ナイフと心

めい湖

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七日目 二〇XX年二月二十一日

三十七、

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 揺さぶられて、無理やり眠りの底から引っ張り上げられた。
「……阿貴、起きろ。行くぞ」
「……武衛さん?」
 ベッドに寝ていた阿貴の顔のすぐ隣に、武衛がいた。息をひそめて声を落とし、阿貴を起こすとすぐ隣に着替えを置いていた。
 外は、暗かった。夜の暗さではない。天気が悪いか、煙が濃いか。手元がはっきりしない中、阿貴は言われるままに武衛が出した着替えを手にする。
 そんなに焦ってどうしたのだろうか。武衛は阿貴が着替え始めたのを見て、今度は荷物をまとめ始める。阿貴のバッグにも何かを詰め込んでいる。
「武衛さん、どこに行くの?」
 阿貴が尋ねても、武衛は答えなかった。靴まで履いて立ち上がると、武衛は無言で阿貴にバッグを差し出す。
「行くぞ」
「ちょっと待って、だからどこに行くんだってば」
「いいから」
 武衛はショルダーバックの紐に阿貴の頭をくぐらせて、調節部分を締める。そして阿貴の腕をつかんで部屋を出る。
 外は、雨が降っていた。
 共用の廊下に出ただけでも、室内のものではない冷気が阿貴を襲う。身震いする暇もなく、武衛は先に進んでいく。雨の音が響いて、アパートの外にできた水たまりの表面が揺れている。激しい雨が降っていた。
「武衛さん、どこに行くの。こんな雨の中動きたくないよ」
「黙ってろ」
 武衛は阿貴の問いには答えずに、言い放つ。外の様子を伺い、話す意思はないというのが伝わってくる。おかしい。阿貴は後ずさった。
 外を確認した武衛が阿貴のいるところまできて、また腕をつかもうとする。それを阿貴は振りほどいた。
「黙ってろ、っていうのは、ないでしょう」
「……ここから逃げる」
「このアパートから? どうして?」
「……安全圏に、逃げる」
 武衛と、目が合わない。彼の視線は阿貴の頭の上をうつろに見ている。武衛の言葉に、阿貴はさあっと血の気が引くのを感じた。
「……あの人の、話に乗るの?」
 山口のことだ。武衛はうなずいた。そして間髪入れずに武衛はまた阿貴の腕をつかむ。今度はふりほどけないほど強い力で引っ張られて、つんのめる。
 向こうの家の様子すらよく見えないほどの、雨だった。武衛は振り返ると阿貴のコートについたフードをつかんで、阿貴の頭にかぶせる。自分も深くフードをかぶると、阿貴の手をつかんだまま外に飛び出した。
「待って!」
「阿貴くん!」
 阿貴が叫ぶと同時に、路地の奥から声がした。振り返ると、恵美が傘を持って立っていた。
「阿貴くん、大変なの。ちょっと、話を聞いてほしくて」
「ダメだ、こいつは今から俺と行く」
「少しでいいから! お母さんの部屋に、泥棒が入って、どうしたらいいかわからなくて」
 恵美の言葉が、頭を殴られたような衝撃になる。武衛が小さく舌打ちするのが嫌に鮮明に聞こえた。
 阿貴は血の気が引いていくとともに、目の前が真っ白になるような感覚がして、何も考えられずに、自分の腕を引っ張る武衛に体当たりするようにして腕を振りほどいた。「きゃっ」と悲鳴をあげたのは恵美で、阿貴は振り返って彼女ににじり寄った。
「お母さんは、無事なんですか?」
「大丈夫って言っているけど、殴られたみたいで……ごめんなさい、どうしたらいいかわからなくて、男の人にいてもらえたら、すごく……」
 恵美は、傘を差しても濡れるような雨の中で、声を震わせた。泣いているのかもしれない。
「わかりました。行きますから、大丈夫です」
「ありがとう、阿貴くん」
「ダメだ、阿貴。お前はこっちに行くんだ」
 武衛が叫んで、また阿貴の腕をつかもうとしたが阿貴は跳びあがるようにその手から逃げる。
「一人で行ってよ! 俺に触るな!」
「ダメだ」
 低くうなるような声とともに、武衛が手を振り上げた。何をされたかわからないうちに、頬に痛みが走って、衝撃のままに頽れる。地面に手をつくと、泥が指先に絡まった。
 数日前の雨の日と同じように。武衛を拾ったあの日と同じように。
 差すような冷たい雨。頬から伝った雨が手や地面に降り注ぐ。今阿貴が泣いても、きっと誰も気づきやしない。それが、ありがたいのか、悔しいのか、どっちなのだろう。
「クソ!」
 武衛は再び阿貴の肩をつかむ。今度は逃げられないようになのか、腰をつかまれて足が浮くほど持ち上げられて、武衛の肩に抱えられた。膝裏を抑えられて、思うように抵抗できない。
「やめろって、おいてってよ!」
 叫びが、雨の音にかき消されたかのように、武衛は聞こえていないかのように動く。上下に揺らされて、視界が揺れて、気持ち悪い。ただ、気持ち悪い。
 阿貴は武衛の背中を拳でたたいた。何度もたたいた。武衛は路地の入口にあるバリケードをまたいで大通りに向かって大股で進んでいく。
「なんで、俺まで一緒に連れてこうとするんだよ」
 そこに生きている人の、大切なものを踏みにじってまで。
 行くなら、勝手に一人で行ってほしい。
 それで、船ごと沈んでしまえ。
 凶暴な思いを込めて、また強く、武衛の背中をたたく。うまく力が入らなくて滑って身体が跳ねて、今まさに渡ろうとしている通りの、斜向かいのビルが目に入った。
 まず、得体のしれない違和感を覚えた。スローモーションで景色が流れていく。ビルの上に、誰かがいる。雨の中、わざわざ合羽をかぶってどこに行くのでもなくそこに立っている。そいつは、覆面をして、長い棒状のものを持っていた。
「武衛さん、止まって!」
 武衛は聞かない。それどころか、暴れる阿貴を抱えなおして進む。揺れる視界の隅で、ビルの上の人物が体勢を変える。こちらを見ていた。阿貴と目があった気すらした。
 銃口がこちらを見ていた。どうして、みんな、そんなことを平然とするようになったんだ。
 阿貴は武衛の髪をひっぱって、背中の下側の、腎臓のあるところに思いっきり拳を振り下ろす。さらに横にねじるようにすると、急所を打たれて呻く武衛の腕から落下するように落ちる。ちょうど、銃口と阿貴の間に武衛が立ちはだかるような形になる。
「武衛さん、危ない!」
 よろめく武衛の腰を、思いっきり引き倒す。四車線の道路の真ん中で、さえぎるものは雨だけだ。パシュ、と耳慣れない音が近くで落ちる。顔を上げると、あの人物はまだこちらに狙いを定めているようだった。阿貴ではなく、無防備に後ろに倒れた武衛を狙っている。そして、武衛は驚いた顔をして倒れて、常に見せる警戒心は見えない。
 身体が勝手に動いていた。
 武衛が尻もちをつくように倒れた上に、身体を投げ出す。背中がカッと熱くなって、驚いて身体が動かない。武衛の上でうずくまりながら、背中の厚さが、しびれるように手足に広がっていくのを感じていた。
「クソ野郎!」
 武衛が叫んだ。お前がクソ野郎だ、と言い返してやりたかった。武衛と目が合ったかと思うと、彼は素早く立ち上がって振り返りざまに何かを投げた。硬いものがぶつかる音がする。武衛が阿貴の肩を支えて元来た道を走って戻る間。あの銃声は聞こえることはなかった。
 全身が熱い。よろめく足元に、黒っぽい液体が水たまりに溶けて流れていく。背中の熱以外、自分の身体の感覚がなくなってしまったようにも感じられた。
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