恋愛蜜度のはかり方

るうあ

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幸せな日常 ◇◇美鈴視点

紫陽花と雫 1

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 帰り道、ふと紫陽花の花が目にとまった。
 手毬のような形の、青の花々。
 本屋さんの入り口の両脇、植えられている紫陽花はこんもりとした小山のように立派で、わたしの胸元くらいまでの高さがある。花もたくさんついてて、花色は鮮やかな青。なんだか撫でたくなる可愛さだ。
 梅雨なんだなぁと、紫陽花を見て改めて思う。
 じめじめした梅雨はちょっと憂鬱になってしまうけど、紫陽花の花を見ると心がなごむ。この時期も悪くないなんて、自然と口元がほころんでくる。花の癒し効果ってすごい。
 雨の名残の雫が、紫陽花の花びら(花びらに見えるところは萼なんだそうだけど)や葉っぱにかかってて、その様子もとても綺麗だ。カタツムリでもいてくれたら完璧なんだけど、残念ながらその姿は見つけられなかった。
 梅雨入り宣言をニュースで聞いたけれど、梅雨って、いつの間にか始まってて、暑さが厳しくなったなと思ったら終わってる、というイメージだ。とはいえこの時期は、やっぱり出かけに降水確率を確認するようにしているし、朝に降っていなくても折り畳み傘は鞄に入れておくようにしてる。
 今日は、朝から雨ではなかったけれど、降水確率はわりと高めで、昼過ぎに小雨があった。
 定時退社し、帰途についている今、雨は降っていないけれど、空は朝から曇りがちで肌にまとわりついてくるような湿気は残ってる。折り畳み傘はいまのところ使わずに済んでるけど、もしかしたら降りだすかもしれない。コンクリートの湿ったにおいがたちのぼってきて、雨の訪れを感じさせる。
 明日の土曜日のお天気も「曇り時々晴れ」だった。
 明日は維月さんとお出かけだから、雨は……ちょっとイヤだなぁ。
 洋服も悩むし、髪もまとまらないし、傘を持っていくとなると荷物も増える。
 なにより、維月さんに車をだしてもらってのお出かけだ。出かけ先は屋内だから雨でも支障はないけど、雨天の運転は大変だと思う。降るにしても、今日みたいに短時間だけとか、小雨程度だといいのだけど。
 そんなことを考えつつ、とりあえず本屋に寄って、ファッション誌とレジャー誌を購入してから、最寄りの駅へと向かった。

「おーい、木崎さん!」
 本屋を出てすぐの交差点を渡りかけたところで、後ろから声をかけられた。
 聞き馴染みのない、けれど聞き憶えのある男性の声。足を止めて、振り返った。
「あ、……田辺さん」
 わたしを呼びとめて、急ぎ足でこちらに向かってきたのは、同じ会社で働いてる田辺さんだった。スーツの上着は脱いで、ビジネスバッグと一緒に小脇に挟んでいる。いかにもサラリーマンといった風体だけど、短く切りそろえられた髪とちょっと浅黒い肌が、少年みたいな印象を持たせる人だ。
 田辺さんはネクタイをゆるめながら、「蒸し暑いねー」と笑いかけてくる。
「そうですね」と、わたしも当たり障りのない返事をする。ほんのちょっとだけ田辺さんに対して警戒しちゃっている。でも、田辺さんが苦手というわけではない。警戒してしまうのは、わたしが秘密を抱えているからだ。
 そういえば、田辺さんと一対一で話すのは久しぶりだ。田辺さんはというと、そういう「久しぶり」な感覚なんてまるでないような気軽さで、さりげなくわたしと並んで歩いている。
 田辺さんは営業二課の人だから、仕事上での接点もほとんどない。社内で見かけることはあるけど、わたしから声をかけるほどの間柄ではない。にも拘わらず、なぜか田辺さんはわたしに気安く声をかけてくる。たぶん、わたしが桃井さんや浅田さんと親しいからなんだと思う。それに田辺さんは「高倉主任」とも親しい。
 たまに、社内ですれ違って軽い挨拶を交わしたり、食堂で同席したりすることはあるけれど、そんな時は大抵浅田さんや桃井さんが一緒。桃井さんとはけっこう仲が良いみたいで、わたしに話しかけてくるのは「ついで」みたいなものだと思う。だから、二人きりで面と向かって話すのって、もしかしたら去年の忘年会以来かもしれない。
 社交的な田辺さんは、きっと誰にでもこんな風に親しく声をかけて、交友関係を広めていってるんだろう。「営業マン」に適った性格だなって思う。
「木崎さん、これから帰るとこ? 外で会うの珍しいよね」
「田辺さんも、帰るところですか?」
「うん。……と言いたいところだけど、これからもう一件取引先行かなきゃなんだよねー。はぁぁぁっ」
「それは……お疲れ様です」
 わたしがそう言うと、田辺さんはくしゃっと相好を崩した。人懐こい田辺さんの笑顔にわたしもつられて笑みを返す。
 少し馴れ馴れしいなぁと思わなくもないけれど、不快さは感じない。何度か話しかけられて、さすがにわたしの慣れてきたのかもしれない。
 信号が変わらないうちにわたし達は横断歩道を渡りきった。
「木崎さん、電車通勤だっけ? 駅までは、こっちのルート?」
 田辺さんは前を指さして尋ねてくる。わたしが「そうです」と応えると、田辺さんはふと、足を止めた。
「あのさ、木崎さん」
 田辺さんはにこりと笑う。なんとなく作り笑いめいた笑顔のような気がしたけど、身構えてしまうような空気はない。わたしも足を止めた。
「木崎さん、知ってるかな。こっちの脇道行くと、紫陽花の穴場があるんだよ」
 田辺さんは、半ば唐突にそう言った。わたしは目をぱちくりとさせ、小首を傾げた。
「紫陽花の、ですか?」
「うん。観光名所みたいなすげーのじゃないけど、一見の価値はあるかなっていう」
 満面の笑みで田辺さんは応える。
 なんでも、神社に隣接した小さな公園があって、そこにけっこうな数の紫陽花が植えられていて、今が見ごろらしい。
「駅に行くにはちょっと回り道になるけど、見ていかない?」
 田辺さんはすでに体を脇道の方に向けていて、そちらへ行く気になっていた。
 唐突な誘いに一瞬躊躇したけれど、紫陽花を見てみたい気持ちもあったし、それに……なんとなく断りにくい雰囲気で、わたしは諾と応じて、田辺さんに促されるまま歩きだした。


 田辺さんについて行き、脇道に入ってほんの二、三分ほど歩いたところに、「紫陽花の穴場」はあった。信号のない四つ辻の一角。そこだけが、緑と青があふれ、まるで別空間のようになっていた。
 わたしは思わず感嘆の声をあげる。
「わぁ、すごい! 綺麗!」
 想像以上の紫陽花の花の群れに、ついついテンションがあがる。
 猫の額ほどの小さな公園の周りを、紫陽花がぐるりと囲んでいる。一株一株が立派で、花も大きい。花の色は青系が多いけれど、薄紫や淡いピンクもあって、色とりどりだ。公園をぐるりと囲んでいる紫陽花は、神社へ続く参道の両脇にも植えられていた。鳥居の前に設置されてる石灯篭などは、紫陽花の花に半ば埋もれてしまってるくらい。
「すごいですね……! こんな綺麗なところが会社の近くにあったなんて」
 田辺さんも嬉しげだ。
「だろだろー? 公園も神社もちっさいし、ショボいっちゃショボいけど、紫陽花の花は、けっこーゴージャスっていうか、見ごたえあるよね?」
「ほんとに!」
 わたしは田辺さんに誘われて公園内に入った。遊具はブランコと滑り台とシーソーだけ。ベンチもあるけれど、雨の名残で濡れているし、水たまりもあるから、遊びに来てる子どもはいない。遊具のペンキの塗り具合を見るに、まだ新しいみたい。そういえば隣接してる神社も新築みたいな綺麗さだ。神社は改装したばかりだそうで、その際に公園もメンテナンスをしたらしいと、田辺さんが教えてくれた。
 それにしても、すごく綺麗。
 右を見ても左を見ても、花盛りの紫陽花。雨上がりだから緑も艶やかだ。
 バッグから携帯電話を取り出し、写真を撮る。
 浅田さんに教えてあげよう。けど、もしかしてもう既に知ってるかも?
 田辺さんに尋ねてみると、「浅田さんは花より団子な人だからなぁ」なんて笑う。たぶん知らないんじゃないかな、と。帰り途もこちらの方角じゃないし、とのこと。
 浅田さんだってきっと気に入るはず。花も団子も、お酒も大好きな人だもの。
 それに、維月さんにも教えてあげたい。
 会社が近くて、「秘密の社内恋愛」してるわたし達だから一緒に観に来ることはできないけれど、せめてこんな素敵な場所があるってこと、知らせてあげたい。写真だけでも、せめて!
「木崎さんに喜んでもらえてよかったよ」
 写真を撮るわたしの後ろで、田辺さんはにこやかにしてる。そんな田辺さんに、お礼を言った。
「素敵なところ教えてくれてありがとうございます」
「いいよ、つきあってもらえて俺もホッとしてるから」
「え?」
 田辺さんは微かな笑みを湛えたまま、わたしを見つめて言った。
「俺、木崎さんと話したかったんだ」
 どきりと、鼓動が跳ねた。
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