二度目のミルテ

井中エルカ

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第1話 親友の婚約

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「わたし、婚約したの。春になったら結婚するんですって」
 アンリエットが言った。他人事みたいだった。
 
 全くうれしそうじゃなかったので、私は『おめでとう』と言いそびれた。相手の男というのは……。
「よく知ってる人?」
「知らない。会ったこともない」
「……」
「そうだ、婚約者の絵をもらったの。彼の肖像画、見る?」

 大型本くらいの大きさ。アンリエットは二つ折りの台紙を開く。ちゃんと留まっていなかったのか、中から紙がすべり落ちる。
 アンリエットはそれを拾い、何かを思いついて手を止める。インクのついたペンで絵の上をめちゃくちゃに書きなぐる。そしてわざと床の上に落とし、上から靴で思い切り踏みしめた。何度も何度も。

 うわあ、一体どうしたの?
 物静かで思慮深い私の親友。いつもとの違いに仰天する。

 聞いた話によると、婚約者の名前はポールという。私たちより四つ年上の二十二歳。
 アンリエットの実家が事故で大きな負債を抱え、富裕な商人から支援の申し出を受けた。その条件がお互いの子女、つまりアンリエットとポールを結婚させること。
 しかし、そもそもの事故の原因を作ったのが、ポールの家の関係者ではないかと疑われ、アンリエットの腹はおさまらない。
 
 彼女が踏みつけた絵はまだ私が持っている。彼女に返すことも、勝手に捨てることもできない。
 誰も読まない本の間に、今なお隠してある。
 
 
 ***
 
 ある冬の日。私は王都で開かれたドリス公爵夫人の舞踏会に出かけた。
 
 「おい、ミルテ」
 着くなり、早速公爵夫人の息子に見つかる。彼はエリック、私と同じ十八歳。
 今じゃすっかり貴公子然としているけれど、その中身は悪ガキのまま。特に私たち二人だけでいる時は。
 エリックとは幼馴染みで、小さい時はよく一緒に遊んで、たくさんいたずらもした。でもそれは、彼の親の身分のせいで全ておとがめなしになった。

「いつ王都に来たんだ?」
「今日。いまさっきよ」
「ふうん。お前ももっとこっちで暮らせばいいのに。そんなに農村暮らしがいいのか?」
「私には私の生活があるの。やることがあって忙しいの。いつも遊んでばかりいるあなたと一緒にしないで」
「そんなこというなよ。俺、これでも最近、王宮務めを始めたんだぜ」
「へえ、頑張ってね。真面目な皆さまのお邪魔をしないようにね。それじゃあ」
「待てよ」
 去ろうとした私の腕をエリックがつかむ。

「何?」
 私が睨みつけると、突然エリックは神妙な表情になった。乱暴につかんでいた腕をそっと離す。小さな声で囁く。
「だからさ、今日、俺の両親に会わせるよ」
「はあ?」
「……結婚しよう、俺たち」
「……!」
 あまりにも驚きすぎて言葉が出ない。エリックは満面の笑みを浮かべて私を引き寄せる。

「……あなた、本気で言ってるの?」
「もちろん」
「今はまだ考えられない」
 私は彼の腕から逃げて言う。

 結婚なんて。そんなこと考えたこともない。
 
 エリックと私とは友達。幼い時、お互いの親が誰であるかを知らないまま友達になってしまった。本来ならば口もきけないくらい、住む世界の断絶がある。
 世間が私とエリックの間柄を何と言っているかというと、良くて『遊び相手』。悪いと『若い時の過ち』。
 失礼しちゃう。決してそんな仲じゃないのに。
 
 困惑してエリックの肩越しに向こうを見ると、ある男の姿が目に飛び込んで来た。何かを探すように周囲をきょろきょろと見回したかと思うと、猛烈な勢いで来客の間をかき分けて進んで行く。
 私は思わずその男を目で追い、エリックがそれに気づいた。ちっ、と舌打ちする。

「何だ、あんな奴まで来てるのか……」
「知ってるの?」
「成金の商人の息子だよ、招待客には入ってないはずなのに……あ、そうだ、今日はマーゴも来てるんだ。それでだ」
 
 マーゴは大変な人気のある歌手。歌唱力は人並みだけど、美貌と恋愛沙汰でいつも話題をさらっている。だから公爵夫人の招待客になっていても不思議はない。
 そして、マーゴは私の実の母親でもある。結婚はしていない。私の父親は、可能性として三人の候補がいると聞いている。
 そんな事情があってマーゴは私を農村に隠した。もし人目のあるところで母娘が出会ったならば、お互いに他人の振りをするのがお約束。
 このことはまだ誰にも、アンリエットにだって言っていない。エリックだけは偶然知ってしまったけれど、彼は秘密を守ってくれている。

 マーゴが舞踏会に来ているのは分かったけれど、エリックの言っていることがまだ分からない。

「どういうこと?」
「奴は、親父にひっついて来たのさ。ほら、マーゴの今の恋人がいるだろう?」
「お金持ちの商人だって、聞いてる」
「そうそう、その一人息子だよ」

 マーゴが恋人を伴ってやって来て、その恋人の息子も一緒にやって来た、ということらしい。

「そういえば、いつも一緒にいるお前の友達、今日は来てないの?」
「アンリエットのこと? 後から来るわよ。どうしてそんなことを聞くの?」
 アンリエットは名門貴族の家柄。招待客に入っているし、来ると聞いている。

 エリックはにやにやしながら言った。
「奴がアンリエットの婚約者だぜ。金が要るからって、よくあんな商人と結婚する気になったもんだ」
「……!」

 さっきよりも、もっと驚いた。
 そして、突然ある思いに急き立てられた。
「行かなきゃ……私、アンリエットを探しに行かないと」
 
 話さなきゃ。誰かが話す前に、私からアンリエットに話さないと。
 私の母親は歌手のマーゴで、マーゴの恋人には息子がいる。その息子がアンリエットの婚約者なんだ、ってことを。
 
 今まで、知らなかったのよ。あなたの婚約者が、私の母とも関係のある人だって。
 あなたが婚約者のことを話してくれた時にも、全く知らないことだったの。
 知らないふりをして、あなたをだましてたんじゃない。悪く取らないで。私のことを嫌いにならないでほしい。
 
 エリックも私のただならぬ様子を察してくれたようだ。
 
「後で……迎えに行くよ。俺のことも、それまでに考えておいて」
「うん、ごめん」

 私はエリックの隣をすり抜けて走り去る。
 アンリエット! あなたは今どこにいるの?

 
 ***
 
 大階段の下を通り過ぎると人の気配がなくなった。たまたまある部屋の前に来た時、その中にいた人と目があった。
 あっ!

 思わず叫びそうになる。マーゴが恋人と腕を組んで立っている。
 マーゴの恋人は、その部屋にいるもう一人の男と口論の真っ最中。それでマーゴだけが私に気づいた。
 
 『こっちにいらっしゃい、ミルテ』
 無言でマーゴが私を手招きした。私は凍り付いたように動けなくなった。
 
 マーゴは恋人と組んでいた腕をほどき、私の方に歩いて来る。私の手をとり、部屋の中へ連れて行く。口論している男二人の前に私を押し出す。
 男二人が口論を中断し、突如割って入って来た私を見る。私も彼らを見る。
 
 中年の男とまだ若い男。年をとっている方がマーゴの恋人。名前は確か、アランという。
 若い方がアンリエットの婚約者だと分かる。この部屋で、父子が口喧嘩をしていたのだ。
 
「紹介するわね。この子が前に話したミルテ。私の娘」
 男二人の表情が驚きに変わる。でも、お母様の発言に誰よりも驚いたのは、『娘』だと言われた当の本人の私。
 今まで娘がいるなんて誰にも言ってこなかったのに。今日のこの日、この場に限って、一体どうしようというの?

「ミルテと申します」
 とりあえず、私は腰をかがめてお辞儀をする。上目使いにマーゴの顔を覗き見る。
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