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第6話

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 ――いよいよあの女が現れた。
 ――私からすべてを奪っていく、あの男爵令嬢が。

 日記をめくると、そんな記述が目に入りました。
 心の内を満たしているのは、決戦を前にした闘志……ではなく、諦めにも似たそら寒い何かでした。

(どうすれば、良かったのよ)

 2年と少しの間。
 私は運命に抗った、抗い続けた。

 だけど、結果として殿下との婚約を未然に防ぐことはできず、断罪の日は刻一刻と迫るばかり。

 脳裏に浮かぶのは一つの仮説。
 私が運命に逆らうたび、歴史は、私の余命を代償にあるべき形へ戻ろうとしているのではないかしら。
 ならば、私がしてきたことは、すべて……。

「バンドリリス男爵。ご壮健そうで何よりです」
「はっは。これはアルフレッド殿下。殿下もご婚約なされたと耳にしております。心よりお喜び申し上げます」
「耳が早いですね」
「バンドリリスの血筋は、それだけが取り柄ですので」

 無駄、でしたの?
 問いの答えを見つけられないまま、ターニングポイントに差し掛かったのを肌で感じました。

「バンドリリス家については私も噂を耳にしている」
「ほう。それはどのような?」
「なんでも、新たに養子を迎え入れたと」
「……おみそれいたしました。ルージュ。挨拶なさい」

 大柄なバンドリリス男爵の後ろから、おずおずと、小動物のような少女が顔をのぞかせました。

「お、お初にお目にかかりますっ、ル、ルージュ・バンドリリスと申します!」

 右も左もわからない。
 緊張で石になってしまいそうな少女。
 それが彼女に対する第一印象でした。

「こちらこそお初にお目にかかります、ルージュ嬢。緊張することはございませんよ」
「きょ、恐縮です!」
「はは……慣れないこともあるでしょう。私でよければ、いつでもご相談に乗りますよ」
「本当ですか!?」

 そんな彼女に、殿下は微笑みかけた。

 貴族は民を守るために在れ。
 それは王族である殿下にも言える言葉です。
 ですが、しかしです。
 平民に取るべき対応と、貴族に取るべき対応というのは、本来異なるはずなのです。

 殿下が直々に相談に乗るというのは、その貴族を特別扱いするという意味です。
 この場にその意味が分からない愚か者はいません。
 特にルージュ嬢は、目をキラキラ輝かせて殿下に熱いまなざしを送っています。

 心にわき上がるのは黒い感情。
 あわてて心に蓋をして、鍵を掛けました。
 復讐心に駆られて動くのは得策ではありません。

「で、でしたら、その……ダ、ダンスのお相手を、一曲お願いしてもよろしいでしょうか?」
「……えっと、それは」

 殿下はすいと、私に視線を送りました。

 通常、ダンスの一曲目は婚約者同士で踊るという決まりがあります。今日は夜会が始まったばかりということもあり、まだ私は殿下と踊っていません。

(踊りたければ踊ればいいでしょう)

 なんですか、その目は。
 罪悪感を覚えるならやめてしまえばいい。
 性欲に負けるくらいなら溺れてしまえばいい。

 私に許しを求めないでください。
 自分の行動に正当性を持たせようとしないでください。

「踊ってあげてくださいませ。アルフレッド第一王子殿下」
「し、しかしアイリス!」

 殿下は食い下がろうとしました。
 ですが、その先の言葉が形になることはありませんでした。

 うるうるとした瞳で見つめるルージュ嬢を前に、殿下が折れたからです。

 ……最初から、分かっていました。
 いくら睦言めいた言葉を口になされても、最後は捨てられることなんて、最初から、全部。

『あら? 殿下が踊ってらっしゃる令嬢はどなた?』
『今日一曲目なんだ。婚約者のアイリス様――ではない?』
『アイリス様、一人ぼっちでかわいそう』

 ……辛かったのは、憐憫の情。

(どうして私が憐れまれなければならないの)

 泣き出してしまいたい。
 逃げ出してしまいたい。
 ですが、公爵家の愛娘として育てられてきた矜持が、それを許すことはありませんでした。

 思いは心の箱に封じ込めて。
 平然を装って。
 ついに出会った恋人たちの逢瀬を傍観します。

 やがてダンスが終わりを迎えました。

「すまないアイリス! 次こそ私と――」
「殿下! とっても楽しかったです! 私、うまくやれるかなって不安だったのですが、殿下のおかげで自信を持てた気がします!」
「あ、ああ。わかった」
「それで、もしよければ、もう一曲ご一緒いただけませんか?」

 殿下は、酷く狼狽した様子でこちらに助けを求めるようでした。

(……断るのが筋だとわかっているなら、自分の口で断りなさいよ)

 貴族は通常、同じ相手と二曲続けて踊りません。
 例外があるとすれば、婚約者のみ。

 男爵令嬢が婚約者である公爵令嬢を差しおいて、二曲続けて踊るなど言語道断です。現に、バンドリリス男爵はどんな処罰が下されるかと気が気でなさそうです。
 ああ、ですから最初、挨拶させずに隠していたのですか。
 彼女に貴族社会は荷が重いですものね。

(……未来の日記には、彼女の頬を平手で打つとありましたね)

 まるで二人の恋路を邪魔する試練そのもの。
 それができれば、どれほど清々しいことでしょう。

(思い通りの行動なんてしてあげませんけど)

 代わりに私は深く頭を下げました。

「お二人とも、とてもお似合いでした」

 空々しい、セリフとともに。

「アイリス――っ」

 殿下が私の手を取りました。
 私は笑顔で、その手を下ろしました。

「私、気分が悪いので本日は帰らせていただきます。殿下はどうぞ、お好きな方をお送りください」

 当て馬なんてまっぴらごめん。
 恋がしたいなら、二人の内で完結させてください。
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