薔薇のまねごと

るうあ

文字の大きさ
上 下
56 / 60

56.伝えたい

しおりを挟む
「ミズカ」
 わたしの名を呼ぶユエル様の声はとても優しかった。わたしを怯えさせないよう、少しトーンを落としている。
 躊躇いながらも、わたしはユエル様に顔を向けた。気遣わしげなユエル様の目とぶつかった。けれど、……
「……っ」
 気まずくて、とっさに目線を逸らしてしまった。
 どうしよう。
 だって立ち聞きなんかして、その上こんな風に迷惑をかけて、足手まといになって。
 ユエル様に合わせる顔なんてない。
 だからって、この場から逃げ出すこともできない。そんなことをすればさらに迷惑をかけてしまうもの。
 わたしはまたユエル様の方に目線を戻した。どうしてもまともには見られなくて視線は泳いでしまう。
「こちらに来なさい、ミズカ」
 ユエル様はわたしに手を差し伸べる。少し困ったような顔と声音。ユエル様はその場から動かなかった。もしかしたら亜矢子さんを警戒してるのかもしれない。
 このまま立ち尽くしててもしようがない。ユエル様のもとへ行かなくちゃ。謝るのはあとでいい。とにかくユエル様の言葉に従わなくちゃ。
 足に力を入れたその途端、膝に痛みが走った。擦りむいた傷はまだ癒えてなかった。足がうまく動かない。
「ミズカちゃん」
 アリアさんの手がわたしの背中から離れた。
「大丈夫? 歩ける?」
 アリアさんに訊かれ、わたしは無言で頷いた。足の痛みは消えないけれど、歩けない程じゃない。
「ユエルと一緒にいて。そろそろイレクが迎えに来る頃だわ。後始末はあたしがつけておくから」
 アリアさんもわたしを気遣って笑顔を見せてくれた。アリアさんは悠然と構えていて、それはきっとわたしを安心させるためなんだろう。
 このまま立ち竦んでいても邪魔になるだけだ。ためらいを払ってユエル様の方に顔を向け直し、足を一歩前に踏み出した。体が重くて素早く動けない。足をもたつかせながら、それでもなんとかユエル様のもとへ行こうとし、そして……――
 その時だった。亜矢子さんの叫び声が響き渡ったのは。
「ひとを、虚仮にして……ッ!」
 亜矢子さんの怒号に、パンッと乾いた音が重なった。
 それは、ほんの一瞬の出来事だった。
 亜矢子さんの声にわたしは反射的に振り返っていた。
 乾いた音が拳銃の発砲音だとは、すぐには分からなかった。憤怒の形相でわたしを睨みつける亜矢子さんと目があったのと、拳銃の引き金が引かれたのはほぼ同時だったんだろう。
 あっ、と思う間もなかった。避けるなんて、もちろんできなくて。
 右肩に激痛が走って、突然の衝撃に体が傾いた。
「……っ」
 痛みというより、驚愕のあまり声も出なかった。
 何が、起こったの? その問いすら、すぐには脳裏に浮かばなかった。
「ミズカ!」
「ミズカちゃん!」
 ユエル様とアリアさんの声が重なった。
 倒れかけたわたしの体を抱きとめてくれたのはユエル様だった。
 目の前が真っ暗になり、気を失いかけた。だけど辛うじて意識を保って、ユエル様の胸に縋りついた。
「ユエ、さ……ま、……っ」
 いた、い……右肩が抉れたみたい。痛くて、重くて、熱い……――
 自然と涙が溢れてくる。痛みと、申し訳なさと、いろんな感情がぐるぐる回って、けれどどうしても痛みに気を取られてしまう。痛くて、呼吸も絶え絶えになってくる。
「ミズカ」
 ユエル様が歯ぎしりをし、それから燃えるような目をして前方を睨みつけた。前方……そこには、わたしを撃った亜矢子さんがいるはずで、けれど続けて発砲してくることはなく、もしかしたら亜矢子さんは半ばぼう然と立ち尽くしているのかもしれない。
「貴様、よくも……っ!」
 わたしの体を支えてその場に膝をついているユエル様が、亜矢子さんに向けて腕を伸ばし、激しく叫んだ。
「よくも、私のミズカを……!」
 ユエル様の全身から発せられる怒りのオーラにわたしは目を瞠った。剥き出しの怒りがそのまま炎に変わる。赤い閃光が亜矢子さんに向かって放たれた。直後、「きゃぁぁっ」と苦悶の悲鳴が上がった。
 ほぼ同時に、
「だめよっ、ユエル、殺しちゃ!」
 アリアさんが慌てて止めに入った。
 風が、音をたてて池へと奔った。池の水がはげしく波打つ音が聞こえる。風が水を巻きあげて、瞬時に地上に落ちてきた。あたりの空気が急速に冷えて火の気配が消えた。
「ミズカちゃんの前よ! もう、ばかね! 騒ぎになったらどうするの!」
 たぶんアリアさんは池の水を亜矢子さんにかけて、火を消したんだろう。水しぶきがあがって、こちらにも降りかかってきた。
 亜矢子さんの声はもうしない。アリアさんは亜矢子さんの元へ駆けつけたようだった。どうやら亜矢子さんは無事だったみたい。「間一髪ね」というアリアさんの声が耳に届いた。
 ホッとして、力が抜けた。
 亜矢子さんが助かってホッとしたという気持ちもあったけれど、何より、わたしのせいでユエル様が誰かの命を奪うなんて事態にならなくてよかったと、思ってしまった。
 わたしのせいだ、何もかも。
 涙がとめどもなく流れて落ちる。
 撃たれた右肩が痛い。肩だけじゃない、全身が痺れてるみたいに熱く、重い。
 血が流れてる感覚はないけれど、生気が失われていくのは分かった。どんどん乾いていく。このまま消えてしまうのかもしれない。
 でも、どうしよう。
 消えゆく恐怖よりも、全身を苛む痛みよりも、悦びにも似た感情が心をひしめかせていた。
 ――私のミズカ。
 ユエル様が怒りのあまり発した一言。たったこの一言で、胸がいっぱいになるほど、嬉しかった。
 なんてあさましいんだろう。なんて身勝手なんだろう。ユエル様にたくさん迷惑をかけて、怒らせて、それなのに胸が打ち震えるほどに、嬉しかった。
 どうしようもないほど、わたしは、……――
「ミズカ、少しの間だけ辛抱してくれ」
 言いながら、ユエル様はわたしが着てたボレロを脱がせ、それを撃たれた右肩に押し当てた。
 ユエル様はわたしの血で汚れるのもいとわず、介抱してくれる。ユエル様の白いシャツがみるみるうちに血を吸って、赤黒く変色していった。ユエル様の美しい銀の髪も白い手も、わたしの血で汚れてしまう。
「……ユ、エル様、……」
 声がかすれる。一度深く息を吐き出して呼吸を整えようとしたけど、うまくはいかなかった。むせて、口の中に血の味が広まった。
「ごめん、な、さい、ユエル様……」
 涙で視界が霞む。けれどユエル様の不安げな表情は見てとれた。動揺し、蒼ざめている。そんな顔をするユエル様は、初めて見たかもしれない。
 ごめんなさい。ごめんなさい、ユエル様。
 だけどもう、ユエル様から顔を背けたりしない。ちゃんとユエル様の顔を見て、言わなくちゃ。
 どうしても今……もしかしたらこのまま消えてしまうかもしれない今、ユエル様に伝えたい。
「ユエル様……」
 一言喋るだけでも息が切れる。
「もう喋るな、ミズカ。大丈夫だ、弾は貫通してる。傷を塞ぐから、しばらくじっとしていてくれ」
 ユエル様がわたしの首に手を当てた。そこから生気を流しいれてくれる。ユエル様の掌は熱いくらいだった。
「ごめん、な、さい、ユエル様……」
「ミズカ、無理に喋るな」
「で、も……わたし、もう……」
「大丈夫だ、この程度の傷ならすぐに治せる」
「…………」
 ユエル様の言う通りなんだろう。とてつもなく痛いけれど、吸血鬼であるわたし達はよほどのことがない限り死にはしない。たとえわたしの肩を撃ち抜いたのが銀の弾丸であったとしても。
 消えたりはしないんだ……。
 ごめんなさい、ユエル様。
 ほんの一瞬でも、このまま消えてしまってもいいって、思ってしまった。幸せな気持ちのまま消えてしまえるのならって。
 ああ……でも、やっぱり消えたくない。ユエル様の傍にいたい。
「ユエル様」
 ゆっくりと息を吐いてから、ユエル様の顔を見つめ直した。
「ごめんなさい、ドレス、せっかく用意して、くださったの、に……、こんな……ダメにしてしまって。それに、アリアさんに、も……」
「そんなことは気にしなくていい」
 ユエル様の口調が焦りのためだろうか、少し鋭くなった。ひそめられた眉の下の目が「黙って」と語りかけてくる。
 ユエル様は唇がいつになく蒼く、血の気が失せている。わたしの傷を癒すために大量の生気を送り続けているからかもしれない。
「ユエル様、わたし」
「謝らなくていい」
 ユエル様はわたしの首から手を離した。そして一度強く抱きしめて、また体を離した。ユエル様の秀麗な顔が少し歪んで、苦しげな色を湛えている。
「ミズカが悪いことなど何一つない」
「ユエル様」
 大きく息を吐き、意を決してユエル様を見つめる。
 伝えたい。胸をひしめかせているこの想いを、ユエル様に。
 乱れた息を少しでも整え、声を絞り出した。
「わたし……ユエル様が、好きです。ずっと、ユエル様のこと」
 気づいたばかりの、わたしの恋心。
 ううん……ほんとうは気づいていたのに、気づかぬふりをしていたんだ。
 ユエル様の傍にいるために、自分の気持ちに蓋をして、ずっとごまかし続けてきた……。
 まっすぐにユエル様を見つめて、わたしは想いを告げた。
「好きなんです、ユエル様、わたし、ずっと……」
 伝えられたことで気が緩んだのか、また涙が溢れてくる。涙で滲んでもうユエル様の顔が見えない。瞬きをしても視界はぼやけたまま。
 右肩の鈍痛はおさまらない。炎で炙られているかのような痛みが喉を締めつけてきて、苦しかった。だけど、その痛みも越えるほどの想いが胸に溢れて止められなかった。
 亜矢子さんの言う通りだった。
 ユエル様が好きで好きで、恋しくて堪らない……自分でもどうしようもないほどに。
「わたし、ユエル様の眷族に……――」
「ミズカ」
 分かっているとでも言うように、ユエル様がわたしの告白を遮り、口を塞いだ。
 ――ユエル様自身の、唇で。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

モヒート・モスキート・モヒート

片喰 一歌
恋愛
「今度はどんな男の子供なんですか?」 「……どこにでもいる、冴えない男?」 (※本編より抜粋) 主人公・翠には気になるヒトがいた。行きつけのバーでたまに見かけるふくよかで妖艶な美女だ。 毎回別の男性と同伴している彼女だったが、その日はなぜか女性である翠に話しかけてきて……。 紅と名乗った彼女と親しくなり始めた頃、翠は『マダム・ルージュ』なる人物の噂を耳にする。 名前だけでなく、他にも共通点のある二人の関連とは? 途中まで恋と同時に謎が展開しますが、メインはあくまで恋愛です。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?

すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。 翔馬「俺、チャーハン。」 宏斗「俺もー。」 航平「俺、から揚げつけてー。」 優弥「俺はスープ付き。」 みんなガタイがよく、男前。 ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」 慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。 終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。 ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」 保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。 私は子供と一緒に・・・暮らしてる。 ーーーーーーーーーーーーーーーー 翔馬「おいおい嘘だろ?」 宏斗「子供・・・いたんだ・・。」 航平「いくつん時の子だよ・・・・。」 優弥「マジか・・・。」 消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。 太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。 「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」 「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」 ※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。 ※感想やコメントは受け付けることができません。 メンタルが薄氷なもので・・・すみません。 言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。 楽しんでいただけたら嬉しく思います。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

処理中です...