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36.まさかの?
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――わたし自身……――
わたし自身を、ちゃんと目を逸らさずに見るようにと、イレクくんは言った。
そういえば昨夜、イスラさんにも似たようなことを言われた気がする。今朝方、アリアさんにも。心配げな様子で、慰め、励ますように。
「……わたし…………」
わたし自身を見つめる? 自分自身をもっとよく見ろ、ということ? それがユエル様のためになる……?
わたしはしんとした廊下で呆けたように佇み、視線を床に落としていた。
思考がぐるぐる回って止まらない。乗り物酔いしたみたいな感覚だった。
イレクくんが何を言わんとしているのか……イスラさんやアリアさんの言うことも、きちんと理解できていない。何か……分かるような気がするのに、輪郭がぼやけてはっきりとした形が見えてこない……。
わたしに理解力がなさすぎるせいなんだろう。
どうしたらいいのか分からない。
だってわたしは……――
「…………」
堂々巡りになりそうな思考を、慌てて断ち切った。
気分の下降を食い止めるため眉間に力を入れて頬を両手で叩き、それから勢いづけて踵を返した。
わたしはわたしにできることをしようって決めたばかりなのに、わたしの決心はどうしてこう脆くて揺らぎやすいんだろう。
だからイスラさんやアリアさん、イレクくんに心配をかけてしまうんだ。
「大丈夫。うん、大丈夫……っ」
わたしは呪文のようにそれを繰り返した。
イスラさんもアリアさんもイレクくんも、大丈夫って言ってくれた。
だから、しゃんとしなくちゃ。
きっと、今までのように振舞える。そうすべきなんだもの。そうしなくちゃユエル様の負担になってしまう。それは、嫌だもの。どんな形であれ、今までのようにユエル様の傍にいたいから……――
ユエル様の部屋の前を通過して、わたしは足を止めた。止めたのは、イスラさんがいるであろう、客間の前。
「…………」
ノックをしようと右手を上げた。けれどその右手を胸元に戻して、左手でぎゅっと掴んだ。目を閉じ、俯いた。
イスラさんに会ったら言うことを、頭の中で整理した
まず、きちんとお礼を言おう。取り乱すばかりで、昨夜はちゃんとお礼を言ってなかった気がする。
それからユエル様には何も言わないでくださいと、お願いしよう。
隠し事をするのは嫌だけど、ユエル様に話すべきではないと思うから。生殖者の“期限”について、わたしは何も知らないままでいる方がいい。
わたしが知ってしまったと分かれば、ユエル様は困った顔をするだろう。
だから、昨夜イスラさんが生殖者の期限について教えてくれたことは内緒にしてほしいと、お願いしよう。
わたしは顔を上げると同時に右腕も伸ばした。そしてノックをしようとした、その時……――
「ミーズカちゃんっ!」
後方から、ガチャリとドアが開く音と陽気な声がした。
「……きゃっ、わっ……」
驚きに奇声がもれ、飛び退くようにして振り返った時、ドアノブに右手の甲を思いきりぶつけてしまった。
「ごめん、ミズカちゃん、驚かせちゃった?」
「……え、イ、イスラさ、ん?」
イスラさんが開けたドアはユエル様の部屋のドアだ。ついでに言うのなら、イスラさんは夜着姿だ。薄い灰色のストライプ模様のパジャマ姿。明るい茶褐色の髪は少し乱れていて、ところどころに寝癖がついててはねていた。けれどいかにも寝起きといった顔ではなく、爽快な夏空のような笑顔を浮かべている。
「…………」
どうしてユエル様の部屋にイスラさんが居て、……しかもパジャマ姿なの?
部屋は間違えてない。角部屋がイスラさんに割り振った部屋だ。それにユエル様が使用されている部屋を間違えるはずもない。
「でも」とか、「まさか」とか、「もしかして」とか、いろんな単語と妄想が、脳裏を過ぎっては、目の前でチカチカしている。
――なんとも形容しがたい気分で、驚きよりも戸惑いの方が大きくなっていった。それと、「まさか」の妄想が。――そんなはずないと分かってるんだけど、でもっ!
わたしはあ然ぼう然目を丸くしてその場に立ち竦んでいた。頬が赤くなってるのが自分でもわかる。
「う~ん、ミズカちゃんは分かりやすいなぁ」
イスラさんは愉しげに笑って、言った。
「残念ながらって言えばいいかな、この場合? ミズカちゃんの期待に応えられなくて申し訳ないんだけど、俺、そっちの趣味はないから」
「え……と……っ」
脳内でチカチカ瞬く妄想をイスラさんに悟られて、さらに顔が熱くなった。
「たぶんユエルにもね。う~ん……、でも、もしあったとしたら、俺的にはピンチ? 背後には気をつけないとなぁ」
「薄気味の悪いことを言うな、イスラ」
そこへ、不機嫌顔のユエル様が現れた。イスラさんの背後に立ち、半開きだったドアをさらに押し開けた。
イスラさんはいささかわざとらしく「げっ」と声をあげて振り返り、おどけたような驚きぶりを示してみせた。けれど目元も口元も、笑みの形を崩さないままだ。
わたしは佇立したまま、ユエル様とイスラさんとを視線だけを動かして忙しなく見やる。場を取り繕おうにも、適当な言葉がさっぱり思いつかない。
ユエル様は、にやにや笑いをしているイスラさんを射殺さんばかりの鋭さで睨みつけ、威圧的な声を発した。
「くだらないことを言うな、イスラ。さっさと部屋に戻れ」
ユエル様は夜着姿ではなかった。着替えも済ませ、着衣にも長い銀の髪も乱れた様子はなく、整っている。顔色も昨夜のようには悪くない。柳眉をしかめ、緑の双眸に不愉快な色を浮かばせている以外、その卓抜した美貌には一点の曇りもなかった。
改めてユエル様の様子を窺って、内心ホッとしていた。
――あぁ、よかった。ユエル様。もう起き上がれるんだ。立って、歩いて、口もきける。機嫌は悪そうだけど具合は悪そうじゃない。
ユエル様の体調が良さそうだとわかって安堵したのも束の間、
「もう話は済んだ」
その一言に、どきりと鼓動が跳ね、血の気が引いた。
さっきドアノブにぶつけた右手の甲がズキズキと痛みだす。さっきから痛くはあったのだけど、心拍数が上がったことで痛みが強くなったようだった。胸元に両手を押し当て、手の痛みと動悸とを押さえつけた。
「俺は済んでねぇよ。だいたいユエル、おまえね。そういう傲慢な態度、ちょっとは直せよ。一方的すぎるぜ。……ね、酷いと思わない、ミズカちゃん?」
イスラさんはユエル様に不平を言いつつ、わたしの傍に身を寄せてきた。そしてわたしの不安顔を覗きこみ、ユエル様には見えないよう、自分の唇に人差し指を当て、片目をつむって見せた。
「あ、…………」
話してないよってことなんだろう、イスラさんの今の仕草は。
大丈夫と、イスラさんの朗らかな茶の瞳が語っていた。
「いやまぁ酷薄男のユエルなんざどうでもいいや。それよりも、おはよ、ミズカちゃん。あれから少しは眠れた?」
「は、はい。あ、……お早うございます、イスラさん。あの……昨夜はありがとうございました」
わたしは慌てて頭を下げた。
イスラさんは終始にこやかにしている。一方で、ユエル様も不機嫌顔をやわらげようとしない。しかめっ面でイスラさんを睨みつけてる。そしてイスラさんはへこたれない。
対照的な二人だけど、それが二人らしくて、今後こそホッと胸を撫でおろせた。
「ユエル、おまえさぁ、ちょっとはミズカちゃんを見習ったら?」
イスラさんはユエル様を振り返り見て悪態をついた。これもまたイスラさんらしい言動なのだけど、険悪なムードになってしまうのではと、やっぱり少しハラハラしてしまう。
「煩い、イスラ」
「だぁれがぶっ倒れたおまえさんに生気を飲ませてやったんだっけ? 意識のないおまえさんをわざわざベッドにまで運んでやったのは?」
「くどい。何度言えば気が済むんだ、おまえは」
「おまえさんが俺に、素直に感謝してくれるまで」
「恩着せがましい」
「恩知らずよりマシだね」
イスラさんはちょっと子供っぽいくらいの言いようでユエル様を煽って、その反応を楽しんでる。口調に険はなく、本気で呆れても怒ってもいないようだ。
その様子から、イスラさんがどの程度ユエル様に話したか、だいたい察することができた。
昨夜ユエル様が昏倒したこと。そしてイスラさんがベッドまで運んでくれて、生気を飲ませたこと、それだけを話したのだろう。
ユエル様は忌々しげな顔をしている。「それだけ」でも気に食わないといった風情で、眉間に刻まれた皺はなかなか緩まない。けれど、声に刺々しさは感じられなかった。
「――ミズカ」
いい加減イスラさんとのやりとりに辟易したのか面倒になったのか、ユエル様はイスラさんを押しのけてわたしの前に立った。
「ミズカ」
「は、はいっ! あ、……おっ、お早うございますっ、ユエル様!」
不覚にも声がつっかかり、声も上擦ってしまった。
「ミズカ、……さっきは」
ユエル様は深々とため息をつき、気だるそうに前髪をかきあげた。物憂げな緑の瞳が露わになり、その双眸がわたしを見つめている。
「さっきは何を考えたのか、まぁ、分かりやすいミズカのことだから想像に易いが」
ユエル様はいったん言葉を切り、またため息をついた。酢でも飲まされたような顔をしている。
「ミズカ、その気色の悪い妄想は即座に消去しなさい。前にも言ったが、私にその趣味はない」
「え、と……?」
「……だいたい、うっかり妄想するにも、相手がイスラとはいただけない」
ユエル様は吐き捨てるように言い、さらに念を押してきた。
「胸が悪くなる。二度とそのような妄想はしないように。いいね、ミズカ」
「あ、……はいっ」
応えてから、つい笑みがこぼれてしまった。
ユエル様、心底うんざりしきった顔をしてて、それが妙に可笑しかった。
おかげで気持ちがほぐれた。心にかかる靄がすべて払われたわけではないけれど、気分はずっと軽くなった。
だって、不愉快そうに顔をしかめているけれど、わたしの前にいるのはいつものユエル様だ。昨夜の冷たく暗い影は消えている。
ユエル様との対面が……どんな顔をして会ったらいいのか分からなくて、気が重たかったけれど、イスラさんが居てくれたおかげで、少し緊張が解けたみたい。
よかった。
本当に良かった。ユエル様が元気になられて。
元通りになる。きっと今までの通りでいられる。それはわたし次第。わたしさえ立場をわきまえていれば、きっと今までと変わらずにいられるはず。
心の戒めを解ききらず、今までのわたしでいればいい。ユエル様が必要としてくれる限り。
解く、といえば……。
ユエル様に命じられたものの、うっかり妄想してしまったユエル様とイスラさんのまさかのあれこれは、脳内から「即座に消去」できず、ちょっと困ってしまった。
ユエル様とイスラさんなら耽美な雰囲気も似合いそうなんだもの。誤解されてもしようがないって思ってしまうくらい。
ユエル様は本気で嫌そうな顔をしているから、もちろんそれは黙っておいたけど。
わたし自身を、ちゃんと目を逸らさずに見るようにと、イレクくんは言った。
そういえば昨夜、イスラさんにも似たようなことを言われた気がする。今朝方、アリアさんにも。心配げな様子で、慰め、励ますように。
「……わたし…………」
わたし自身を見つめる? 自分自身をもっとよく見ろ、ということ? それがユエル様のためになる……?
わたしはしんとした廊下で呆けたように佇み、視線を床に落としていた。
思考がぐるぐる回って止まらない。乗り物酔いしたみたいな感覚だった。
イレクくんが何を言わんとしているのか……イスラさんやアリアさんの言うことも、きちんと理解できていない。何か……分かるような気がするのに、輪郭がぼやけてはっきりとした形が見えてこない……。
わたしに理解力がなさすぎるせいなんだろう。
どうしたらいいのか分からない。
だってわたしは……――
「…………」
堂々巡りになりそうな思考を、慌てて断ち切った。
気分の下降を食い止めるため眉間に力を入れて頬を両手で叩き、それから勢いづけて踵を返した。
わたしはわたしにできることをしようって決めたばかりなのに、わたしの決心はどうしてこう脆くて揺らぎやすいんだろう。
だからイスラさんやアリアさん、イレクくんに心配をかけてしまうんだ。
「大丈夫。うん、大丈夫……っ」
わたしは呪文のようにそれを繰り返した。
イスラさんもアリアさんもイレクくんも、大丈夫って言ってくれた。
だから、しゃんとしなくちゃ。
きっと、今までのように振舞える。そうすべきなんだもの。そうしなくちゃユエル様の負担になってしまう。それは、嫌だもの。どんな形であれ、今までのようにユエル様の傍にいたいから……――
ユエル様の部屋の前を通過して、わたしは足を止めた。止めたのは、イスラさんがいるであろう、客間の前。
「…………」
ノックをしようと右手を上げた。けれどその右手を胸元に戻して、左手でぎゅっと掴んだ。目を閉じ、俯いた。
イスラさんに会ったら言うことを、頭の中で整理した
まず、きちんとお礼を言おう。取り乱すばかりで、昨夜はちゃんとお礼を言ってなかった気がする。
それからユエル様には何も言わないでくださいと、お願いしよう。
隠し事をするのは嫌だけど、ユエル様に話すべきではないと思うから。生殖者の“期限”について、わたしは何も知らないままでいる方がいい。
わたしが知ってしまったと分かれば、ユエル様は困った顔をするだろう。
だから、昨夜イスラさんが生殖者の期限について教えてくれたことは内緒にしてほしいと、お願いしよう。
わたしは顔を上げると同時に右腕も伸ばした。そしてノックをしようとした、その時……――
「ミーズカちゃんっ!」
後方から、ガチャリとドアが開く音と陽気な声がした。
「……きゃっ、わっ……」
驚きに奇声がもれ、飛び退くようにして振り返った時、ドアノブに右手の甲を思いきりぶつけてしまった。
「ごめん、ミズカちゃん、驚かせちゃった?」
「……え、イ、イスラさ、ん?」
イスラさんが開けたドアはユエル様の部屋のドアだ。ついでに言うのなら、イスラさんは夜着姿だ。薄い灰色のストライプ模様のパジャマ姿。明るい茶褐色の髪は少し乱れていて、ところどころに寝癖がついててはねていた。けれどいかにも寝起きといった顔ではなく、爽快な夏空のような笑顔を浮かべている。
「…………」
どうしてユエル様の部屋にイスラさんが居て、……しかもパジャマ姿なの?
部屋は間違えてない。角部屋がイスラさんに割り振った部屋だ。それにユエル様が使用されている部屋を間違えるはずもない。
「でも」とか、「まさか」とか、「もしかして」とか、いろんな単語と妄想が、脳裏を過ぎっては、目の前でチカチカしている。
――なんとも形容しがたい気分で、驚きよりも戸惑いの方が大きくなっていった。それと、「まさか」の妄想が。――そんなはずないと分かってるんだけど、でもっ!
わたしはあ然ぼう然目を丸くしてその場に立ち竦んでいた。頬が赤くなってるのが自分でもわかる。
「う~ん、ミズカちゃんは分かりやすいなぁ」
イスラさんは愉しげに笑って、言った。
「残念ながらって言えばいいかな、この場合? ミズカちゃんの期待に応えられなくて申し訳ないんだけど、俺、そっちの趣味はないから」
「え……と……っ」
脳内でチカチカ瞬く妄想をイスラさんに悟られて、さらに顔が熱くなった。
「たぶんユエルにもね。う~ん……、でも、もしあったとしたら、俺的にはピンチ? 背後には気をつけないとなぁ」
「薄気味の悪いことを言うな、イスラ」
そこへ、不機嫌顔のユエル様が現れた。イスラさんの背後に立ち、半開きだったドアをさらに押し開けた。
イスラさんはいささかわざとらしく「げっ」と声をあげて振り返り、おどけたような驚きぶりを示してみせた。けれど目元も口元も、笑みの形を崩さないままだ。
わたしは佇立したまま、ユエル様とイスラさんとを視線だけを動かして忙しなく見やる。場を取り繕おうにも、適当な言葉がさっぱり思いつかない。
ユエル様は、にやにや笑いをしているイスラさんを射殺さんばかりの鋭さで睨みつけ、威圧的な声を発した。
「くだらないことを言うな、イスラ。さっさと部屋に戻れ」
ユエル様は夜着姿ではなかった。着替えも済ませ、着衣にも長い銀の髪も乱れた様子はなく、整っている。顔色も昨夜のようには悪くない。柳眉をしかめ、緑の双眸に不愉快な色を浮かばせている以外、その卓抜した美貌には一点の曇りもなかった。
改めてユエル様の様子を窺って、内心ホッとしていた。
――あぁ、よかった。ユエル様。もう起き上がれるんだ。立って、歩いて、口もきける。機嫌は悪そうだけど具合は悪そうじゃない。
ユエル様の体調が良さそうだとわかって安堵したのも束の間、
「もう話は済んだ」
その一言に、どきりと鼓動が跳ね、血の気が引いた。
さっきドアノブにぶつけた右手の甲がズキズキと痛みだす。さっきから痛くはあったのだけど、心拍数が上がったことで痛みが強くなったようだった。胸元に両手を押し当て、手の痛みと動悸とを押さえつけた。
「俺は済んでねぇよ。だいたいユエル、おまえね。そういう傲慢な態度、ちょっとは直せよ。一方的すぎるぜ。……ね、酷いと思わない、ミズカちゃん?」
イスラさんはユエル様に不平を言いつつ、わたしの傍に身を寄せてきた。そしてわたしの不安顔を覗きこみ、ユエル様には見えないよう、自分の唇に人差し指を当て、片目をつむって見せた。
「あ、…………」
話してないよってことなんだろう、イスラさんの今の仕草は。
大丈夫と、イスラさんの朗らかな茶の瞳が語っていた。
「いやまぁ酷薄男のユエルなんざどうでもいいや。それよりも、おはよ、ミズカちゃん。あれから少しは眠れた?」
「は、はい。あ、……お早うございます、イスラさん。あの……昨夜はありがとうございました」
わたしは慌てて頭を下げた。
イスラさんは終始にこやかにしている。一方で、ユエル様も不機嫌顔をやわらげようとしない。しかめっ面でイスラさんを睨みつけてる。そしてイスラさんはへこたれない。
対照的な二人だけど、それが二人らしくて、今後こそホッと胸を撫でおろせた。
「ユエル、おまえさぁ、ちょっとはミズカちゃんを見習ったら?」
イスラさんはユエル様を振り返り見て悪態をついた。これもまたイスラさんらしい言動なのだけど、険悪なムードになってしまうのではと、やっぱり少しハラハラしてしまう。
「煩い、イスラ」
「だぁれがぶっ倒れたおまえさんに生気を飲ませてやったんだっけ? 意識のないおまえさんをわざわざベッドにまで運んでやったのは?」
「くどい。何度言えば気が済むんだ、おまえは」
「おまえさんが俺に、素直に感謝してくれるまで」
「恩着せがましい」
「恩知らずよりマシだね」
イスラさんはちょっと子供っぽいくらいの言いようでユエル様を煽って、その反応を楽しんでる。口調に険はなく、本気で呆れても怒ってもいないようだ。
その様子から、イスラさんがどの程度ユエル様に話したか、だいたい察することができた。
昨夜ユエル様が昏倒したこと。そしてイスラさんがベッドまで運んでくれて、生気を飲ませたこと、それだけを話したのだろう。
ユエル様は忌々しげな顔をしている。「それだけ」でも気に食わないといった風情で、眉間に刻まれた皺はなかなか緩まない。けれど、声に刺々しさは感じられなかった。
「――ミズカ」
いい加減イスラさんとのやりとりに辟易したのか面倒になったのか、ユエル様はイスラさんを押しのけてわたしの前に立った。
「ミズカ」
「は、はいっ! あ、……おっ、お早うございますっ、ユエル様!」
不覚にも声がつっかかり、声も上擦ってしまった。
「ミズカ、……さっきは」
ユエル様は深々とため息をつき、気だるそうに前髪をかきあげた。物憂げな緑の瞳が露わになり、その双眸がわたしを見つめている。
「さっきは何を考えたのか、まぁ、分かりやすいミズカのことだから想像に易いが」
ユエル様はいったん言葉を切り、またため息をついた。酢でも飲まされたような顔をしている。
「ミズカ、その気色の悪い妄想は即座に消去しなさい。前にも言ったが、私にその趣味はない」
「え、と……?」
「……だいたい、うっかり妄想するにも、相手がイスラとはいただけない」
ユエル様は吐き捨てるように言い、さらに念を押してきた。
「胸が悪くなる。二度とそのような妄想はしないように。いいね、ミズカ」
「あ、……はいっ」
応えてから、つい笑みがこぼれてしまった。
ユエル様、心底うんざりしきった顔をしてて、それが妙に可笑しかった。
おかげで気持ちがほぐれた。心にかかる靄がすべて払われたわけではないけれど、気分はずっと軽くなった。
だって、不愉快そうに顔をしかめているけれど、わたしの前にいるのはいつものユエル様だ。昨夜の冷たく暗い影は消えている。
ユエル様との対面が……どんな顔をして会ったらいいのか分からなくて、気が重たかったけれど、イスラさんが居てくれたおかげで、少し緊張が解けたみたい。
よかった。
本当に良かった。ユエル様が元気になられて。
元通りになる。きっと今までの通りでいられる。それはわたし次第。わたしさえ立場をわきまえていれば、きっと今までと変わらずにいられるはず。
心の戒めを解ききらず、今までのわたしでいればいい。ユエル様が必要としてくれる限り。
解く、といえば……。
ユエル様に命じられたものの、うっかり妄想してしまったユエル様とイスラさんのまさかのあれこれは、脳内から「即座に消去」できず、ちょっと困ってしまった。
ユエル様とイスラさんなら耽美な雰囲気も似合いそうなんだもの。誤解されてもしようがないって思ってしまうくらい。
ユエル様は本気で嫌そうな顔をしているから、もちろんそれは黙っておいたけど。
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