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3 散策
3-6 帰り道
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風と木々のざわめきが、アナイスの横を通り過ぎて行った。
アナイスはしばらくの間座り込んでいた。ようやく気分が落ち着いて立ち上がった。急に立ったせいか目まいがして、足がふらついた。
「ああ、気をつけて」
「すみません」
とっさに差し出された手を取って自分を支えると、アナイスははたと気づいた。自分は一人ではなかった。
つかまった手を放してから、彼に向かって冷たく言った。
「あなた、まだ、いたんですか」
「はい」
エヴァンは少し困ったような顔をしていた。
「本当は、もっと別のことを言おうと思っていたのですが……」
「別のこと?」
「気性の荒い雄牛がいるので、散歩には気をつけるようにと……」
それを聞いてアナイスはがっくりと力が抜けた。
「それはそれは……ご親切に、どうも」
「どういたしまして」
彼は真面目に答えて、
「遅くなる前に、一緒に戻りましょう」と言った。
本当に、自分はずいぶんと長い間、この場にとどまっていたようだと、アナイスは思った。それにエヴァンも付き合いよく待っていた。
彼に促されて、そうするのがよいと分かっていても、アナイスは素直に従う気になれなかった。
「でも、雄牛が出たら、一緒にいたところで、どうにもならないでしょう?」
「どうでしょう、多少は役に立つかもしれませんよ。僕を囮に、あなたが先に逃げればいいわけですし」
「まさか、そんな」
「冗談です。そうならないことを願ってます」
エヴァンは真顔だった。
「ごめんなさい……」
アナイスは聞こえないくらい小さな声で言った。行き場を失ったいら立ちを、彼に八つ当たりしたような気がした。
アナイスのつぶやきが聞こえたのか聞こえなかったのか、エヴァンは気にした様子も見せなかった。
再びエヴァンが促して二人は道に戻った。
脇道に止まっていた馬車はすでになかった。毬遊びをしていた少女たちを乗せて出発した後だった。
無言のまま二人は歩いた。
つかず離れずの距離を保って、アナイスは足元をずっと見ていた。エヴァンは後ろで腕を組んで、鼻歌を歌っているようだった。
しばらく行くと、道の真ん中で茶色の牛が数頭、足を折って座っていた。幸いなことに、おとなしい牝牛ばかりだった。それでも牛たちが集まって座っていると、迫力があった。
「静かに横を通っていきましょうか。絶対に走らないで」
エヴァンが言って、アナイスはうなずいた。
二人が少し近づいたところで、牛たちは一斉に立ち上がった。
アナイスは息を呑んだが、何も特別なことは起こらなった。
一頭がゆっくりと道を横断した。柵の合間から牧草地のほうに入ると、残りの牛たちも、長い尻尾を振りながらそれに続いた。道から牛の姿は消えた。
「取りこし苦労でした」
とエヴァンが言った。アナイスは「ええ」と相槌をうった。ほっと胸をなでおろした。
何事も起こらなかったが、一人ではなくて人と一緒にいるというのが、彼女を安心させた。アナイスは気をよくしてエヴァンに話しかけた。
「先日の、ピアノのことをお聞きしても?」
「ええ、どうぞ」
アナイスは小部屋の窓際で、エヴァンが弾いていたピアノのことを尋ねた。どうしてあれがピアノだと分かったのか、不思議だった。
「僕も、前に見たことがなければ、気づかなかったと思います」
彼は以前に同じような家具調のピアノを、別の人の家で見て、実際に弾いたことがあった。工芸品のように外観を見て鑑賞するためのピアノで、今はもう製作されることはなくなった。
かつて彼が見たのもやはり書き物机風の外観だったが、ほかにも化粧台や長机にしか見えないものもあり、所有者が変わるとピアノであることが忘れられて、ただの美術品か家具として眠っていることもあり得るとのことだった。
アナイスは馬車でセドリックが言っていたことを思い出した。
「セドリックは、ラグランジュ伯爵夫人が山荘の修繕時、骨とう品を一か所に集めたと言っていました。あのピアノも、ただの机と思われたのでしょうか」
「その可能性はありますね。長い間、弾かれていないようでした」
アナイスと顔を見合わせて、エヴァンはうなずいた。
「あ、そうだ」
唐突にアナイスは言った。視線の先に運搬用の荷車が止まっていた。髭を生やした老人が一人、車を引く馬に草をやっていた。アナイスはその老人に見覚えがあった。
「この先はあれに乗せてもらえるか、頼んでみましょう」
「えっ」
驚くエヴァンをおいて、アナイスは走り出した。柵のこちらと向こう側とで話す姿が見えて、やがてアナイスがエヴァンに向かって手を振った。
「乗せてくれるって」
老人は山荘の庭師だった。
「昔よく乗ったわ」
アナイスはスカートをたくし上げると荷台の上に上がり、縁に寄り掛かかって腰を下ろした。荷台にはすでに干し草がうず高く積まれていた。
「あまり寄りかかりすぎると崩れてきて、大変なことになるのよ」
そう言うとアナイスは手招きした。エヴァンは一瞬だけ逡巡した。しかしすぐに同じように荷台に上がって座った。
「お願いします」
アナイスの声を合図に、馬に引かれて荷車がゆっくりと動き始めた。
アナイスはしばらくの間座り込んでいた。ようやく気分が落ち着いて立ち上がった。急に立ったせいか目まいがして、足がふらついた。
「ああ、気をつけて」
「すみません」
とっさに差し出された手を取って自分を支えると、アナイスははたと気づいた。自分は一人ではなかった。
つかまった手を放してから、彼に向かって冷たく言った。
「あなた、まだ、いたんですか」
「はい」
エヴァンは少し困ったような顔をしていた。
「本当は、もっと別のことを言おうと思っていたのですが……」
「別のこと?」
「気性の荒い雄牛がいるので、散歩には気をつけるようにと……」
それを聞いてアナイスはがっくりと力が抜けた。
「それはそれは……ご親切に、どうも」
「どういたしまして」
彼は真面目に答えて、
「遅くなる前に、一緒に戻りましょう」と言った。
本当に、自分はずいぶんと長い間、この場にとどまっていたようだと、アナイスは思った。それにエヴァンも付き合いよく待っていた。
彼に促されて、そうするのがよいと分かっていても、アナイスは素直に従う気になれなかった。
「でも、雄牛が出たら、一緒にいたところで、どうにもならないでしょう?」
「どうでしょう、多少は役に立つかもしれませんよ。僕を囮に、あなたが先に逃げればいいわけですし」
「まさか、そんな」
「冗談です。そうならないことを願ってます」
エヴァンは真顔だった。
「ごめんなさい……」
アナイスは聞こえないくらい小さな声で言った。行き場を失ったいら立ちを、彼に八つ当たりしたような気がした。
アナイスのつぶやきが聞こえたのか聞こえなかったのか、エヴァンは気にした様子も見せなかった。
再びエヴァンが促して二人は道に戻った。
脇道に止まっていた馬車はすでになかった。毬遊びをしていた少女たちを乗せて出発した後だった。
無言のまま二人は歩いた。
つかず離れずの距離を保って、アナイスは足元をずっと見ていた。エヴァンは後ろで腕を組んで、鼻歌を歌っているようだった。
しばらく行くと、道の真ん中で茶色の牛が数頭、足を折って座っていた。幸いなことに、おとなしい牝牛ばかりだった。それでも牛たちが集まって座っていると、迫力があった。
「静かに横を通っていきましょうか。絶対に走らないで」
エヴァンが言って、アナイスはうなずいた。
二人が少し近づいたところで、牛たちは一斉に立ち上がった。
アナイスは息を呑んだが、何も特別なことは起こらなった。
一頭がゆっくりと道を横断した。柵の合間から牧草地のほうに入ると、残りの牛たちも、長い尻尾を振りながらそれに続いた。道から牛の姿は消えた。
「取りこし苦労でした」
とエヴァンが言った。アナイスは「ええ」と相槌をうった。ほっと胸をなでおろした。
何事も起こらなかったが、一人ではなくて人と一緒にいるというのが、彼女を安心させた。アナイスは気をよくしてエヴァンに話しかけた。
「先日の、ピアノのことをお聞きしても?」
「ええ、どうぞ」
アナイスは小部屋の窓際で、エヴァンが弾いていたピアノのことを尋ねた。どうしてあれがピアノだと分かったのか、不思議だった。
「僕も、前に見たことがなければ、気づかなかったと思います」
彼は以前に同じような家具調のピアノを、別の人の家で見て、実際に弾いたことがあった。工芸品のように外観を見て鑑賞するためのピアノで、今はもう製作されることはなくなった。
かつて彼が見たのもやはり書き物机風の外観だったが、ほかにも化粧台や長机にしか見えないものもあり、所有者が変わるとピアノであることが忘れられて、ただの美術品か家具として眠っていることもあり得るとのことだった。
アナイスは馬車でセドリックが言っていたことを思い出した。
「セドリックは、ラグランジュ伯爵夫人が山荘の修繕時、骨とう品を一か所に集めたと言っていました。あのピアノも、ただの机と思われたのでしょうか」
「その可能性はありますね。長い間、弾かれていないようでした」
アナイスと顔を見合わせて、エヴァンはうなずいた。
「あ、そうだ」
唐突にアナイスは言った。視線の先に運搬用の荷車が止まっていた。髭を生やした老人が一人、車を引く馬に草をやっていた。アナイスはその老人に見覚えがあった。
「この先はあれに乗せてもらえるか、頼んでみましょう」
「えっ」
驚くエヴァンをおいて、アナイスは走り出した。柵のこちらと向こう側とで話す姿が見えて、やがてアナイスがエヴァンに向かって手を振った。
「乗せてくれるって」
老人は山荘の庭師だった。
「昔よく乗ったわ」
アナイスはスカートをたくし上げると荷台の上に上がり、縁に寄り掛かかって腰を下ろした。荷台にはすでに干し草がうず高く積まれていた。
「あまり寄りかかりすぎると崩れてきて、大変なことになるのよ」
そう言うとアナイスは手招きした。エヴァンは一瞬だけ逡巡した。しかしすぐに同じように荷台に上がって座った。
「お願いします」
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