6 / 8
第6話
しおりを挟む
――いよいよあの女が現れた。
――私からすべてを奪っていく、あの男爵令嬢が。
日記をめくると、そんな記述が目に入りました。
心の内を満たしているのは、決戦を前にした闘志……ではなく、諦めにも似たそら寒い何かでした。
(どうすれば、良かったのよ)
2年と少しの間。
私は運命に抗った、抗い続けた。
だけど、結果として殿下との婚約を未然に防ぐことはできず、断罪の日は刻一刻と迫るばかり。
脳裏に浮かぶのは一つの仮説。
私が運命に逆らうたび、歴史は、私の余命を代償にあるべき形へ戻ろうとしているのではないかしら。
ならば、私がしてきたことは、すべて……。
「バンドリリス男爵。ご壮健そうで何よりです」
「はっは。これはアルフレッド殿下。殿下もご婚約なされたと耳にしております。心よりお喜び申し上げます」
「耳が早いですね」
「バンドリリスの血筋は、それだけが取り柄ですので」
無駄、でしたの?
問いの答えを見つけられないまま、ターニングポイントに差し掛かったのを肌で感じました。
「バンドリリス家については私も噂を耳にしている」
「ほう。それはどのような?」
「なんでも、新たに養子を迎え入れたと」
「……おみそれいたしました。ルージュ。挨拶なさい」
大柄なバンドリリス男爵の後ろから、おずおずと、小動物のような少女が顔をのぞかせました。
「お、お初にお目にかかりますっ、ル、ルージュ・バンドリリスと申します!」
右も左もわからない。
緊張で石になってしまいそうな少女。
それが彼女に対する第一印象でした。
「こちらこそお初にお目にかかります、ルージュ嬢。緊張することはございませんよ」
「きょ、恐縮です!」
「はは……慣れないこともあるでしょう。私でよければ、いつでもご相談に乗りますよ」
「本当ですか!?」
そんな彼女に、殿下は微笑みかけた。
貴族は民を守るために在れ。
それは王族である殿下にも言える言葉です。
ですが、しかしです。
平民に取るべき対応と、貴族に取るべき対応というのは、本来異なるはずなのです。
殿下が直々に相談に乗るというのは、その貴族を特別扱いするという意味です。
この場にその意味が分からない愚か者はいません。
特にルージュ嬢は、目をキラキラ輝かせて殿下に熱いまなざしを送っています。
心にわき上がるのは黒い感情。
あわてて心に蓋をして、鍵を掛けました。
復讐心に駆られて動くのは得策ではありません。
「で、でしたら、その……ダ、ダンスのお相手を、一曲お願いしてもよろしいでしょうか?」
「……えっと、それは」
殿下はすいと、私に視線を送りました。
通常、ダンスの一曲目は婚約者同士で踊るという決まりがあります。今日は夜会が始まったばかりということもあり、まだ私は殿下と踊っていません。
(踊りたければ踊ればいいでしょう)
なんですか、その目は。
罪悪感を覚えるならやめてしまえばいい。
性欲に負けるくらいなら溺れてしまえばいい。
私に許しを求めないでください。
自分の行動に正当性を持たせようとしないでください。
「踊ってあげてくださいませ。アルフレッド第一王子殿下」
「し、しかしアイリス!」
殿下は食い下がろうとしました。
ですが、その先の言葉が形になることはありませんでした。
うるうるとした瞳で見つめるルージュ嬢を前に、殿下が折れたからです。
……最初から、分かっていました。
いくら睦言めいた言葉を口になされても、最後は捨てられることなんて、最初から、全部。
『あら? 殿下が踊ってらっしゃる令嬢はどなた?』
『今日一曲目なんだ。婚約者のアイリス様――ではない?』
『アイリス様、一人ぼっちでかわいそう』
……辛かったのは、憐憫の情。
(どうして私が憐れまれなければならないの)
泣き出してしまいたい。
逃げ出してしまいたい。
ですが、公爵家の愛娘として育てられてきた矜持が、それを許すことはありませんでした。
思いは心の箱に封じ込めて。
平然を装って。
ついに出会った恋人たちの逢瀬を傍観します。
やがてダンスが終わりを迎えました。
「すまないアイリス! 次こそ私と――」
「殿下! とっても楽しかったです! 私、うまくやれるかなって不安だったのですが、殿下のおかげで自信を持てた気がします!」
「あ、ああ。わかった」
「それで、もしよければ、もう一曲ご一緒いただけませんか?」
殿下は、酷く狼狽した様子でこちらに助けを求めるようでした。
(……断るのが筋だとわかっているなら、自分の口で断りなさいよ)
貴族は通常、同じ相手と二曲続けて踊りません。
例外があるとすれば、婚約者のみ。
男爵令嬢が婚約者である公爵令嬢を差しおいて、二曲続けて踊るなど言語道断です。現に、バンドリリス男爵はどんな処罰が下されるかと気が気でなさそうです。
ああ、ですから最初、挨拶させずに隠していたのですか。
彼女に貴族社会は荷が重いですものね。
(……未来の日記には、彼女の頬を平手で打つとありましたね)
まるで二人の恋路を邪魔する試練そのもの。
それができれば、どれほど清々しいことでしょう。
(思い通りの行動なんてしてあげませんけど)
代わりに私は深く頭を下げました。
「お二人とも、とてもお似合いでした」
空々しい、セリフとともに。
「アイリス――っ」
殿下が私の手を取りました。
私は笑顔で、その手を下ろしました。
「私、気分が悪いので本日は帰らせていただきます。殿下はどうぞ、お好きな方をお送りください」
当て馬なんてまっぴらごめん。
恋がしたいなら、二人の内で完結させてください。
――私からすべてを奪っていく、あの男爵令嬢が。
日記をめくると、そんな記述が目に入りました。
心の内を満たしているのは、決戦を前にした闘志……ではなく、諦めにも似たそら寒い何かでした。
(どうすれば、良かったのよ)
2年と少しの間。
私は運命に抗った、抗い続けた。
だけど、結果として殿下との婚約を未然に防ぐことはできず、断罪の日は刻一刻と迫るばかり。
脳裏に浮かぶのは一つの仮説。
私が運命に逆らうたび、歴史は、私の余命を代償にあるべき形へ戻ろうとしているのではないかしら。
ならば、私がしてきたことは、すべて……。
「バンドリリス男爵。ご壮健そうで何よりです」
「はっは。これはアルフレッド殿下。殿下もご婚約なされたと耳にしております。心よりお喜び申し上げます」
「耳が早いですね」
「バンドリリスの血筋は、それだけが取り柄ですので」
無駄、でしたの?
問いの答えを見つけられないまま、ターニングポイントに差し掛かったのを肌で感じました。
「バンドリリス家については私も噂を耳にしている」
「ほう。それはどのような?」
「なんでも、新たに養子を迎え入れたと」
「……おみそれいたしました。ルージュ。挨拶なさい」
大柄なバンドリリス男爵の後ろから、おずおずと、小動物のような少女が顔をのぞかせました。
「お、お初にお目にかかりますっ、ル、ルージュ・バンドリリスと申します!」
右も左もわからない。
緊張で石になってしまいそうな少女。
それが彼女に対する第一印象でした。
「こちらこそお初にお目にかかります、ルージュ嬢。緊張することはございませんよ」
「きょ、恐縮です!」
「はは……慣れないこともあるでしょう。私でよければ、いつでもご相談に乗りますよ」
「本当ですか!?」
そんな彼女に、殿下は微笑みかけた。
貴族は民を守るために在れ。
それは王族である殿下にも言える言葉です。
ですが、しかしです。
平民に取るべき対応と、貴族に取るべき対応というのは、本来異なるはずなのです。
殿下が直々に相談に乗るというのは、その貴族を特別扱いするという意味です。
この場にその意味が分からない愚か者はいません。
特にルージュ嬢は、目をキラキラ輝かせて殿下に熱いまなざしを送っています。
心にわき上がるのは黒い感情。
あわてて心に蓋をして、鍵を掛けました。
復讐心に駆られて動くのは得策ではありません。
「で、でしたら、その……ダ、ダンスのお相手を、一曲お願いしてもよろしいでしょうか?」
「……えっと、それは」
殿下はすいと、私に視線を送りました。
通常、ダンスの一曲目は婚約者同士で踊るという決まりがあります。今日は夜会が始まったばかりということもあり、まだ私は殿下と踊っていません。
(踊りたければ踊ればいいでしょう)
なんですか、その目は。
罪悪感を覚えるならやめてしまえばいい。
性欲に負けるくらいなら溺れてしまえばいい。
私に許しを求めないでください。
自分の行動に正当性を持たせようとしないでください。
「踊ってあげてくださいませ。アルフレッド第一王子殿下」
「し、しかしアイリス!」
殿下は食い下がろうとしました。
ですが、その先の言葉が形になることはありませんでした。
うるうるとした瞳で見つめるルージュ嬢を前に、殿下が折れたからです。
……最初から、分かっていました。
いくら睦言めいた言葉を口になされても、最後は捨てられることなんて、最初から、全部。
『あら? 殿下が踊ってらっしゃる令嬢はどなた?』
『今日一曲目なんだ。婚約者のアイリス様――ではない?』
『アイリス様、一人ぼっちでかわいそう』
……辛かったのは、憐憫の情。
(どうして私が憐れまれなければならないの)
泣き出してしまいたい。
逃げ出してしまいたい。
ですが、公爵家の愛娘として育てられてきた矜持が、それを許すことはありませんでした。
思いは心の箱に封じ込めて。
平然を装って。
ついに出会った恋人たちの逢瀬を傍観します。
やがてダンスが終わりを迎えました。
「すまないアイリス! 次こそ私と――」
「殿下! とっても楽しかったです! 私、うまくやれるかなって不安だったのですが、殿下のおかげで自信を持てた気がします!」
「あ、ああ。わかった」
「それで、もしよければ、もう一曲ご一緒いただけませんか?」
殿下は、酷く狼狽した様子でこちらに助けを求めるようでした。
(……断るのが筋だとわかっているなら、自分の口で断りなさいよ)
貴族は通常、同じ相手と二曲続けて踊りません。
例外があるとすれば、婚約者のみ。
男爵令嬢が婚約者である公爵令嬢を差しおいて、二曲続けて踊るなど言語道断です。現に、バンドリリス男爵はどんな処罰が下されるかと気が気でなさそうです。
ああ、ですから最初、挨拶させずに隠していたのですか。
彼女に貴族社会は荷が重いですものね。
(……未来の日記には、彼女の頬を平手で打つとありましたね)
まるで二人の恋路を邪魔する試練そのもの。
それができれば、どれほど清々しいことでしょう。
(思い通りの行動なんてしてあげませんけど)
代わりに私は深く頭を下げました。
「お二人とも、とてもお似合いでした」
空々しい、セリフとともに。
「アイリス――っ」
殿下が私の手を取りました。
私は笑顔で、その手を下ろしました。
「私、気分が悪いので本日は帰らせていただきます。殿下はどうぞ、お好きな方をお送りください」
当て馬なんてまっぴらごめん。
恋がしたいなら、二人の内で完結させてください。
0
お気に入りに追加
54
あなたにおすすめの小説
変な転入生が現れましたので色々ご指摘さしあげたら、悪役令嬢呼ばわりされましたわ
奏音 美都
恋愛
上流階級の貴族子息や令嬢が通うロイヤル学院に、庶民階級からの特待生が転入してきましたの。
スチュワートやロナルド、アリアにジョセフィーンといった名前が並ぶ中……ハルコだなんて、おかしな
王子好きすぎ拗らせ転生悪役令嬢は、王子の溺愛に気づかない
エヌ
恋愛
私の前世の記憶によると、どうやら私は悪役令嬢ポジションにいるらしい
最後はもしかしたら全財産を失ってどこかに飛ばされるかもしれない。
でも大好きな王子には、幸せになってほしいと思う。
オバサンが転生しましたが何も持ってないので何もできません!
みさちぃ
恋愛
50歳近くのおばさんが異世界転生した!
転生したら普通チートじゃない?何もありませんがっ!!
前世で苦しい思いをしたのでもう一人で生きて行こうかと思います。
とにかく目指すは自由気ままなスローライフ。
森で調合師して暮らすこと!
ひとまず読み漁った小説に沿って悪役令嬢から国外追放を目指しますが…
無理そうです……
更に隣で笑う幼なじみが気になります…
完結済みです。
なろう様にも掲載しています。
副題に*がついているものはアルファポリス様のみになります。
エピローグで完結です。
番外編になります。
※完結設定してしまい新しい話が追加できませんので、以後番外編載せる場合は別に設けるかなろう様のみになります。
村娘になった悪役令嬢
枝豆@敦騎
恋愛
父が連れてきた妹を名乗る少女に出会った時、公爵令嬢スザンナは自分の前世と妹がヒロインの乙女ゲームの存在を思い出す。
ゲームの知識を得たスザンナは自分が将来妹の殺害を企てる事や自分が父の実子でない事を知り、身分を捨て母の故郷で平民として暮らすことにした。
村娘になった少女が行き倒れを拾ったり、ヒロインに連れ戻されそうになったり、悪役として利用されそうになったりしながら最後には幸せになるお話です。
※他サイトにも掲載しています。(他サイトに投稿したものと異なっている部分があります)
アルファポリスのみ後日談投稿しております。
家庭の事情で歪んだ悪役令嬢に転生しましたが、溺愛されすぎて歪むはずがありません。
木山楽斗
恋愛
公爵令嬢であるエルミナ・サディードは、両親や兄弟から虐げられて育ってきた。
その結果、彼女の性格は最悪なものとなり、主人公であるメリーナを虐め抜くような悪役令嬢となったのである。
そんなエルミナに生まれ変わった私は困惑していた。
なぜなら、ゲームの中で明かされた彼女の過去とは異なり、両親も兄弟も私のことを溺愛していたからである。
私は、確かに彼女と同じ姿をしていた。
しかも、人生の中で出会う人々もゲームの中と同じだ。
それなのに、私の扱いだけはまったく違う。
どうやら、私が転生したこの世界は、ゲームと少しだけずれているようだ。
当然のことながら、そんな環境で歪むはずはなく、私はただの公爵令嬢として育つのだった。
私を選ばなかったくせに~推しの悪役令嬢になってしまったので、本物以上に悪役らしい振る舞いをして婚約破棄してやりますわ、ザマア~
あさぎかな@電子書籍二作目発売中
恋愛
乙女ゲーム《時の思い出(クロノス・メモリー)》の世界、しかも推しである悪役令嬢ルーシャに転生してしまったクレハ。
「貴方は一度だって私の話に耳を傾けたことがなかった。誤魔化して、逃げて、時より甘い言葉や、贈り物を贈れば満足だと思っていたのでしょう。――どんな時だって、私を選ばなかったくせに」と言って化物になる悪役令嬢ルーシャの未来を変えるため、いちルーシャファンとして、婚約者であり全ての元凶とである第五王子ベルンハルト(放蕩者)に婚約破棄を求めるのだが――?
そして乙女ゲームは始まらなかった
お好み焼き
恋愛
気付いたら9歳の悪役令嬢に転生してました。前世でプレイした乙女ゲームの悪役キャラです。悪役令嬢なのでなにか悪さをしないといけないのでしょうか?しかし私には誰かをいじめる趣味も性癖もありません。むしろ苦しんでいる人を見ると胸が重くなります。
一体私は何をしたらいいのでしょうか?
結婚式当日に花婿に逃げられたら、何故だか強面軍人の溺愛が待っていました。
当麻月菜
恋愛
平民だけれど裕福な家庭で育ったシャンディアナ・フォルト(通称シャンティ)は、あり得ないことに結婚式当日に花婿に逃げられてしまった。
それだけでも青天の霹靂なのだが、今度はイケメン軍人(ギルフォード・ディラス)に連れ去られ……偽装夫婦を演じる羽目になってしまったのだ。
信じられないことに、彼もまた結婚式当日に花嫁に逃げられてしまったということで。
少しの同情と、かなりの脅迫から始まったこの偽装結婚の日々は、思っていたような淡々とした日々ではなく、ドタバタとドキドキの連続。
そしてシャンティの心の中にはある想いが芽生えて……。
※★があるお話は主人公以外の視点でのお話となります。
※他のサイトにも重複投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる