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第1部 仮初めの婚約者

夢のような言葉

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「とても素敵なお風呂でした……」

 夢のような時間だった。
 浴槽のお湯にゆっくり浸かることなど、一体何年ぶりだっただろう。

 おそらく、人質になる前にユーリ王国に住んでいた時は、毎日とはいかなくても週に何度かは浴槽に浸かっていたとは思うのだが、なにぶん遠い記憶なのでうっすらとしか覚えていなかった。

「それはよろしゅうございました」

 リリーがクレアの亜麻色の髪を丁寧にブラシで梳かし、アンナは入浴後の浴室の片付けをしている。

 クレアは、つい夕方までは自身も身体を動かして働いていたので、ただ身の回りのことをしてもらっているこの状態が落ち着かず、申し訳なさも込み上げてきたのだった。
 
「とてもお美しいですわ」

 なまじ、自分自身にかけられた言葉だとは気が付かず、クレアはしばらく無反応でいた。
 だが、リリーがその後も柔かな表情を自分に向けていることに気がつくと、ようやくこの言葉は自分に向けられた言葉なのだということに気がついた。

「そうでしょうか……」
「ええ、もちろんです。それではクレア様、こちらをお召しいただきたいと存じます」

 リリーの手には、上等な絹で織られたネグリジェが抱えられていた。
 軽やかな動作で瞬く間にクレアはネグリジェを身につけると、その絹の滑らかさに感動した。

(こんなにも、肌に馴染む夜着があるなんて……)

 これまで、クレアに支給されていた夜着は素材が木綿であり素材自体は悪くはないのだが、これもまた「どこで入手してきたのだろうか」と思うほど痛んでおり、まさしくボロを身に纏っているようだったのだ。

「既に二十一時を過ぎておりますので、今日のところは一旦私室にお戻りいただきまして、そちらで軽食を召し上がっていただいてからゆっくりとお過ごしいただきたいと存じます」

 夢のような言葉が何度も聞こえた。
 今リリーはなんと言ったのだろうか……? 
 「軽食」だとか「ゆっくり過ごす」とか、何やらこれまでのクレアの人生とは全く縁のなかった言葉が聞こえたようだが……。

「皇太子殿下は、明日の朝食の際にお会いするとのことです」

 一気に思考が現実に引き戻された。

 そうだ。クレアはあくまでもイリス公女が第一皇太子と婚約を解消するまでの間の繫ぎの仮初めの婚約者だ。
 その役目を忘れることはあってはならないのだ。

「分かりました。それでは今夜はこのまま私室へと戻ります。案内をしていただけることは可能でしょうか?」

 途端にリリーとアンナの表情が明るくなった。

「もちろんでございます。クレア様の私室までの経路は既に把握済みですのでご安心ください」
「ありがとうございます」

 皇女宮では誰かに優しく微笑んでもらえることなど一切なかったので、不慣れなため心がくすぐったかった。

 だが、リリーとアンナの和らげな雰囲気に包まれると、もう少しこのままでいたいと思った。
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