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浅い眠りを彷徨う内に夜明けとなり、薄暗い自室に射す朝日ですら瞼に痛かったが、亮芳は煎餅布団を上げて二階へ上がった。朝帰りした客の食膳などを下げ、布団が崩れていたら直し、女郎の部屋を整えるのが主な仕事だ。
各部屋では、客から次回の登楼の約束を取り付ける為の手練手管が繰り広げられている。嘆いてみたり、拗ねてみたり、却って冷たくしてみたり。客の入りはそのまま実入りに繋がるので、どの女郎も内心必死だ。若い衆はそれを邪魔せぬよう、黒子となって動き回るだけである。
廊下の角を曲がると、妓楼で一、二を争う大きな部屋の障子が見えた。座敷と三間続きの、津村花魁の部屋である。障子はぴたりと閉められ、中から話し声も聞こえない。何時もなら次の間から覗いて様子を見るが、今朝の亮芳はそれをせず、足早に部屋の前を通り過ぎた。それは先輩の忠告が効いたというよりも、花魁と顔を合わせるのが気まずかったからだ。もし、傘を投げて、勝手に触れてしまったことを不快に思っていたら。そう考えると、足を止める気にはなれなかった。
「亮芳さん」
片付けが一段落着き階段を下りようとする後ろ姿を、呼び止める声があった。振り向くと、津村の小間使いの禿が立っていた。亮芳は身を屈めて、どうした、と尋ねる。
「傘のことで、花魁がお呼びでありんす」
口に手を添えながら、禿は小さな声で囁いた。それを聞いた亮芳は、心の臓を鷲掴みにされたような気分になった。やはり花魁は怒っているのだろうか。言付けの用を済ませると、禿は階段を下りて行ってしまった。一人で来いということか。亮芳は暫くその場に立ち尽くしていたが、踵を返して重い足取りで二階の廊下を戻る。そして先程通り過ぎた三間続きの障子の前で、爪先を止めた。
「花魁」
腹を決めて膝を突き、障子の向こうに呼び掛ける。
「お入りなんし」
中から静かな声が聞こえた。ゆっくり障子を開けると、焚き染めた愛用の香の匂いが鼻を擽った。三つ重ねた豪華な刺繍の布団の上で、寛いで横たわる花魁が見える。着物の裾からは、細い脚の白い脹脛が覗いている。煙管の煙をふうっと吐き出し、眩しい朝日を浴びる寝間着姿は、触れ難い神々しさと気怠い色気が混じり合っていた。ひとつ息を呑んでから、亮芳は口を開く。
「花魁、昨日のことは……」
「もっと近う」
亮芳の神妙な声を遮って、津村は煙管で手招きする。その貌が昨夜の道中の時と変わらぬものに見えることに、却って怯んだ。何を考えているのか、全く読めない。花魁のことを誰も知らぬなどというのは、自分の浅はかな思い込みだったのだろうか。
重い足取りで枕元に膝を突くと、亮芳は着物の襟をぐいと引っ張られた。驚いて顔を上げた瞬間、津村の柔らかな唇が口を塞ぐ。朝日に眩むように、目の前の景色が弾け飛んだ。
「花魁っ……」
波のように押し寄せる獣の欲の中に、何故、という言葉が呑み込まれそうになる。漂う香の匂いも柔らかく生温い感触も、夢かうつつか最早分からない。熱に浮かされる頭で、亮芳は縋るように呼ぶ。けれど向こうは応えることはせず、眉根に皺を寄せ口を真一文字に結ぶ。
「……津村」
恐る恐るそう呼ぶと、上気した貌が嬉しげに微笑むのが見えた。
各部屋では、客から次回の登楼の約束を取り付ける為の手練手管が繰り広げられている。嘆いてみたり、拗ねてみたり、却って冷たくしてみたり。客の入りはそのまま実入りに繋がるので、どの女郎も内心必死だ。若い衆はそれを邪魔せぬよう、黒子となって動き回るだけである。
廊下の角を曲がると、妓楼で一、二を争う大きな部屋の障子が見えた。座敷と三間続きの、津村花魁の部屋である。障子はぴたりと閉められ、中から話し声も聞こえない。何時もなら次の間から覗いて様子を見るが、今朝の亮芳はそれをせず、足早に部屋の前を通り過ぎた。それは先輩の忠告が効いたというよりも、花魁と顔を合わせるのが気まずかったからだ。もし、傘を投げて、勝手に触れてしまったことを不快に思っていたら。そう考えると、足を止める気にはなれなかった。
「亮芳さん」
片付けが一段落着き階段を下りようとする後ろ姿を、呼び止める声があった。振り向くと、津村の小間使いの禿が立っていた。亮芳は身を屈めて、どうした、と尋ねる。
「傘のことで、花魁がお呼びでありんす」
口に手を添えながら、禿は小さな声で囁いた。それを聞いた亮芳は、心の臓を鷲掴みにされたような気分になった。やはり花魁は怒っているのだろうか。言付けの用を済ませると、禿は階段を下りて行ってしまった。一人で来いということか。亮芳は暫くその場に立ち尽くしていたが、踵を返して重い足取りで二階の廊下を戻る。そして先程通り過ぎた三間続きの障子の前で、爪先を止めた。
「花魁」
腹を決めて膝を突き、障子の向こうに呼び掛ける。
「お入りなんし」
中から静かな声が聞こえた。ゆっくり障子を開けると、焚き染めた愛用の香の匂いが鼻を擽った。三つ重ねた豪華な刺繍の布団の上で、寛いで横たわる花魁が見える。着物の裾からは、細い脚の白い脹脛が覗いている。煙管の煙をふうっと吐き出し、眩しい朝日を浴びる寝間着姿は、触れ難い神々しさと気怠い色気が混じり合っていた。ひとつ息を呑んでから、亮芳は口を開く。
「花魁、昨日のことは……」
「もっと近う」
亮芳の神妙な声を遮って、津村は煙管で手招きする。その貌が昨夜の道中の時と変わらぬものに見えることに、却って怯んだ。何を考えているのか、全く読めない。花魁のことを誰も知らぬなどというのは、自分の浅はかな思い込みだったのだろうか。
重い足取りで枕元に膝を突くと、亮芳は着物の襟をぐいと引っ張られた。驚いて顔を上げた瞬間、津村の柔らかな唇が口を塞ぐ。朝日に眩むように、目の前の景色が弾け飛んだ。
「花魁っ……」
波のように押し寄せる獣の欲の中に、何故、という言葉が呑み込まれそうになる。漂う香の匂いも柔らかく生温い感触も、夢かうつつか最早分からない。熱に浮かされる頭で、亮芳は縋るように呼ぶ。けれど向こうは応えることはせず、眉根に皺を寄せ口を真一文字に結ぶ。
「……津村」
恐る恐るそう呼ぶと、上気した貌が嬉しげに微笑むのが見えた。
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