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scene.11 星海水餃
しおりを挟む「ええ、そう。……うれしい。わたくしもあいたいわ。あなたって、やっぱりかわいいわね。ねえ、けがはしないで。あなたがきずつくのって、やっぱりこわいわ」
「怖くなんてないくせに」
「ふふ、わからずやさん」
口を挟んだ僕の頬を抓って通話を終えた王は、スマホを白いテーブルクロスの上に放ってスパークリングウォーターのグラスを手に取った。冬の海の寂寞を遠く窓ガラス越しに臨むこの席で、王は海になんて興味なさげに睫毛を伏せてそれを傾けている。
「お酒、飲めばいいのに」
と呟く僕に、王は「ドライバー、交代するかもしれないでしょう」と、多少の期待感を込めた声で返して箸を手に取った。黒く細い先端を不器用にぱくぱくと動かして、優美に微笑むその所作が意味するのは僕への指示。言語化するならば「余計なことを言わずにはやく料理を皿に盛れ」といったところか。
「いや、ほんとうに運転はしないでいただきたいと言いますか」
敬語で伺いを立てながら、王の皿にサーブされたばかりの料理を盛り付ければ、途端にそれをひったくられる。そして大真面目に、
「わたくしも免許証は持っていますよ。国際。大型」
と宣する王の横顔を斜め上から見下ろして、その立体的な輪郭が醸す大仰な自信に、怖気づく僕もまた王と同じくスパークリングウォーターのグラスを手に取った。今日はノンアルデーである。
「大型はやめてくれって何度も頼んだのにね」
「ふふん。ペーパーテストは満点。技能試験はちょっとしゃっくりが止まらなくて何度かアクセルを踏み込んだだけでほぼ完璧でした。やめるべき要素、結果的にゼロ……」
確かに王は試験の類いが異様に得意でなんでもかんでもハイスコアを叩き出す。しかし大変困ったことにも、我が王はベテランのペーパードライバーだった。
「でも、こういう普段の運転は従者がするものだよ。僕に任せて、ね?」
そのこころは……なにかとんでもないことをされたら、困る。
かくいう僕も一度王の運転に付き合ったことがあるのだが、それはそれはお上手であった。しかし信号待ちなどで「5点、10点、あ、70点」となにか得点をカウントし始めたので不可解に思い、その意図を問えば、「撃破経験値です」という末恐ろしい答えが返ってきた。なんと王は、通行人を跳ね飛ばす妄想をしていたのだ。一部点数が高かったのは恐らく知り合いの社長が視界に入ったからだろう。もちろんただの妄想だと理解はしているが、以来、王に車の運転はさせていないし、今後もさせるつもりはない。
「あら、ハオチーですね、これ」
王がそう感想を向けるのは、三鮮燜子だ。口に運んだそれをほくほくと噛み締め、口に手をあて細かく頷きながら、王は抜群に可愛らしい笑顔を僕に向ける。そんな表情をされては僕も同じものを食べないわけにはいかない。殻から身を取り外す途中だった蒸しシャコを一旦置き、三鮮燜子を皿に取ってみる。
燜子とはサツマイモやキャッサバの澱粉で作られた、柔らかくもっちりとした食感の中国北部の伝統食である。このワードで検索をかけるとゼリーや澱粉ゼリーと訳されることが多いこの不思議な見た目の食品は、炒められたりタレで和えられたりといった、ぷるぷるとした姿で見かけることが多いのだが、揚げは初めてだ。ざっくりとダイスカットにされたそれら揚げ燜子の上には、エビやイカ、貝類、ナマコといった海鮮系の具材がたっぷりと入った餡がかけられており、海沿いの街にいるという期待感に応えるかの如く、非常に魅惑的な香りを漂わせている。
……まずはエビイカと燜子をスプーンに転がし、口に運ぶ。燜子はカリッとパリッの中間くらいの口当たり。内側はねっちり。そこに海鮮の出汁が効いた餡がじゅんわりと染みて美味い。味のベースはゴマだれだろうか。エビもイカも歯応えがよく、個人的に気の進まないナマコに対する希望的観測がみえてくる。……ナマコも掬って、ひと思いに。いける。全然、いける。コリコリとした食感も楽しい。そもそもこの餡が美味すぎるのだから、海産物ならなにを入れたとしても成立するだろう。是非とも料理長にレシピを訊きたいところだ。
「……ゾエはなんて?」
解体の途中だったシャコを再び手元に寄せながら、王に問う。すると王は、指でつまんだシャコを丸ごと口に落とそうとしたところで僕と目が合ったことに驚いたらしく、ばつの悪い様子で殻つきのそれを皿に戻して可愛く咳払いをした。その姿に白けた視線を送ると、「剥いて?」とおねだりされてしまったので、僕がいま剥いたばかりのものと交換してやる。
「彼女、次に長期の休みが取れたらこちらに遊びにくるそうですよ」
「へえ、いいじゃん。あの子真面目だから、休もうとしてくれるのは純粋に嬉しいな」
ゾエの実家は日本の由緒ただしい吸血鬼家系である『霞舟家』だ。吸血鬼は殆どが雄で、長老の祝福があれば同性同士でも子を成せるのだが、彼女の両親も例に漏れず男夫婦らしい。そこに生まれた女の子なのだからさぞ尊ばれ可愛がられたに違いないが、それはそれとして厳しく躾けられたのかTHE・日本人というステレオタイプなイメージのままともいえる勤勉な性格をしており、なかなか有休を取ろうとしない悪癖があった。
「ハオチ―をいっぱいあげたいです」
王はシャコを飲み込んでから、そんなささやかな願望を漏らす。
「へえ……たとえば?」
ゾエが王から可愛がられていることに関しては正直面白くないが、それは飲み込む。
「それを、探すの」
王は花のように微笑む。
面白くない面白くない。ヘソが曲がる。口もへの字に曲がる。
「おまえがわたくしにしてくれたように」
そう言われてしまっては、彼女をもてなすのに僕も一役買ってやらないこともない。まったく、我が王はわがままなんだから。いつまでも僕がいてやらないとだめなのだ。まったく、まったく……。口元が緩んでいくのを感じてなかなかシャコを齧れずにいる僕に、王はなにか不可解なものを見るような目つきを向けてくる。
「王、僕のこと好き?」
「なんなのです、脈絡がありませんね」
春節は賑やかにしか過ごせない。
ならば今のうちに穏やかで静かな時間を享受し、寝溜め食い溜めのように『溜めて』おこうと、僕たちは東北三省のうちひとつである遼寧省の大連にやってきた。遼寧省にはあまり観光地がないと聞いていたが、大連には日本人が多く、韓国街もあって、なんだか東アジアのパック旅行でもしているかのように不思議でお得な雰囲気だ。ネットの記事によれば瀋陽の駅は東京駅にそっくりで、東京駅のデザイナーの教え子が手掛けたという。他にも瀋陽に現存する故宮も満州、漢、モンゴル民族の様式が融合しているとガイドブックに記載があり、添えられていた写真にはそれはそれは見応えがあった。加えて東北はロシアの租借地だったという経緯もあって、ところどころにその色を濃く残した建築物も多く残っており、とにかく散策が楽しい。インバウンド向けに売り出している観光地の少なさなど些末な問題であり、『旅』そのものの楽しさ──風土を調べることやプランを練る段階、金銭面への一喜一憂なども包括したものだ──には影響しないと、この数日間で僕はしみじみ実感していた。
そんな、ある意味でカオスで賑やかな地域ではあるが、海辺の風光明媚な景色は大自然由来のシンプルな美しさを湛えており、余計な蘊蓄をすべて取っ払ってただ素晴らしいと言える。夏に訪れればもっと楽しいのだろうが、冬場もなかなか悪くないと、僕は評価する。
食事のあと、僕たちは星海広場というロマンチックな名前のアジア最大級の広場を、手を繋いで歩いていた。潮風を吸い込んでは白い吐息に転換し、それらが千々に消えゆく軌跡を眺めながら、口内に響くような寒さに目を細める。さみしい気温だ。冬にいつもセンチメンタルな気分になるのは、王の血に塗れた玉体を抱えて彷徨った季節だからだろう。今年はニューヨークにいなくてよかったな、としみじみ思う。
「コニチハ、知ってます。ハローの意味。韓国語でハローはなんですか?」
「アニョハセヨ、だね」
「アニオ、アニョ、ハセ……」
知らない言語の挨拶を習得しようとしている王を微笑ましく見守っているうちに、車を停めていた駐車場に戻ってきた。今回はのんびり海辺をドライブしようと、今朝がたホテルの近くでレンタカーを借りたのだ。その左ハンドルの日本車に乗り込み、エンジンを入れ、暖房をつけると、眼鏡が微かに曇る。それをタップ操作で晴れさせて、あらかじめスマートグラスに保存していた海辺のドライブルートを、車のナビに転送した。すると僕の使っているバーチャルアシスタントである『猫のジュンコ』の声で「駐車場出口を右です」とアナウンスがあった。声だけでは物足りず、「出ておいで」と指示すれば、モニターの端に現れた灰色の猫が、こちらに一礼。ナビゲーターのコスチュームを着た彼女は、優雅な所作で背後に用意された椅子に腰かける。
「あっ、ヴォ―トランも! ヴォ―トランも出して!」
そう言われると思ったので、スマホを預かって要望通りに『羊のヴォ―トラン』も表示してやると、王は手を叩いて喜んだ。ヴォ―トランはよいしょよいしょと画面外から椅子を運んでくると、ジュンコの隣に落ち着く。彼らは目が合うとお互いに軽く会釈をしており、芸が細かい。
「まあ、かわいらしい。ヴォ―トラン、ジュンコを口説いちゃだめですよ」
「勿論です。職業倫理、というものがありますので」ヴォ―トランは聞き慣れた艶やかな男性の声でそう言って自身とジュンコのあいだに空いた隙間を指す。どうやらパーソナルスペースを守っていると主張したいらしい。
「あら、口説いてもいいんですのよ」二足歩行猫のジュンコがその美脚を見せつけるが如く脚を組む。
「いやいや、ジュンコさん、恐れ多いですよ」
ヴォ―トランは顔の前で手を振る。これは脈なしか。いやはや、昨今のAIの進歩はめざましい。
「はい、じゃあ出発しまーす」
敢えて自動運転設定にはせずに、車を出す。普段からアシスト機能は入れているものの、僕は自分で運転するのが嫌いじゃない。王は助手席で「マシュりこ、食べますね」と早速コンビニで買った菓子の蓋を開けていた。
「レンタカーだからお菓子食べた手であちこち触らないでね」
「そのわりにティッシュが手元にないのですが」
「キミねえ……」
片手で尻ポケットからウェットティッシュを出して渡してやる。ついでにハンカチも膝に敷いてやって、「こぼすのもダメ」と注意した。すると王は曖昧極まりない声で返事をしているのかしていないのかよくわからない唸りを上げ、そのスナック菓子をザクザクと食べ始めた。これは聞いていないときのやつだな……と思いながら、信号待ちで踏んでいたブレーキから足を離す。
それから海沿いの道へと出た。窓を開ける。他にヒトが乗っているのならこの外気温では開けないが、今日この車内にニンゲンはいない。
左手に森林動物園の看板を見た王が「パンダです! 師父! どうか弟子に!」と僕越しに窓の向こうに声を張る。それを「近いうちに行こうね」と宥めて、ジュンコに「チケット取っておいて」と命じると、すぐに「紙のチケットのデザインが可愛らしく、コレクション用に人気です」と返ってきた。モニターに表示されたチケット一覧は確かに可愛らしく、絵柄はランダムらしい。
「あー、じゃあ比較的人の少ない曜日と時間を調べてスマホに送っといて」
「かしこまりました」
動物園の広大な敷地はまだまだ目の前に続いていたが、途中で右折をして星海湾海上大橋へと入った。これは文字通りの海上橋で、湾を横切る巨大な国道である。視界の左右が海ということもあり、王は大興奮の様子だ。スマホカメラを構えて、細かくシャッターを切っている。そこで「ヴォ―トラン、写真を撮ってあげて」と命じると、王のスマホが「メエ」と鳴った。王の手だと手振れが酷いので、少しくらいは綺麗に撮れたものを残してやろうというお節介だったのだが、その写真を見て王は、
「まあ、ヴォ―トランってば写真がじょうずなのですね!」
と喜ぶと、モニター越しにヴォ―トランを指で撫でた。撫でられた彼は嬉しそうに目を細め、モフモフの身体を揺らし、ハートのエフェクトを撒き散らしている。……ちょっと、ジェラシー。
「王、なんか歌ってよ」
走行音。風。波。海鳥。静かな車内も悪くはないが、王の歌声があればもっといい。すると王は、僕が予期していたヘンテコだけれどやけに上手い謎の歌ではなく、非常に美しい詩と旋律を聴かせてくれた。本人は何気なく、リラックスした様子で喉をふるわせているが、僕は胸を突かれるほど感じ入ってしまい、息すら忘れそうになる。窓の外では、海鳥が集まってきて、車に並んで飛んでいた。……橋を降りる。猫と羊がそれぞれ肉球と蹄で僕の代わりに拍手をする。
「録音しておきました。保存しますか?」
ジュンコがそう提案してくるのに、「勿論」と返して、彼女を撫でた。ハートがひとつだけ飛んだ。
「今のは……恋の歌?」
ふと思い立って王に問う。
「ふふ、恋なんて知りませんよ、わたくしは」
そう笑って、王は再びスナック菓子を手に取った。
「ですがおまえの恋の話をきかせてくれたら、作りますよ。恋のうたを」
「……伝わんない?」
またしても、問う。
「なにがです?」
「……僕の気持ち」
回答はなし。
王の口元で、その菓子の広告とまるっきり同じ音が鳴る。
「……言葉って。おもしろいですね。相手に解釈をゆだねるしかないのに、自分の気持ちが伝わらないとなれば不服に思う。身勝手なツールです」
そう呟くように言って、王はふたたびさっきの歌のサビと思しき部分を繰り返した。
ええ、そう。……うれしい。わたくしもあいたいわ。あなたって、やっぱりかわいいわね。ねえ、けがはしないで。あなたがきずつくのって、やっぱりこわいわ。
「……確かに僕はいつも言葉が足りないかもしれない。でもさ、態度や行動でも、伝わらないのかな」
ぎゅっとハンドルを握って、僕はいつになく真面目になる。
「たとえばどんな態度や行動? それでなにを伝えたいの?」
今度は王から問われて、言葉に詰まる。愛していると、既に言葉にしている。日頃からキスもハグもしているし、たくさんの贈り物だってしてきた。それ以外に、もうなにもないんじゃないかと思ってしまって、怖気づいてしまう。もう無いのだろうか、僕の愛って。手段って。そう悟りたくなくて、言葉を捏ね回す。行動原理を逆算するために、いま最も素直な想いを抽出する。『ちょっともう結婚とかしてみない?』……いやいや。いやいやいや。
「ごめん、一分だけお時間ください」
「ええ、どうぞ」
ひとときの熟考。王は興味がなさそうに芋菓子をザクザク。
たしかに僕にはもうありきたりな愛情表現しか残っていないのかもしれない。しかし、持っているカードを繰り返し使ったっていいはずだ。わかってもらえるまで何度も伝えたっていいはずなのだ。せめてこの愛が伝わってからマンネリ化したいと願うことは罪ではないと、信じたい。
「……王、あのさ、ちゃんと行動で気持ちを示したいからさ」
意を決して、わき見運転。
「ええ」
「めちゃくちゃ、カーセックス、したい、です」
だから僕は今アブノーマルを、やるべきなのだ。まだマンネリのときじゃない。だってまだまだ一向に、僕の気持ちは伝わっていないのだから。
「すんごい、やつを」
僕が念を押したその瞬間、ジュンコが「こちら、近隣の休憩施設一覧です」とモニターの表示を変えた。すかさずヴォ―トランが「ジュンコさん、それは違うと思います。ニュアンスが」と指摘する。そうだ、ヴォートラン、キミは正しい。
「言ってみたい言葉があるのですが」
数秒の沈黙ののち、王は空になった『マシュりこ』の容器を片手で握りつぶしながら言った。僕は「どうぞ」と続きを促す。
「『男ってどうしようもないわね』……千鶴大姐の台詞です。今の時代に言うには多少憚られますが」
吐き捨てるようなその言葉に、僕は筋違いに興奮してしまう。なんてセクシーなんだ。もっと虐められたいとさえ思えるそのぞんざいな態度が堪らず、思わず口元を手で覆って感じ入る。僕個人は全然マンネリ化するとも思ってないです……と縋りつきたい気持ちを抑えて、「好きい」と漏らすだけに留めたので、僕は偉い。
「『ヌンチャク・パンダ』第四章六話、ですね」
ヴォ―トランが補足する。ジュンコが「その台詞に同意します」と頷く。僕は「だってえ」と眉を下げる。
「惚れたら抱きたいでしょう、いついかなるときも」
マンネリの件は省いて言う。所詮は僕のモノローグだ。
「へー」
「なにその興味ない感じ」
「おまえ、惚れても惚れなくても関係ないでしょう」
「まったく、僕のことをなんだと……」
「……思ったら正解なのですか? 教えてください」
「世界一可愛い使い魔」
片手で、王の手を手繰り寄せ、握る。違う。ほんとうはそうじゃない。世界で一番愛してほしい。世界で一番のオトコだと思ってほしい。僕だけがかっこよくて、僕だけが頼りになって、僕だけに抱かれたいと思ってほしい。欲望が満杯のこの心はたしかに、そのすべてを言葉という土俵には出せない。言葉を尽くしてぶつかることができないのは、キミに嫌われたくないからだ。見捨てられたくないからだ。
ほんとうに、言葉なんて身勝手なツールだ。
「それはもう、ずっとそう思っていますよ」
王はそう言って、ドリンクホルダーに差し込んでいたキャラメルマキアートのストローを吸った。そして「おまえの好きなところで車を停めなさい。よく考えて」と僕に命じて、窓を閉める。
「ねえ、ほんとうにいいの……?」
「おまえがしたいと言ったのではないですか」
「そうなんだけど……やば、興奮する……」
エンジンをとめて。後部座席に移動して。人気のない駐車場で。レンタカーでなんて最悪も最悪。でもどうせ僕たち、人でなしだし。仕方がないと胸の裡で言い訳をしながら……ただしくは欲望に打ち負かされながら、組み敷いた王の肉体に触れていく。僕の長身が収まりきらないので背後のドアを開け、外気温の低いなか、まあどうってことはないと続々と上着を脱ぎ捨てれば、王は「まあ、寒そう」と僕の胸に、素肌に、触れた。
「王があっためてくれるしー?」
ものすごく調子に乗りながら、王に覆いかぶさりキスをする。色んなところに触れて、撫でて、ときには食い込んでみたり。王がだめ、と洩らすので、「だめじゃないよ」と語尾にハートを浮かばせながらその『だめ』な感じを続行する。「まって」「やだよ」「おねがい」「かわいいね、王」「そうじゃなくて」「じゃあどうなの」「ほんとに、やめて」「どのくらいほんと?」「ああもう」「王だいすき」「……ラドレ、ステイ!」
突如、厳しい声で王がそう言ったのでぴたりと動きを止める。まさか痛くしてしまったのかと固まっていると、王は無言で頭上を指さした。その先を目で追うと、後部座席の窓にぴったりと誰かが。
「まってまだいれてない!」
仰天や動転よりも先に、そう叫んだ僕の頬を軽くはたいて、王は僕を押し退け起き上がると、乱れた服を直しながら肘でスイッチを押して窓を開けた。そして特に驚いたり困ったりせず、極太の神経で以て「なにか御用ですか?」とその人影に声を掛ける。僕は片手で顔を覆いつつ、無言のまま上着を下半身に被せた。
「すみません、ヒッチハイクをしたかったんですがタイミング悪かったですかね」
そんな呑気な男の声に、脳が溢血寸前まで加熱される。
「バリバリカーセックスしてる車にヒッチハイクもクソもあるかよ!」
ただ、怒鳴る。
「だいじょうぶ、まだしていませんので」
しかし僕とは対照的に王は穏やかな口調でその男に笑顔を向けると、脱げたヒールを拾って履き、それから僕に「服を着なさい。あと、手も拭きなさい」と言って声のしたほうのドアから車外に出ていってしまった。仕方がないので言われた通りにして、僕も反対側の扉から外に出る。しかし何とは言わないがなかなか収まらないので、ルーフの上に肘をついて、車体越しに「誰なんだよアンタ」と吐き捨てる。僕は最大限に苛々していた。
「すみません、いきなり。迷子で」
「一体どこで迷子になってんだよ。山の中だぞ」
ドキドキお預け解放タイムの予感に、僕はときめく気持ちに任せて早々にシーサイドドライブから逸脱し、めちゃくちゃ山中に来ていた。絶対に誰にも邪魔されたくなかったからだ。しかし結果はこの通りである。
「超方向音痴……とは自分では思わないんすけど、周りからはそう言われてるというか……」
そうぽつりと漏らす男は、ずんぐりと骨太の体躯のくせどこか気弱そうだ。草食獣的なぎっちりとした筋肉の詰まり方かと思えば、顎の辺りなどに肉食獣っぽさも感じる。いわゆるガチムチ系ではあるものの、顔の印象としては目元と眉のあたりが華やかな大陸系。つまり、肉体の印象とは裏腹に、よく見ればなかなかの美男である。しかしどうにも、芋っぽい印象があるのは、そのゆっくりのんびりとした話し方のせいか。
「……同族?」
要は名乗るように促す。すると彼は、ぱっと笑顔になって言った。
「はい。ザントンといいます。饕餮です」
「タオティエ……ええと、饕餮……?」
饕餮とは牛の身体と大きな角、虎の牙と人の爪と顔を持つと言われる、いわゆる『なんでも食べる怪物』だ。なんでも食べるので魔すらも喰らうとされて魔除けのシンボルとなっており、殷から周時代の数々の出土品にはその紋様が刻まれている。中国神話においては帝・舜によって倒され、中国南部から幽州に流れたとかなんとか。そして幽州とは、まさにここ遼寧省も含む一帯である。
「はい。ご存知ですか?」
「まあ、ざっくりとは……なんでも食う、くらいで」
「そうなんす! オレ、食べるの大好きなんす! だから色々なところで食べ歩きをするのが趣味で、文字通り歩きで各地をまわってるんすよ。でもよく迷子になっちまうというか……ここいらにはお寺さんがあるので近づくのはよくないかなと迂回に迂回を重ねてたらもうわけがわからなくなっちまって、腹も減って、どうすっかなーと思ってたら車があったんで。瘴気の感じがあったから、同族さんかなって」
ああこれは、性格が災いして強制的に行き当たりばったりになるタイプだ。要領を得ない話し方でわかる。しかし彼が『気のいい兄ちゃん』であることも、また話し方と雰囲気で察することができた。いわゆる、ほっとけないタイプでもあるのだ。しかも彼はこの冬の山中で薄手のシャツと簡素な上着のみという軽装。その背負っているボロボロのバックパックの中身にも防寒対策は期待できなさそうだ。
「まあ、寒いでしょうから中に入ってください。送りますよ」
王がそう言うのは予想がついていたが、僕もまた「送ってやるべきだな」と薄々感じていた。溜め息がだだ漏れるが、仕方がない。「乗りなよ」と促すと、エンジンをかけた。
ジュンコとヴォ―トランは無言でいる。そういう人間らしさは要らないんだよな……と思いながら後部座席に身体を捻じ込んだ男に行き先を問うと、
「ハツ魚圏区です」
と返ってきた。耳慣れないのでスマートグラスで調べてみたことには『ハツ魚』とは鰆のことで、この港町でよく食べられていることからその名前が取られたようだ。なかなかにユニークな地名である。
「えっと場所は……って、隣の市じゃん! ていうか位置逆っていうか、なんで半島の端っこまで来ちゃったのさ……?」
現在地から距離でおよそ二百キロメートル近くはある。これは迷子どころの話ではない。
「ええとですね、うろ覚えなんすが、地名に星海ってのがあったなーと思って……スマホとチャージャーのバッテリーが切れちゃったんで、看板とか人に尋ねてみたりしてここまで……」
「んん? ハツ魚圏区に星海なんてなくない?」
視界に浮かび上がった地図情報を宙でタップしたり拡大してみたりするが、そんな地名は存在しないので困惑する。仕方がないのでジュンコに「ハツ魚圏区に星海ってないよね?」と問うてみると、数秒の沈黙ののちに彼女は、
「ハツ魚圏区には星海という地名はありません。しかし『海星』いう地名は存在します。海星街道に属しています」
とよく通る美声で告げた。
無言で振り返ると、ザントンは眉尻を下げた気の抜けた笑みを浮かべながら顎を指で掻いている。
「たはは。両方とも綺麗な地名すね。星と海なんて」
「たははじゃないんだよ。よくそのぼんやりとした目標設定で今まで生きて来られたな」
これはいわゆる天然というやつだろうか。心から彼の行く末が心配になるが、とやかく言っていても仕方がない。ジュンコにルート設定をして貰うと、有料だが高速で二時間ちょっとだと出た。マップに引かれたブルーのルートを見る限りは元々通る予定だった道も経由するようだし、往復四時間はキツいがまだドライブの範疇だ。漁港を有する土地ならば食事も美味かろうと、気を取り直してルートを確定しようとしたその途端。
「ご指定のルートは五分前に発生した、車を計九台を巻き込む交通事故のため、通行止めです」
突如、汗のエフェクトを散らしながら、ヴォートランがジュンコの前に割り込んできた。ご丁寧にもハンカチで額の辺りを拭って申し訳なさそうにしている。
「はあ? え、じゃあ下道は?」
「再設定します……五時間二十五分」
「はああああ?」耳を疑う。
やっぱり降ろそう。それか駅とかに送る程度にしよう。この辺りは地下鉄が発達しているのだからどこへでも行けるはず。……と王に提案しようとするが、王は「そんなに長い道程を徒歩で目指そうとするだなんて……ガッツがありますねえ」と呑気に後部座席を振り返っている。ザントンも照れたように頭を掻きながら「体力だけが取り柄なんす」とヘコヘコ頭を下げていた。その光景をルームミラー越しに目撃して、もう逃げられないことを悟って青褪めている僕の肩を擦って、
「まあ、帰りには高速も使えるようになっているかも知れませんよ」
と、王は楽観的。王のこういうところが好きなので、もうなにも言えなくなってしまった僕は無言でフットパーキングブレーキを上げた。
こうなったらヤケである。警察に捕まらない程度にアクセルを踏み、なんか美味いもんを食って帰りにめちゃくちゃカーセックスしてやる。絶対だ。
まず、山を下った。寺院を有する文化公園にも寄ってみたかったが、寄り道は少ないほうがいい。登ってきたルートとは反対方向に進み、途中にコンビニがあったので飲み物などの買い物を済ませる。王とザントンはふたりして購入した軽食を見せ合って楽しげだ。しかもザントンは缶ビールまで買っていたらしく、座席越しにプルタブを持ち上げるご機嫌な音が聞こえてきた。
「酒飲んでんじゃねえ」
「へへ」
「へへじゃないんだよまったく」
お前絶対真ん中か末っ子だろ……とは言わずに、舌打ちに留める。よっぽど腹が減っていたのか、彼はあっという間に油淋鶏弁当と焼き麺、それからサンドイッチを平らげると「元気出てきたあ!」と爽快に笑った。僕は性的なお預け状態がメンタルに影響を及ぼしたのか、なにも飲み食いする気が起きずにただボトルガムを噛み潰す。なんだかちょっとハリエットにでもなった気持ちだ。そういえば彼は今なにをしているのだろう。春節前は忙しいと言っていたが、その繁忙期が終わったら息抜きに誘ってみようか。
山地を抜け、市街地へ。それから、海辺へ。湾内に島が見える。再び窓を開ける。王とザントンは仲良くしりとりをして遊んでいるが、ザントンが中国語混じりなのを王が気前よく受け入れているせいで、半ば『好きな単語発表会』と化していた。あまりにも自由すぎるが、楽しそうなので放っておくことにして、僕は窓の外に目を向けて視神経を癒す。
「蠔煎蛋(haojiandan)」「ン……またnですね……もうあれを使うしかない……ナン!(naan)」「おっとn返しかあ。やるねえ王ちゃん」「ナンはチーズナンが好きです」「わかる! でもナンは北方の人も食べるから、こっちにもナンって字があるんだよ。その場合はnangだから、gだね」「ええー、むうん、しりとりむつかし……」
……ナン、食べたいな。インド中華なるものが存在するという話も聞いたことがあるので、ナンとの相性も良いのではないだろうか。そんな想像をしながら、タバコを吸いたいという唇のうら淋しい感覚に堪える。物は上着の内ポケットに入ってはいるが、王の前では吸いたくない。
「王ちゃんとラドレさんってご兄妹なんすか?」
ふと発せられた問いに僕は「さっきなにを見たんだよキミは」と悪態を吐き、一方の王は目を輝かせて「どっちが兄だと思いますか?」と無邪気に返す。それに真面目なことにも「イチャついているのを見ました」「ラドレさんじゃないんですか?」とそれぞれ返答して、ザントンは二本目の缶ビールを開けた。がっくりと肩を落とす王の横からすかさず「二杯目飲んでんじゃねえよ」と指摘するが、相変わらずのへにゃっとした笑いで流される。傲慢でないくせ神経が極太な奴が一番扱いづらい。……たとえば王みたいに。
「近親のシュミはな……」そこまで言って、実兄を深く愛している王に対する忖度が発生し、「まあリアル妹にそんな気は、一切」と言葉を改めた。
「妹さんがいるんですか?」
「一応」敢えてぶっきらぼうに返す。「生きてるか死んでるかも知らないけど」
「そういうこともありますよね。オレも九人兄弟なんすけど、兄貴も弟も今なにしてるか知らんなあ……」
「九人? これまた……何番目?」
「五番目かな。中間管理職っす」
ほぼ真ん中でこののほほんとした性格は珍しいというか、これはわざと鈍感を装っている可能性が出てきた。敢えての『舐められ』をやっているとしたら、結構なやり手である。そう分析しながらルームミラー越しに彼を観察していると、いきなり「妹さん、カワイイすか」と問われて面食らう。この僕の妹なのだからおそらく眉目秀麗であるにちがいないが、個人的に可愛いとは思っていないのでまごついてしまい、言葉が出てこない。すると王が「かわいいですよ」と僕の代わりに答えてくれた。
「彼女はご尊父様によく似ていますね」
「……よく、おぼえてるね」
「凛々しく豪胆。判断力に長けていながらも通念的な正しさだけには従わない。それゆえに冷徹になりきれない……おまえにそっくりですね。いい使い魔になると思います。もうなっているかもしれませんね」
そう評価して、王は数秒だけ目を閉じる。彼女の顔でも思い出しているのだろうか。しかしこの不肖の兄は、自分の妹の顔すらもう曖昧にしか記憶していない。会ったら、すぐに妹だとわかるだろうか。そもそも生きているかどうかもわからないのに、無駄な想像で胸の奥底を明滅させる。
「……嫁にでも行ったんじゃない?」
「お嫁には行きたくないと言っていましたよ」
「なんでキミ、僕より僕の家族に詳しいの」
「ふふ、おまえは晩餐会でわたくしのそばにいることがほとんどありませんでしたからね。知らなくても当然でしょう」
それについてはなんとも言えなかった。随分昔のことではあるが、いまここで謝ってみてもいいのかもしれない。しかしそう思いはするものの、まだ心は新鮮に、過去から今までずっと言葉を選び続けている。
「そんな顔しないで。わたくしが好きに過ごしなさいと命じていたのですから。……それにしてもおまえが人前でバイザーを外す数少ない機会でしたから、おなごたちが色めきだつさまには独特の雰囲気がありましたね。そのうち婚約者を連れてくるのではと期待していたのですが」
「……そんなことするわけないでしょ。僕は王のモノなんだから」
やっぱり、王は僕に興味を持っていなかったのだと思うと、薄くひらいた唇から長くさびしい息が漏れた。しかし原因は明確で、当時から確かに『自分は王のものである』という認識があったはずなのに、僕は必要のあるときにしかその傍に寄りつかなかったのだ。あなたの寵愛を受けるのが、いや、受けられないことが怖かった。でもそれが使命だと当時は思い込んでいた。僕は王の騎士だった。僕は父の息子だった。王は王だった。滅私のかぎりを尽くして王は王だった。僕たちは互いにただ離れようとする運動で以て、順当に、孤独を演出していった。そしてその演出技法はただしく悲劇を生み、僕は。……王を手に入れた。目論見通りに。
「え、王ちゃんってお姫様なんすか?」
それまで静かだったザイトンが、そんな的外れな口を挟むので、僕はつい笑ってしまう。このどこまでも偉大な我が王がプリンセスなどという弱小で可愛い存在だと?
「お姫様ねえ……お姫様みたいに可愛いって意味ならそうかもしれないけど」
「もちろん、お姫様みたいに可愛いす」
そのとき、王が「あれ」と呟いて額を押さえた。どうしたの、と急カーブを曲がりながら問う。減速。綺麗に御す。ゆっくりと、アクセルを踏み込む。
「昔、誰かが、わたくしのことを……姫と……」
「……王を?」そんなのは初耳だ。
「おまえではない?」
「僕は王のことそんなふうに呼ばないよ。だって王、オンナノコじゃないじゃん。自認も。まあ、よく誘拐されるって表現では使わないこともないけど……いつごろの話?」
社員は皆で王のことを『陛下』と呼んでいるし、王宮にいた頃もそうだった。
「ずっと、ずうっと、昔……子どものころ……」
「じゃあ、僕じゃないよ。兄上様とか?」
「ちがう……兄様はわたくしを名前で呼ぶから。たまに変な愛称で呼んだりするけれど。お花ちゃんとか、一等星ちゃんとか」
それは可愛らしいエピソードだ。僅かに頬が緩む。そういえば僕もときたま「マリアライトくん」だの「すみれくん」だのと呼ばれていた。あれはあの人なりの愛情表現だったのだろう。
「聖職者どもは?」
「あの者たちがそんなことは……」
では、誰だ?
「誰でもいいけど、妬いちゃうかもな」
たったひとり、王を姫と呼ぶ者など、侵略者としか呼びようがない。王は真面目に思い悩んでいた顔を上げると、僕の言葉に「どうして?」と苦笑した。
海が遠くなる。再び山地が見える。しかし街はどこまでも続いている。大連は老後に住みたい街として人気があるらしく、どこに行っても開拓の跡がある。大型車両。建設機械。通行止めへのクレームに、ロボットロボットした見た目のアンドロイドが頭を下げている。公共交通機関の利用が推奨され、現にそれらの利用者数が年々増し、マイカーなんて贅沢品となった筈なのに、ヒトがいるというだけで都市部では渋滞は解消されないし、空気は汚れるし、誰かがイライラする。しかし、星はそんなに怒っちゃいない。我慢ならなくなれば覇者をヒトから別のものに替えればいいからだ。
星の気の長さに恩恵を受けているヒトの領地を進む。湾に跨る橋を越える。気の遠くなるほど広大な田畑。ガソリンスタンド跡。王が「あっ、ウサギ!」と外を指をさす。ザントンが「兎料理も美味いすよね」と頷く。
「ウサギ料理はまだ食べたことがないかもしれません」
「四川のあたりは結構多いすよ。頭を食べながらビールを飲むのがポピュラーな晩酌で。見た目は外国人には衝撃的かも知れないすね」
「どうして?」
「うーん、ウサギが、かわいい、から?」
「豚も牛も鶏も羊もロバもみんなかわいいですよ」
「そうなんすよ、うん」
「カエルもかわいい」
「ああ、カエル料理もいいすね。やっぱ激辛鍋にするのが」
「うう、あまりからくないのがいいです……」
「うーん、そしたら唐揚げか……あ、ラーメンもいいすね。チェーンで美味しいところがありますよ。送りましょうか?」
「ええ、ぜひ」
こうしてごくごくスムーズに、ザントンは王と連絡先を交換した。ユーファンと友人になってからというもの、そういう気運なのか、王は着実にそのガラガラだった『友人一覧』を埋めている。それはたいへん喜ばしいことではあるものの、少しさみしい気もする。だがこれは今までのさみしさに較べたら嬉しさに類するうつくしいものであって、孤独ではないぶん幸福だ。
「あ、メッセージが来てますよ。狼の絵文字さんから」
王からスマホを預かって連絡先を登録していたザイトンは、そんなことを言って王にスマホを返した。
「大丈夫、見てないす。彼氏さんすか?」「それもう見たのと同義だろ」「へへ、非表示設定じゃないんすもん」……王はメッセージを開いて、ふわりと笑顔になるとスマホのインカメラを僕たちに向けた。「なになに、写真すか。イエーイ」「ふたりとも、もうちょっと近づいてください」「手、離せないからいい感じにイケメンに撮っといて」などと言い合いながら、三人寄って映る。手ブレは少なめ。いいショットだ。
「ハリエットに送るの?」
「ええ。いまなにしてる? って。彼はいま休憩中だそうです」
「王ちゃん、その写真オレにもくださいよ」
「ええ。いま送りますね」
少しして、王のスマホが彼からの返信を知らせた。
「後ろは誰だ、ですって」
「はは、妬いてら」
「あ、やっぱ彼氏さんなんすね?」
「カレシ、ではないですよ。わたくし、お嫁さん募集中なのです」
その言葉に、僕がハリエットの代わりに衝撃を受け、目を剥いた。もちろん、「カレシではない」の部分に対してではない。
「えっ、ちょっと待って、まだやるの婚活?」
ある意味ぞっとしながら、暖房由来ではない汗を背筋に感じる。
「む? どういう意味ですか?」
「だってハリエットと子どもを作るつもりなんでしょ? お嫁さん、いらないでしょう」
「んん? それは必要でしょう。わたくしの胎だけでなくフラワーテールちゃんでも子を作らないと」
「うへええ……?」
ハリエットと王の関係については無論腹に据えかねるが、それにより僕は王の婚活行脚が一段落したのだと安堵もしていた。心底ムカつくが、相手がハリエットでないほうがずっと嫌だと納得してもいた。そんな脆くとも今後補強していこうと決めていた平穏が『それはそれ』だという宣言で、一瞬にしてめちゃくちゃになる。
「あ、オレ相手紹介しましょうか?」
「せんでいいせんでいい!」
叫んだ声と勢いに、本気の拒絶を込める。
「鳳凰さんが結婚したいって言ってて」
「たちまちちまきーズじゃねえか!」
ハンドルを抱えこむようにして、頭も抱える。なんなんだ、王のこの縁談収集能力は。
「まあ! たちまちちまきーズのオーナーさんでしたらお会いしたいです!」
「オッケーす。オレがアポ取っておきますね。それにしてもよく知ってますね、たちまちちまきーズ」
そうして王が端午節にドラゴンボートレースを観戦したことや、粽子が美味しかったこと、シャンスゥという白澤にフグと浅蜊をご馳走して貰った話をザントンにするのを聞き、頃合いを見て僕は「休憩します!」と声を張り上げた。頭が情けなくクラクラするのに、もう耐えられない。
近くに公園があるとの看板があったのでそれに従い駐車場に入って行くと、地域振興フェスティバルのようなものが催されており、けして数が多いというわけではないものの、屋台が広場のような場所に連なっていた。車を停めた途端、王とザントンが「わーい!」と嬉しそうに飛び出していくのを、細く細くした視界で見送って、僕は隣の駐車スペースのパーキングブロックにへなへなと座り込む。そしてそのまま力なく取り出したスマホでハリエットに電話をかけた。彼はすぐに出てくれた。
「たすけてハリエット……」
「あ? なんだよ疲れた声して」
ああ、この声落ち着くな、なんて思う。
「早速だけど僕と気持ちを共有して具合が悪くなってほしい」
「どういうことだよ。お前の性格が悪いことしかわからないんだが」
一瞬、躊躇する。だが、僕の善意は一瞬しかもたなかった。
「王、オスの部分でも子ども作りたいんだって」
「ん? それがどうした」
流石は「俺が産んでもいい」と言ってのけた男だ。度量が大きい。
「だから婚活、続けるんだって」
スマホの向こうで、尻尾を踏まれた犬みたいな声がした。間をおいて、咳払い。いや、これは噎せている音だ。同僚が近くにいるのか、「どうしたハティ、死んだ?」と声がするのに、彼は「死んだ!」と怒鳴って返している。
「食らえ、僕の吐き気」
向こうに魔法でも放つように、人差し指で空を切る。
「ゲロゲロだよ……もう、ちょっと待ってくれ……お、俺は何人子どもを作ってもいいぞ。稼ぎも悪かないはずだ。体力もある。夜泣きにも全面的に対応する」
「うん、それは僕もやる。常に僕がスリングしてていいし、全力でベビーカー守るし勉強だって教える。今も子育てしてるようなもんだし」
今、手を取り合った感覚。ベイビー、ベイビーのお世話、しようぜ……。という、合意を吐息で感じる。
「なっ、なにが不足してると思ってるんだお嬢ちゃんは……」
「もうハリエット、産んで。産んでよマジで。同時進行でもいいから。僕がまとめて面倒見るから。キミが相手なら辛酸をありがたく舐めてもいいどころかジョッキでイケるから」
「俺はそれでいいぞ。ええと、その場合って双子になるのか?」
「同時に産めばあるいは……?」
ふたりしてどんどん頭が悪くなっていくのを感じる。巻き込んでおいてなんだが、流石にハリエットが可哀想になってきたのでここは建設的な対抗策について話し合おうと、「とりあえずなんか鳳凰と会ってみるそうですよ」と切り出すと、彼は「鳳凰……?」と息切れした声で繰り返した。
「格で勝てねえ……」しゃがみ込んで蹲っているような、衣擦れの音が聞こえた。
「イケる。イケるって。そんな弱気な声出さないで。キミほどの男前とは限らないよ。キミってば背も高いしムキムキだし強いし優しいしなにより胸がデカい。すっごく頼りになる感じ。男が抱かれたい男ナンバーワンだとここで言い切ってもいい」
「俺だってお前ほど顔の綺麗な男は見たことがないぞ、レスタトのときのトムにも勝る。耽美系が嫌いな子はいない。自信を持て。その執着心でどうにかこうにかお嬢ちゃんにしがみついとけ。根性は才能だぞ」
大の男どうしがベロベロに傷を舐めあうさまは異様だが、ゆえに電話でよかった。「んもーダーリンてばそんなに褒めないでえ」と僕が調子に乗り始めたところで、突如として目の前に異様に長い二色構成のソフトクリームが差し出された。見ればザントンが同じものを食べながら「彼氏すか?」と首を傾げている。
「彼氏なわけあるか!」
勢いよく叫ぶ。ハリエットが「彼氏じゃないんだ……」と茶番を続行しようとするのを「所詮二番目!」と切り捨てて通話を切る。共有終了だ。そしてザントンの手から最早パーティーグッズなのではないかというほどふざけた見た目のソフトクリームを受け取ると、一応「ありがとね」と礼を言った。バランスを取りながら先端を口にすれば、甘さが脳に染みる。
「なんか、色々めんどくさいんすね、貴方たち」
隣の車止めに腰を降ろして、ザントンは言った。その腕には大量のテイクアウト容器が提げられている。
「……そうだよ。めんどくさいんだよ」
「ふーん、大変すね」
「めんどくさくない恋愛って、ないでしょ」
「そんなもんなんすかね」
取り立てて興味もなさそうにザントンはそう言って、ソフトクリームをコーンまで食べきると、腕に提げた袋の中からぶ厚い円形のスナックを取り出した。直径十五センチほどだろうか。こんがりと茶色い揚げ物だ。
「食います? ウソ天ぷら」
「ウソテンプラ……?」
「はは。英語圏の人ってほんとにテンプーラって言うんだ。これ、調理法を指してるんじゃなくて『天ぷら』という名前で売られてるんすけど、かき揚げで、かき揚げなんだけどこの異様な茶色と生地のボリュームがほぼパンケーキなのが面白くて、見かけたら買っちゃうんすよね。もちろん正規品も食べたことありますよ。似ても似つかないけど、これが彼らの商売で、まあ美味いから、別にいいすよね。カリフォルニアロールだってスシ名乗ってるし」
あとででいいよ、と漏らす僕の口に、彼は強引にそのホットスナックを押し付けてくる。こっちはまだソフトクリームの処理に腹と口のリソースを割いているというのに、こっちの意を汲んでくれる様子がない。仕方なしに齧ってみると、テンプラにあるまじきもっちりとした食感で笑ってしまった。揚げたてなのに。
「ふふ、面白いね確かに……美味しいんだけど、笑っちゃう」
第一印象としては小麦でかさ増ししたジャンクフードだったが、この辺りは海産物が豊富だからか、野菜類とともに生地に放り込まれているエビやタコが不自然と言ってもいいほど新鮮だ。味もしっかりとついていて、たしかに塩やつゆで食べるテンプラとは確かに似ても似つかない。
「……ラドレさん、笑うと可愛いすね」
ふと、ザントンがそんなことを言うので、思わず吹き出つつも照れてしまう。男から可愛いなんて言われ慣れていないのだ。ハンカチで口元の油を拭い、気まずさを隠す。
「え、なに。ようやく僕の美貌に気づいたの? 遅いなあ」
「顔の造形じゃなくて、笑顔が可愛いって意味す。さっきまで不機嫌だったから」
「そりゃどうも。悪かったね。悩みが多くてつい不機嫌になりがちなんだよ。まあ、お陰様で機嫌は直りました」
そう言って、若干火照った顔を冷やしたくてまだ十センチ弱は高さの残っているソフトクリームを大きなひとくちで掘削していく。そしてふと、王はどこにいるのかと背後の広場を振り返ると、真面目な様子で海鮮系のバーベキュー(焼烤)を選んでいるようだった。字が読めないなりに、数少ないヒントから食材を推測しようとしているらしく、顎に手をあててメニュー看板前をうろうろしている。あれは謎を解き明かそうとしているときの動きだ。邪魔してはいけないと、ソフトクリームに向き直る。
「メシも愛も、笑顔になれたらそれでいいじゃないですか」
ウソテンプラの最後のひとくちを飲み込んだらしいザントンは、残った紙袋を綺麗に畳みながらそう言った。
「形式も通念も、極論を言えばどうでもいいし。でも生きていくためには極論は必要ですよね」
風が吹く。地理的にいえば海が近いとは言えないのに、潮の香りがする気がする。どこかの店のスピーカーから歌謡曲が流れて、それが結構爆音で、うるさくて、心地いい。
「……そうだね。どんなラブソングも歌ってるのはラブであることに変わりないし」
歌謡曲は、遠くの恋人について歌っていると思いきや、故郷に残った友人について歌っていた。あのとき誓った永遠。一緒に歩いた海へと続く路。きっと友人どうしと解釈する者も、恋人どうしとして解釈する者もいる。『友よ』『愛しい人よ』……サビで繰り返す。解釈は受け手に委ねられている。解釈違いもまた、愛について思考した結果だ。それを導き出す過程は身勝手であってしかるべきで、そのイマジネーションの余地すら、
『あなたがきずつくのって、やっぱりこわいわ』
……愛だな。と解釈する。僕は。
「どこにいても風が思い出させる、あなたのこと、あなたの好きなもの。あなたは好きだったあのなんにもない街を」
今しがた流れていたその曲の大サビを繰り返しながら、王が戻ってきた。その手には海鮮焼きの串がまとめ売りのロリポップのように束を成しており、異様な迫力がある。少なくとも二十串はありそうだ。
「嘘でしょ……」
ソフトクリームのコーンを覆っていた紙のスリーブを握りつぶしながら、僕は糖を摂取したばかりだというのにげっそりとしてしまう。隣でザントンが「王ちゃんめっちゃ歌うまくないすか? プロ?」と僕からしたら現状的外れな感想を口にしている。それに「これしか取り柄がないのです」と返して、王はイイダコと思しき串に齧り付き、僕たちの前にしゃがみ込む。
「たくさん種類があって、迷ったので全部買いました」
豪快に買い物をしたようだが、それは恐らくあの酒杯を買うための節約を終えたことからくる解放感のためだろう。なのでその点は指摘せず、「パンツ見えるよ」と脚を閉じるよう促しながら、王の手から適当に一串抜くと、それはツブ貝だった。シンプルな甘辛いタレに、期待通りの歯応えがマッチして美味い。
「あっ、とられた」
「どうせ半分も食べないうちに飽きるでしょうが。ザントンくんも食べて」
「やったー。王ちゃん、貰うね」
「ああ! カエルはダメ!」
途中から王とザントンの早食い競争のようになってしまったが、無事に大量の串を完食して、再び車に乗り込んだ。そして西へ、渤海の方面へ出ていく。時間は大幅にロスするが、海辺を走りたいのだから仕方がない。十キロほど進むと、目の前に西日にキラキラと輝く湾が見えてきた。なにやら浅瀬と思しき一帯が整然と区分けされ、それまで通過してきた田畑のようだなと思っていると、ザントンが「あれは塩田ですね」と説明してくれた。
「作業員はミキスト・トレインで移動するんです」
そう言って、彼は塩田の分界線を指さす。確かにそこには軌道が続いており、遠くには小さな機関車が見える。トロッコを何台も牽引して、こちらに、陸地に、戻ってくる。
「……振り返るな、後ろ髪を引かれるなって、むつかしいですね」
「なに、塩の柱?」
「人々の生活というものは、うつくしかったはずでしょう」
助手席に深く身を沈めて、王はそのやさしい色をした目を閉じる。
あっという間に塩田のある一帯を通り過ぎ、入り組んだ海岸線を穏やかに抜けていくと、巨大なキリンのような重機……ガントリークレーンが見えてきた。つまりコンテナターミナルがあるのだろう。様々な形状のコンテナを背にしたトレーラーと擦れ違うたび、王は嬉しそうにそれらに向かって手を振っていた。
そして、ジュンコとヴォ―トランが声を揃えて「ハツ魚圏区に入りました」と告げる。
「その星海だか海星だかってところに行けばいい?」
「いえ、単なるイメージっつうか、指標と言うか、そんなんだったんで、いいす。それよりもよかったら、山海広場ってところに行ってみませんか。『海の貝殻』ってよばれてる展望台があるんすよ」
その提案に反論はなく、まだオレンジ色の勢力の濃い夕闇のなかを、海岸線沿いに進む。すると浅瀬の果てと思しき海上に、巨大な建築物が見えてきた。確かに貝殻のようなかたちをしており、骨組みを見せ、幾何学的で無骨なデザインでありながらもどこか親近感がある。
レンタカーなので少し迷ったが、散々海辺を走ったのだからと開き直って浜沿いの駐車場に車を停め、外に出る。王が「綺麗な浜ですね」と白い砂の続く海岸線に目を細めるのに同意して、手を繋ぐと背後から「ラブラブだ」とザントンの笑い声がした。
「そりゃラブラブですよ」
「なんだかんだで?」
「そう、なんだかんだで」
正円をした広場に出る。冬でも人がいるのは、飲食店があるのと、散策スポットとしても人気があるからか。なにやら象徴的な波を纏った球体のモニュメントの前でザントンと王の写真を撮り、浜へ。看板の注意書きには『ここでは花火や爆竹の使用、ならびにバーベキューを禁止します』と書かれており、「爆竹て」と笑うと、ザントンは「いや、禁止と書いとかないと」と存外にも真剣な様子だ。
展望台へと続く海上の遊歩道を歩く。冬の海はあざやかではないが、物寂しさという魅力がある。展望台の右手の沖には巨大な人魚の像がひっそりと佇んでいて、まるで私もひとりよ、と励ましてくれているかのようだ。遠ざかる高級ホテル群の明かりに背中を照らされながら、もう微かなともしびほどに肩身を狭くした落陽をひたすら目指す。つめたい風が頬を擦過するが、それでも凪といえる肌触りで、心地よい。ザントンが「日が落っこちちゃいますよ、急げ!」と王の両肩を押す。ふたりして楽し気に駆け抜けていく数百メートル。ひとりきりで、深く息を吸ってから、僕も駆けだす。閉場ぎりぎりに入場料を払って、階段を駆け上がる。貝殻の縁の部分が展望台になっているらしく、頂上までやってきたその瞬間に、日が沈んだ。なんの余韻もなく。
「はは、間に合わなかったね」……でも、美しかった。
手摺を抱えこんで暗い海を見つめる王の冷えた頬をつつく。すると唐突に頬を引き寄せられ、キスをされた。風が王の長い髪を僕の肩や腕に絡みつけていく。数秒。たぶん、六秒くらい。面食らって動けない僕から王はぱっと離れると、また手摺を抱えこんで、メロディだけの鼻歌を歌い始めた。ゆっくりと顔を上げると、自分はなにも目撃していないとでも言いたげなザントンがわざとらしく口笛を吹いた。そして王の歌とその口笛がリンクして、波音をどこまでもどこまでも豊かにしていく。きっと、海の上のあの孤独な人魚像にも、この音楽は届いているはずだ。
星が綺麗だと喜ぶ王を抱き上げて展望台を降り、陸地への一本道を歩いた。
一緒に食事でもどうかとザントンを誘うと、近くにお勧めの食堂があると言うので、車に戻って少し北へ。最初はちいさな個人食堂だったと彼が説明する、今は立派な『一号店』を冠する青い外装の店へと入ると、中はオレンジ色を基調とした暖かい雰囲気だった。海岸の漂着物なのか貝殻やシーグラス(最近は見かけないなと感じる。投棄されるガラス製品が減ったからだろうか)があしらわれたインテリア雑貨が可愛らしく、波を模した縁取りが涼しげなカードスタンドの中では魚群の映像が流れていた。
正方形のテーブルへと通され、メニュー表をスマホで読み取る。するとまず末尾に『水餃』と書かれたメニューの多さに驚いた。そんな僕の表情を見たのか、ザントンは、
「ここは水餃が有名なんす。おすすめはやっぱり今の時期が旬のサワラです。他も美味いすよ」
と解説して、自分もスマホでメニューを開いたようだった。
「あ、ビール飲んでいいすか」
「さっきから一度も許可取ってないでしょ」
「はは、そすね。王ちゃん、飲みます?」
「わたくしはこの子になにかあったら運転をするつもりですから……おまえこそ飲んだらどうですか?」
「うーん、いいかな。あとでゆっくり飲むよ」
ザントンは「残念」と、それだけ言って酒については切り上げると、料理の解説を始めた。餃子には肉のイメージがあるかもしれないが、この国ではなんでも入れること。未だに餃子のメインの調理法は茹でか蒸しではあるものの、日本料理の影響か焼きに対する偏見も薄まってきたこと。水餃における『三鮮』は基本的にはニラと卵とエビを指すこと。ユムシ餃子にチャレンジしてみてもいいんじゃないかとのすすめ……。
「ちょっと待って、ユムシ?」
耳慣れない単語が聞こえてきた気がして、眼鏡で検索をする。咄嗟にザントンが「あ、検索しないで」と制止してきたが、もう遅い。中国語で『海腸』と書くというのが納得なヴィジュアルの海洋生物が視界いっぱいに表示され、途端、喉がヒッと高く鳴った。首筋と腋のあたりがぞわりと蠢き、それがユムシの外見とリンクして、僕は腕を組むようにして「きゃー!」とほぼ息だけの悲鳴を上げて情けなく蹲ってしまう。そんな僕の目元から王は眼鏡を引き抜くと、それをかけて「あらまあ」と微塵もそう思っていなさそうにのんびりとした声を上げた。
「面白そう。でもこの見た目なら却ってクセはなさそうですね」
「そう。そうなんすよ。食べます?」
「ええ、ぜひ。あとイカ墨も気になります」
「いいセンスしてますね。了解す」
「ぼ、僕、絶対に食べないから……」
怯える僕に「子犬の画像にしておきましたよ」と王が眼鏡を返してくれたのでかけ直せば、『こいぬ かわいい』で検索した結果が表示されていたので、ほっと胸を撫でおろす。このシベリアンハスキーの赤ちゃんなんか、もの凄く可愛い……。
「注文はザントンくんに任せるけど、僕にユムシは食べさせないで、絶対」
顔を上げて、そう訴える。王とザントンはそれぞれ「はいはい」「うーす」とぞんざいな返事をして、ふたりして彼の手元のスマホでメニューを覗き込んでいる。もうすっかり仲良しになったらしく、あれもうまいこれもおいしそう、と楽しんでいる様子だ。
検索履歴からユムシを抹消し、先にザントンがビールを飲むのを眺める。美味そうに食うとは思っていたが、飲むのも美味そうにやるのだな、と思っていると、まずは生牡蠣が運ばれてきた。海産物が豊富なこの辺りは魚介類の生食もするらしく、生牡蠣が大好きな僕にとってはとても有り難い。ひとつ手に取って、箸で口内に滑らせると、その大ぶりな身が舌の奥にぶつかる。上に掛かっていた香味ソースとともに噛み締め、つるんと飲み込む。つめたい喉越しは、ビールにも勝るが、組み合わせればもっと最高に違いない。
「んー、美味い。飲みてえ」
「牡蠣も名産ですからねえ。昔はもうちょい小ぶりだったんす。だからオムレツとか炒め物にすることが多かったかな。でも今はもう日本の牡蠣にも負けません。あ、日本といえばここでは『サシミ』も食べるんですよ。御造りがスーパーマーケットに売ってます」
「へえ、面白いね。ソイソースで食べるの?」
「ええ。ワサビは好みによりますが」
立て続けに生牡蠣を三つ平らげ、次に出てきた殻付きホタテの蒸し物……蒜蓉粉絲蒸扇貝もすぐに食べてしまう。生と誤認するほど繊細に蒸されたホタテは、上に乗った春雨の触感と合わさると面白い歯応えで、ニンニクのソースでハッキリとした美味さだ。またしても酒への誘惑が強い。横目で王が殻を食べていないことを確認して、ザントンに「この店は何回目?」と問えば、彼は少し考えるような素振りを見せたあとに「ここは片手に数える程度すかね。支店は見かけたら入るようにしてますが」と答えた。それから店内を見渡して、キャスター付きラックを押して食材を運んでいるらしい老婆の姿を見つけると、「ちょっとすんません、気にせず食べててください」と席を立って彼女に駆け寄って行った。どうやら食材の搬入を手伝っているらしいが、彼の逞しい腕に頼ればすぐに終わることだろう。案の定、ものの数分で戻ってきた彼は「へへ」とはにかんだように笑って、ぐいとビールのグラスを傾けた。
「あの子がまだ小さい頃に来たのが前回ですね。あそこの席でお絵描きしてました。人魚の絵だったな」
そう言って彼は厨房寄りの四人席を指して、懐かしそうに目を細める。
「流石に向こうは覚えちゃいないだろうけど……って、覚えられてても困るんすけど……。当時オレも一緒に絵を描いたんすよ。昔はもう少しホールが狭くて、床もコンクリート打ちっぱなしで、当時からしてもかなりレトロな雰囲気で……女将さんは赤ちゃんをおんぶしてて。懐かしいなあ」
徒歩でのグルメ旅を選ぶ彼にとっては、人ひとりが幼児から老齢になるまでの時間などあっという間なのだろう。あの老婆が今でも可愛い女の子でいるような扱いをして憚らないその振る舞いに、彼の半生が窺える。時の帝に討伐されたとはいえ、心優しい男なのだろう。復讐も豪遊もせず質素でいるのは、おそらくそういう強い考えがそもそも念頭にないからだ。……そこまで分析して、彼が王に似ていることに気がついた。討伐され、人間界に流れて、今こうして僕とグルメ旅を楽しむ一個の命。僕はてっきり耐え難い抑圧の果てに王は気力が削がれていて、ゆえに大人しいのかとも推測していたし、それをいまこの瞬間もあながち的外れだと思わないが、たぶんきっと王も、ただただ優しいだけであるのだ。心底世界そのものを、摂理のそのものですらを、愛しているだけなのだ。そんなシンプルな解を得て、僕は目の前で箸の持ち方を練習している我が王をより一層愛おしく思う。僕のせいで箸をきちんと持てないその手指は、いつも柔らかく僕を撫でるのだ。
「あいよ、これがバーユー水餃、こっちがイカ墨水餃、あとは順に三鮮、海腸、タコ、牡蠣ね」
先ほどの老婆よりも少し若いくらいの老爺が、器用に腕を使って五枚の皿を運んできた。そこから立ち昇る湯気に眼鏡を曇らせながら、写真を撮っていると、厨房から「姉さん、俺がやるよ!」と大きな声が聞こえてきて、ザントンが「あの赤ちゃん、男の子だったんすね」と嬉しそうにニヤニヤする。その手元で人数分のつけダレを作ってくれているらしく、彼は卓上調味料の中から黒酢と醤油を選び、小皿に混ぜていた。それを王が配ってくれる。
「そのまま食うのが一番美味いんで、タレは味変くらいのつもりで」
全員が取りやすいように皿を並べ直しつつ、ユムシ餃子がどれだかわかるように気を張っている僕は曖昧な返事で済ませてしまったが、そのままがいいという部分はきちんと聞き取った。そして王が最初にイカ墨を食べたいというので、その真っ黒な水餃を皿に取ってやれば、王はレンゲにそれを転がしてためらいなく口に放り込んだ。ハリエットにはできない芸当である。そして「むふんむふん」と満足げに鳴いて、王は「ハオチー!」と胸元につくった拳を揺らす。
「よかった。イカ墨、美味いすよね」
そう同意しながら、ザントンはなにか流儀があるのかこの中で最もスタンダードであろう三鮮を口にする。直後、「ああ、この味だよなあ」とニコニコして、ビールをひと口。ぎゅうと寄る眉根に羨ましさが募る。
「じゃあ僕はサワラからにしようかな」
折角ならこの土地の名にも採用されているサワラからだ。ころんとした形のそれを箸でつまみ、まずは言われた通りになにもつけずに。噛み締めた途端に青魚独特の香りがするが臭みはなく、ぶ厚い皮に閉じ込められていた魚の脂が瑞々しくはじけて、美味い。ふっくらとやわらかな魚肉に、ニラの香りと歯応えがアクセントとなり、『餃子』としてのトーンを整える役割を担っている。塩味は強くはないはずだが、旬の魚の脂がしっかりとした旨味を出しているので、確かに『そのまま』が一番美味い。そんな料理だ。
「サワラ、うまいなー……」
立て続けに、もうひとつ。ふたつめも新鮮に美味い。クセがないのに濃厚に美味い。もうこれだけでいいかもしれない。
「美味いっすよね。まだこっちにいるならぜひ清蒸でも」
「ああー、美味いよね、清蒸鮮魚……このあいだ武昌魚で食べたんだけど、最高だった。ひとりでほとんど全部食べたよ」
武漢で食べた清蒸武昌魚もまた非常に美味かった。ハリエットに少しだけ分けたが、彼は険しい眉のままずっと骨を気にした様子でいた。飲み込むまでは安心できないとでも言いたげに、ちびちびと不景気に食べるものだから、途中で「もうあげない!」と怒ったことは記憶に新しい。まあ、その後の記憶はほとんどないのだが。
「ええ、いつですか?」
回想する僕に、王は目を丸くする。
「このあいだ、武漢で。キミが寝てるとき」
「うう、起こしてください……」
「でもキミ、鮮肉湯包をひとりで全部食べたじゃん」
「む……う、次、次は寝てたら起こしてください。おいしいもの、たべたいですから……」
歯切れ悪くそう要請して、王はぱくぱくとイカ墨水餃を平らげていく。ザントンの皿にもその黒い水餃は乗っているが、僕にはくれないつもりらしいので、敢えて「それちょうだい」と皿を差し出せば「もうひと皿注文すれば?」と生意気に返された。「生意気ちゃんめ。僕もサワラあげないぞ」とは言い返してみるものの、おいしいものを食べさせないのは可哀そうなので、王とザントンの皿に残りのバーユー水餃を分ける。すると王が笑顔のまま、まだ誰も手をつけていないユムシ水餃を皿に乗せてきたのを、僕は見逃さなかった。
「食べないって言ってるじゃん!」
まだまだ乗せようとしてくる王から、手で覆うようにして皿を守る。すると王はそのニコニコ笑顔を崩さないまま、不格好な箸で摘まんだその餃子を僕の口元に寄せてきた。
「大丈夫ですよ、ナマコは食べていたのにどうしてユムシがだめなの?」
「それは……だって……」
匂いに妙なところはない。でも油断は禁物だ。
「そうだそうだ、肉は肉、海産物は海産物だ!」
ザントンも掲げた拳を前後に振りながら王に加勢する。
「括りがざっくりしすぎなんだよ……!」
尚も拒絶する僕に、王は、
「愛は愛。受け取って?」
とキラーフレーズを口にする。個人的ゲテモノVS王の寵愛。そんなの、王の寵愛が最優先だ。しかし喉奥で「くうーん」と意図しない声が漏れ、ザントンが「あ、ラドレさんってワンちゃんなんですね」と呑気に笑う。
「生前の姿を思い浮かべるからよくないのです。処理済みの姿を想像なさい」
「いや、処理済みの姿知らないし」
「チューブっす、輪切りのチューブ」
ザントンが「ハイハイ!」と手を叩く。王もその掛け声に倣う。ふたりからまるで酒の一気飲みを強いられているかのような声援を送られて、僕はもうどうとでもなれと口を開いた。すかさず餃子が押し込まれ、噛み締めることを躊躇う歯が、口説かれてもいないのに浮き続ける。
「はいひへふ……?」
口を若干開いたまま、王に問う。
「ええ、勿論です」
「ひゅーひゅー」
折角もぎ取った愛の言葉をザントンの歓声に掻き消されはしたものの、獲得した事実は変わらないので、もういくしかない。意を決して噛む。噛み締める。……豚肉が入っている。わりと餃子。変な歯応えだと思ってしまっているが、分析してみると柔らかく煮込まれた牛や豚のモツに近い。予想していた苦みやエグみは一切なく、言ってしまえば、食感だけだ。おそらくタレをつけてしまえば僕が危惧していた不気味な気配の一切が消える。ごくんと、無言のまま飲み込むと、王が手で作ったマイクを向けてきた。
「……ぜんぜん、ですね。ぜんぜん、なにもない」
インタビューに答え、皿に乗っていたもうひとつも口に放り込む。一瞬だけあのヴィジュアルがちらつくが、まあ、その程度だ。食するぶんにはどうということはない。
「まあ、いいこ。最初の一歩は大切ですねえ。嫌うのは知ってからでも遅くないのですよ」
僕の肩のあたりを撫でてから、王は「さて」と食事を再開する。僕に拍手を送って「よっ、いいこ!」と王の言葉に合いの手を入れていたザントンも、仕切り直しの息を吐いて箸を取った。ユムシを食べられたこと自体についてはちょっとした驚きがあったものの、特段の感動はないので、僕もフラットな心地で烏龍茶を飲んだ。
「でも王、葉っぱ嫌いじゃん」
そして機を逃すまいと平静のうちに指摘する。
「知ったうえで苦手ですので」
あくまで正当で分別ある感覚とでも言いたげに、王は首をくるんと傾げる。
「……僕はやっぱり、父親似かな」
ある種の諦念を抱いてそう漏らしたのは、父もまた王のことをろくに知りもせずあのような凶行に走ったからだ。特に理由もなく大半のものが嫌い……そんな感情先行型の僕は、しかし自分の短所をくるおしいほどに反芻する癖もあるから厭になる。最低だ最低だと自分を痛めつけていないと生きてゆけないのだ。あの父の胸中に自省の余地があるかどうかは知らないが、彼もまた、自身を漠然と嫌っているのだろう。そして僕のことも。
「なぜ、そう思うの?」
「なんにも知ろうとしないでしょ、あの人も」
家族の悪口を言っても、バーユー水餃は美味い。なにを話していても、飯は美味い。……時折それが救いにもなるし、自己嫌悪のきっかけにもなる。
「……ふふ。そんなことはないですよ。彼はちょこっと、真面目すぎるだけ」
王は追加注文した生ウニを匙で掬って、僕の口に押し込んでくる。当然美味い。
「……なに、もしかして、父とも話したことがある?」飲み込んで、問う。
「さあ、どうでしょう。わたくし、あの方のこと、嫌いじゃないですよ」
「なんで」あんなことまでしたのに。
「おまえに似ているから」
「どこが?」あんなことをした男に?
「おまえ、自分の容姿をご母堂さまに似ていると思っているでしょう。それもそうなんだけどね……彼ともそっくりですよ。眉間の高いところや、口の大きさ。頬骨の位置。指の長いところ。喉ぼとけなんて瓜二つ。あと、ここ」
僕の耳に手を伸ばして引っ張ると、王はくすくすと可笑しそうだ。かわいい耳ね、と甘い声で言って、僕の鼓膜を揺らす。くらくら、する。このウィスパーボイスに、僕はいつだって逆らえない。
「それは……僕には判別できない部分だ。でも、だとしたら、いやじゃ、ないの」
でもいやならこんなに優しい声を出さないことくらい、僕は知っている。父を引き合いに出し、しみじみと寵愛を受けているなと思ってしまう僕は間違いなく親不孝者だが、僕はそれでいい。
「いいえ。かわいいです。あの方も我が臣民であり、つまり我が子でしたから」
……過去形で締めくくって、王は泰然としすぎているその態度を途端に普段の幼気なものに切り替え、「メニューを見せてください」とザントンに強請って笑った。ふたりともまだまだ食べられるのか、どんどん追加注文をするものだからあっという間にテーブルの上は一杯になって、皿の整理整頓が僕の役目になる。そんな僕の視界の端に、僕の膝ぐらいの背丈の子どもの姿が入り込んだ気がして、厨房近くの席に目を遣ると、そこにはスケッチブックを抱え込む女の子がいた。歴史は繰り返すなあ、と思いながら王と楽しげに談笑するザントンに目配せをしてやると、彼ははっと息を飲んで動かなくなった。僕はなにも言わず、王の口に三鮮水餃を押し込み、自分でも食べてみる。エビの元気な歯応えに、炒り卵がほろりと優しい。少しの豚肉とニラがふたくちめからの食いつきをよくしているような、子どもも好きそうな味。辣油も合いそうだ。
「三鮮なるもの、たくさん組み合わせがありますね」
「そうだよ、お野菜だけの三鮮もあるよ。地三鮮。炒め物だね」
「ええー……内容を聞き、精査します」
「ジャガイモ、ナス、ピーマン」
「……ピーマン、あげます」
「あのねえ……」
僕たちがそんな会話をしていると、ザントンの微かにふるえる視線に気づいたのか、その女の子がスケッチブックを抱えたままこちらにやってきた。咄嗟に僕の前に空き皿を寄せて積み重ね「座る?」と空いている椅子を指すと、彼女は「すわる」と短く言って頷く。ザントンを見るとまだ言葉に詰まっているようで、代わりに僕が「失礼、プリンセス」と声を掛けてから彼女を抱き上げて椅子に座らせた。レディ相手には当然の介助である。
「ジュース飲む?」
「ジャスミンティーがいい」
「いいね。お腹は空いてない?」
「ちょっとね」
「ごはん? 甘いの?」
「甘いの」
「アレルギーは?」
「るるるぎ?」
「食べちゃだめなもの」
「ない」
オーケー、と返事をして、忙しそうな厨房の近くへ寄っていく。すると料理の皿を両手に持った年若いホールスタッフが出てきたので、「あちらのプリンセスにジャスミンティーと甘いものを」と声をかけた。すると僕たちの席を訝しげな視線で捉えた彼女が途端に「まあお嬢ったら」と顔を青褪めさせたので、気にしていないということを伝えて席に戻る。
すると「おねえちゃん、絵、ヘタ」と拙い英語が聞こえてきて、飾り棚の影から顔を出して確認すると、ピンクのペンを手にした『おねえちゃん』がひどくショックを受けたらしい顔で固まっていた。ザントンが腹を抱えて笑っている。
「なんで大人なのに、絵がヘタなの?」
子どもは容赦がない。たとえそれが『王』相手でもだ。
「ヘタなものですか、すっごいバリバリなセンスでイカす、とラドレは言っていましたよ……?」
そう言って狼狽に震えている王の肩越しにスケッチブックを覗き込みピンク色を探すと、そこには……埃の妖精のようななにか。しかしわざわざ埃の妖精を描いたりはしないだろう。一瞬考えたのちに、「かわいいヒツジだね。ヴォ―トランかな」と評してみる。
「犬です!」
ほとんど悲鳴のような声を上げて、王は僕にペンを押し付けて女の子の隣からその対面である自分の席に戻っていった。不貞腐れてしまったのか、椅子の背凭れを抱え込んで肩を落としている。王の前衛的なセンスによる絵画作品は僕のメモ帳などにも華を添えているが、これは不意打ちだった。普段なら「なに描いてるの?」と訊ねる余地がスタートラインとして用意されているのに、さっきはそれがなかった。
「ザントンくんはなにを描いたの?」
「水餃す」
どうやら平常心で少女と打ち解けることに成功したらしい彼は、緑のペンの軌跡を指さす。そこには言われれば水餃に見えなくもない楕円に手足が生え、簡素な顔が描いてあるだけの謎のキャラクターがいた。
「絵を描いてって言われて餃子描く人いなくない?」
思わずそう指摘すると、彼は、
「いや、いけます。前もこれで乗り切ったんで」
と妙に自信ありげだ。
「蒸しと焼きとの差別化ができてなくない?」
「いいんすよ、蒸しと焼きはいないんで」
「暴論だなあ……」
「これ、おばあちゃんもよくかいてくれるよ。なんのキャラ?」
ふと少女から投げ掛けられたその言葉に、ザントンは一瞬で笑顔を失い、次にまるごと表情を失い、それからぐっと力を入れて豪快なにっこり笑顔を作った。まったく、きょうは全員が揺さぶられてばかりのいい日である。そして「水餃大好き! シュイジャオマンだ!」と言って力こぶを作る彼の熱演を、少女は無情にも「ふうん」の一言で済ませると、僕の前にスケッチブックを押して寄越した。
「めがねのお兄ちゃんもなんかかいて。じょうずなやつ」
プリンセスに「描け」と言われたら書くほかない。少し悩んだ末に、王から渡されたペンを走らせる。一発描きは苦手だが、彼女の指定した画材がこれなのだから仕方がない。二分ほどでスケッチブックを返してやると、少女はパッと目を輝かせた。そして「すごい! 写真みたい!」と僕を見るので「身に余る光栄です」と返せば、絵を覗き込んだザントンからも「えっ、ラドレさん、めっちゃ絵上手くないすか?」との評を得た。
「王ちゃんの音源のジャケット描いたらいいんじゃないですか? ガポガポっすよ」
ガポガポ、に興味なんてないくせに、ザントンは両手の指でそれぞれ円を作り、アロットオブマネーを表現している。今の若者にはそのコインの表現ではピンとこないのではないだろうか。
「あのねえ、イラスト一枚の相場いくらだと思ってるの? ガポらないでしょ」
「それはもう、王ちゃんのほうの求心力で。ね? オレ、口笛やりますよ」
「口笛かあー……」
売上見込みに対する貢献度が比較的低いことを懸念。せめて他にも楽器を奏でてくれないと支払いが些少になってしまうことを彼に伝えて疑似プロデューサーごっこをしながら、僕の絵の隣の余白にキラキラおめめのプリンセスを描いている少女を見守る。そしてジャスミンティーと杏仁豆腐に目もくれず、真面目に真面目にペンを走らせる彼女のおかげで、あの展望台から見える孤独な人魚に、友人ができた。それもひとりだけじゃない、埃の妖精とシュイジャオマンもいる。彼らの絆が別離に惑わされることなく、末永く続くことを祈る。
「今日のお礼ですから」と譲らないザントンに支払いを任せ、店を出て改めて礼を言う。すると彼は「じゃあオレはこの辺で」と手を挙げた。その瞬間、一抹のさみしさが過るのは、絆のようなものを僕が感じはじめたからだ。王とザントンが「あとで写真を送ってください。あと、旅のお話も都度きかせてね」「それは王ちゃんもすよ」と爽やかに別れを交わすのをしっとりとした心地で見守る合間に、海のほうへと目を凝らす。人魚は七色にライトアップされて、イケイケだ。これから夜通し仲間たちと踊るのだろう。それを想像して、ちょっと笑う。
「ラドレさん、ちょっといいすか」
ふと、ザントンがそう声をかけてきたので、店の外観の写真を撮っている王から少し離れて彼に寄っていくと、彼は声を落として「あの」と口を切った。
「オレ、一応魔除けの怪物でもあるんすけど」
「うん、知ってるよ」
「だからか、ちょっと気になるっていうか、こんなことラドレさんに言っちゃっていいかわからんというか、知ってたら申し訳ないんすけど」
「そんなご丁寧に前置きしなくても」
しかしそれは、彼が僕に嫌われたくないと思っている証左なので、その言葉の長さは嫌じゃない。僕がのんびりと次の言葉を待っていると、彼は夜空に視線を泳がせてから、躊躇いがちに言った。
「……王ちゃん、呪いの気配がするんです」
吸った息が、喉の手前で留まった感覚がした。
「どういうこと……?」
そんなの、初耳もいいところだ。我が王が呪いなんて受けるはずがない。王のほうが強さで上回るからだ。
「どういうことかは、ちょっと。でもオレが食って祓っちまうことはできない雰囲気があって。すんません」
「いや、謝らないで……教えてくれて、ありがとう。ちょっと、様子を見てみるよ。なんか生霊とかかもしれないし?」
最後はちょっと茶化してそう礼を言うと、彼は「そうじゃない」と言いたげだったが、敢えてそこはスルーする。すると彼も僕の心情を察したのか、それ以上それについてはなにも言わず、「高速、もう使えますよ。大連まで帰るんすか?」とスマホの時計に目を落とした。高速を飛ばせば早いうちに帰れるし、下道ならゆうに日を跨ぐ。そんな時刻だった。
「いやあ、もうクタクタ。あの広場の前の高級ホテルに泊まっちゃおっかな。マッサージとか呼びたいし……」
持ち上げてみせた肩は、ゴリゴリに凝っている。久々の運転で六時間は流石にきつかった。
「いいすねー。でも王ちゃんにして貰えばいいんじゃ……?」
「なに言ってんの。王にお願いしたら五体満足では帰れないよ。二本の腕のうち二本はちぎれるよ」
「全部じゃないすか」
ふたり笑いながら王の元に戻ると、王は街灯の下で歌を歌いながらくるくるとその場で回っていた。しかし今日一日至るところで聴かせてくれたロマンティックなナンバーや歌謡曲ではなく、「シュシュ、シュシュ、シュシュ、シュイジャオマーン! ちょっと湿った正義のーゆでぎょうざー。ひるがえる黒酢のーイカしたスカーフ……」と、いつもの頓智気ソングだ。いや、主題歌か。もう機嫌が直ったらしい王は、曲の最後に「さらば! 正義のシュイジャオマン!」とザントンに手を振ると、「また会おう!」と締めくくった。僕も笑いながら「じゃあね、シュイジャオマン」と手を挙げる。すると彼は拳を掲げて「それではお見合い編で会おう!」とキメキメのヒーローボイスで言って、僕たちに背中を向けた。
「ちょ、お見合い編潰れませんかスポーツ中継とかで!」
咄嗟の僕の叫びは、ただただ彼の広い背中とサムズアップに吸収されていく。「なあにがヒーローだよ……悪の組織だよ僕にとっては」と漏らした僕の声に敏感に反応した王は、「悪いことをしない。それだけでヒーローです」とにっこり笑った。
結局ブッキングサイトで広場近くのホテルを取った。パーキングに車を停めた途端に「おふろ!」と一番風呂宣言をして外に飛び出していく王の背中に「右みて左みて!」と他車への注意を促しながら、エンジンスタートボタンを押し、電源を落とす。するとモニター内で並んだジュンコとヴォ―トランが「長距離の運転、お疲れさまでした」と頭を下げた。
「はい、お疲れさまでした」
暗くなったモニターにそう声を掛けて、僕も車を降りる。後部座席から荷物を降ろしつつ、ぴょんとジュンコが僕のスマホに戻ってきたのを確認すると、彼女は猫ちぐら型のハウスに戻って寝息を立てはじめた。もういちど彼女におつかれさま、と息だけで言って車に鍵をかけると、王の後を追ってホテルのエントランスへと入る。
チェックインを済ませ、カフェ併設の売店で菓子を選んでいた王を待ってから部屋へ。オーシャンビューが嬉しいらしい王が窓を開けるその背中を捕まえ、服を脱がせていく。「や」と短い拒絶に、「やじゃない」と拒絶を返す。びっくりするほど肉のない脇腹に腕を回して逃げられないように固定して、その白い肌を暴き、検めるが、やはり一片の瑕疵もない。刻印なんてものは、どこにも。念のため指で口をこじ開けて中を覗き込んでみるが、王の機嫌をいくらか損ねただけで、なにも出てきやしない。
「おかしいな……」しかし、ほぼ毎日見ているその裸体の検分結果に疑問はない。異常がなくて当然なのだ。
これはまたベスビー顧問の出番か……と思いながら、とりあえずやることはやろうと着ていたカンフーシャツの釈迦結びボタンを外していると、王が「そういうの、や、です」と拗ねた声を上げた。見ると王は唇をぎゅむと捻じ曲げて、不服そうに僕を睨んでいる。その可愛い顔に思わず「どしたの」とふやけた声が漏れ、空間は甘さとピリつきで凍てついていく。ああはやく窓を閉めないと。なんか、外に見慣れたドローンもいるし。
「おまえっていつもそう」
ふん、と鼻を鳴らし、王は唐突に身体を起こして僕の胸を押し退ける。逃げようとする身体を引き寄せようとするが、今度は面と向かって堂々と「フン!」と軽蔑の声。むしろ、はっきりと発音。「なになに」と狼狽える僕の胸をいま一度手のひらで突いて、王は「もうカーセックスしないから」との宣言とともにそそくさとバスルームへと歩いて行ってしまった。
「そんなあ! ひどい! 僕なんかしたの?」
「わからずやさん! もうわからずを売りに売って上場しておしまいなさい」
「絶対にNY証券取引所の審査落ちるよ!」
無情にも間を置かずにシャワーの音。背後の開いた窓からドローンを振り返ると、呆れたような旋回があった。堪らずにスマホを手に取ってハリエットに発信すると、一秒と待たずに「俺はちょっとわからずやさんの求めている人材じゃないかもな。わかるし。だからごめん、転職はできない」と誘ってもいないのに採用辞退が投げつけられた。
「もしもし察し良いやさん? ちょっとわからずやを廃業したいんですけど。顧問としてのご意見賜りたいんですけど」
今夜のセックス並びに明日のカーセックスを白紙にされ、苛立った声がひとりだけのベッドの上に満ちる。「ていうか見てんじゃねーよ人のセックスを」窓の外のドローンを睨む。
「未遂だったじゃねえか」ハッ、と冷笑。しかしその響きを求めていた節もある。
「これから取り戻すの。プレゼンの負けは別ルートで取り戻す。当然でしょ。今まで何本の商談を取り返してきたと思ってるの」
「はいはい。でもわからずやで上場を目指せる男にはちょっとな。見込み薄いんじゃないか」
「だから教えてって。僕なんかしたの? 見てたんでしょ?」
すると彼は「バカがよ」と呆れたように呟いて、僕の問題点を提示した。
「上の空の相手としたい奴がどこにいるんだよ。最低だぞ」
「へ?」思わぬ指摘についドローンのほうを見る。ドローンは飽きたのか背面をこちらに向けて海を見ている。月が綺麗だ。
「間抜けめ。なーにがドン・ファンだよ。ナメやがって。ご主人様をそこいらの性欲処理女と同じ扱いにすんな。まあ愛人システムもクソだから廃止することを勧めるが。そのクソ雑魚ガバナンスだといつか取り返しのつかないことになる」
「なに……その、自分はそういうこと一切しませんみたいな言いぐさ」
「しないさ。俺はお嬢ちゃんしか見てないからな。おかげでお嬢ちゃんからは最中にそんなに見ないでって叱られる」
惚気が挟まったので渾身の舌打ちを響かせる。気が収まらなかったので、もう一度。ダメ押しに「フン!」とはっきり発音する。
「別に上の空じゃないし。ちょっと気になることがあったんだよ。王のことで。ちゃんと王のこと考えてるんだよ」
王のことが心配だっただけ。しかし心配が念頭にあるならなにをしてもいいというわけではないことを僕は知ってもいて、みるみるうちに消沈していく。体感として自覚する。僕の消えゆく語尾を見送らないまま、ハリエットは容赦なく追撃の構えだ。
「身が入ってない。集中してない。脇が甘い。体幹がブレてる。セックスするならセックスだけしろ。さっきのお前には、まあ脱がせちまったから一発やっとくか、みたいな、そういう侮りがあった。大罪だぞ、大罪。打ち首で済むといいな」
イコール、打ち首ですまないという、反語。
「ぐ……じゃあキミならどうした?」
「セックスしようって言う。目を見て。そこで愛してるからとか好きだからとか余計なことは足さない。気持ちを人質にしたいわけじゃないからな」
軽く言葉を失う。僕は、同意を取っていなかった。おまけに普段の手口にまでテコ入れが入って、軽く吐き気がする。このストーカーめ……と看破に対する不快感が、すこし。しかしそれは僕が自分だけが可愛いということの証左で。
「断られたら引く。情けなく『そんなあ!』とか言わない。せめて一緒に風呂に入らないかと別の提案をするくらいだな。そのありあまる根性はいくらでも待つって表明のために使うんだ。わかったか、わからずやCEO。ほら、行けって」
通話を切られる。見るとドローンはもういない。少なくとも、この部屋の窓から窺える範囲には。
スマホをベッドに放って、洗面所へ。その先の浴室への扉の前で、眼鏡を外した。そして乱れたシャツの上、無いネクタイを整える。腕を伸ばす。背広の収まりを確認する。すべて夢想のポーズ。ふー、と細く息を吐く。
「エクスキューズ・ミー?」
「はい、なんでしょう」
返事は存外に早かった。すかさず声を低く、響くように、張る。
「……一緒に、お風呂に入りたいと考えております」
「そうですか。続けなさい」
「まず僕がこの提案を通してお伝えしたいのはただ一点のみ。キミのことが……大好きってこと」
「ふむ。それで?」
「まずはメリットについてお話しします。その1、お身体を丁寧に洗ってさし上げ……」
「冗長。瞬発力のないプレゼンですね。掴みは悪くないのですが」
「……失礼しました」
「もういいです」
まさかの、失敗。ハリエットの介助があってこれか。僕は未熟だ。穴があったらかなり深くまで入りたい。しかし諦めてはダメだと踏ん張る。革靴ではなく靴下で。
「もう少しだけお時間を」
「手本を見せてさしあげてよ、社長」
遮られて怯む二の句。突として開くバスルームの扉。全身を重たく濡らした王が、素早く僕の喉を掴んだ。ぐっと思わぬ一歩で踏み込まれて、力が不可抗。洗面台のサイドカウンターの上に座らせられたようだと、着地地点を認識した瞬間、唇があわさった。
「んん」
抉じ開けられる感覚に目の前がちかちかする。最短距離で食らった。ものすごい右ストレートを。顎がはずれるような錯覚がするほど、前後不覚。こちらからのアクションの一切ができずにいると、王は僕のスラックスの中に手を入れ、一瞬の間のあと「ぜんぜんだめ」と吐き捨てた。
そして「この程度のやる気しかないの?」と僕の顎を掴む。冷徹に見下され、僕はもうノックアウト。再起不能だが、再起不能では駄目だ。
「まだ……まだやれます。やらせてください」
王の目を見て、訴える。マイナス記号型の瞳孔は、なおもつめたく僕をただ射貫いている。凍えるほど怖気ているのに、熱い。
「ふうん。で、やりかたは理解した?」
「……はい」
「結構。顧問がいないとだめなんて、まだまだですね、社長。まあ、お勉強なさい」
腰が抜けそうだ。唸り声を堪えながらその侵略行為もとい叱咤激励の手を制止すると、王はなにも言わず、またそれに抵抗もしなかった。ただ、パニッシャーのひとみで僕を見ている。僕の罪を検めるように。慈悲を勝ち取るために僕はその薄い骨盤に手を伸ばす。
「王さ、ああいうのどこで覚えてくるの」
「ああいうのって?」
「死ぬほどセクシーな煽りかた」
ベッドの縁に腰を下ろして、月見酒を一杯。流石はオールインクルーシブ。いいウイスキーがメニューに入っている。日本企業の手により地元で作られるようになったというそのチャイニーズ・ウイスキーは冬に飲むのに最適な香気と火傷しそうなほどの度数をしていた。
「まあ、まだわからずやCEOなの」
そのウイスキーを舐めるよりずっと前から、王は興奮した白毛馬のように素肌を薄紅色に染めたまま。疲弊の証にふわりと欠伸をして、口元に充てたその手で僕の肩をぽんと叩いた。
「わからずやは畳んだんですけど……」
「あら、ほんとう? 裏でやってない?」
王は疑いの眼差しで、笑う。
「やっ……てる、ときもあるかもしれないけど、まあ、表向きは?」
「そう。ならわたくしがどこのセミナーでおぼえたか、わかるでしょう」
「それは……うーんと、ハリエット顧問?」
「やっぱりまだCEOですね。破門です」
「破門ってなに!」
唐突な除名宣言に驚き、その語感に笑ってしまうが、対して王はツンとすずしい顔をして、僕とのあいだ、そのひとりぶんの距離を詰めてきた。そして僕の膝に手を乗せて、
「わたくしはおまえと交わったこと、そのすべてをおぼえているのに、おまえはそうではないのですね」
と唇を尖らせる。そして今度は目だけで笑って、グラスを傾けた。
「え、え?」困惑しながら、提示されたヒントを手繰り寄せる。
つまりそれは、そういうことなのだろうか。
「まったく、不義理な子。そんな騎士に育てた覚えはないのですが」
「王の記憶力と僕のそれじゃ、天と地ほどの差がありそうな……」
そもそも王種の破格のスペックに、僕如きがすべての面において敵うはずがないのだ。
「はあ、また『ぜんぜんだめ』と言われたいのですか?」
「あのね、それはね、言われたい。エロいから」
「じゃあ……ハリエットさんにくらべて、ぜんぜんだめ」
「あ、待って、それはちょっと深刻に傷つく……」
「冗談ですよ。わたくしは較べません」
そう言い切って、王は空になったグラスをサイドテーブルに置いた。そして座っている僕の背側にころんと横になって、その脇のスペースを叩いて僕を呼ぶ。
「抱いて寝てあげます。おいで、子犬ちゃん」
そう言われては、酒の二杯目は諦めるほかない。グラスを置いて、そのまま王の胸元に身体を捻じ込もうとしたところ、ふたたび「CEO?」と呼ばれてしまったので、すこし考えた末に獣形態になってみる。すると、やわらかい手指の感触が頭に。耳に。顎の下に。うっとりと目を閉じながら、その胸元に鼻先をうずめる。僕の大好きないい匂い。「きょう一日、ご苦労様」と甘い声。くうん、と喉が鳴る。
そして王の寝息が耳をくすぐるなか、僕は思考する。くらくらふわふわしながらも、高次認知機能だけは青い宵闇の中にぽっかりと浮かばせて。そのムーンライトを頼りに僕は推理する。
王の記憶力で以てしても覚えていないことなどあるのだろうか?
いや、覚えていない『こと』ならまだしも、覚えていない『ひと』などいるのだろうか?
刹那刹那の性交渉については覚えているのに、誰かがいたことを忘れるだなんてありえない。それは誰だ。犯人は、誰だ?
フーダニットへつづく路へいま飛び出した感覚。きっとハイウェイは事故で通行止め。下道で気長に行くべきだとナビが勧める。それなら僕は根性で戦うのだ。それが僕の美徳だと、あの顧問探偵も言っていた。
End.
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