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5 音楽夜会

5-6 煙草入れ

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「アナイス」
 急ぎ足で廊下を歩くアナイスを呼び止める声がした。グラモン侯爵だった。
「何か?」
 アナイスは憮然として言ったがグラモン侯爵は彼女の不機嫌を気にしなかった。
「あなたの『夏の日を讃える歌』は大変に素晴らしかったと評判ですよ。私はメルシエの相手などしていて、聞き逃してしまった。まことに残念な限りです」
「素人の演奏よりも高名なピアニストのお相手の方が大事でしょう……」
言ってからアナイスは口をつぐんだ。自分の歌はともかく、エヴァンのピアノは聞く価値があったのではないかと思った。
 グラモン侯爵はアナイスの逡巡には気づかないようだった。
「いやいや、今日一番の聴き所だったでしょうね。あなた方の共演について評を書けないのは、音楽評論家としてまったくの不覚です」
 グラモン侯爵は「共演」と言う言葉を使った。アナイスは下を向いた。
 書いていただかなくて結構よ。アナイスは心の中で思った。
 自分のことも書かれたくないし、エヴァンのことを世間にむやみと知らしめるのも申し訳ない。それに自分が共演者となったことがエヴァンの評判を傷つけるのではないかと、それも心配だった。

「伴奏者とは前もって練習を?」
「いいえ、全く」
「おやおや、それは驚きです。まるで図ったかのように調子があっていたと聞きますがね。それに共演には共演者同士の関係が多かれ少なかれ見えるもので……」
 アナイスは警戒してグラモン侯爵を睨みつけた。彼は気にせず、大仰に言った。
「そういえばあなたのドレスは、ラグランジュ伯爵夫人のお見立てでしたね。大変お美しい」
「伯爵夫人の審美眼の確かさを、讃えるのみです」
 アナイスはそっぽを向いた。
「私はあなたを賛美したのですよ」
 グラモン侯爵はアナイスの顔を覗き込んだ。アナイスは手で彼を制した。
「ご冗談としか聞こえません。大切なお時間を無駄になさらないでください」
 グラモン侯爵は笑った。そして、ふと何かを思い出したように懐を探り、探し物が見つからない、と、大げさに困ったという身振りをした。
「煙草入れを落としたようだ。確かこっちに……探すのにお付き合いくださいませんか」
 彼はアナイスの腰に腕を回した。押し出されるようにしてまずアナイスが、続いてグラモン侯爵も遊戯室に入った。遊戯室に人の気配はなかった。続きの間からはピアノ演奏が聞こえてきた。ずいすん上手な人が弾いている、とアナイスは思った。

「確か、この辺に」
 グラモン侯爵はずかずかと続きの部屋の方へ向かい、アナイスもそれに連れられて、二人はピアノの下に潜り込んだ。そのとき、
「失礼」
男の声がして、足がグラモン侯爵の尻を思い切り蹴とばした。
「あいたっ……」
 グラモン侯爵が叫んでピアノの下から転がり出た。彼は床に手をついて立ち上がった。続いてアナイスがゆっくりと下から出た。その時、腰に付けていた鎖から扇が外れて、床に落ちた。しかし今はそれを拾うより、何が起きているのかが気になって目を凝らした。

 何か小型の物が飛んで来てグラモン侯爵がそれを両手で挟んで受け止めた。
「あなたの煙草入れですよ。拾っておきました」
 その声にアナイスははっとした。グラモン侯爵を蹴とばしたのはエヴァンだった。上手なピアノと思ったのもエヴァンの演奏だった。
 彼は椅子から立ち上がってグラモン侯爵を見ていた。彼の口調は軽い調子だったが、表情は全く笑っていなかった。
「僕がそういうのは嫌いだと知っているでしょう」
「確かに」
 グラモン侯爵は上着に煙草入れをしまうとエヴァンに笑いかけた。
「やあやあ、さっきのは素晴らしい演奏だったそうだね、彼女と」
 エヴァンは余計なことを言うなとでもいうようにグラモン侯爵をじろりとにらんだ。グラモン侯爵はわざとらしく首を振って、
「いやいや、私は君たちの演奏を聞きませんでしたよ、残念ながらね。聞いてもいない音楽の、評は書けませんね」
と、思わせぶりな言い方をした。
 エヴァンは再びグラモン侯爵を睨みつけた。

 アナイスはグラモン侯爵の真意をはかりかねた。もしかしてグラモン侯爵は、エヴァンの演奏について話をを広げないため、わざと演奏を聞かず、評論も書かないと宣言して、そのことをエヴァンに伝えているのではないかと、そう思わせるような言い方だと思った。

 グラモン侯爵はやれやれとでもいうようにひとつ息をつくと、
「アナイスお嬢さん、この次はこんな男のいない所で、ゆっくりお話ししましょう」
と言ってアナイスの手を取ると挨拶をして、悠然と去って行った。
 よく分からない人だと思ってアナイスはその後ろ姿を見送った。


 エヴァンが床からアナイスの扇を拾い上げた。
「あなたの扇」
 エヴァンは叩くようにして、アナイスの手の上に扇を置いた。
「今度は壊れませんでしたか?」
「ええ……」
 アナイスは扇を開いて閉じて確認した。
 舞踏会の時に一度失くして、誰かが拾って執事に託し、壊れていたのを修理して届けてくれた扇だった。今日は壊れてはいなかった。
 アナイスは扇を鎖に吊るしながら不思議な気持ちになった。

 アナイスがふとエヴァンの顔を見つめると、エヴァンは怒っているようだった。
「何をやってるんですか、あなたは」
「えっ?」
彼に怒られる理由がわからずアナイスは当惑した。
「カーテンの陰、ピアノの下……」
 エヴァンはいらいらしていた。
「愛を語らうにはのに定番の場所でしょう。よりによってグラモンですか。あんな男にはついて行かないことです。……もしかして僕がお邪魔でしたか」
「いいえ、全然。あなたがいてくれてよかったわ」
 アナイスはにっこりと笑った。数日前の舞踏会で扇を失くした時、あの時の扇も、彼が拾ってくれたに違いないと思った。
「煙草入れを探してほしいと言われて、でも本当に、そんな下心があるとは、知らなかったの」
「そうでしたよ。今だって、カーテンの陰に、ほら」
 エヴァンの指す方向から、思い詰めたように女が出てきた。続いて、男が出てきて、女を男が追いかけて二人は走り去った。
 アナイスは目をしばたたかせた。
「本当だ」
「でしょう」
 エヴァンがピアノの前に座って何かを弾き始めた。
「何を弾いているの?」
「『別れの曲』」
「あなた、意外と悪趣味ね」
アナイスは眉をひそめた。エヴァンは、はは、と笑った。もう怒ってはいなかった。



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