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第29話 金の鏡(2)
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リュシアン王子とフェリックス様の帰還。ジャンヌ様をめぐって争う立場の二人。そのお二人が親しいご様子で、一緒に戻られるなんて、誰が想像しただろうか。
お嬢様はリュシアン王子とフェリックス様とを何度も交互に見て、そして最後にリュシアン王子をもう一度見て、猛烈に不機嫌になった。お嬢様だけが、昨日のことをまだ根に持っているらしい。リュシアン王子は平然と、何事もなかったかのような顔をしている。
いつのまにか使い魔たちが周囲に集まって来ていた。
シャーズはフェリックス様から少し離れて従っている。ネズミのイアシントはシャーズの肩に乗って、床の上にいる猫のレグリスを挑発している。
レグリスはシャーズの足元をうろうろしながらイアシントに飛び掛かる機会をうかがっている。しかし飛び上がろうと狙いをつけるたび、シャーズが歩いて立ち位置を変えるので、試みは何度も振り出しに戻っていた。
使い魔同士で仲良くすればいいのにと思う。でも彼らの騒々しさを見ていると少し心が和む。
「私の荷物が何かご迷惑を?」
お嬢様はリュシアン王子に向かって言った。言い方にいちいちとげがある。
「別に。いつもの荷物箱じゃなかったから気になっただけだ。俺の持っている鍵で開かなかったから」
お嬢様とリュシアン王子は、同じ鍵を持っているらしい。それはほとんど夫婦のようなものだ。
「私の荷物を勝手に開けたの?」
「開かなかったんだ。お前が帰った後、鏡が残っていたから、箱に入れて運ばせようかと思った。でも開かなかった」
「銀の鏡のこと?」
「そう。あんな物、わざわざ持って行かなくても、領主館にある物を使えばいいんじゃないのか?」
お嬢様はとたんに表情を曇らせた。リュシアン王子の言うことも一つの考え方ではあるけれど、今お嬢様はそれを聞き入れる態勢にない。完全に気分を害してしまった。
ここで悪い癖が出て、お嬢様は極端な行動に出た。
ジャンヌ様はリュシアン王子の横をすり抜けてフェリックス様に近づく。表情は固くこわばり、動作がぎこちない。
それに対してフェリックス様もリュシアン王子も全く表情を変えず、微動だにしない。
「あなた様のお帰りをお待ちしていました」
お嬢様は顔を上げて親が決めた婚約者に問いかけた。
「私を妻に望むとおっしゃった、今でもそうしてくださいますか」
この時フェリックス様は成り行きで私の腰に手をまわしたままだった。その手を置いたままでジャンヌ様をじっと見た。ジャンヌ様もまた彼の目を見て睨み返した。
リュシアン王子はまだ動かない。私はフェリックス様から離れてシャーズの隣に並ぶ。イアシントが私の肩に飛び移り、私は足元にいるレグリスをあやうく蹴飛ばしそうになる。
フェリックス様は少し考えてから言った。
「……答える代わりに、あなたにキスをしても?」
この返答にお嬢様はひるんだ。
「ええ、もちろんです……」
お嬢様は言葉では承諾しながらも、完全に目をそらして顔は横を向いている。歯を食いしばったその表情はとても悔しそうだ。
フェリックス様は一体どうするつもりなのか。
妙に緊張して目が離せなくなっているのは私だけで、リュシアン王子はと言えば、全く慌てた様子もなく事態を見守っている。
「ジャンヌ」
フェリックス様は穏やかに呼びかけて彼女の頬に触れ、顔を近づけた。お嬢様は思わず顔をそむける。その両手は固く拳を握ってぶるぶると震えていて……要は、震えるほど嫌だということだ。
そのままフェリックス様は素早くお嬢様にキスをした。ただし彼女の両の頬に、まるで親しい友人か兄妹が挨拶をする時のように。
「どういうこと?」
すぐにお嬢様は目線を上げて、不信の表情でフェリックス様を凝視する。フェリックス様は視線を受け止めて悠然と微笑し、今度はお嬢様の右手をとってゆっくりと唇を寄せた。
「あなたが話したい相手は……私ではありませんね?」
そう言われてお嬢様は、驚きのあまり動けない。リュシアン王子は動き出す。
それは優雅で甘美な瞬間だった。
フェリックス様はお嬢様の手をとったまま背中から腕を回すと、ごく自然の動作でお嬢様を前に押し出す。押されてお嬢様が二歩三歩と歩いた先にはリュシアン王子がいる。
呆然としたままお嬢様はフェリックス様の手を離し、代わりに差し出されたリュシアン王子の手をとる。
今度は王子が、お嬢様の右の手首に、次に手の甲に、ゆっくりと唇と押し当てる。
「ジャンヌ……」
王子が名前を呼び、お嬢様の腰に手を回して身体を引き寄せると、二人は近い距離から見つめ合った。
しばらくそうして見つめ合っていた後、お嬢様は意を決したように口を開いた。
「あなたからいただいた銀の鏡のことですが」
「それが何か?」
「『あんな物』だなんて、言わないでくださいますか。私にとっては、とても大切な物なのです。そういう言われ方をすると、悲しいです」
お嬢様は顔をリュシアン王子の胸に押し当てた。王子はお嬢様の頭を抱きしめる。
「分かった。言い方が悪かった、すまない。それと……大切にしてくれて、ありがとう」
お嬢様は王子の腕の中で顔を上げた。
リュシアン王子の目は、心底愛おしそうにお嬢様を見つめる。お嬢様は少し、はにかんだような様子になった。それでも王子の両肩に手を置き直すと、まっすぐに彼を見つめて言った。
「リュシアン、愛しています。私はあなたと結婚したい」
「知ってる。ずっと前から」
間をおかずにリュシアン王子が答えたのでお嬢様は少し拍子抜けしたようだ。
リュシアン王子は笑顔で繰り返し言った。
「そんなことはずっと前から知ってる。でも、この口から、」
王子はお嬢様の唇に指をあてた。
「聞いたのは初めてだ」
「……そうだったかしら」
二人はお互いの背中と腰に手を回してしっかりと抱き合った。
「ジャンヌ、愛している」
「私も……愛しているわ」
お二人が抱擁とキスを繰り返している間も、イアシントとレグリスはお互いをけん制し合って全く落ち着かない。ついにフェリックス様が二人の仲裁に入り、レグリスを私の足元から抱き上げた。レグリスはとたんに態度を変えて、フェリックス様の腕の中でごろごろと喉を鳴らす。
私はあきれてレグリスを見ていて、そこでフェリックス様の視線の先に気がついた。
それまでリュシアン王子はずっとお嬢様の顔にキスを繰り返していたのだけど、この時だけはお嬢様の頭越しにフェリックス様を見た。リュシアン王子とフェリックス様とが視線を交わし、フェリックス様の口元に不敵な笑みが浮かぶ。リュシアン王子がそれに視線で答える。すぐに二人はお互いの視線を外して、何事もなかったかのようになった。
それで私は、二人の男が共謀したのだと知った。
一人の男の手からもう一人の男の手へ、お嬢様は無意識のうちに、二人の間で受け渡されて、そうやって本来の場所に戻られた。
二人の男たちにとってはそれが予定された結末で、そうなるよう仕掛けるのはきっとたやすいことで……だからリュシアン王子もフェリックス様も、お嬢様がどんな行動に出ても落ち着き払っていたのだ。
フェリックス様は初日に私を斥けた後、私のことを『どうするつもりもない』と言った。裏返せば、私のような女中の一人くらい『どうにでもできる』という気持ちがあったからに他ならない。
事実、私は彼にいいようにからかわれていたし、そうと分かっても不快にならなかったのは彼のやり方が巧みだったからなのだろうと思う。
でも、いつからだろう……この頃の彼は計算高い様子は全くなくて、心のこもった様子を見せてくれる。目が合うと安心させるような笑顔を向けてくれる。今だってそうで、私はこの笑顔に騙されている、と思う。
いつのまにか彼を警戒しなくなった。むしろ好ましく思い、味方しようとしている。自分でもどうしようとしているのか……よくわからない。
でも、わからなくても、私にはまだやることがある。
リュシアン王子とフェリックス様はお城に帰ってきたが、一人、戻ってきていない人がいるのだ。彼女の去就を聞かなければ。
「フェリックス様、セシルという女中にお会いになりませんでしたか?」
私はできるだけ小さな声で話しかけたのに、彼は恋人たち二人にもよく聞こえるように答えた。
お嬢様はリュシアン王子とフェリックス様とを何度も交互に見て、そして最後にリュシアン王子をもう一度見て、猛烈に不機嫌になった。お嬢様だけが、昨日のことをまだ根に持っているらしい。リュシアン王子は平然と、何事もなかったかのような顔をしている。
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ジャンヌ様はリュシアン王子の横をすり抜けてフェリックス様に近づく。表情は固くこわばり、動作がぎこちない。
それに対してフェリックス様もリュシアン王子も全く表情を変えず、微動だにしない。
「あなた様のお帰りをお待ちしていました」
お嬢様は顔を上げて親が決めた婚約者に問いかけた。
「私を妻に望むとおっしゃった、今でもそうしてくださいますか」
この時フェリックス様は成り行きで私の腰に手をまわしたままだった。その手を置いたままでジャンヌ様をじっと見た。ジャンヌ様もまた彼の目を見て睨み返した。
リュシアン王子はまだ動かない。私はフェリックス様から離れてシャーズの隣に並ぶ。イアシントが私の肩に飛び移り、私は足元にいるレグリスをあやうく蹴飛ばしそうになる。
フェリックス様は少し考えてから言った。
「……答える代わりに、あなたにキスをしても?」
この返答にお嬢様はひるんだ。
「ええ、もちろんです……」
お嬢様は言葉では承諾しながらも、完全に目をそらして顔は横を向いている。歯を食いしばったその表情はとても悔しそうだ。
フェリックス様は一体どうするつもりなのか。
妙に緊張して目が離せなくなっているのは私だけで、リュシアン王子はと言えば、全く慌てた様子もなく事態を見守っている。
「ジャンヌ」
フェリックス様は穏やかに呼びかけて彼女の頬に触れ、顔を近づけた。お嬢様は思わず顔をそむける。その両手は固く拳を握ってぶるぶると震えていて……要は、震えるほど嫌だということだ。
そのままフェリックス様は素早くお嬢様にキスをした。ただし彼女の両の頬に、まるで親しい友人か兄妹が挨拶をする時のように。
「どういうこと?」
すぐにお嬢様は目線を上げて、不信の表情でフェリックス様を凝視する。フェリックス様は視線を受け止めて悠然と微笑し、今度はお嬢様の右手をとってゆっくりと唇を寄せた。
「あなたが話したい相手は……私ではありませんね?」
そう言われてお嬢様は、驚きのあまり動けない。リュシアン王子は動き出す。
それは優雅で甘美な瞬間だった。
フェリックス様はお嬢様の手をとったまま背中から腕を回すと、ごく自然の動作でお嬢様を前に押し出す。押されてお嬢様が二歩三歩と歩いた先にはリュシアン王子がいる。
呆然としたままお嬢様はフェリックス様の手を離し、代わりに差し出されたリュシアン王子の手をとる。
今度は王子が、お嬢様の右の手首に、次に手の甲に、ゆっくりと唇と押し当てる。
「ジャンヌ……」
王子が名前を呼び、お嬢様の腰に手を回して身体を引き寄せると、二人は近い距離から見つめ合った。
しばらくそうして見つめ合っていた後、お嬢様は意を決したように口を開いた。
「あなたからいただいた銀の鏡のことですが」
「それが何か?」
「『あんな物』だなんて、言わないでくださいますか。私にとっては、とても大切な物なのです。そういう言われ方をすると、悲しいです」
お嬢様は顔をリュシアン王子の胸に押し当てた。王子はお嬢様の頭を抱きしめる。
「分かった。言い方が悪かった、すまない。それと……大切にしてくれて、ありがとう」
お嬢様は王子の腕の中で顔を上げた。
リュシアン王子の目は、心底愛おしそうにお嬢様を見つめる。お嬢様は少し、はにかんだような様子になった。それでも王子の両肩に手を置き直すと、まっすぐに彼を見つめて言った。
「リュシアン、愛しています。私はあなたと結婚したい」
「知ってる。ずっと前から」
間をおかずにリュシアン王子が答えたのでお嬢様は少し拍子抜けしたようだ。
リュシアン王子は笑顔で繰り返し言った。
「そんなことはずっと前から知ってる。でも、この口から、」
王子はお嬢様の唇に指をあてた。
「聞いたのは初めてだ」
「……そうだったかしら」
二人はお互いの背中と腰に手を回してしっかりと抱き合った。
「ジャンヌ、愛している」
「私も……愛しているわ」
お二人が抱擁とキスを繰り返している間も、イアシントとレグリスはお互いをけん制し合って全く落ち着かない。ついにフェリックス様が二人の仲裁に入り、レグリスを私の足元から抱き上げた。レグリスはとたんに態度を変えて、フェリックス様の腕の中でごろごろと喉を鳴らす。
私はあきれてレグリスを見ていて、そこでフェリックス様の視線の先に気がついた。
それまでリュシアン王子はずっとお嬢様の顔にキスを繰り返していたのだけど、この時だけはお嬢様の頭越しにフェリックス様を見た。リュシアン王子とフェリックス様とが視線を交わし、フェリックス様の口元に不敵な笑みが浮かぶ。リュシアン王子がそれに視線で答える。すぐに二人はお互いの視線を外して、何事もなかったかのようになった。
それで私は、二人の男が共謀したのだと知った。
一人の男の手からもう一人の男の手へ、お嬢様は無意識のうちに、二人の間で受け渡されて、そうやって本来の場所に戻られた。
二人の男たちにとってはそれが予定された結末で、そうなるよう仕掛けるのはきっとたやすいことで……だからリュシアン王子もフェリックス様も、お嬢様がどんな行動に出ても落ち着き払っていたのだ。
フェリックス様は初日に私を斥けた後、私のことを『どうするつもりもない』と言った。裏返せば、私のような女中の一人くらい『どうにでもできる』という気持ちがあったからに他ならない。
事実、私は彼にいいようにからかわれていたし、そうと分かっても不快にならなかったのは彼のやり方が巧みだったからなのだろうと思う。
でも、いつからだろう……この頃の彼は計算高い様子は全くなくて、心のこもった様子を見せてくれる。目が合うと安心させるような笑顔を向けてくれる。今だってそうで、私はこの笑顔に騙されている、と思う。
いつのまにか彼を警戒しなくなった。むしろ好ましく思い、味方しようとしている。自分でもどうしようとしているのか……よくわからない。
でも、わからなくても、私にはまだやることがある。
リュシアン王子とフェリックス様はお城に帰ってきたが、一人、戻ってきていない人がいるのだ。彼女の去就を聞かなければ。
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