wipe-swipe

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chill-out jazz

【第1話】 chill-out jazz(前)

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それは歌舞伎町の一等地。
雑踏の中に立つゴージャスなビルの最上階。
黒スーツに身を固めた側近が運転する黒の高級車からたったひとり、降りた鷹司はその店の看板を見上げた。
「 “wipe-swipe”  」
まるで英国の高級クラブじみた重厚な看板は、電飾だらけの周りのビルの中でも一際異彩を放っている。
鷹司は、ためらうことなくその店の重い扉を開けた。


「・・・いらっしゃいませ。これは、鷹司様」
そつなく歩み寄り、優雅なしぐさで一礼する支配人の吉川に、鷹司はサングラスの眼を向けた。
「ええ店やんけ」
「おほめに預かり光栄です。さあ、どうぞこちらへ」
鷹司が通されたのは、薄暗く、豪奢で真新しい店の奥にあるVIPルームだった。元々この店は六本木でひっそりと営業していたのだが、当局の取り締まりが厳しいとかで同業店の多いこの歌舞伎町へと移転したのだ。
ビルひとつ、まるまる新築しその最上階に入るこの特殊なキャバクラは、とある筋金入りの老舗ブラック企業が後ろについている。そこで働かされるキャストたちも、それぞれワケありの人間ばかりだった。店長として裏方に回るこの吉川も、その優美な容姿からすれば十分、現役のキャストで通用する。だがそうするつもりは全くないようだった。
ここには男女問わず多くの客が来る。飲み代が飲み代だけに、普通の人間ではまず近寄れない。そしてキャスト達はそのほとんどが腕に覚えのあるギャンブル狂。客が望めばどんなギャンブルの相手もする。無論、賭け金は最低でも百万を下らない。命を懸けることすらも可能だ。


「ひな君、鷹司様がお見えですよ」
「・・・はい、店長」
諦めたひなはおとなしく、差し出された吉川の手を取り、豪奢なパウダールームを後にした。
綺麗にドレスアップしたひなは、まるでお姫様か何かのように恭しくかしずかれて上客たちの待つ静かな戦場へと足を踏み入れる。
客が訪れた場合、通常はボーイである黒服たちがキャストを控室まで呼びに来るのだが、ナンバー3までの成績の良いキャストには店長自らが迎えに出向き、こうして西洋の姫君のように丁重に連れ出される。通常であれば、吉川の後ろには「お付き」と呼ばれる黒服と新人キャストの群れが院長の回診のごとくざわざわと付き従うのだが、さすがに鷹司が関西のあの業界の若き重鎮ともなれば、あまりこの関東・歌舞伎町で目立つのも好ましくはなく、それは鷹司の希望か、たびたび省略される。だから今、ひなの傍には吉川とボーイ一人が控えるのみなのだった。
ここでは、キャストの服装に一定以上の決まりはない。スーツを着ても、ドレスを着ても構わない。今日のひなは、ごく普通のシンプルなスーツに身を固めていた。
「浮かない顔ですね、ひな君」
ひなは黙ったまま、答えない。
「鷹司様はあの通り、背も高くて顔も綺麗で、あんなにお若いのに威厳もある。金払いもいつも綺麗ですし、願ってもない上客だと思いますよ?」
やはり黙ったまま、ひなは答えなかった。
確かに鷹司はいわゆるイケメンだとは思う。背も高くて、この前嫌々聞いてやったら188センチだとか言っていた。黒社会を根城にする男の為か目が切れ長で鋭く、そんな物騒な雰囲気をさらに助長するかのようにいつも細身のサングラスをかけている。自分の為に毎度使ってくれる飲み代も百万を超えることも珍しくはない。
この「wipe-swipe」にふさわしい極上の客には違いない。
だが、それでも腹が立つ。


あんな男。


恭しく吉川に手を取られて、ソファでくつろぐ鷹司の前に現れたひなは、開口一番こう言った。
「来ないでくださいってあれほど言ってるのに、毎度毎度よく顔を出す気になりますね」
「金さえあれば飛ぶ鳥も落ちる、言うやろ。お前がこういうとこにお勤めでホンマ助かるわ。下手に殴る蹴るやら脅迫やらせんで済むさかい」
「・・・どういう意味ですか」
「お前が好きや・・・ちゅうこっちゃ」
鷹司は今取り出した煙草のようにさりげなく言い放ち、そのままひなに火を要求した。
もちろんつけてやる気など毛ほどもないひなは、取り出したライターを点火するふりだけして、わざとフリントホイールを空擦りする。
鷹司は笑ってライターを捧げ持つひなの手を己の片手で握り、そのままフリントホイールを擦って火をつけ、ひなの手を無理やり引っ張って銜え煙草に火をつけた。
そしてそのまま、気のない素振りでそっけなく突き放す。
今しがた好きだと言ったその口で。


この男のこういうところが嫌いだ。顔をみるたび、嫌いにしかならない。
だから来るなと言っているのに、何故か週末ごとに、遠い関西からこの歌舞伎町にまでふらりと来る。
そしてそれがそのまま静かな戦争になる。
あまりにも腹が立つのでいつもいつもひなは高い酒をねだり倒し・・・というよりは高飛車に脅すように次々と味をわかりもしない希少銘酒を大量に注文させ、自分の売り上げを増やして溜飲を下げていた。
鷹司はというと、苦笑して好きにせえ、と言ったきり、あれも飲みたいこれも飲みたいと次々オーダーを入れるひなを冷めた目で見ている。
ぞっとするような冷たい目だ。
この男はひなの漬かったことのない、冷たくて暗い海の深さを知っている。
いつもそう思わされる。


「最近はどうや」
「何がです?」
「ギャンブル。今はあんまりやってへんのやろ」
「ええ」
鷹司のほうはまるで見ないまま、水割りを作りながらひなは微笑した。
「こっちにはまともに、お前の相手になるような奴がてんでおらへんからな。ああ、黒崎・・・。あいつがおったか?」
「黒崎さんは、雲の上のひとですから」
「雲の上て・・・」
鷹司は、あきれたようにサングラス越しにひなを見た。
「ひな、お前があれをえろう気に入っとるっちゅうのだけはようわかったわ。けど、な。
あいつの頭んなかに、お前は居れへん思うで」
ひなは思い切り、手の中のシャンパングラスをテーブルへと叩き置いた。


これだから。
これだからこの人を私は嫌いなんだ。
私は。


ほっといてくれればいい。
片思いなことくらい、知ってる。

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