20 / 42
3 散策
3-7 対話
しおりを挟む
荷台で、がたごととひどく揺さぶられながら二人は話をつづけた。
「あなたはピアノをお弾きになるのを、隠していらっしゃるのですか?」
アナイスは聞いた。彼も自分の心に踏み込んでくるような質問をしてきたのだ。遠慮する必要はなかった。
「積極的に隠しているつもりはないのですが、弾かない事情を説明するのが面倒だから、黙ってることにしているんです」
エヴァンは案外すんなりと答えた。
「僕は伴奏者なんですが、契約があって、雇い主の許可なしには勝手に演奏できない身分なんです。それに今は休暇中で弾きたい気分でもない。まあ、そんな、つまらない理由です」
エヴァンは言って肩をすくめた。彼の態度が、どこかはぐらかしているようにも思えた。
アナイスはさらに聞いた。
「弾くのは伴奏だけ、ですか?」
「はい。歌か、他の楽器に合わせて弾きます。歌の伴奏をすることが多いですね」
「今度の音楽夜会では……」
「ピアノ伴奏なら、モーラン先生が連れて来たピアニストがいるでしょう」
「そうですか。それは、残念ですね」
彼が演奏しないと分かって、何となく儀礼的にアナイスは言った。
するとエヴァンもアナイスに言い返した。
「あなたは音楽夜会で歌ったり演奏したりなさるのですか?」
「私は歌も演奏もしませんが……」
「それは大変に残念ですね」
「……」
やりにくい人だと思った。
気を取り直してアナイスは言った。
「でも、ジュリーが『夏の日を讃える歌』を歌うので、私の大好きな歌なので、とても楽しみにしています」
「ああ、あの歌はいい歌ですよね」
今度はエヴァンも同意した。
「技巧的には難しくないのに、美しい歌詞と旋律があって、誰がどう歌ってもそれなりに聞こえます」
「……それは、褒めているのかしら」
エヴァンの品評にアナイスは眉をひそめたが、エヴァンはにっこりと微笑んでみせた。
「もちろん。伴奏していても楽しい歌ですよ」
「楽しい?」
「確かに伴奏は、ただの作業で、売りだし中の演奏家の足かけ仕事みたいに言われています。僕も最初はそうでした。が、独りの時とはまた違った表現を追求することができますし、別の技術が要求される点でも面白いと思います。僕は気に入っています」
「はあ……」
アナイスがエヴァンの顔を見て先を促したので、彼は続けた。
歌唱の伴奏にまず必要なこととして、エヴァンは歌詞の理解をあげた。内容を理解し曲を表現することと、歌唱それ自体を助ける意味合いがあった。
「歌い手は歌詞の切れ目で息継ぎをするので、どうしてもそこで曲が遅れます。歌詞の意味に合わせて緩急をつけてみたりと、一定の速度で歌う人はまずいません。……それに、途中で歌詞を間違えたり、飛ばしたりというのは、まあまあ起こるんです」
「それは大変……」
「本番で歌詞をすっ飛ばされたときには、飛ばしたまま最後まで歌うつもりなのか、元の歌詞に戻って続けるのか、こっちも合わせるのに必死です。歌手本人が気づいているのかいないのか、一体どうするつもりなのか知りたいのに、たいていの場合、歌手はピアノに対して背を向けているので顔は見えないし、最悪の場合は歌声が聞こえないこともあるし、……顔が見えなくていいことは、伴奏者の動揺が歌手には分からないことだけですね」
アナイスは大笑いした。
「あら、笑ってしまってごめんなさい」
「どうぞ。演奏の最中には、本当に、笑い話みたいなことばかり起きます」
エヴァンも笑った。この話題では、彼は愉快で饒舌な人物だった。
「音の狂ったピアノを弾くのも伴奏の技術?」
「それは伴奏か独奏かじゃなくて、ピアノとかオルガンとか、自分の楽器を持ち運べない場合に起こる共通の問題です。音がずれているとか、音色の感じ方とか弾くときの力の入れ方とか、一台一台が違うので、毎回試行錯誤します。でも、毎度状況が違うのは、誰も同じことでしょう……」
だからこそ、毎回共演者とは異なる対話と反応が生まれ、表現が広がる。
伴奏者の楽器自体に問題がなくても、共演者の音域に合わせて、本来の楽譜で指示された音よりも高くしたり低くしたりして移調するのは伴奏者の基本的な技術だった。音をずらせばピアノで演奏する白鍵黒鍵の位置も変わるので、鍵盤を叩く指遣いもあらためて確認する。
移調するのも、音程に耳を合わせるのも、変更された音のために指を動かすのも、彼は困難を感じずにできた。今までそうやって、たくさんの演奏をこなし、確かにしてきた技術だった。
「一曲伴奏するまでに、そんなにいろいろ考えてるなんて、知らなかったわ」
「……誰かに知ってもらいたい気持もあれば、苦労を知られてくやしいと思うこともあり、我ながら馬鹿馬鹿しいと思います」
エヴァンは素直に胸の内を明かした。
「でもですね」
「はい?」
「そんな裏の事情は忘れて、ただ歌と曲の響きを聞いて何かを感じ取ってもらえる方が、うれしいですね」
「きっとそうします」
今度はアナイスも素直に彼に従った。エヴァンは穏やかな微笑をアナイスに向けた。
「ぜひ。僕もそうしてもらえるように弾きます」
『弾きます』。確かに彼はそう言った。
「あなたはピアノをお弾きになるのを、隠していらっしゃるのですか?」
アナイスは聞いた。彼も自分の心に踏み込んでくるような質問をしてきたのだ。遠慮する必要はなかった。
「積極的に隠しているつもりはないのですが、弾かない事情を説明するのが面倒だから、黙ってることにしているんです」
エヴァンは案外すんなりと答えた。
「僕は伴奏者なんですが、契約があって、雇い主の許可なしには勝手に演奏できない身分なんです。それに今は休暇中で弾きたい気分でもない。まあ、そんな、つまらない理由です」
エヴァンは言って肩をすくめた。彼の態度が、どこかはぐらかしているようにも思えた。
アナイスはさらに聞いた。
「弾くのは伴奏だけ、ですか?」
「はい。歌か、他の楽器に合わせて弾きます。歌の伴奏をすることが多いですね」
「今度の音楽夜会では……」
「ピアノ伴奏なら、モーラン先生が連れて来たピアニストがいるでしょう」
「そうですか。それは、残念ですね」
彼が演奏しないと分かって、何となく儀礼的にアナイスは言った。
するとエヴァンもアナイスに言い返した。
「あなたは音楽夜会で歌ったり演奏したりなさるのですか?」
「私は歌も演奏もしませんが……」
「それは大変に残念ですね」
「……」
やりにくい人だと思った。
気を取り直してアナイスは言った。
「でも、ジュリーが『夏の日を讃える歌』を歌うので、私の大好きな歌なので、とても楽しみにしています」
「ああ、あの歌はいい歌ですよね」
今度はエヴァンも同意した。
「技巧的には難しくないのに、美しい歌詞と旋律があって、誰がどう歌ってもそれなりに聞こえます」
「……それは、褒めているのかしら」
エヴァンの品評にアナイスは眉をひそめたが、エヴァンはにっこりと微笑んでみせた。
「もちろん。伴奏していても楽しい歌ですよ」
「楽しい?」
「確かに伴奏は、ただの作業で、売りだし中の演奏家の足かけ仕事みたいに言われています。僕も最初はそうでした。が、独りの時とはまた違った表現を追求することができますし、別の技術が要求される点でも面白いと思います。僕は気に入っています」
「はあ……」
アナイスがエヴァンの顔を見て先を促したので、彼は続けた。
歌唱の伴奏にまず必要なこととして、エヴァンは歌詞の理解をあげた。内容を理解し曲を表現することと、歌唱それ自体を助ける意味合いがあった。
「歌い手は歌詞の切れ目で息継ぎをするので、どうしてもそこで曲が遅れます。歌詞の意味に合わせて緩急をつけてみたりと、一定の速度で歌う人はまずいません。……それに、途中で歌詞を間違えたり、飛ばしたりというのは、まあまあ起こるんです」
「それは大変……」
「本番で歌詞をすっ飛ばされたときには、飛ばしたまま最後まで歌うつもりなのか、元の歌詞に戻って続けるのか、こっちも合わせるのに必死です。歌手本人が気づいているのかいないのか、一体どうするつもりなのか知りたいのに、たいていの場合、歌手はピアノに対して背を向けているので顔は見えないし、最悪の場合は歌声が聞こえないこともあるし、……顔が見えなくていいことは、伴奏者の動揺が歌手には分からないことだけですね」
アナイスは大笑いした。
「あら、笑ってしまってごめんなさい」
「どうぞ。演奏の最中には、本当に、笑い話みたいなことばかり起きます」
エヴァンも笑った。この話題では、彼は愉快で饒舌な人物だった。
「音の狂ったピアノを弾くのも伴奏の技術?」
「それは伴奏か独奏かじゃなくて、ピアノとかオルガンとか、自分の楽器を持ち運べない場合に起こる共通の問題です。音がずれているとか、音色の感じ方とか弾くときの力の入れ方とか、一台一台が違うので、毎回試行錯誤します。でも、毎度状況が違うのは、誰も同じことでしょう……」
だからこそ、毎回共演者とは異なる対話と反応が生まれ、表現が広がる。
伴奏者の楽器自体に問題がなくても、共演者の音域に合わせて、本来の楽譜で指示された音よりも高くしたり低くしたりして移調するのは伴奏者の基本的な技術だった。音をずらせばピアノで演奏する白鍵黒鍵の位置も変わるので、鍵盤を叩く指遣いもあらためて確認する。
移調するのも、音程に耳を合わせるのも、変更された音のために指を動かすのも、彼は困難を感じずにできた。今までそうやって、たくさんの演奏をこなし、確かにしてきた技術だった。
「一曲伴奏するまでに、そんなにいろいろ考えてるなんて、知らなかったわ」
「……誰かに知ってもらいたい気持もあれば、苦労を知られてくやしいと思うこともあり、我ながら馬鹿馬鹿しいと思います」
エヴァンは素直に胸の内を明かした。
「でもですね」
「はい?」
「そんな裏の事情は忘れて、ただ歌と曲の響きを聞いて何かを感じ取ってもらえる方が、うれしいですね」
「きっとそうします」
今度はアナイスも素直に彼に従った。エヴァンは穏やかな微笑をアナイスに向けた。
「ぜひ。僕もそうしてもらえるように弾きます」
『弾きます』。確かに彼はそう言った。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
私がいなくなった部屋を見て、あなた様はその心に何を思われるのでしょうね…?
新野乃花(大舟)
恋愛
貴族であるファーラ伯爵との婚約を結んでいたセイラ。しかし伯爵はセイラの事をほったらかしにして、幼馴染であるレリアの方にばかり愛情をかけていた。それは溺愛と呼んでもいいほどのもので、そんな行動の果てにファーラ伯爵は婚約破棄まで持ち出してしまう。しかしそれと時を同じくして、セイラはその姿を伯爵の前からこつぜんと消してしまう。弱気なセイラが自分に逆らう事など絶対に無いと思い上がっていた伯爵は、誰もいなくなってしまったセイラの部屋を見て…。
※カクヨム、小説家になろうにも投稿しています!
公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-
猫まんじゅう
恋愛
そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。
無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。
筈だったのです······が?
◆◇◆
「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」
拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」
溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない?
◆◇◆
安心保障のR15設定。
描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。
ゆるゆる設定のコメディ要素あり。
つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。
※妊娠に関する内容を含みます。
【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】
こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)
私が死ねば楽になれるのでしょう?~愛妻家の後悔~
希猫 ゆうみ
恋愛
伯爵令嬢オリヴィアは伯爵令息ダーフィトと婚約中。
しかし結婚準備中オリヴィアは熱病に罹り冷酷にも婚約破棄されてしまう。
それを知った幼馴染の伯爵令息リカードがオリヴィアへの愛を伝えるが…
【 ⚠ 】
・前半は夫婦の闘病記です。合わない方は自衛のほどお願いいたします。
・架空の猛毒です。作中の症状は抗生物質の発明以前に猛威を奮った複数の症例を参考にしています。尚、R15はこの為です。
愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。
石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。
ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。
それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。
愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。
この作品は他サイトにも投稿しております。
扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる