薔薇のまねごと

るうあ

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56.伝えたい

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「ミズカ」
 わたしの名を呼ぶユエル様の声はとても優しかった。わたしを怯えさせないよう、少しトーンを落としている。
 躊躇いながらも、わたしはユエル様に顔を向けた。気遣わしげなユエル様の目とぶつかった。けれど、……
「……っ」
 気まずくて、とっさに目線を逸らしてしまった。
 どうしよう。
 だって立ち聞きなんかして、その上こんな風に迷惑をかけて、足手まといになって。
 ユエル様に合わせる顔なんてない。
 だからって、この場から逃げ出すこともできない。そんなことをすればさらに迷惑をかけてしまうもの。
 わたしはまたユエル様の方に目線を戻した。どうしてもまともには見られなくて視線は泳いでしまう。
「こちらに来なさい、ミズカ」
 ユエル様はわたしに手を差し伸べる。少し困ったような顔と声音。ユエル様はその場から動かなかった。もしかしたら亜矢子さんを警戒してるのかもしれない。
 このまま立ち尽くしててもしようがない。ユエル様のもとへ行かなくちゃ。謝るのはあとでいい。とにかくユエル様の言葉に従わなくちゃ。
 足に力を入れたその途端、膝に痛みが走った。擦りむいた傷はまだ癒えてなかった。足がうまく動かない。
「ミズカちゃん」
 アリアさんの手がわたしの背中から離れた。
「大丈夫? 歩ける?」
 アリアさんに訊かれ、わたしは無言で頷いた。足の痛みは消えないけれど、歩けない程じゃない。
「ユエルと一緒にいて。そろそろイレクが迎えに来る頃だわ。後始末はあたしがつけておくから」
 アリアさんもわたしを気遣って笑顔を見せてくれた。アリアさんは悠然と構えていて、それはきっとわたしを安心させるためなんだろう。
 このまま立ち竦んでいても邪魔になるだけだ。ためらいを払ってユエル様の方に顔を向け直し、足を一歩前に踏み出した。体が重くて素早く動けない。足をもたつかせながら、それでもなんとかユエル様のもとへ行こうとし、そして……――
 その時だった。亜矢子さんの叫び声が響き渡ったのは。
「ひとを、虚仮にして……ッ!」
 亜矢子さんの怒号に、パンッと乾いた音が重なった。
 それは、ほんの一瞬の出来事だった。
 亜矢子さんの声にわたしは反射的に振り返っていた。
 乾いた音が拳銃の発砲音だとは、すぐには分からなかった。憤怒の形相でわたしを睨みつける亜矢子さんと目があったのと、拳銃の引き金が引かれたのはほぼ同時だったんだろう。
 あっ、と思う間もなかった。避けるなんて、もちろんできなくて。
 右肩に激痛が走って、突然の衝撃に体が傾いた。
「……っ」
 痛みというより、驚愕のあまり声も出なかった。
 何が、起こったの? その問いすら、すぐには脳裏に浮かばなかった。
「ミズカ!」
「ミズカちゃん!」
 ユエル様とアリアさんの声が重なった。
 倒れかけたわたしの体を抱きとめてくれたのはユエル様だった。
 目の前が真っ暗になり、気を失いかけた。だけど辛うじて意識を保って、ユエル様の胸に縋りついた。
「ユエ、さ……ま、……っ」
 いた、い……右肩が抉れたみたい。痛くて、重くて、熱い……――
 自然と涙が溢れてくる。痛みと、申し訳なさと、いろんな感情がぐるぐる回って、けれどどうしても痛みに気を取られてしまう。痛くて、呼吸も絶え絶えになってくる。
「ミズカ」
 ユエル様が歯ぎしりをし、それから燃えるような目をして前方を睨みつけた。前方……そこには、わたしを撃った亜矢子さんがいるはずで、けれど続けて発砲してくることはなく、もしかしたら亜矢子さんは半ばぼう然と立ち尽くしているのかもしれない。
「貴様、よくも……っ!」
 わたしの体を支えてその場に膝をついているユエル様が、亜矢子さんに向けて腕を伸ばし、激しく叫んだ。
「よくも、私のミズカを……!」
 ユエル様の全身から発せられる怒りのオーラにわたしは目を瞠った。剥き出しの怒りがそのまま炎に変わる。赤い閃光が亜矢子さんに向かって放たれた。直後、「きゃぁぁっ」と苦悶の悲鳴が上がった。
 ほぼ同時に、
「だめよっ、ユエル、殺しちゃ!」
 アリアさんが慌てて止めに入った。
 風が、音をたてて池へと奔った。池の水がはげしく波打つ音が聞こえる。風が水を巻きあげて、瞬時に地上に落ちてきた。あたりの空気が急速に冷えて火の気配が消えた。
「ミズカちゃんの前よ! もう、ばかね! 騒ぎになったらどうするの!」
 たぶんアリアさんは池の水を亜矢子さんにかけて、火を消したんだろう。水しぶきがあがって、こちらにも降りかかってきた。
 亜矢子さんの声はもうしない。アリアさんは亜矢子さんの元へ駆けつけたようだった。どうやら亜矢子さんは無事だったみたい。「間一髪ね」というアリアさんの声が耳に届いた。
 ホッとして、力が抜けた。
 亜矢子さんが助かってホッとしたという気持ちもあったけれど、何より、わたしのせいでユエル様が誰かの命を奪うなんて事態にならなくてよかったと、思ってしまった。
 わたしのせいだ、何もかも。
 涙がとめどもなく流れて落ちる。
 撃たれた右肩が痛い。肩だけじゃない、全身が痺れてるみたいに熱く、重い。
 血が流れてる感覚はないけれど、生気が失われていくのは分かった。どんどん乾いていく。このまま消えてしまうのかもしれない。
 でも、どうしよう。
 消えゆく恐怖よりも、全身を苛む痛みよりも、悦びにも似た感情が心をひしめかせていた。
 ――私のミズカ。
 ユエル様が怒りのあまり発した一言。たったこの一言で、胸がいっぱいになるほど、嬉しかった。
 なんてあさましいんだろう。なんて身勝手なんだろう。ユエル様にたくさん迷惑をかけて、怒らせて、それなのに胸が打ち震えるほどに、嬉しかった。
 どうしようもないほど、わたしは、……――
「ミズカ、少しの間だけ辛抱してくれ」
 言いながら、ユエル様はわたしが着てたボレロを脱がせ、それを撃たれた右肩に押し当てた。
 ユエル様はわたしの血で汚れるのもいとわず、介抱してくれる。ユエル様の白いシャツがみるみるうちに血を吸って、赤黒く変色していった。ユエル様の美しい銀の髪も白い手も、わたしの血で汚れてしまう。
「……ユ、エル様、……」
 声がかすれる。一度深く息を吐き出して呼吸を整えようとしたけど、うまくはいかなかった。むせて、口の中に血の味が広まった。
「ごめん、な、さい、ユエル様……」
 涙で視界が霞む。けれどユエル様の不安げな表情は見てとれた。動揺し、蒼ざめている。そんな顔をするユエル様は、初めて見たかもしれない。
 ごめんなさい。ごめんなさい、ユエル様。
 だけどもう、ユエル様から顔を背けたりしない。ちゃんとユエル様の顔を見て、言わなくちゃ。
 どうしても今……もしかしたらこのまま消えてしまうかもしれない今、ユエル様に伝えたい。
「ユエル様……」
 一言喋るだけでも息が切れる。
「もう喋るな、ミズカ。大丈夫だ、弾は貫通してる。傷を塞ぐから、しばらくじっとしていてくれ」
 ユエル様がわたしの首に手を当てた。そこから生気を流しいれてくれる。ユエル様の掌は熱いくらいだった。
「ごめん、な、さい、ユエル様……」
「ミズカ、無理に喋るな」
「で、も……わたし、もう……」
「大丈夫だ、この程度の傷ならすぐに治せる」
「…………」
 ユエル様の言う通りなんだろう。とてつもなく痛いけれど、吸血鬼であるわたし達はよほどのことがない限り死にはしない。たとえわたしの肩を撃ち抜いたのが銀の弾丸であったとしても。
 消えたりはしないんだ……。
 ごめんなさい、ユエル様。
 ほんの一瞬でも、このまま消えてしまってもいいって、思ってしまった。幸せな気持ちのまま消えてしまえるのならって。
 ああ……でも、やっぱり消えたくない。ユエル様の傍にいたい。
「ユエル様」
 ゆっくりと息を吐いてから、ユエル様の顔を見つめ直した。
「ごめんなさい、ドレス、せっかく用意して、くださったの、に……、こんな……ダメにしてしまって。それに、アリアさんに、も……」
「そんなことは気にしなくていい」
 ユエル様の口調が焦りのためだろうか、少し鋭くなった。ひそめられた眉の下の目が「黙って」と語りかけてくる。
 ユエル様は唇がいつになく蒼く、血の気が失せている。わたしの傷を癒すために大量の生気を送り続けているからかもしれない。
「ユエル様、わたし」
「謝らなくていい」
 ユエル様はわたしの首から手を離した。そして一度強く抱きしめて、また体を離した。ユエル様の秀麗な顔が少し歪んで、苦しげな色を湛えている。
「ミズカが悪いことなど何一つない」
「ユエル様」
 大きく息を吐き、意を決してユエル様を見つめる。
 伝えたい。胸をひしめかせているこの想いを、ユエル様に。
 乱れた息を少しでも整え、声を絞り出した。
「わたし……ユエル様が、好きです。ずっと、ユエル様のこと」
 気づいたばかりの、わたしの恋心。
 ううん……ほんとうは気づいていたのに、気づかぬふりをしていたんだ。
 ユエル様の傍にいるために、自分の気持ちに蓋をして、ずっとごまかし続けてきた……。
 まっすぐにユエル様を見つめて、わたしは想いを告げた。
「好きなんです、ユエル様、わたし、ずっと……」
 伝えられたことで気が緩んだのか、また涙が溢れてくる。涙で滲んでもうユエル様の顔が見えない。瞬きをしても視界はぼやけたまま。
 右肩の鈍痛はおさまらない。炎で炙られているかのような痛みが喉を締めつけてきて、苦しかった。だけど、その痛みも越えるほどの想いが胸に溢れて止められなかった。
 亜矢子さんの言う通りだった。
 ユエル様が好きで好きで、恋しくて堪らない……自分でもどうしようもないほどに。
「わたし、ユエル様の眷族に……――」
「ミズカ」
 分かっているとでも言うように、ユエル様がわたしの告白を遮り、口を塞いだ。
 ――ユエル様自身の、唇で。
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