上 下
11 / 16

11

しおりを挟む



わたしは確かに記憶を失っていたが、それは長くはなかった。


三日が経ち、わたしの体力は回復してきた。
伯爵がメイドから服や靴を借りてくれ、わたしはそれを着て部屋を出る事を許された。
館内も庭も、見知らぬ場所だったが、不思議と落ち着いた。

最初、伯爵は日に数度、顔を見せてくれていたが、
わたしの回復に従い、部屋に来る事は無くなった。
そうなると、わたしは、どうしてだか、あの不機嫌で厳つい顔を見たいと思うのだ。
わたしの事を疎ましいと思っているだろう、あの伯爵に会いたいと…

庭園で寂しく薔薇を眺めていた時だ、「フェリシア!」と呼ばれた。
その声を聞いただけで、わたしは歓喜して振り返る。
彼が歩いて来る姿に、わたしの胸は躍った。

「伯爵!」

「フェリシア、調子は良さそうだな」

相変わらず伯爵は不機嫌そうな顔をしていたが、それを懐かしく感じてしまう。
彼は主治医の様な目付きをしてわたしを眺めていたが、
わたしは喜びに声を弾ませた。

「はい!伯爵と皆さまのお陰で、すっかり良くなりました」

「それは良かった、君のこれからの事だが…」

伯爵は淡々と話を進め、わたしは戸惑った。

「君を世話しても良いと言ってくれている夫婦がいる。
老年で、子供は全員家を出ていてね、引き取って教育し、結婚まで面倒みると約束してくれた。
君にとっては良い話だろう___」

「嫌です!」

わたしは反射的に声を上げていた。

「わたしは、行きたくありません!ここから、出たくありません!」

伯爵は嘆息し、頭を振った。

「そんな訳にはいかない、君は若い、年頃の男女が一緒に住んでいれば、
悪評は付き纏うものだ、そうなれば、君の為にもならない。
君が行く先の家は良い人たちだ、安心しなさい」

「いや!!お願いです、ここに置いて下さい!わたし、何でもします!
メイドでも、何でもします!ここで雇って下さい、お願いします…!」

わたしは泣いて訴えていた。
わたしの必死さに、彼の気持ちは揺れている様に見えた。

ああ、どうか、わたしを傍に置くと言って!!

わたしは強く願い、そして、その声が頭に大きく響いた。

【わたしは嫌です!お願いですから、わたしをこのまま、この館に…】
【あなたの傍に置いて下さい!】

これは、なに…?

【わたしを愛してくれなくても構いません】
【ただ、わたしは、あなたの傍にいたいんです…!】

愛して…いる?
わたしが、傍にいたいと望み、愛した人は…

【君を傍に置く事は出来無い…君は、フェリシアに似過ぎている】

彼だ!!

わたしは「はっ」と息を飲む。

「フェリシア?どうした、気分が悪いのか?」

わたしは頭を押さえる。

【奥様の代わりで構いません!】

駄目!言っては駄目!!

【あなたが望むようにします】
【フェリシアになれというならわたしは…】

「___!!」

「フェリシア!?」

崩れ落ちるわたしを、彼が受け止め、抱きしめた。
わたしはそのまま気を失っていた。


わたしは全てを思い出していた。

自分が何者なのか、自分の過去、全てを。
そして、あの日の事も、だ。

あの夜、わたしはフェリシアに嵌められ、呪文を唱えてしまった。
フェリシアは死んでいなかった。
彼女は白猫になり、夫の周辺を見張っていたのだ。
そして、夫であるグエンに近付いたわたしを、恨んだのだと…

そう、思っていた。
だけど、違った。

フェリシアは、他でもない、わたし…アリスだったのだ___!





わたしが目を覚ますと、ベッド脇にグエンが居た。
わたしが知っているグエンでは無く、もっとずっと、若い…
だが、その表情は見た事がある。
彼は指を組み、辛そうな表情でわたしを見ていた。
彼がわたしに気付く…

「フェリシア!大丈夫か?」

わたしは瞬きし、ゆっくりと体を起こした。
彼が腰に枕を入れてくれた。
怖そうにしていても、本当は気の付く人だ。
変っていない事に、わたしはうれしくなった。

ああ、彼だ!
二十五歳の、グエナエル=ミュラー伯爵だ!

わたしの愛おしい人…!!

わたしは溢れ出しそうになる気持ちを抑え、静かに答えた。

「はい…取り乱してしまい、申し訳ありませんでした」

「いや、僕も説明不足で、君を動揺させてしまった…
記憶の無い君が、最初に会った僕を慕うのは仕方が無い…
だが、君は、恐らくだが、貴族の娘だ。
然るべき家柄の者に預け、見合った相手と結婚するのが一番だろう。
記憶を取り戻した時に感謝する筈だ」

わたしは笑いたくなった。
その変わりに、わたしの目からは涙が零れた。
わたしの心は正直で、記憶を失っている時でさえ、この人を想い慕っていた。

わたしの涙に、グエンは息を飲む。
困惑と罪悪感の浮かんだその顔に、わたしは悲しくなった。

分かっている。
まだ、彼はわたしの事を愛してはいない。
幾らわたしが『フェリシア』でも、彼がわたしを愛するのは、もっと先なのだ。

「伯爵、お願いです、もう少しだけ、わたしに時間を下さい…
暫くの間で良いので、ここで、メイドとして雇って下さい…」

「気持ちが落ち着いたら、僕の紹介する家に行くのだな?」

彼に聞かれ、わたしは迷った。
それまでに、彼の心を捕えられるか、わたしには自信が無かった。
だが、彼は待ってはくれなかった。

「それでは、二月だ、その間に気持ちを整理しなさい、フェリシア」

彼はそれを決めるとスツールを立ち、部屋を出て行った。

「二月…」

それまでに、わたしは彼の心を捕える事が出来るだろうか?
フェリシアは『それ』をしたのだ。
そして、フェリシアは、多分、わたしなのだ…
それでも、わたしには自信が無かった。

最後に会ったグエンは、わたしに恋などしていなかった。
それ処か、わたしは彼を疎ませ、酷く怒らせてしまった…!

わたしは震える自分の身体を抱きしめた。


◇◇


わたしはメイドたちが住む塔に移った。
アリスとして館に居たが、ここは初めて入る場所だった。
驚く程小さな部屋だが、必要な物は揃っている様に見えた。
ベッド、チェスト、クローゼット、壁掛けの鏡、小さな机と椅子。

「メイド服よ。あなたは何も持っていないから、普段着、下着、夜着…
靴もあるわ、旦那様は親切な方だから、良かったわね!」

メイドのポーリーが説明してくれた。
ポーリーはわたしと同じ位の年で、暫くわたしに付き、教えてくれるという。
アリスとして館に居た時、ポーリーというメイドはいなかったので、結婚して辞めたのかもしれない。

わたしが知っているメイドや使用人は少ない。
アリスが館へ来たのは、これから十三年後だ、それも仕方ないだろう。
老年のレナールも、今は随分若く見えた。


メイドの仕事の内、能力に合った仕事に就ける様、グエンは指示していた。
グエンはわたしを貴族の娘だと思っているので、碌に仕事は出来無いだろうと思っているらしい。
だが、残念な事に、それは当っている。
わたしは家の手伝いが少し出来る程度だった。

初めての事ばかりで、随分手間取り、失敗もした。
幸いなのは、若くてそれなりに体力があり、動ける事だ。
それに、魔法学園を出ているので、基本の魔法は十分に使えた。
尤も、記憶が戻っている事を知られてはいけないので、そこは隠す事にした。
魔法を使うのは、究極に困った時にだけだ。

結果、わたしの仕事は、テーブルセット、給仕、銀食器磨き、花を生ける事…
後の事は追々、教わる事になった。

わたしがグエンと顔を合わせるのは、給仕の時や、客が来た時の給仕だけだった。
その時でさえ、あまり声を掛けて貰う事は無かったし、わたしを見る事さえ無かった。
彼は、わたしをこの館から出て行かせる為、遠避けているのかもしれない。
もしかしたら、ただ、興味が無いだけかもしれない…

わたしは元々、容姿に自信のある方では無い。
グエンは美しいと言ってくれていたが、それは『フェリシア』あり気の事だろう。
今はメイドの姿だし、とても魅力的には見えない。
わたしは自分の姿を鏡に映し、落胆した。

だが、周囲の見方は少し違った様だ。

「フェリシアが来て、旦那様も少し気が紛れたみたいね」
「本当ね、久しぶりに活き活きしておいでだったわ」
「それまでは、精気が無くて、塞いでいらしたものね…」
「あんな事があったんですもの、仕方ないわ」

食事の時間に、メイドたちが話していた。

「あんな事というのは…?」

メイドたちは顔を見合わせた。
それから、「他の人に言っては駄目よ」と口止めし、こっそり教えてくれた。

「旦那様には婚約者がいらっしゃるのよ、スザンヌ=マルシャン伯爵令嬢」
「本当なら、今頃は結婚していた筈なの」
「でも、彼女は式の一月前になって、延期してくれっていってきたのよ!」
「信じられないわよね!」
「もう、式の手配は済んでいて、準備も進んでいたんですもの!」
「招待客にも連絡がいっていたし、全く酷いものよ!」
「でも、旦那様はそれを受け入れたのよ、可哀想だといってね…」
「それなのに、あの女ったら!!」
「男と旅行に行ったっていうのよ!!」
「旦那様はそれ以来、元々無愛想な方ではあったけど、全く笑わなくなってしまわれたのよ…」

グエンと元婚約者の話は、聞いていた通りの様だ。
だが、『元々無愛想』という言葉に引っ掛かった。
アリスから見たグエンは、愛想とまではいかないが、
普通に感じ良くしている人だったし、必要とあればそれも出来る人だった。

婚約者から裏切られた時の辛さは、わたしにも理解出来た。

『僕も、同じ気持ちになった事がある、だから、君の痛みも理解出来る』

グエンもそう言っていた。
グエンはアリスを好きにさせてくれた。
悲しむ時間をくれたのだ。

『好きなだけ、悲しむといい、君にはそれだけの時間がある』

彼には悲しむ時間はあるだろうか?
伯爵、領主という仕事があるから、落ち込んでいられないのかもしれない。

『まずは、ゆっくり休みなさい、泣き叫んでもいい、気持ちを吐き出す事は大事だ』

『僕は気持ちを吐き出す事が出来ず、冬眠前の熊の様だったよ。
それをフェリシアが解いてくれた、自分を抑えていては駄目だと、
その方が周囲の迷惑だとね』

わたしはグエンの言葉を思い出す。
彼は、気持ちを吐き出す事が出来無いのだ…

『フェリシアは、自棄になり不機嫌だった僕を、可哀想に思ったのか…
毎日カップケーキを焼いてくれた。
だが、彼女は料理が上手くはなくてね…いつも焦げていたり、爆発していたり…
どの様に料理したら、これ程…おかしな物が作れるのかと、不思議でね、
調理場を覗いた事があるが、とても楽しそうに作っていた…』

『彼女のお陰で、すっかり気持ちも削がれてね…
真剣に落ち込んで自棄になっているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
気付くと、フェリシアと一緒になって、笑っていた…』

『フェリシアの優しさや愛らしさに、僕は惹かれていった…
彼女を愛おしいと思い、傍にいて欲しいと…』


今のわたしが、どれだけ出来るかは分からない。
だけど、やってみよう、彼を苦しみから解き放ってあげたい___


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

(完結)私はあなた方を許しますわ(全5話程度)

青空一夏
恋愛
 従姉妹に夢中な婚約者。婚約破棄をしようと思った矢先に、私の死を望む婚約者の声をきいてしまう。  だったら、婚約破棄はやめましょう。  ふふふ、裏切っていたあなた方まとめて許して差し上げますわ。どうぞお幸せに!  悲しく切ない世界。全5話程度。それぞれの視点から物語がすすむ方式。後味、悪いかもしれません。ハッピーエンドではありません!

愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。

石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。 ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。 それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。 愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。 この作品は他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。

【完結】生贄になった婚約者と間に合わなかった王子

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
フィーは第二王子レイフの婚約者である。 しかし、仲が良かったのも今は昔。 レイフはフィーとのお茶会をすっぽかすようになり、夜会にエスコートしてくれたのはデビューの時だけだった。 いつしか、レイフはフィーに嫌われていると噂がながれるようになった。 それでも、フィーは信じていた。 レイフは魔法の研究に熱心なだけだと。 しかし、ある夜会で研究室の同僚をエスコートしている姿を見てこころが折れてしまう。 そして、フィーは国守樹の乙女になることを決意する。 国守樹の乙女、それは樹に喰らわれる生贄だった。

花嫁は忘れたい

基本二度寝
恋愛
術師のもとに訪れたレイアは愛する人を忘れたいと願った。 結婚を控えた身。 だから、結婚式までに愛した相手を忘れたいのだ。 政略結婚なので夫となる人に愛情はない。 結婚後に愛人を家に入れるといった男に愛情が湧こうはずがない。 絶望しか見えない結婚生活だ。 愛した男を思えば逃げ出したくなる。 だから、家のために嫁ぐレイアに希望はいらない。 愛した彼を忘れさせてほしい。 レイアはそう願った。 完結済。 番外アップ済。

おさななじみの次期公爵に「あなたを愛するつもりはない」と言われるままにしたら挙動不審です

あなはにす
恋愛
伯爵令嬢セリアは、侯爵に嫁いだ姉にマウントをとられる日々。会えなくなった幼馴染とのあたたかい日々を心に過ごしていた。ある日、婚活のための夜会に参加し、得意のピアノを披露すると、幼馴染と再会し、次の日には公爵の幼馴染に求婚されることに。しかし、幼馴染には「あなたを愛するつもりはない」と言われ、相手の提示するルーティーンをただただこなす日々が始まり……?

【完結】白い結婚なのでさっさとこの家から出ていきます~私の人生本番は離婚から。しっかり稼ぎたいと思います~

Na20
恋愛
ヴァイオレットは十歳の時に両親を事故で亡くしたショックで前世を思い出した。次期マクスター伯爵であったヴァイオレットだが、まだ十歳ということで父の弟である叔父がヴァイオレットが十八歳になるまでの代理として爵位を継ぐことになる。しかし叔父はヴァイオレットが十七歳の時に縁談を取り付け家から追い出してしまう。その縁談の相手は平民の恋人がいる侯爵家の嫡男だった。 「俺はお前を愛することはない!」 初夜にそう宣言した旦那様にヴァイオレットは思った。 (この家も長くはもたないわね) 貴族同士の結婚は簡単には離婚することができない。だけど離婚できる方法はもちろんある。それが三年の白い結婚だ。 ヴァイオレットは結婚初日に白い結婚でさっさと離婚し、この家から出ていくと決めたのだった。 6話と7話の間が抜けてしまいました… 7*として投稿しましたのでよろしければご覧ください!

白い結婚の王妃は離縁後に愉快そうに笑う。

三月べに
恋愛
 事実ではない噂に惑わされた新国王と、二年だけの白い結婚が決まってしまい、王妃を務めた令嬢。  離縁を署名する神殿にて、別れられた瞬間。 「やったぁー!!!」  儚げな美しき元王妃は、喜びを爆発させて、両手を上げてクルクルと回った。  元夫となった国王と、嘲笑いに来た貴族達は唖然。  耐え忍んできた元王妃は、全てはただの噂だと、ネタバラシをした。  迎えに来たのは、隣国の魔法使い様。小さなダイアモンドが散りばめられた紺色のバラの花束を差し出して、彼は傅く。 (なろうにも、投稿)

旦那様のお望みどおり、お飾りの妻になります

Na20
恋愛
「しょ、初夜はどうするのですか…!?」 「…………すまない」 相手から望まれて嫁いだはずなのに、初夜を拒否されてしまった。拒否された理由はなんなのかを考えた時に、ふと以前読んだ小説を思い出した。その小説は貴族男性と平民女性の恋愛を描いたもので、そこに出てくるお飾りの妻に今の自分の状況が似ていることに気がついたのだ。旦那様は私にお飾りの妻になることを望んでいる。だから私はお飾りの妻になることに決めたのだ。

処理中です...