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第10話 大トカゲと短剣

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 夕刻前には城に戻った。

 お供をしたままフェリックス様の滞在する客間に入ると、室内は何か違和感があった。フェリックス様が一瞬だけ不快そうな顔をしたのを私は見逃さなかった。
「どうかなさいましたか?」
「いえ、別に」
 彼は答えたが、何もない、という表情ではなかった。

 その後はフェリックス様が部屋で入浴をなさると言い出した。
 準備に下男が湯桶と湯を運んで、湯桶の周りには幕を立てた。湯浴びの手助けはシャーズがすると言う。
「これは何ですか?」
 湯と一緒に運ばれてきた小瓶を見てフェリックス様が聞いた。私はそれが分かった。
「香水です。領主様方は香水入りの湯にお入りになりますが、大事なお客様にもそれをお出しするのです」
「ふうん……ジャンヌやリュシアン王子も同じ香水を?」
「ええ」
 私は少しどきどきしながら答えた。ジャンヌ様とリュシアン王子は時々同じお湯をお使いになることがあり、お二人の白い肌を思い出してしまった。

 フェリックス様は小瓶の栓を抜いて鼻を近づけ、また小瓶の栓を閉めた。
「今日はやめておきます」
「お気に召さないようでしたら、それでかまいません」
 なかなか強烈な香りで、私はお城にいてすっかりその匂いに慣れてしまったけれど、人によっては好みがあるかもしれなかった。

 フェリックス様が服を脱ぎ始めたので私は幕の外側に出た。
「他にお手伝いすることはございますか?」
「こちらは結構。それより昨日の鳩とカラスが来た時のために、水を出してやってください」
 鳩とカラス。ジャンヌ様と奥様の使い魔のことだ。今日も来るのだろうか。

 私は床の上に空のたらいを置いた。水を汲んだ手桶を持って戻って来ると、
「ひっ」
 私は思わず大声を出しそうになった。どこから現れたのか、赤黒いまだら模様のトカゲがいた。私の腕の長さくらいありそうな、大きなトカゲだ。
 トカゲは歩いてきて床の上のたらいに近寄ると、そこで止まって私の方に目を向けた。

 もしかして、このトカゲも水を欲しがっている?

 私の考えは当たった。
 たらいに水を入れるとトカゲは中に飛び込んで気持ちよさそうに体をくねらせた。たらいから出て来ると、水で濡れた足跡を残しながらトカゲはぺたぺたと歩き、湯桶の周りに立てた幕の間に入って行った。

 床と幕の隙間から、敷布の上にフェリックス様の身の周り品が置かれているのが見えた。今まで身に着けていて、入浴のために外した物だ。
 衣類の一式、ベルト、護身用の小剣、財布と物入れ、お守り、そして、布に厳重にくるまれて紐で結ばれている小さな細長い包み。何だろう。

 少し考えて、もしかするとその包みは、『真実の誓い』の短剣かもしれない、と私は思いついた。
 誓いの成就か、あるいは裏切者に死を約束する魔法の短剣。
 旦那様方がフェリックス様に対して慎重に接しているのも、裏切り者と呼ばわれ、短剣にかけられた魔法が発動することを恐れているからに違いなかった。

 この時私は、部屋に帰って来た時に感じた違和感の理由が分かった気がした。フェリックス様の留守中に、室内に探りが入ったのだ。彼の持ち物、特にこの短剣を探してのことだ。
 誰が探索を指示したのだろう? もし旦那様だとしたら、なかなか卑怯なやり方ではなかろうか。

 さっきのトカゲが敷布の上のフェリックス様の持ち物に這って近づき、その中から短剣の包みを口でくわえた。幕の間から出て来ると、包みを持ったまま開いている窓の方に向かおうとする。
 私は目の前で起きていることが理解できずに混乱した。
「ちょ、ちょっと、待って、待ってよ」
 思わず声が出て、トカゲに向かって言った。すると、何と、トカゲは包みをくわえたまま私の方に戻って来た。

 トカゲが私の言うことを聞いてくれている?
 もう、訳が分からない。
 でも、試してみるだけの価値はある。
「そうそう、いい子ね、それを返してちょうだい」
 私が言って手を差し出すと、トカゲは口を開けて、私の手の上で短剣の包みを放した。私は両手で包みを握りしめた。固く、ずっしりとした感じが、短剣に違いないと思わせた。
「ありがとう」
 そこでトカゲが跳ねるように走って壁をよじ登り、窓の向こうに消えた。

 突然の素早い動きに、一体どうしたのだろうかと思っていると、
「トカゲはあなたの言うことを聞きましたね」
 簡単に衣服を一枚を羽織っただけのフェリックス様が立っていた。トカゲはフェリックス様を見て逃げ出したのだ。

「で、あなたはそれをどうするつもりですか」
 彼も私も、私の手の中にある包みを見た。
「もちろん、お返し……」
 お返しします、と私が言いかけたところで、フェリックス様が私を背後から抱きしめるようにして両手を押さえた。背中に広くて温かい胸を感じた。
「中身を確かめたいでしょう」
 フェリックス様が言って、結んでいる紐をほどいて包みを解くと、果たしてあの『真実の誓い』の短剣が現れた。私は短剣の柄と鞘を握り、私の手の上にフェリックス様の手も重なって短剣を持った。
「どうぞ」
 彼に手を押さえられたまま、私の意志ではなくて私の手が短剣を鞘から引き抜いた。

 その瞬間私は息を呑んだ。刀身は、片側は完全にさびていて、もう片側も剣先の半分までがさびついた状態だった。
 二日前、フェリックス様が城に到着した時には片側だけがさびついていて、もう片側はさびがなかったというのに。
 さび付きが進行している? 
 短剣がさびているのは、誓いの成就が危ぶまれる状態だと言っていた。この二日間で、状況が変わったのだろうか。だとしたら、何が変わったのだろう?

 フェリックス様は城に留めおかれていて何か行動を起こしたとは思えない。
 すると、ヴァロン候のご一家の方に変化があったということだろうか。
 ジャンヌ様は、言い方は悪いが南に逃げて、そこで恋人のリュシアン王子と落ち合っている。旦那様と奥様は事態を打開するためか忙しく動き回っている。でも、ご一家がそれぞれ何をしているのかは私には見えない。

「見ましたね」
 フェリックス様が耳元で囁いた。短剣は鞘に戻され、元通りに布でくるまれた。
「ええ……」
「それで、短剣の両側がさびている状態だと、報告しますか?」
「いえ……言わない方がいいような気がします」
「僕も同じ意見です」
 彼は私から短剣を取り上げ、私を放した。
 私はほっとした。彼と同じ意見でよかったと思った。
 フェリックス様は私が見ている前で腰にベルトを締め、例の短剣や、今まで外していた携行品を吊るした。それから上に衣を重ねて来た。

 部屋の外からシャーズが戻って来た。湯の後始末をするのに下男衆を呼んだと言う。それから、ふと手にしていた何かを乱暴にフェリックス様の前に突き出した。見れば、頬袋を膨らませたリスが、尻尾をつかまれて宙にぶら下がっていた。
「あ……」
 私は思わず声をあげた。それはモリスの使い魔をしているリスだった。
「このリスとも、知り合いですか?」
 フェリックス様はリスの耳の後ろをつまんで持ち、正面から私に見せた。リスはばたばたと後ろ足を動かした。
「知り合いというか……あの、そのリスにあまり手荒なことはしないでやっていただけませんか」
 モリスには何となく恩義を感じている。私だけでなく多くの使用人たちがそうだ。モリスのリスならば、あまりいじめないでやってほしいと私は思った。
「いいでしょう……」
 フェリックス様は言って、まじまじとつまみ上げたリスを見つめた。フェリックス様がもう片方の手を差し出すと、リスはその上にクルミの殻を吐き出した。殻の中には伝文が入っているはずなのだ。モリスに届けられるはずの文書か、あるいはモリスが誰かに送ったものの、どちらかが。

 ばさばさと羽ばたきの音がして、窓から鳥が入って来た。室内を飛んで、迷わず私の肩に止まった。ジャンヌ様の鳩だった。
『レア、聞いてちょうだいよ』
 鳩はジャンヌ様の口調でさえずった。
「しっ。話すのはちょっと待って」
 私は思わず制止した。部屋の外があわただしくなった所だった。片付けのために人がやって来たのだ。

 様子を見ていたフェリックス様が言った。
「幕を、下ろしてもらえますか。人目のない所で、あなたと、この使い魔たちとで話がしたい」
 フェリックス様はベッド周りの幕を示した。

 寒さを防ぐためと、私生活を守ることとを目的としてベッドの周囲は天井から幕を吊っている。日中は天幕を上げているが、就寝時にはその幕を下ろして室内でもベッドを隠すのが常だった。
 フェリックス様の両手はリスとクルミとでふさがっている。私は肩に鳩を乗せたまま、指示された通りに幕を下ろした。

 足早にフェリックス様がやって来て、私の手を引いて一緒に幕の内側に入った。
天幕の合わせを閉めるときに、
「シャーズは残れ」
と一言、フェリックス様が幕の外側に向かって声をかけた。シャーズの了承したといううなずきが見えて、幕が閉められた。

 この人と一緒にいること自体は、差し迫った身の危険は感じないのでいいとして。
 でも、部屋にさっきまでいた女中の姿が見えなくなって、フェリックス様もいなくて、ベッド周りの幕が下ろされていたら、やって来た人々は何と思うことだろう。  
 私の考えが顔に出たのか、フェリックス様はすまして言った。
「今出て行くとかえって話がおかしくなりますよ。まあ、座ってください」
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