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しおりを挟む毎日やっていれば気付くもので、刺繍を通して体が良くなって来ているのが分かった。
使用人たちに向けての刺繍が終わる頃には、体の痛みも痺れもほとんど無くなっていた。
その内、手は完全に調子を取り戻し、小さなボタンも難なく外せるまでになった。
刺繍が終わった事を知ったグエンは、「それなら、今度は…」と、画材を用意してくれた。
わたしが絵を描く事を覚えてくれていたのだ。
グエンはわたしをテラスに運んでくれ、わたしは庭の景色を絵に描いた。
絵を描いていると、心も癒された。
◇◇
この日、医師から右足の添え木を外しても良いと許しが出た。
だが、添え木が外されても、直ぐに歩ける訳ではない。
力が入らず、痺れもあり、動かす事すらも難しかった。
このまま、動かないのでは___
そんな不安に圧し潰されそうになる。
グエンやメイドたちには気付かれない様、日中は平気な顔をしていたが、
夜には独り涙を流した。
それでも、グエンには気付かれていたのだろう…
「ミシェル、眠れている?」
「あまり…」
ここ数日、ほとんど眠れていなかったわたしは、曖昧に答えた。
すると、グエンは、「眠れていないんだな」と言い当てた。
「どうして、そう思うの?」
「君の事は、生まれた時から知っているんだぞ?私には全てお見通しさ」
《全て》というのは、言い過ぎだ。
それでも、普段のわたしであれば、安堵した筈だった。
だが、この時のわたしは、酷く不安で神経が高ぶっていた。
「全部なんて嘘よ、グエン兄様とは六年も会っていないもの!
わたしはもう、十三歳の少女じゃないわ!
結婚だって、する筈だったのに…こんな事になって…」
本当ならば、今頃は結婚式を一週間後に控え、幸せの絶頂だっただろう。
それを自分の不注意で台無しにしてしまった。
あの日、馬にさえ乗らなければ___!
こんなに辛いのに、親友のエリーゼは気遣ってもくれず、
わたしの婚約者だったナゼールと結婚するのだ!
一週間後に!
わたしたちが挙げる筈だった礼拝堂で___
わたしは気持ちが抑え切れず、泣き出していた。
グエンはわたしを優しく抱擁し、背中を撫でてくれた。
「好きなだけ泣けばいい、君は我慢し過ぎるんだ。
胸の中のものを、全部吐き出せばいい」
「わたし、自分で自分が許せないの…!
大事な時だったのに、どうして、あんな事をしたのか…!馬鹿だったわ!」
「そうだな、君は乗馬が得意とは言えない。
それとも、会わない間に得意になったのかな?」
わたしはグエンの腕の中で、頭を振った。
「君には乗馬なんか、二度とさせない。
結婚が決まったら、館から一歩も出さない様にするべきだ。
部屋に閉じ込めて、結婚式の準備は全て他の者にやらせればいい。
だが、礼拝堂に向かうにも危険がある、全員を館に招いて式を挙げさせるべきだな」
グエンが軽口なのか本気なのか分からない事を言う。
だが、確かに、乗馬だけではない、危険は何処にでもあった。
乗馬をしていなくても、事故に巻き込まれたかもしれない…
父は「運命だったんだ」と言った。
あの時は、『こんな運命があっていい筈ない!』と強く反発したが、
父はこういう事が言いたかったのだろうか?
わたしはこの《不幸》を、受け入れられずにいた。
だから、思い出しては後悔してしまう。
自分を責めてしまう___
「そんなに、彼が好きだったのか?愛していた?」
グエンに聞かれ、わたしは頷いた。
わたしは、ナゼールを《運命の人》と思っていた。
彼は大勢の令嬢たちの中から、わたしを選んでくれた。
ナゼールに近付く程に、わたしは彼こそが運命の相手だと思う様になった。
何れ、ナゼールと結婚するだろう___
そんな予感がしていたのだ。
そして、ナゼールは結婚を申し込んでくれた。
わたしは、彼との将来を思い描き、それが崩れ去るとは、一欠けらも疑っていなかった。
ナゼール以外の男性は、考えられなかったのだ。
「ナゼールは、わたしではなく、エリーゼと結婚するの!
どうしてなの?わたし、そんなに嫌な娘だった?わたしが何か悪い事をしたの?」
「君は悪くない、不運だったんだ。
時に、不幸は降り掛かるものだ、予期せぬ時に、一番悪い時に。
だから、自分を責める事は無いんだ、ミシェル。
それに、君はまだ若い、彼だけが男ではない、これから幾らでも出会いはあるよ」
わたしはグエンの腕の中で、頭を振った。
「わたしを見初めてくれる人は、ナゼールだけよ…
わたし、きっと、一生、結婚出来ないわ…」
「そんな事はない、君はもっと自信を持っていいんだよ、ミシェル」
グエンがわたしの肩を掴み、顔を覗き込んできた。
わたしは泣き腫らしたみっともない顔で、唇を尖らせた。
「客観的な意見よ、それに、これは真実だわ」
わたしが零すと、グエンは声を上げて笑った。
「確かに、君はもう十三歳の少女じゃないな!
小さなミシェルはそんな小難しい事は言わないだろう」
わたしは増々唇を尖らせた。
「ミシェル、君は可愛い、それに何処に出しても恥ずかしくない、素晴らしい令嬢だ。
君の良さが分からない男たちなど、相手にしなくていい。
君の足元に跪き、愛を乞う男こそ、君が選ぶべき相手だ。
自信を持つんだ、ミシェル」
グエンの言葉を聞いていると、自分が素晴らしい女性の様に思えてくる。
そんな筈は無いのに、誰かが自分の前に跪き、愛を乞う姿が見えた。
「でも、足が動かなかったら…結婚なんて出来ないわ…」
「それは違う、足が動かなくても、寝たきりでも、結婚は《愛》があれば出来るものだ」
きっと、グエンはそういう人なのだろう…
愛情の深い人…
わたしはぼんやりとそんな事を思っていた。
「さぁ、少し眠りなさい」と、グエンはわたしを抱き上げ、ベッドに運んでくれた。
そして、ベッドの脇に座り、小さな声で歌を歌ってくれた。
知っている、懐かしい歌に、わたしはいつの間にか、眠りに落ちていた。
◇◇
胸の中の事を吐き出した事や、グエンの言葉で、心の整理が少しだが出来た気がする。
「ナゼールはエリーゼと結婚するのだもの、諦めるのよ、忘れるの…」
結局、結婚式の日までに、わたしの足は治らなかった。
醜い傷痕も残った。
ナゼールの父、ヴァンサン伯爵は、きっと、こうなる事を予測していたのだろう。
わたしが怪我をした時から、全てが悪い方に回り始めた。
だが、幾ら悔やんでも、嘆いても、喚いても、過去に戻る事は出来ない。
今の自分の現状を受け入れるしかない___
「歩けるようにならなきゃ…」
いつか、誰かが見初めてくれるかもしれない。
グエンは『歩けなくても、寝たきりでも、愛があれば…』と言っていたが、
わたしはそこまで夢は見ていないし、例えそんな風に言ってくれる人が居たとしても、
おんぶにだっこでは、自分が嫌になるだろう。
「迷惑は掛けたくないもの…」
わたしは泣き言を言うのを止め、後悔するのも止めた。
只管に、足を動かす訓練に努めた。
それは、メイドたちによって、グエンに伝えられたのだろう、晩食の後で、グエンが言った。
「頑張っているらしいね、ミシェル、無理はしていない?」
「無理はしていません、大した事はしていないもの…」
「言葉通りか診てあげよう、足を見せてごらん」
流石に足を見せるのには抵抗があったが、相手は生まれた時からの付き合いの叔父だ。
意識し過ぎるのも変な感じなので、グエンの事は『医師』と考える事にした。
わたしは長ソファに座り、足を伸ばし、スカートを膝まで上げた。
グエンは「触るよ」と、躊躇いもせずにわたしの足に触れた。
「かなり固くなっている、マッサージをしよう」
「マッサージ?」
「筋肉をほぐして、疲れを取ってやるんだ、母にもしていたんだが、良く効くよ___」
グエンは言うが早いか、慣れた手つきで、わたしの足を揉み始めた。
気持ちは良いのだが、伯爵であるグエンにこんな事をさせて良いものか…
使用人たちが知ったら、悪く思うのではないか?と、わたしは少し懸念していた。
「あなたに、こんな事をさせたと知ったら、わたしここを追い出されるわ…」
グエンは声を上げて笑ったが、手はマッサージを続けていた。
そして、面白そうに聞く。
「この館の主は私の筈だが、一体、誰に追い出されると言うんだい?」
「分からないけど、きっと、館の皆は良く思わないわ。
主人を僕に使っているんだもの」
「せめて、君専属の医者と言って欲しいな」
「グエン兄様は医者ではないでしょう?」
「ああ、だけど、勉強はしたよ。
伯爵を継ぐのには必要無いと反対されたけど、何とか説得してね、
貴族学校を出た後で、医師の学校に行ったんだ___」
全く知らなかった…
わたしは驚き、茫然としていた。
「どうして、教えてくれなかったの?」
「私が医師の学校に通っていた時、君はまだ十歳にもなっていなかっただろう?
それに、医師の学校を卒業して、医師になった訳じゃない。
資格はあるが、伯爵と両立は出来ない、父に諦めろと言われて、
私は《伯爵》を選んだんだ…」
「知らなかったわ…」
「だが、勉強していたから、母の病に早く気付く事が出来た。
悪い事ばかりじゃないだろう?」
わたしは無言で頷いた。
「そして、今の君は、私の格好の実験体だ」
グエンがニヤリと笑うので、わたしはつい吹き出していた。
グエンはいつも、わたしに安心感を与えてくれる。
そして、気持ちを明るくさせてくれる。
グエンが伯爵ではなく医師の道を選んでいたら、きっと、良い医者になっていただろう…
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