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第十六章 三年目の始まり
リィカの秘密
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リィカは、泣いていた。
アレクは強くて、いつも自分を守ってくれていた。
ただほんのちょっと独占欲が強くて、戸惑うこともあったけれど、真っ直ぐ向けられた気持ちは嬉しかった。
知っていたはずだ。分かっていたはずだ。アレクは強いだけじゃないことを。何か心に抱え込んでいるものがあることを。でも……。
「俺には、リィカだけなんだ。リィカだけは、他の誰のものにもならない。リィカだけは、俺とずっと一緒にいてくれる。俺にはリィカしか、いないんだ」
そんなことないと思った。
アレクの側には、たくさんの人がいる。アレクを大切に思ってくれている人が、たくさんいる。自分しかいないなんて、そんなことはあり得ないのに。アレクの辛い顔を見たら、否定はできなかった。
「なぁリィカ。ここに俺の子供が宿ったら……俺と一緒にいてくれるか?」
辛い顔で、泣きそうな顔で、こんなことを言わせてしまった自分が嫌になる。
自然に涙が流れる。抵抗など頭にも浮かばないまま、アレクの口が離れたとき、自然に言葉が出た。
「ごめんなさい、アレク」
辛い思いをさせてしまった。せめてちゃんと、理由だけは伝えたい。
「ごめんなさい。ただ、会いたくないだけなの。……あの人に、会いたくないだけなの。ごめんなさい」
「…………………あのひと?」
アレクの呆然とした声とともに腕の力が緩んだけれど、リィカはそのまま動かなかった。
「話を、したいの。聞いて欲しい。……アイテムボックスから出したいものがあるから、手を離してもらっていい?」
アレクは無言で手を離して、リィカの上からどいた。さらに手を差し出されて、リィカは目をパチクリさせて、仄かに笑う。
差し出された手を取って上半身だけ起こして、ベッドの上でアレクと向かい合った。
そして、アイテムボックスから取り出したのは、母親からもらった小石の入った小袋だ。それをアレクに渡す。
「中、見て」
言われるままに袋から小石を取り出したアレクは、眉をひそめた。
※ ※ ※
(なんだ? 小石? これが何なんだ?)
リィカの意図するところが分からない。けれど、小石を見ていたら、すぐ気付いた。
「貴族の家紋か……? いや、だが、家紋がこんな小石に書かれる事なんて……」
どこからどう見ても、そこいらに落ちている小石だ。こんなものに書かれることなどあり得ない。そもそも、家紋は書かれるものではなく彫られるものだ。
一体これは何なのか。そう疑問を込めてリィカを見たが、リィカはさらに質問をしてきた。
「それ、どこの家のものか、分かる?」
「……いや、見た事はあるような気はするが」
一瞬考えて、素直に答える。もしかしたら兄であればすぐ分かったかもしれないが、アレクはそこまで覚えていない。
アレクの答えに、リィカは少しだけ笑った。
「モントルビア王国の、ベネット公爵家。そこの家紋とソックリだと思わない?」
「……………!」
アレクは、その言葉にハッとして見返す。
魔王討伐の旅の途中、モントルビア王国の王都モルタナに行ったときのこと。ベネット公爵家の屋敷に、これと同じ紋様の描かれた家紋が確かにあった。
そう、そして馬車にも。
アレクはあの時の事を思い出す。
リィカは、ベネット公爵家の馬車を見て顔面蒼白になっていた。あの視線の先に、家紋があったのではないだろうか。
さらに思い出したのは、リィカがベネット公爵にしていた二つの質問だ。名前は何なのか、十七年前にアルカトル王国へ来ていなかったか。
なぜそんなことを聞いたのか、それをリィカは黙して語ろうとはしなかった。
「……リィカ?」
色々思い出して疑問が深まるばかりのアレクの視線に、リィカはただ静かに笑って語った。
「わたしね、父親が誰なのか知らないの。……知らなかった、って言うべきかな。今は、多分この人だっていう人がいるから」
「……………!」
アレクは大きく目を見開いた。母親は見た事があるし、リィカも母親の話はしていた。しかし、確かに父親の話を聞いたことがなかった。
驚くアレクを余所に、リィカは語る。
「お母さんはね、クレールム村近くの大きな街に住んでいたんだって。家族全員で食堂を営んでいたみたいなんだけど」
その日、母親は夜に街に出た。名前すら伝わってこなかったが、とにかくお目にかかることなどないであろう"高位の貴族"が街に来た。
夜に外に出ては駄目だと分かっていても、どんな人なのだろうと、一目だけでも見てみたいと思ったら、興味を抑えきれなかった。
しかしその結果、夜道で誰とも知らぬ男に襲われて、リィカを身ごもった。
「お母さん、相手の顔はよく見えなかったって。怖くて覚えてないだけかもしれないけど。でもたった一つ見えたのが、その男の人の腕輪にあった、その紋様なんだって」
伸ばした手に、たまたま小石が握られた。そして、ほとんど無意識だったかもしれない、母親の"魔法"が発動した。
「お母さん、ユニーク魔法の持ち主なんだよ」
それは、見たものをそのまま別のものにコピーする魔法だ。その魔法で、その貴族の家紋が、小石に写された。
「すごい魔法じゃないか」
話の腰を折ってしまうと思いつつも、アレクは言った。
実際、驚いたのだ。戦闘向きではないだろうが、文官たちからしたら喉から手が出るほど欲しい魔法ではないだろうか。
学園で使用している教科書も、手書きで書き写されて使用しているものだが、それとて大変な作業だ。
アルカトル王国初代国王であるアベルの日記のように、古くなったものを書き写すのも、その魔法があれば一瞬で済む。
正直な所、もったいないというのがアレクの思う所だ。だが、リィカは苦笑して手を横に振った。
「確かにすごいけど、お母さんの魔力量は普通の平民並みだよ。その小さな小石に写しただけで、魔力が空になっちゃう」
実際に試したこともあるそうだが、たった数文字写すのが魔力の限界だったそうだ。それでは役に立たない。
それでもコツコツ魔力を使って増やしていけば、もしかしたら違ったかもしれない。
しかし、そんな役に立つかどうか分からないものに時間を費やすよりは、家業を手伝えと言われていたらしい。
「そうか……」
旅の途中で話題に出たこともあったが、ユニーク魔法は微妙な場合も多い。何に使えるか分からなかったり、使える魔法でも魔力量が少なくて使えなかったり。
だから、知られているよりももっとユニーク魔法を持つ者は多いのではないか、と言われているが、まさかこんな身近にもいたとは。
そこまで考えて、アレクはハッとして小石を見つめる。
この小石の家紋が、リィカの母親を襲った男が身に付けていたものだとするならば、その男はつまり、リィカの父親だ。
『わたし、リィカと言います。――名前、教えてもらえませんか?』
『では、これだけ教えて下さい。……十七年前、アルカトル王国にいらっしゃいましたか?』
あの時の、リィカの質問の意味は、つまり。
「リィカはあの男が、ベネット公爵が、自分の父親だと……?」
「そうだと思ってる。実際、アルカトル王国にいたらしいし、魔力量も多いなら、わたしの魔力は父親から継いだんじゃないかって」
「……………」
アレクは何も言えなかった。というか、何を言っていいか分からなかった。
リィカの豊富な魔力量について、特に疑問に思ったこともなかった。平民の子であっても、魔力量の多い子が生まれることもある。ただそれだけだろうと思っていた。
まさか、そんな事情があるなど、考えたこともなかったのだ。
不意に、リィカの表情が崩れた。
「わたし、あの人に会いたくないの。あの最低な人が、自分の父親だなんて嫌だ。でも、顔を合わせれば、嫌でもそれを意識しちゃう」
リィカの頭によぎっているのは、モントルビア王国の王都モルタナでの出来事だろう。自分の父親かもしれない相手に、拘束されて牢に入れられ、モントルビアの王太子らに差し出されようとしたのだ。
泣きそうな顔で、うつむいている。
「……アレクと結婚すれば、会う機会だってあるよね。違う国だし、そんなにはないだろうし、時間も短いかもしれない。でも多分ゼロじゃない」
リィカの握られた拳が震えていた。
アレクは、やはり何も言えない。おそらくリィカの予想は間違っていない。相手は、隣国の公爵であり、魔法師団の師団長だ。何かがあれば、招待されてこの国に来ることだってあるだろう。
その逆に、招待されて自分たちが赴くことだってありえる。会う機会が"ゼロ"である可能性など、ほとんどない。そして、国同士の付き合いともなれば、個人の感情をそこに入れるわけにはいかない。
「……ほんのちょっと、我慢すればいいだけ。それだけなのは分かってる。あの人を目の前にしたときだけ、何も考えずにただ作り笑いしてればいいだけ。それだけなのは、分かってるのに……」
「いいよ、リィカ。それだけでも嫌なんだろう? 話は分かった」
手を伸ばし、うつむいたままのリィカを引き寄せる。アレクのお腹に触れたリィカの頭が、震えていた。
「……ごめんなさい、アレク。嬉しいの、すごく。アレクに指輪をもらってプロポーズされて、わたしだけだって言ってもらえて、すごく嬉しいのに。どうしても、あの人の顔が、よぎっちゃうの」
「そうか……」
それだけ答えて、アレクは触れたリィカの頭に手を乗せた。泣くリィカを慰めるかのようにその手を動かす。
「ありがとう、リィカ。話してくれて」
あの時からリィカはずっと、自分の中だけに父親のことをしまい込んでいたのだ。あの男が父親かもしれない、などという話は、本当ならしたくなどなかったのだろうなと思う。
だから、それを打ち明けてくれたリィカに、まずは素直に礼を伝えた。でも、それで終わりにはできない。
「ただ、俺はお前を諦めたくない。……諦められない。だから考えるよ。リィカが一番傷つかない方法を」
「…………うん」
少し躊躇って、リィカからは肯定の返事があった。涙を拭って、顔を上げる。
「ありがとう、アレク。……大丈夫、わたしの気持ちの問題だから。だから、ちょっと時間を下さい。わたしが、気持ちに折り合いをつけられるまで」
「……………分かった。待っているから」
「うん」
リィカの笑顔を見ながら、アレクは思う。あのまま自分の感情を暴走させていたら、この笑顔はもう見られなかっただろうと。
自分だけが悪かったとは思わないが、話をしようと言ってくれたのを無視して暴走したのは、やっぱり悪かったと思う。
そんなことを思いながら、アレクも笑顔を浮かべる。そしてふと、今自分たちがベッドの上にいることを思い出した。自分で連れてきておいて、何を今さら、と内心で笑う。
「へ?」
リィカの肩に手を置いて力を込めれば、簡単に後ろに倒れた。ボフンという音と共にベッドに倒れたリィカは、何が起こったか分かっていない顔だ。
その顔の両脇に手をついて、アレクは笑う。
「待つには待つから、保証をくれ」
「……へ?」
リィカの首元の制服に指を引っかけて、引っ張る。ほんの少し露出した肌に、アレクは唇を寄せた。
「……! ま、まって、あれく……!」
リィカが手足をばたつかせるが、そんなものは何の意味も無い。付いた赤い印に満足し、制服から指を離せばその下に隠れた。
「よし、これでいいだろう」
「よくないもうっ! おふろとかどうするのっ!?」
手で押さえて真っ赤な顔をしているリィカに、アレクは嬉しそうに笑ったのだった。
アレクは強くて、いつも自分を守ってくれていた。
ただほんのちょっと独占欲が強くて、戸惑うこともあったけれど、真っ直ぐ向けられた気持ちは嬉しかった。
知っていたはずだ。分かっていたはずだ。アレクは強いだけじゃないことを。何か心に抱え込んでいるものがあることを。でも……。
「俺には、リィカだけなんだ。リィカだけは、他の誰のものにもならない。リィカだけは、俺とずっと一緒にいてくれる。俺にはリィカしか、いないんだ」
そんなことないと思った。
アレクの側には、たくさんの人がいる。アレクを大切に思ってくれている人が、たくさんいる。自分しかいないなんて、そんなことはあり得ないのに。アレクの辛い顔を見たら、否定はできなかった。
「なぁリィカ。ここに俺の子供が宿ったら……俺と一緒にいてくれるか?」
辛い顔で、泣きそうな顔で、こんなことを言わせてしまった自分が嫌になる。
自然に涙が流れる。抵抗など頭にも浮かばないまま、アレクの口が離れたとき、自然に言葉が出た。
「ごめんなさい、アレク」
辛い思いをさせてしまった。せめてちゃんと、理由だけは伝えたい。
「ごめんなさい。ただ、会いたくないだけなの。……あの人に、会いたくないだけなの。ごめんなさい」
「…………………あのひと?」
アレクの呆然とした声とともに腕の力が緩んだけれど、リィカはそのまま動かなかった。
「話を、したいの。聞いて欲しい。……アイテムボックスから出したいものがあるから、手を離してもらっていい?」
アレクは無言で手を離して、リィカの上からどいた。さらに手を差し出されて、リィカは目をパチクリさせて、仄かに笑う。
差し出された手を取って上半身だけ起こして、ベッドの上でアレクと向かい合った。
そして、アイテムボックスから取り出したのは、母親からもらった小石の入った小袋だ。それをアレクに渡す。
「中、見て」
言われるままに袋から小石を取り出したアレクは、眉をひそめた。
※ ※ ※
(なんだ? 小石? これが何なんだ?)
リィカの意図するところが分からない。けれど、小石を見ていたら、すぐ気付いた。
「貴族の家紋か……? いや、だが、家紋がこんな小石に書かれる事なんて……」
どこからどう見ても、そこいらに落ちている小石だ。こんなものに書かれることなどあり得ない。そもそも、家紋は書かれるものではなく彫られるものだ。
一体これは何なのか。そう疑問を込めてリィカを見たが、リィカはさらに質問をしてきた。
「それ、どこの家のものか、分かる?」
「……いや、見た事はあるような気はするが」
一瞬考えて、素直に答える。もしかしたら兄であればすぐ分かったかもしれないが、アレクはそこまで覚えていない。
アレクの答えに、リィカは少しだけ笑った。
「モントルビア王国の、ベネット公爵家。そこの家紋とソックリだと思わない?」
「……………!」
アレクは、その言葉にハッとして見返す。
魔王討伐の旅の途中、モントルビア王国の王都モルタナに行ったときのこと。ベネット公爵家の屋敷に、これと同じ紋様の描かれた家紋が確かにあった。
そう、そして馬車にも。
アレクはあの時の事を思い出す。
リィカは、ベネット公爵家の馬車を見て顔面蒼白になっていた。あの視線の先に、家紋があったのではないだろうか。
さらに思い出したのは、リィカがベネット公爵にしていた二つの質問だ。名前は何なのか、十七年前にアルカトル王国へ来ていなかったか。
なぜそんなことを聞いたのか、それをリィカは黙して語ろうとはしなかった。
「……リィカ?」
色々思い出して疑問が深まるばかりのアレクの視線に、リィカはただ静かに笑って語った。
「わたしね、父親が誰なのか知らないの。……知らなかった、って言うべきかな。今は、多分この人だっていう人がいるから」
「……………!」
アレクは大きく目を見開いた。母親は見た事があるし、リィカも母親の話はしていた。しかし、確かに父親の話を聞いたことがなかった。
驚くアレクを余所に、リィカは語る。
「お母さんはね、クレールム村近くの大きな街に住んでいたんだって。家族全員で食堂を営んでいたみたいなんだけど」
その日、母親は夜に街に出た。名前すら伝わってこなかったが、とにかくお目にかかることなどないであろう"高位の貴族"が街に来た。
夜に外に出ては駄目だと分かっていても、どんな人なのだろうと、一目だけでも見てみたいと思ったら、興味を抑えきれなかった。
しかしその結果、夜道で誰とも知らぬ男に襲われて、リィカを身ごもった。
「お母さん、相手の顔はよく見えなかったって。怖くて覚えてないだけかもしれないけど。でもたった一つ見えたのが、その男の人の腕輪にあった、その紋様なんだって」
伸ばした手に、たまたま小石が握られた。そして、ほとんど無意識だったかもしれない、母親の"魔法"が発動した。
「お母さん、ユニーク魔法の持ち主なんだよ」
それは、見たものをそのまま別のものにコピーする魔法だ。その魔法で、その貴族の家紋が、小石に写された。
「すごい魔法じゃないか」
話の腰を折ってしまうと思いつつも、アレクは言った。
実際、驚いたのだ。戦闘向きではないだろうが、文官たちからしたら喉から手が出るほど欲しい魔法ではないだろうか。
学園で使用している教科書も、手書きで書き写されて使用しているものだが、それとて大変な作業だ。
アルカトル王国初代国王であるアベルの日記のように、古くなったものを書き写すのも、その魔法があれば一瞬で済む。
正直な所、もったいないというのがアレクの思う所だ。だが、リィカは苦笑して手を横に振った。
「確かにすごいけど、お母さんの魔力量は普通の平民並みだよ。その小さな小石に写しただけで、魔力が空になっちゃう」
実際に試したこともあるそうだが、たった数文字写すのが魔力の限界だったそうだ。それでは役に立たない。
それでもコツコツ魔力を使って増やしていけば、もしかしたら違ったかもしれない。
しかし、そんな役に立つかどうか分からないものに時間を費やすよりは、家業を手伝えと言われていたらしい。
「そうか……」
旅の途中で話題に出たこともあったが、ユニーク魔法は微妙な場合も多い。何に使えるか分からなかったり、使える魔法でも魔力量が少なくて使えなかったり。
だから、知られているよりももっとユニーク魔法を持つ者は多いのではないか、と言われているが、まさかこんな身近にもいたとは。
そこまで考えて、アレクはハッとして小石を見つめる。
この小石の家紋が、リィカの母親を襲った男が身に付けていたものだとするならば、その男はつまり、リィカの父親だ。
『わたし、リィカと言います。――名前、教えてもらえませんか?』
『では、これだけ教えて下さい。……十七年前、アルカトル王国にいらっしゃいましたか?』
あの時の、リィカの質問の意味は、つまり。
「リィカはあの男が、ベネット公爵が、自分の父親だと……?」
「そうだと思ってる。実際、アルカトル王国にいたらしいし、魔力量も多いなら、わたしの魔力は父親から継いだんじゃないかって」
「……………」
アレクは何も言えなかった。というか、何を言っていいか分からなかった。
リィカの豊富な魔力量について、特に疑問に思ったこともなかった。平民の子であっても、魔力量の多い子が生まれることもある。ただそれだけだろうと思っていた。
まさか、そんな事情があるなど、考えたこともなかったのだ。
不意に、リィカの表情が崩れた。
「わたし、あの人に会いたくないの。あの最低な人が、自分の父親だなんて嫌だ。でも、顔を合わせれば、嫌でもそれを意識しちゃう」
リィカの頭によぎっているのは、モントルビア王国の王都モルタナでの出来事だろう。自分の父親かもしれない相手に、拘束されて牢に入れられ、モントルビアの王太子らに差し出されようとしたのだ。
泣きそうな顔で、うつむいている。
「……アレクと結婚すれば、会う機会だってあるよね。違う国だし、そんなにはないだろうし、時間も短いかもしれない。でも多分ゼロじゃない」
リィカの握られた拳が震えていた。
アレクは、やはり何も言えない。おそらくリィカの予想は間違っていない。相手は、隣国の公爵であり、魔法師団の師団長だ。何かがあれば、招待されてこの国に来ることだってあるだろう。
その逆に、招待されて自分たちが赴くことだってありえる。会う機会が"ゼロ"である可能性など、ほとんどない。そして、国同士の付き合いともなれば、個人の感情をそこに入れるわけにはいかない。
「……ほんのちょっと、我慢すればいいだけ。それだけなのは分かってる。あの人を目の前にしたときだけ、何も考えずにただ作り笑いしてればいいだけ。それだけなのは、分かってるのに……」
「いいよ、リィカ。それだけでも嫌なんだろう? 話は分かった」
手を伸ばし、うつむいたままのリィカを引き寄せる。アレクのお腹に触れたリィカの頭が、震えていた。
「……ごめんなさい、アレク。嬉しいの、すごく。アレクに指輪をもらってプロポーズされて、わたしだけだって言ってもらえて、すごく嬉しいのに。どうしても、あの人の顔が、よぎっちゃうの」
「そうか……」
それだけ答えて、アレクは触れたリィカの頭に手を乗せた。泣くリィカを慰めるかのようにその手を動かす。
「ありがとう、リィカ。話してくれて」
あの時からリィカはずっと、自分の中だけに父親のことをしまい込んでいたのだ。あの男が父親かもしれない、などという話は、本当ならしたくなどなかったのだろうなと思う。
だから、それを打ち明けてくれたリィカに、まずは素直に礼を伝えた。でも、それで終わりにはできない。
「ただ、俺はお前を諦めたくない。……諦められない。だから考えるよ。リィカが一番傷つかない方法を」
「…………うん」
少し躊躇って、リィカからは肯定の返事があった。涙を拭って、顔を上げる。
「ありがとう、アレク。……大丈夫、わたしの気持ちの問題だから。だから、ちょっと時間を下さい。わたしが、気持ちに折り合いをつけられるまで」
「……………分かった。待っているから」
「うん」
リィカの笑顔を見ながら、アレクは思う。あのまま自分の感情を暴走させていたら、この笑顔はもう見られなかっただろうと。
自分だけが悪かったとは思わないが、話をしようと言ってくれたのを無視して暴走したのは、やっぱり悪かったと思う。
そんなことを思いながら、アレクも笑顔を浮かべる。そしてふと、今自分たちがベッドの上にいることを思い出した。自分で連れてきておいて、何を今さら、と内心で笑う。
「へ?」
リィカの肩に手を置いて力を込めれば、簡単に後ろに倒れた。ボフンという音と共にベッドに倒れたリィカは、何が起こったか分かっていない顔だ。
その顔の両脇に手をついて、アレクは笑う。
「待つには待つから、保証をくれ」
「……へ?」
リィカの首元の制服に指を引っかけて、引っ張る。ほんの少し露出した肌に、アレクは唇を寄せた。
「……! ま、まって、あれく……!」
リィカが手足をばたつかせるが、そんなものは何の意味も無い。付いた赤い印に満足し、制服から指を離せばその下に隠れた。
「よし、これでいいだろう」
「よくないもうっ! おふろとかどうするのっ!?」
手で押さえて真っ赤な顔をしているリィカに、アレクは嬉しそうに笑ったのだった。
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