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23 ひとりの時間
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久しぶりにアパートへ帰ってみると、隣の外国人は引っ越してしまったようで部屋の中はとても静かだった。
年末にかけて忙しくなる隣の商店の騒音は、なぜかあまり気にならなかった。
日に一度だけ食料を買いに外出したが、自分ひとり分の買い物の量などたかが知れていて、すぐに終わって家に戻ってきてしまう。
それ以外の時間は、ほとんどを勉強に費やし没頭した。
繰り返し法律に関する文章を読み、暗記し問題を解いていった。
勉強に没頭していると、他の事を考えずに済んで気が楽だった。
世間はクリスマスを迎えすぐに年末、新年がやってきた。
一度もレイには連絡を取らなかった。
レイからも連絡がなかった。
何度かアパルトマンの隣人のサミエルさんには、その後の報告のため、手紙のやり取りをした。
自分のアパートに戻り、試験の勉強をすると伝えた。
レイの様子が少しでも聞けるかと思ったが、そもそも彼らは、お互いに顔も知らないような間柄だった。
サミエルさんとレイが、互いに相手の状況を把握できるはずもなく、レイはどうしているかと訊くのもはばかられた。
夜布団に入って眠るとき、レイのことを必ず思い出してしまった。
レイは誰もが羨む大企業の弁護士で、普通ならば私なんかが相手にされるはずもないエリートだ。
貧乏で正職にも就いていない、ただのオメガごときが近づいていいはずがない。
自分は奢れていたのだろうと反省した。
レイにはもっとふさわしい相手がいるはずで、世の中には分相応という言葉がある。
自分の生い立ちは聞いてもらったが、レイ自身の事はあまり知らないと思った。
生まれた場所やご両親の事。
友達や仕事の事、かつて付き合っていた恋人の事。
訊いていなかったことに後悔した。
自分は今まで彼と共に生活してきたひと月の間、いったい何をしていたのだろう。
もっとレイの事を訊いておけばよかった。
そうすればもっと思い出せることがたくさん増えたのに。
***
新しい年が来て、私は試験に挑んだ。
頑張ってきた全てをぶつけられたと思う。自己採点結果は良かった。
試験が終わった日の夕方、私は働いていた食堂へ久しぶりに顔を出した。
食堂の主人は『よく頑張ったな、結果はどうあれ挑戦することは良いことだ』と言ってくれた。
なぜか試験に落ちた前提で慰めながら、それでも私を褒めてくれた。
おかみさんは『ちょっと痩せたんじゃない』と、お店で一番高価な焼肉定食を食べさせてくれた。
胃が小さくなっていたのか、最後の方はかなり無理やり水で流し込んだ。
量が多かったが、二人に会えて久しぶりに温かい気持ちになれた。
もしこの人たちの子供だったら、自分はもっと幸せだったのかもしれない。そんな夢のようなことを考えた。
主人から、ちょくちょく顔を見せろと怒られた。
飯なら売るほどあるんだからと。
お店が忙しくなる時間帯になってきたので、お礼を言って店を後にした。
***
その後、夜働いていたバーのダナウェイに行って、マスターに会った。
試験がひとまず終わりましたと報告をした。
合格していたら、次は口述式試験が3月にあるとマスターに話した。
お店はオープンしてすぐだったので、他のお客さんはまだいなかった。
マスターとは、今後の私の進路について話し合った。
マスターは私は合格するだろうといってくれて、オメガ専門法務士になってからの就職先を考えてくれていた。
ダナウェイのお客さんの中には、法曹界にいる人も何人かいて紹介できるという。
押しつけるわけではないよと言いながら、参考程度にといくつかの弁護士事務所の名前を挙げた。
「アイラは外国語が話せたよね。外国人向けの法律事務所で仕事してみたらどうだろう。世界は広いんだからもっといろいろな場所で、いろいろな世界を見てみるのも勉強になるんじゃない?」
外国語は得意だった。独学とこのお店のお客さんのおかげで、スコアは満点近くあり、大きな輸入業者での採用基準を満たすほどだった。
マスターはわが身のことのように、親身に相談に乗ってくれる。
私がまだ受かってもいないのに、世界を見てみろという大きな提案に少し面食らった。けれど私を気にかけていてくれることが、深く伝わってきたので嬉しかった。
そんな話をしているうちに、最初の客が店に入ってきてカウンター席に着いた。
お洒落なメガネとくるりとしたブロンドのくせ毛で、遊び人風の顔立ちの男性だった。
多分私は接客したことがないだろう。客の顔に見覚えはなかった。
着ている物は、一目で上質だとわかる落ち着いたスーツだ。
全方位モテそうなその男性は、私の方をちらっと見て軽く会釈した。
「マスター何か食べるものある?」
その客は人懐っこそうな笑顔で注文した。
ここ数年は、週末だけの忙しい時間帯しか働いていなかった。平日は仕事に来ていなかったから最近常連になった客は分からない。
彼は初めて見る客だが、マスターとは親しそうだった。
営業の邪魔になるので『どうも』とお客さんに軽く会釈した。
「また顔を出します」
マスターにそう言うと、私は立ち上がった。
その時、急に客が話しかけてきた。
「どこかで会ったよね……君、見たことがある」
そのお客さんは私の顔をしげしげと眺め、首を傾げた。
そして彼は、スーツの胸から手帳を取り出した。
年末にかけて忙しくなる隣の商店の騒音は、なぜかあまり気にならなかった。
日に一度だけ食料を買いに外出したが、自分ひとり分の買い物の量などたかが知れていて、すぐに終わって家に戻ってきてしまう。
それ以外の時間は、ほとんどを勉強に費やし没頭した。
繰り返し法律に関する文章を読み、暗記し問題を解いていった。
勉強に没頭していると、他の事を考えずに済んで気が楽だった。
世間はクリスマスを迎えすぐに年末、新年がやってきた。
一度もレイには連絡を取らなかった。
レイからも連絡がなかった。
何度かアパルトマンの隣人のサミエルさんには、その後の報告のため、手紙のやり取りをした。
自分のアパートに戻り、試験の勉強をすると伝えた。
レイの様子が少しでも聞けるかと思ったが、そもそも彼らは、お互いに顔も知らないような間柄だった。
サミエルさんとレイが、互いに相手の状況を把握できるはずもなく、レイはどうしているかと訊くのもはばかられた。
夜布団に入って眠るとき、レイのことを必ず思い出してしまった。
レイは誰もが羨む大企業の弁護士で、普通ならば私なんかが相手にされるはずもないエリートだ。
貧乏で正職にも就いていない、ただのオメガごときが近づいていいはずがない。
自分は奢れていたのだろうと反省した。
レイにはもっとふさわしい相手がいるはずで、世の中には分相応という言葉がある。
自分の生い立ちは聞いてもらったが、レイ自身の事はあまり知らないと思った。
生まれた場所やご両親の事。
友達や仕事の事、かつて付き合っていた恋人の事。
訊いていなかったことに後悔した。
自分は今まで彼と共に生活してきたひと月の間、いったい何をしていたのだろう。
もっとレイの事を訊いておけばよかった。
そうすればもっと思い出せることがたくさん増えたのに。
***
新しい年が来て、私は試験に挑んだ。
頑張ってきた全てをぶつけられたと思う。自己採点結果は良かった。
試験が終わった日の夕方、私は働いていた食堂へ久しぶりに顔を出した。
食堂の主人は『よく頑張ったな、結果はどうあれ挑戦することは良いことだ』と言ってくれた。
なぜか試験に落ちた前提で慰めながら、それでも私を褒めてくれた。
おかみさんは『ちょっと痩せたんじゃない』と、お店で一番高価な焼肉定食を食べさせてくれた。
胃が小さくなっていたのか、最後の方はかなり無理やり水で流し込んだ。
量が多かったが、二人に会えて久しぶりに温かい気持ちになれた。
もしこの人たちの子供だったら、自分はもっと幸せだったのかもしれない。そんな夢のようなことを考えた。
主人から、ちょくちょく顔を見せろと怒られた。
飯なら売るほどあるんだからと。
お店が忙しくなる時間帯になってきたので、お礼を言って店を後にした。
***
その後、夜働いていたバーのダナウェイに行って、マスターに会った。
試験がひとまず終わりましたと報告をした。
合格していたら、次は口述式試験が3月にあるとマスターに話した。
お店はオープンしてすぐだったので、他のお客さんはまだいなかった。
マスターとは、今後の私の進路について話し合った。
マスターは私は合格するだろうといってくれて、オメガ専門法務士になってからの就職先を考えてくれていた。
ダナウェイのお客さんの中には、法曹界にいる人も何人かいて紹介できるという。
押しつけるわけではないよと言いながら、参考程度にといくつかの弁護士事務所の名前を挙げた。
「アイラは外国語が話せたよね。外国人向けの法律事務所で仕事してみたらどうだろう。世界は広いんだからもっといろいろな場所で、いろいろな世界を見てみるのも勉強になるんじゃない?」
外国語は得意だった。独学とこのお店のお客さんのおかげで、スコアは満点近くあり、大きな輸入業者での採用基準を満たすほどだった。
マスターはわが身のことのように、親身に相談に乗ってくれる。
私がまだ受かってもいないのに、世界を見てみろという大きな提案に少し面食らった。けれど私を気にかけていてくれることが、深く伝わってきたので嬉しかった。
そんな話をしているうちに、最初の客が店に入ってきてカウンター席に着いた。
お洒落なメガネとくるりとしたブロンドのくせ毛で、遊び人風の顔立ちの男性だった。
多分私は接客したことがないだろう。客の顔に見覚えはなかった。
着ている物は、一目で上質だとわかる落ち着いたスーツだ。
全方位モテそうなその男性は、私の方をちらっと見て軽く会釈した。
「マスター何か食べるものある?」
その客は人懐っこそうな笑顔で注文した。
ここ数年は、週末だけの忙しい時間帯しか働いていなかった。平日は仕事に来ていなかったから最近常連になった客は分からない。
彼は初めて見る客だが、マスターとは親しそうだった。
営業の邪魔になるので『どうも』とお客さんに軽く会釈した。
「また顔を出します」
マスターにそう言うと、私は立ち上がった。
その時、急に客が話しかけてきた。
「どこかで会ったよね……君、見たことがある」
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