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【第十一幕】烏賊令嬢のお涙頂戴物語

ジッゲンバーグのうどん談義

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 ゆるくりと歩き、やや五分くらいのところに目的の店があった。
 入り口近くに、見るからに座り心地の良さそうなソファーが二つ、小卓を挟んで向かい合っているのが目に入ってきた。ガラス窓のすぐ側だ。そこへ二人してそれぞれに腰かけると、すぐさま黒地のドレス姿の、お腹辺りにシルクの前かけを垂らす装いで、若い女性がやってきた。

「お決まりでしょうか?」
「ええ、お決まりですわ。わたくしは、ここに掲載されています狐うどんの中盛りにします」

 ピクルスは、料理一覧が写真つきで紹介されている、表面がツルツルの紙板を差し示した。透き通る朽葉の汁に浸りながら、とても形良く中太い白の陽気な表情を煌めかせながら、円く少し深みのある椀に収まっている。その上面には、四辺等レクトアングルをした明るい茶の厚さ半センチほどが、さも暖かそうに、輪刻みされた緑の山に並んで寝そべっている。シンプルではあるけれど、美味なる一品に違いない予感がするのだ。
 続いて、自身を主張し過ぎない黒白の女性は、ジッゲンバーグの方へ一度は視線を移したが、再度ピクルスの目を見る。

「こちらの紳士様には?」
「ジッゲンは、どの一品を所望しますのかしら」
「では私は、かつ丼の並盛りでお願いします」

 視線のキャッチボールがトライアングルを結んだ。
 だが、ジッゲンバーグが料理一覧の箇所を示さなかったから、ボールはトライアングルの一辺を逆戻りする。

「どちらのかつ丼になさいます?」

 問われたジッゲンバーグは、老人特有のやや怪訝な表情を浮かべる。

「果たしてかつ丼とは、その種類を指定すべきでありましょうや」
「もちろんです。かつ丼には、玉葱の煮込み玉子とじバージョンと、キャベツの繊切りソースかけバージョンとがあります」
「では私は、こちらに掲載の玉葱の煮込み玉子とじの方を」

 今度ばかりは丁重に、黄と白の織りなす中に混ざる緑と朱の色彩美に、老人特有の骨ばった指の一本が添えられたのだ。

「かしこまりました」

 黒白が品選定の儀式終了を宣言して立ち去る。
 それからは、注文の品が届くまでの間、うどんに関する会話が弾力のあるものとなる。つい先ほどの些細な不手際を「ここぞばかり」と拭い去りたい衝動によるものだろうか、ジッゲンバーグが、いかにも博識然とした得意顔をピクルスに見せつける。

「狐うどんとは油揚げうどんのことにございますが、狸うどんなる品にしましても、これまた万に一つの例外の許されることなく、揚げうどんの亜種にございます」
「えっまさか、そのような!」
「ははは、驚きになりましたでしょう」
「ええ、まあ少しくらいは……」

 このように、かく歯ごたえもまた文字通り手打ちよろしくジッゲンは、うどん談義を始めたのである。

「狐うどんに狐が入っているのでないことを始めとし、狸うどんに狸の身も蓋も入らないことは、なんら疑う余地のなき真の理であるのは、良くご存知のことと思います。それにつけましても、狐うどんや狸うどんなるものが、一体どうしてそのように呼称されるに至ったのかを、ピクルスお嬢様におかれましては、いまだ蓋し、お知りになってはおられないことでしょう?」
「シュアー!」
「そもそも狸うどんは、天ぷらを鎮座せしめてあったり、あるいは浮かばせてあったりします品にございますれば、それら添えられるは皆悉く小麦粉を水で溶いた衣を纏い、熱き油に揚げられた烏賊や海老などの食材にございまして、押しなべて油揚げなのですから、油揚げうどんと呼ぶのであります。経済的理由であるかどうかはどうであれ、場合によっては、溶いた小麦粉がなにをも食材を包まないままに揚げられ、揚げく汁に漂わされる狸うどんにしましても、やはり油揚げうどんの亜種であります。ことさら、含水大豆粉砕汁の凝固品を薄切りにして揚げれば、やがてこんがり狐に変化します故、大抵は甘く味づけなされたうえではありますが、それを添える油揚げうどんを差して、狐うどんと呼ぶという次第にございます。ところで、この世の中には油揚げうどんと呼ぶべきにない別種の狸うどんも、あるにはあります。葛粉か、なければ片栗粉を、水または冷ました出し汁で溶き、刻み揚げの入ったうどんの熱き汁に流し込んでかき混ぜますならば、トロみのついて口当たりは一層まろやかにし、底冷えの時季には身体も暖まり、それはそれで美味な馳走にはございます。そのような餡かけ汁うどんを狸うどんとする地域が、心憎いながら存します。しかしそれを油揚げうどんの列に加えるのは、いささか乱暴な分類にございましょう。そちらを狢うどんとでも呼び、毅然たる態度でもってきっぱりと区別すべきである、と私は考えるのであります。ピクルスお嬢様も、そうお思いのことでしょう?」
「いいえ、全く」
「はあぁ、左様で……」

 ピクルスにとっては、どちらでも構うことのない、さして用もない談義だった。
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