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【2章】正男の繰り返す痛い非日常

12.二十八歳はまだおばさんではない

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 今度は左を見る。窓の外、桜は完全に散ってしまって、葉っぱが濃い緑に変わりつつある。そして、ここはどこかの教室。

(やっぱオレ大学落ちて二浪に突入したに違いない。どういうわけか猪野まで同じく、ここで共に一年間の追加延長戦になるのか、やれやれだ。しかしやたら暑いぞ! 気持ちもタラタラ熱い!)

 よりによって最前列の窓横に陣取っていて、左斜め前方からくる太陽光線の直撃を受けているのだから、まあ当然といえば当然のことである。

「はあい、みなさんお待ちかねの複素関数論、第二回目講義始めるわよ~」
(おっと先生が入ってきた、とりあえずは授業を優先すべきだ!)

 正男は思考回路を瞬間チェンジしようとするのだが、同時に耳を疑い、ついうっかり、声に出してしゃべってしまう。

「ありゃ、複素関数論って言った? おー、おいおいマジか、完璧絶壁忘れちまってたぜ。ここはオレが決して諦めず、ゆずらなかった第一志望の大学だ!」
「大森さん、静かになさい」

 ここで初めて正男は教壇の人を見た。衝撃的だった。

「え? あれ?? おいおい、姉ちゃん!」
「はあ?」

 やはりこの世界はおかしい。正男の記憶の大部分が飛んでしまっていて、予備校にいるのだと思っていたら、そうではなく大学の講義室だった。それで思わず心の中で笑ってしまう。
 極めつけはこの先生のおかしさ。姉の大森正子(二十三歳)は国語の塾講師をしている。それも近所の小さい学習塾のアルバイトで。だから大学で複素関数論の講義なんてできるわけがない。

(そうか、やっとわかったぞ。これもまだ白昼夢の続きだ。さっき居眠りして聞いた姉ちゃんの声は、たまにある「夢の中の夢の声」だったんだ!)

 だが先程の「お姉ちゃんパワー」の声と、まったく同じ物理的性質を持つ音波が正男の鼓膜を打ってくる。正男の耳の中では、いわば「お姉ちゃんオンパレード」が続いているのだ。

「ねえ出席ナンバー5の大森さん、今のはね。あたしまだ三年目の若輩者には違いないんだけど、まさか一年の学生さんから呼ばわりされるなんてね、初めてのことよ。普段は軽いノリで親しみのある優しいお姉ちゃん的存在で講義してるんだけど、でも一応あたし、世界一の研究成果を誇る学科、ここ第一帝国大学工学部、航空宇宙工学科の特別専任講師なのだから、もう少し敬意を以て接してもらえるかしら?」

 同じ苗字の姉から、正男は「大森さん」と呼ばれたことなど一度もない。それで確信した。これはやはり夢なのだと。
 ベージュ色のツーピースで決めている姉の姿が滑稽に見え、なんだか愉快な気分になってきた。

「はいはい、わかってるよ姉ちゃん先生、第一帝国大学のね」
「こらっ、いい加減になさい!」
「おうおう、オーライ誤解了解、夢の中のお姉ちゃんパワー。もうこんなくだらねえの、終わりにしてやるよ。はいせーの、ゴッツン!」

 正男が自分で、自分の頭を机に打ちつけたのだ。

「ぐはっ、痛ぁ――――っ!!」

 予想に反して、かなりの衝撃だった。当然である。

(いや普通だったら、これは夢だ! とか気づいて、思いきって崖から飛び降りたり、壁なんかに激突したりすれば、その瞬間に夢は終わって、それでたいてい目も醒めるじゃんか。違うか? こんなのアリかよ!)

 夢でないのであれば、もちろんアリだろう。
 教壇の人は、正男のあまりにも身体的かつ芸能的に痛いリアクションを見て仰天したが、すぐさま正男の席の前まで駆け寄る。

「大森さん、どうしちゃったのよ!?」
「あ~、痛ぇ~~」

 正男は唸りながら頭を起こした。

「どうして頭を机なんかに打ちつけるの?」

 覗き込んでくる人の顔を、正男は見た。

「あれ、夢の中の姉ちゃん、老けてるなあ。三十歳に見えるぜ」
「な、あたしはまだ二十八歳よ!」
「すっかりおばさんだな。ははは」
「違うって!! もう怒ったわ、歯を食い縛りなさい!」

 右手が高く振り上げられた。それが、心の準備を済ませる時間すら与えないほどの速さで孤を描く。とても気持ちのよい、乾いた高音が講義室に鳴り響く。
 正男は氷の当たる感覚を左頬に受け、意識を飛ばしてしまった。そのまま身体が右の空席に倒れ込む。

「あらまあ、勢いつけすぎちゃった。ごめんね」

 謝られても正男はもう動けない。生命体球としてのサイボーグボディが故障したのだ。これだから中古品は困る。

「誰か手伝って頂戴。医務室まで運ぶから」

 男子学生が三人がかりで正男の身体を運んで行く。
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