるようにします。」
陽子さんはそう言って、御用邸の正門の前で車を止めた。そして後部座席のドアを開けて、車椅子ごと乗っていたヌルハチさんを車から下ろそうとしたが、それは侍従長が用意していた何人かの使用人たちがした。
「じゃあ、またお会いしましょうね。よろしくお願いします。」
と、ヌルハチさんはにこやかに笑って、御用邸の中へ入っていく。陽子さんは、
「こちらこそありがとうございました。」
と軽く頭を下げて、車に乗り込んだ。とりあえず、自宅まで車に乗っていき、あとはオープンレンタカーに電話して車を返却すればいいだけのことである。陽子さんは車に再び乗り込み、自分の家まで運転していった。
御用邸から自分の家までは比較的近かった。それは知っている。ちなみに大通りを走っていかなくても、自宅へ帰れる道があることも陽子さんは知っていたので、その道を通って帰ることにした。大通りは雨が降っていると言っても、人通りが多くて、なんだかあまり好きではなかった。
陽子さんが、抜け道である細い道路を車で走っていくと、電柱の近くで小さな女の子が、泣いているのが見えた。陽子さんは、こんなところになんで小さな女の子がと思い車を止めて、彼女に声をかけた。
「どうしたの。なんで泣いているの?」
陽子さんがそういうと、女の子は怖いと思ったのだろうか。余計に泣き出してしまった。
「別に怖がらなくたっていいのよ。おばちゃんは悪い人ではないし。なんであなたがこんな雨の中、道路で泣いているのか知りたいの。」
できるだけ優しくそう言ってみる。ヌルハチさんに先ほど言われたのと同じように優しく言ってみた。
「あたし、迷子になっちゃったの。」
と女の子は言った。
「迷子?それはどうしてかな?お母さんと一緒にここに来たの?」
陽子さんがそう言うと、
「あのね、お母さんと一緒に公園に来て、気がついたらお母さんがいなかったの。」
女の子は陽子さんに言った。ということは、この子も家族から愛されなかったのかと思った陽子さんは、
「おばちゃん、悪いことしないから、車に乗ってご覧。こんな雨の中をそこで泣いていたら風邪をひくわ。」
と言って、後部座席のドアを開けた。幸い自動ドアだったのが好都合だった。女の子は、それに従って陽子さんの車に乗った。
「それで、お嬢ちゃんはどこから来たの?住んでいるところは?」
陽子さんは優しくそうきくと、
「松岡。」
と、女の子は答える。陽子さんはそれがどこのことなのかすぐに分かった。流石にバスの運転手をしていたので、ここから松岡までどういったら良いのか、直ぐにわかってしまったのだった。
「じゃあおばちゃんが、松岡まで乗せていってあげるわ。近くだったら、お家がどこか、思い出すこともできるかもしれないから。悪いようにはしないわよ。おばちゃんを信じて。」
と、陽子さんは言って、車を動かし始めた。動かしながら陽子さんは、女の子がどこの保育園に通っているとか、色々聞いてみた。彼女の話しによると、口減らしのために捨てられたわけではないらしい。ただ、お母さんが少しヒステリックになりやすい性格で、それで彼女を、公園においてきてしまったということらしいのだ。それなら、お母さんも、そのうち優しくなってくれるのではないかと陽子さんは言った。
やがて、小さな駅が見えてきた。これが松岡と呼ばれる地名の場所の入口である。
「あ、あたしのお家!」
女の子がそう言ったので、陽子さんは女の子の指差す方向を見た。立派なマンションである。ということは、やはり口減らしのためではないなと、陽子さんは確信した。それと同時に、マンションの一階の一室から、若い女性が飛び出してきた。多分、この人がこの小さな女の子のお母さんだろう。きっとしでかしてしまったことを後悔して、それで出てきたんだと陽子さんは思った。
「お母さんが出てきたよ。降りなさい。」
陽子さんがそう言うと、
「ウン、おばちゃんありがとう。おばちゃんみたいに優しい人がお母さんだったら良いのに。」
と、女の子はそういうのだった。陽子さんは、褒められているのを、嬉しく思いながら、
「でも、あなたのお母さんも、雨の中出てきてくれたんだから、きっとあなたのことを愛してくれているんだと思うよ。」
と言ってあげた。
「おばちゃんありがとう!」
女の子はそう言って、陽子さんが開けた自動ドアから、車を降りてマンションの方へ向かって歩いていった。
その日もみんな練習が終わって、さあ帰るかと文化センターの外へ出たところ、予想通りに雨が降り出していて、まるで車軸を流すような雨になっていた。車を持っているメンバーさんであれば、そのまま自分の車で帰ることができるけど、たまたま車を家族に貸してしまったヤスシと、ヌルハチさんは、徒歩で帰らなければならなかった。
「あれまあ、こんな大雨じゃ、歩いて帰るんじゃ濡れてしまいますよ。」
ヌルハチさんはそう言うと、
「仕方ありませんね。家族に迎えに来てもらいましょうか?でも、うちは軽自動車一台しかないし、車椅子が乗れそうな設備はありません。」
ヤスシは、申し訳無さそうに言った。
「いえ、大丈夫です。仕方ありませんので、侍従長か誰かに迎えに来てもらいます。それまでは一人で待ちますから、横山さんは、お先にお帰りください。」
ヌルハチさんはそう言うが、こんなひどい雨の中、ヌルハチさんを一人で待たせるなんて、ヤスシはどう考えてもできないのだった。
「それなら、近くのカフェで待たせてもらいましょうか?」
ヤスシはそう言って、スマートフォンでカフェの混雑状況を調べてみたが、考えていることはみな同じであるようで、どこのカフェも満席であった。
「大丈夫ですよ。私は、侍従長に迎えに来てもらいますから。」
ヌルハチさんはそういうのであるが、
「いえ、横山さん、ハチ公さん。それなら私にいい考えがあります。」
と、須田陽子さんという、パーカッションの担当の女性が、二人に声をかけた。
「大丈夫です。このあたりに格安レンタカーの店がありますから、そこでワゴン車を一台頼みましょう。運転だったら私に任せてください。幸いなことに道だけはよく知ってますから。」
「はあ、でもレンタカーは高いのではないですか?」
ヤスシがそう言うと、
「大丈夫です。一日借りても2000円で済むのです。電話すれば持ってきてくださいます。」
陽子さんは直ぐに言った。
「それなら、お願いしましょうか。わたしたちも帰る手段が無いわけですから。」
ヌルハチさんがそう言うと、陽子さんは直ぐにスマートフォンで電話をかけ始めた。
「もしもし、オープンレンタカーさんですか?あの、直ぐに一台ワゴン車を貸してほしいんですけど。ええ。私が運転します。私は須田陽子。今、文化センターの前にいます。ええ、ええ、はい。お願いします。」
陽子さんはそう言って電話を切った。
「今予約が取れました。一台、来てくださるそうです。」
「そうですか。タクシー取ったほうが早かったかなあ?」
ヤスシが、心配そうにそういうと、
「いえ、きっと介護車両とか、そういうものになると、基本介助料とか、そういうものがかかってしまうのではないかしら。それなら、格安レンタカーを借りたほうがよほど安く済みますわ。それに、私が介助すれば良いわけで、わざわざ、介助スタッフをよこさなくてもいいじゃありませんか。」
と、陽子さんは言うのだった。数分経って、一台のワゴン車が三人の前にやってきた。陽子さんは、直ぐにそこのスタッフと話をして、使用料金である2000円を支払った。そして、手際よくびしょ濡れになりながらヌルハチさんを、後部座席に乗せ、ヤスシには助手席に座ってもらうように言った。ヤスシがそうすると、陽子さんは、直ぐに運転席に座って、
「じゃあ行きますよ。横山さんのお家と、ハチ公さんのお家ですと、そんなに距離的には変わらないですよね。今はカーナビもあるし、良い時代になったものです。良かった良かった。」
と言いながら、エンジンを掛けて走り始めた。ヤスシは、こんなに格安のレンタカーなので、もうボロボロの車を送ってよこすのかと心配したが、意外にそうでもなかった。ちゃんと乗れるように工夫されているレンタカーである。
「ありがとうございます。レンタカーまで取っていただいて。」
ヌルハチさんが、運転している陽子さんに言った。
「いえ、大丈夫ですよ。これくらい歩ける人がしてもいいじゃありませんか。道だけはよく知ってるんです。えーとヤスシさんのお宅は確か、大通りを右に曲がったところでしたよね?」
陽子さんは、明るく言うのだった。ヤスシは驚いて、
「ええ、そうですが、なんで陽子さんが道を知っているのですか?」
と陽子さんに聞いてしまった。
「だからさっきも言ったじゃないですか。道だけはよく知っているんですよ。それだけのことです。」
陽子さんは明るく答える。そして、大通りに出て、確かに右に曲がり、住宅が密集しているところに出た。ヤスシの家はその一角にある一軒家である。
「ここですよね。ヤスシさん。じゃあ、雨で大変ですけど、降りてください。」
陽子さんはそう言って、車をヤスシさんの家の前で止めた。
「返却は一体どうするんです?」
ヤスシさんが思わず聞くと、
「はい。大丈夫ですよ。スマートフォンのアプリで借りた人の現在地はわかるようになっていますし、電話すれば、すぐに取りに来てくれるシステムがあります。」
と陽子さんは明るく言うのだった。
「だから、ハチ公さんをおろして、その近くで電話すれば、オープンレンタカーの従業員さんが取りに来てくださいますから。」
「へえ、そんな便利なシステムがあるんですか。今はすごいなあ、かえってタクシーを頼むより、安く済むかもしれないですよ。あ、もちろん、運転手がいなければ行けないですけど。」
ヤスシは、感心して思わず言ってしまった。
「ええ、意外に知られていないレンタカーシステムですが、こういう便利な事もできるんですよ。」
と、陽子さんは明るく言う。
「ありがとうございました。」
ヤスシは、そう言って、雨の中家に帰っていった。陽子さんは再びエンジンを掛けて、
「じゃあ、ハチ公さんの御用邸まで行きますから、侍従長さんか誰かに、今から帰るとでも連絡しておいてもらえますか?あんな大きな屋敷では、帰ってきても車の音がしないでしょうから。」
とヌルハチさんにいった。
「ええ。ありがとうございます。ですがなぜ、私の屋敷が、車の音がしないほど敷地が広いことを知っているんですか?もしかしたら、通ったことがお有りなのでしょうか?」
ヌルハチさんは、そう陽子さんに聞いた。
「ああ、それはさっきも言ったでしょう。道だけはよく知っているって。それだけのことですよ。」
陽子さんはそういうのであるが、
「なぜ、道だけはよく知っているのでしょう?」
ヌルハチさんはそう聞いた。陽子さんは、それはと応えるのを渋ったが、でもヌルハチさんのような高尚な身分の人の前では、答えを言わなければならないと思ったのだろうか、こう話し始めた。
「あたし、病気になる前はバスの運転手をしてたんです。あの、路線バスですけどね。いろんな路線バスの担当になって、いろんなところを走りましたから、それで道だけはよく知っているんですよ。」
「そうでしたか。それでは、バスの運転手をされていて、病気になったのですか?」
ヌルハチさんは、彼女を何も批判せずに聞いた。
「ええ、そういうことなんです。まあただでさえ、この世界女が運転手になることは珍しいものですし、そういうわけですからいじめというのもかなりあります。結構いろんなところで女はダメだと言われてしまうことも多くてですね。それで私、病気になってしまったんです。対人恐怖症ですね。それで、引きこもりになってしまって、それではダメだと思った私の両親の計らいで、私は双葉社に入れてもらったんですけどね。他のメンバーさんみたいに楽器の経験があるわけでもないし。それで、ハチさんに言われて打楽器にさせてもらったんですよ。」
陽子さんはとても恥ずかしそうに言った。
「そうですか。でもそれは陽子さんの経歴でもあるし、歴史ですから、良いのではありませんか?」
ヌルハチさんは、そう静かに言った。
「そうなんでしょうか。そんな事言われるのは初めてです。あたしなんて、碌な学校も出てないし、持ってる資格は普通自動車免許とバスの運転手になるために取った二種免許しか無いし。まあ、それが剥奪されることはなかったんですけど、こういう病気になると、運転できなくなる人もいますよね。」
陽子さんは、車を運転しながら言った。
「確かに、運転できなくなる方もいます。今の世の中ですと、例えば癲癇を持っているせいで、大事故を起こしてしまったという例もありますから、精神疾患のある方が車を運転できなくなるというのはよくあることです。」
ヌルハチさんは、一般的な例を言った。
「ええ、そうなんですよね。でもそれは私から仕事を奪っていきました。私は、普通自動車免許と、二種免許しか取り柄がありません。別の仕事へ付けばいいと言われても何をしたら良いのか思いつかないのです。だから、もう何をしたら良いのかわからなくて、今はプータロー状態。それでは行けないけれど、どうしたら良いのかわからないというのが、今の現状でしょうか。」
陽子さんは、自分の本音を言った。
「ええ、そうかも知れませんが、でも、なにかできるようになるのを待つというのも、立派な希望ですよ。もしかしたら、希望というのは大きな事をするのではなくて、夜空が晴れてくるのを静かに何もしないで待つということなのかもしれません。古代の書物によく書かれていました。」
ヌルハチさんは、そう陽子さんを慰めるように言った。
「幸い、双葉社でやらせていただいて、ある程度人が怖いとか、そういう症状は改善されて、ヤスシさんも、嫌なやつだと思って、太鼓をたたけとか言ってくれるんですけどね。それだけじゃまだ自信が持てなくて、まだ、仕事に戻ることはできないでいるんです。」
陽子さんが現状を語ると、
「でも、こうして私を車に乗せて、道だけはよく知っていらっしゃるのだったら、あとは病気を何とかすることができるのなら、仕事ができるのではないかと思います。」
と、ヌルハチさんは優しく言った。
「そうですね、ハチ公さんの言うとおりですわ。でも、あたし、どうしてもできないんです。ハチ公さんも他の人見てるからわかると思うけど、私は、どうしても、人が怖くなってしまって、その私をいじめた人たちに似たような顔の人に遭遇してしまうと直ぐパニックになってしまうんですよ。だから、バスの運転手をするにも、そういう顔の人が乗ってこられたら、もうパニックになってしまうのではないかと思って、エントリーできないんですね。」
陽子さんはそういった。おそらくヌルハチさんの言い方がとても優しかったので、陽子さんは真実を語ることができたのだろう。中にはこういう事をとても批判的にきいてくる人もいる。そして、働かなければダメだと、豪語する人もいる。それでは、まるで相手の病んでいる人が、余計に辛い思いをしてしまうのに気が付かないで、自分は偉いとおもってしまう治療者がいるから困ったものである。
「それだから私、時々バスの運転手募集の広告とか見るんですけど、どうしてもエントリーできなくて。それでは行けないですよね。働かなくちゃいけないってことはわかるんですけど、どうしても、似たような顔の人が乗ってくるんじゃないかという不安に苛まされて仕事をするのは辛くて。それで私、いつまで経っても変わらないと言うか、買えられないんですね。ほんとダメな人間ですよね。ハチ公さん。」
陽子さんは、車を動かしながらそういう事を言った。
「ええ、でも、それは必要なことだから、症状としてあるのでは無いでしょうか。」
ヌルハチさんはそっと言った。
「多分きっと、症状とかそういうものは、人生を邪魔するためにあるわけじゃないと思うんです。それは、人生を助けてくれるためにあると解釈してもいいと思うんですね。私も、実は、足が悪くなったのは、幼い頃、平野神社に言った際に、謝って石段から転落したことによるものですけど、そういうわけで私は、正式な後継者から外れました。でも、おかげでいろんな事を学ぶことができたんですよ。だから、そう考えると、障害とか症状も、悪いことではないのかもしれないと私は思うんですね。」
「そうですか。ハチ公さんは、いろんな事を侍従長さんや、他の使用人さんにしてもらえるから、そういうことが言えるんですわ。私はそうではなくて、自分のことは自分でできなければなりませんもの。それを、できないということは、やっぱり辛いですよ。」
陽子さんがそう言うと、
「そうかも知れませんが、でも必要だからあるんだと考え直すのはあってもいいと思います。」
ヌルハチさんはそういった。
「そうですね。ハチ公さんはそう考えられてすごいですね。私は、とてもできない。みんなから、こんなやつ役に立たなくて困ると言われている始末です。さあ、もう少しで御用邸につきますよ。」
陽子さんが信号機の角を左に曲がると、ヌルハチさんの住まいである御用邸が見えてきた。ちょうど、正門の前にあの年老いた侍従長が待っていた。ヌルハチさんは、事前にメールして、呼び出しておいたのだと、説明した。
「じゃあ、また双葉社の練習でお会いしましょうね。今日は本当にありがとうございました。」
「いいえ、あたしこそ。今日は難しいこと言われちゃったけど、なんとか解読できるようにします。」
陽子さんはそう言って、御用邸の正門の前で車を止めた。そして後部座席のドアを開けて、車椅子ごと乗っていたヌルハチさんを車から下ろそうとしたが、それは侍従長が用意していた何人かの使用人たちがした。
「じゃあ、またお会いしましょうね。よろしくお願いします。」
と、ヌルハチさんはにこやかに笑って、御用邸の中へ入っていく。陽子さんは、
「こちらこそありがとうございました。」
と軽く頭を下げて、車に乗り込んだ。とりあえず、自宅まで車に乗っていき、あとはオープンレンタカーに電話して車を返却すればいいだけのことである。陽子さんは車に再び乗り込み、自分の家まで運転していった。
御用邸から自分の家までは比較的近かった。それは知っている。ちなみに大通りを走っていかなくても、自宅へ帰れる道があることも陽子さんは知っていたので、その道を通って帰ることにした。大通りは雨が降っていると言っても、人通りが多くて、なんだかあまり好きではなかった。
陽子さんが、抜け道である細い道路を車で走っていくと、電柱の近くで小さな女の子が、泣いているのが見えた。陽子さんは、こんなところになんで小さな女の子がと思い車を止めて、彼女に声をかけた。
「どうしたの。なんで泣いているの?」
陽子さんがそういうと、女の子は怖いと思ったのだろうか。余計に泣き出してしまった。
「別に怖がらなくたっていいのよ。おばちゃんは悪い人ではないし。なんであなたがこんな雨の中、道路で泣いているのか知りたいの。」
できるだけ優しくそう言ってみる。ヌルハチさんに先ほど言われたのと同じように優しく言ってみた。
「あたし、迷子になっちゃったの。」
と女の子は言った。
「迷子?それはどうしてかな?お母さんと一緒にここに来たの?」
陽子さんがそう言うと、
「あのね、お母さんと一緒に公園に来て、気がついたらお母さんがいなかったの。」
女の子は陽子さんに言った。ということは、この子も家族から愛されなかったのかと思った陽子さんは、
「おばちゃん、悪いことしないから、車に乗ってご覧。こんな雨の中をそこで泣いていたら風邪をひくわ。」
と言って、後部座席のドアを開けた。幸い自動ドアだったのが好都合だった。女の子は、それに従って陽子さんの車に乗った。
「それで、お嬢ちゃんはどこから来たの?住んでいるところは?」
陽子さんは優しくそうきくと、
「松岡。」
と、女の子は答える。陽子さんはそれがどこのことなのかすぐに分かった。流石にバスの運転手をしていたので、ここから松岡までどういったら良いのか、直ぐにわかってしまったのだった。
「じゃあおばちゃんが、松岡まで乗せていってあげるわ。近くだったら、お家がどこか、思い出すこともできるかもしれないから。悪いようにはしないわよ。おばちゃんを信じて。」
と、陽子さんは言って、車を動かし始めた。動かしながら陽子さんは、女の子がどこの保育園に通っているとか、色々聞いてみた。彼女の話しによると、口減らしのために捨てられたわけではないらしい。ただ、お母さんが少しヒステリックになりやすい性格で、それで彼女を、公園においてきてしまったということらしいのだ。それなら、お母さんも、そのうち優しくなってくれるのではないかと陽子さんは言った。
やがて、小さな駅が見えてきた。これが松岡と呼ばれる地名の場所の入口である。
「あ、あたしのお家!」
女の子がそう言ったので、陽子さんは女の子の指差す方向を見た。立派なマンションである。ということは、やはり口減らしのためではないなと、陽子さんは確信した。それと同時に、マンションの一階の一室から、若い女性が飛び出してきた。多分、この人がこの小さな女の子のお母さんだろう。きっとしでかしてしまったことを後悔して、それで出てきたんだと陽子さんは思った。
「お母さんが出てきたよ。降りなさい。」
陽子さんがそう言うと、
「ウン、おばちゃんありがとう。おばちゃんみたいに優しい人がお母さんだったら良いのに。」
と、女の子はそういうのだった。陽子さんは、褒められているのを、嬉しく思いながら、
「でも、あなたのお母さんも、雨の中出てきてくれたんだから、きっとあなたのことを愛してくれているんだと思うよ。」
と言ってあげた。
「おばちゃんありがとう!」
女の子はそう言って、陽子さんが開けた自動ドアから、車を降りてマンションの方へ向かって歩いていった。
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大衆娯楽
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