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30 【ソフィアside】ボルナットでの生活
しおりを挟むこの国へ来て三カ月が過ぎた。
おなかの赤ちゃんは順調に育っている。安定期に入り、つわりが落ち着き、体調も良かった。無理をせずに快適な妊娠生活を送れていると思う。
「今日は、ムンババ様のお屋敷へは行かれないのですか?」
「ええ。今日は大使館でパーティーがあるから、皆忙しいらしいわ」
そうなんですねとミラは微笑んだ。
ムンババ大使とは、花束をこのアパートメントのオーナーに贈っていた『ムーン・ババール・ポゼッサー』様のことだ。
彼はこの国に来てから『何故か皆がムンババ様と呼ぶんだ』と苦笑いしていた。
長いお名前なので略して呼ばれているらしい。
こちらの国にはミドルネームという物はない。だからきっと、ムーンババールまでがお名前だと思われているのだろう。親しみを込めた呼び方に自然と笑みがこぼれた。
「でも、町で偶然お知り合いになるなんて、なんだか運命みたいなものを感じますね」
「そうね。とても素敵な方だから、運命的な出会いだったら良かったけどね」
私はニコリと笑った。
カーレン語に興味があることを彼が知ると、私に邸の使用人たちの『言葉の教師』をしてくれないか、という仕事の依頼が来た。
これはアパルトマンのオーナをしているアイリス様経由での頼みだった。
アイリス様は、メイドのマリーから私が仕事を探していると聞いたらしい。
妊婦だから、一日二時間だけでよいのなら、とその仕事を引き受けることにした。
ムンババ様がカーレンから呼び寄せた使用人は、こちらの言葉に慣れていなくて、皆苦労しているらしい。
だけど、カーレン語が話せる人が、この国にはいない。カーレンという国にも、ボルナットの国民は興味も示さないという。
ムンババ様は、私のようにカーレンに興味がある人間に、言葉を教えてもらえた方が、使用人たちも喜ぶとおっしゃってくれた。
私もカーレン語の勉強になるので、喜んでその話を引き受けた。
カーレンの大使館で、私はムンババ様に簡単な面接を受けた。
学歴を聞かれ、言葉に興味はあるかと尋ねられた。
それくらいの質問で、他にはあまり立ち入った話はしなかった。
これは仕事の面接だ。過去の個人的な事情などは話す必要はないだろう。
『ソフィア、君のご主人はここで仕事をすることを許されているのか?』
『え……』
妊娠していて、アパルトマンに住んでいることから、ムンババ様は私に夫がいると思っていた。
アイリス様のアパルトマンは、正直家賃が安いわけではない。
貴族のお金持ちの令嬢とか、あるいは会社をしている方々が借りられているようなところだ。
立地や安全面を考慮して、治安も良い物件を捜したらアイリス様のアパルトマンに行きついたのだった。
『この子の父親は外国にいます』
『国外の仕事か、それはなかなか会えないだろうから、寂しいな』
『寂しくはありません。お腹に赤ちゃんがいますから幸せですわ』
咄嗟に嘘をついてしまった。けれどこの子の父親はバーナードだ。間違いではないだろう。
父親はバーナードだということを考えると、とても不快な気分になった。
この子は私の子。私だけの子よ。
バーナードは血が繋がっているだけのただの他人だ。もう彼のことは忘れてしまいたい。彼を思い出すだけで気分が滅入ってしまう。
面接中なんだからと気合を入れて私は急いで笑顔をつくった。
『そうか。まぁ、無理はしないようにやってくれればいい。私は殆ど邸にはいないから、顔を合わすこともあまりないとは思うが、何かあれば頼ってくれ』
『有難いお言葉です』
私は頭を下げた。
家の中で一日中何もしないでいるよりは、数時間外へ出て仕事ができるのは有り難かった。
大使館の生徒たちは皆私よりも年上だった。けれど明るく陽気な国民性で、妊娠している私を気遣ってくれ、優しくしてくれた。だからいつも楽しく勉強できた。
ムンババ様は独身のご令嬢から人気が高いらしく、その女性たちから逃げるのに必死だそうだ。外国語を教える教師には、私のような妊婦が安心だ。
そういう理由で私が選ばれたようだった。
この国での生活にも慣れてきた。
美味しいレストランでミラと食事をしたり、可愛いお店を見て回るのも楽しかった。
バーナードがいない間は、何としても領民たちを守らねければならないと毎日必死だった。けれど今はそんな大きな責任を背負わなくてもいい。
肩の荷が下りたような、そんな気持ちだった。
このままこんな幸せな日がずっと続けばいいのにと私は思っていた。
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