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第四章:万世流転編
第十一話「意志の鉾先」 その二
しおりを挟むレクティファールがここに来たのは、いくつかの目的を果たすためだった。
その目的のために、彼はハイドリシアのいる寝室ではなく、アーリュが作った礼拝堂に足を運んでいた。
円の上に二本の直線が斜めに交差するという見慣れない聖印は、レクティファールの個人的感覚で言えば良く出来た偶像だった。
誰もが簡単に描くことができ、木の枝でも簡単に作ることができる。
それはこの聖印が作られた理由を思えば、至極当たり前のことかもしれない。
「あら、いらっしゃいませ、陛下」
聖印の前に置かれた立机に、アーリュが立っている。
聖典を開き、隣には全く同じ装丁の何も書かれてない本。アーリュはたったひとり、静かに聖典の写本を作っていた。
「いらっしゃるならば言って下さればよろしいのに」
アーリュは聖典と写本を閉じ、礼拝堂の入り口に立つレクティファールに近付く。その表情はいつものように柔和で、突然の訪問にも気を悪くした様子はなかった。
「突然予定が変わったもので」
レクティファールの言葉は事実だった。
しかし事実の総てではない。
彼の予定が突然変更になるのは珍しいことではないし、アーリュに連絡を取らなかったのはその必要があったからだ。
「勇者殿に関して色々話を聞きましてね。今日はその確認のために足を運ばせて頂きました」
「まあ、そうでしたか。しかし彼女もかなり参っているようで、陛下のご希望通りに行くかどうか……」
「構いませんよ。そう急く必要もありませんし。ただ、その前に……」
レクティファールは手の届くところにまで来たアーリュに、無感情な眼を向けて言った。
「あなたにも確認したいことがあります」
「あら? でしたらお部屋を用意しないと」
アーリュはそう言って一礼し、レクティファールの横を通り抜けようとする。
しかし、レクティファールはその行動を遮るように口を開いた。
「ここで結構。そう長い話ではありませんから」
アーリュは立ち止まり、振り返る。その表情は少し強張っていた。
「そうですか……それではお好きな所にお座りになってください」
レクティファールはその言葉通り、礼拝堂に並ぶ長椅子のひとつに腰を下ろした。
アーリュはひとり分の間を開けて、その隣に座った。
「それで、何の御用でしょうか?」
「あなたと勇者殿の関係について、と言えばお分かりだと思いますが」
「――――」
アーリュは無言でレクティファールを見て、次いで大きく溜息を吐いた。
そして礼拝堂の入り口に立つベルヴィアをちらりと確認し、身体を捻ってレクティファールに向き直った。
「それを確認して、どうなさるおつもりですか?」
「必要ならば利用する、と言えばあなたはどうしますか?」
レクティファールは模造品の聖印を眺めながら、淡々とした声音でアーリュの問いに答えた。そのまま問い返し、アーリュの顔色が変わる様を視界の端で捉える。
「あの娘を、完全に壊すということですか」
「必要ならばあらゆる手段を用いる。それが私の仕事です」
「――わたしがあの娘の監視役だったと明かしたとして、彼女自身がそれに対してどのような反応を示すか、あなたの期待する通りになるとは限りませんよ」
監視役。アーリュはその言葉を発した瞬間、自分の心の中にあった蟠りが少しだけ解消されたように感じた。
この世界にアーリュの本来の仕事を知る者はいない。
それは秘密の露見の危険性を大きく減退させはしたものの、アーリュ自身の精神には大きな負担になっていた。
監視役をする必要はなくなったが、その事実を明かすことはできない。また、教会本部に命じられていたから、と自分に言い聞かせることも出来ない。
罪悪感はある。しかしその罪悪感を解消する手段はなくなった。
アーリュはレクティファールを恨めしそうに見詰め、相手がなんの反応も示さないことに苛立ちを覚えた。
「何故、わたしがその役目を担っているとお気づきになったのです?」
「私の妃のひとりは神殿の出身です。あなたの属していた教会と勇者殿の関わりを聞いて、すぐに分かったと言っていました。私自身は確信を持てませんでしたが、彼女が間違いないというなら信じます」
「麗しい夫婦愛ですわね。羨ましい限りです」
教会は宗教的な権威を保つため、全面的に勇者の後援を行っていた。
だが、彼らは勇者という存在が自分たちを脅かすにたる存在だと気付いていた。
ヒトの社会が混乱すれば混乱する精霊に対する信仰心は高まる。しかし、その流れは、ある一点を超えると別の対象への信仰心を生み出してしまう。
その一点とは、勇者による邪神の討伐だ。
勇者とは、人々が描く精霊の奇跡を体現する存在である。
聖なる軍勢を率いて邪悪なる存在を打ち払い、人々に平穏と幸福をもたらす。それは本来精霊が行うべきものであり、たとえ勇者が精霊に選ばれた存在だとしても、もはや勇者そのものへの信仰を止めることはできないのだ。
「――今から思えば、教会の上層部は勇者と邪神の関係についての真実を知っていたのかもしれませんね。わたしに対し、邪神討伐の暁にはあの娘を殺せと命じていたのですから」
教会からすれば、聖なる使命に殉じたとして勇者を葬るつもりだったのだろう。しかし、世界からすれば万が一邪神との戦いで勇者が生き残った場合の保険でしかない。
教会など、リリスフィールから見ればさしたる手間もなく操ることのできる存在でしかなかった。どのような形であれ、勇者が人々の信仰の対象になればそれでいいのだから。
「あなたが邪神と呼ぶ存在は、人々のことなど世界の部品のひとつとしてしか見ていません。世界を正しく動かすための歯車です」
「――そうでしょうね。そんな気はしていました」
アーリュは立ち上がり、聖印の前でそれを見上げた。
人々の救いになるはずの教えは、結局のところ人々をより容易く管理するための方便でしかなかった。それに対するアーリュの怒りも、教会そのものが教義を守るための機械になっていた時点で、この上なく無意味で、何よりも虚しい。
「世界とは何なんでしょう」
アーリュは聖典を手に取り、それを撫でながらレクティファールに訊ねた。
この中にある教えを説くたび、人々は救われたような表情で彼女に礼を言った。
新しい命の誕生を祝福し、男女の縁を結び、死者の冥福を祈る。そこに意味を与え、人々に幸福をもたらすことが信仰の意味だと思っていた。
しかし、教会は信仰を利権と看做し、精霊は信仰を手段と見ていた。そこにアーリュや、彼女と同じように理想を夢見ていた神職者たちの願いは存在しない。
「世界とはその人自身が認識するものでしかありません。そのため、他者の世界と自分の世界は別のものだと考えるのが自然だと思います」
同じ世界に生きていても、同じ世界を見ている訳ではない。
それは人々が価値観の共有によって生じる錯覚を、世界の事実として誤認しているだけだ。
「陛下がわたしたちの世界にいたら、異端指定確実ですよ」
アーリュは振り返り、疲れたような笑みを浮かべて言った。
しかし、レクティファールからすれば、その評価は聞き慣れたものでしかない。
「隣の国では魔王だの邪神だの言われているようですから、それも当然の評価です」
レクティファールは肩を竦め、礼拝堂をぐるりと見回してから立ち上がった。
「ここがあなたにとって少しでも安らげる場所であるなら、それこそが信仰の意味であると、私はそう思います。安寧とは人々の心の在り方であって、どこかに存在するものではない」
「気のせい、ということですわね」
ふふ、と笑い、アーリュは聖典をレクティファールに差し出した。
「よろしければ差し上げます。わたしにはもう、ここに書かれていることを信仰することはできませんから。でも、娯楽小説としてお読みになれば、そこそこ笑えると思いますよ?」
アーリュは今までに浮かべたことがない穏やかな表情をレクティファールに見せた。彼女にとっての信仰は、そこから得られる安寧にこそ意味を見出している。
もはや、聖典がなくとも何の影響もない。
「異世界の宗教書ですから、然るべきところに提供すれば大喜びでしょう。ありがたく頂きます」
レクティファールはぼろぼろの聖典を受け取り、それを懐に仕舞い込んだ。
「それでは、またいずれ」
「はい、あの娘のことをよろしくお願いします」
頷き、レクティファールは礼拝堂の扉に向けて歩き出す。
それを見送るアーリュの目から一筋の涙が零れたが、レクティファールも、ベルヴィアも、アーリュ自身もそれに気付かなかった。
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