ナイフと心

めい湖

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七日目 二〇XX年二月二十一日

三十五、

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「あの話、考えてくれたか?」
 一晩明けると、砲撃音は聞こえなくなっていた。様子をうかがうために外に出ようと共用廊下まで出ると、山口が階段に座り込んでいた。阿貴は彼がそこにいることよりも、悪びれもせずに声をかけてくることに、驚いた。
「いいえ、考えもしません」
「お堅いなあ、まあ勇気が出ないのはわかるよ。みんなそうだ。でも、みんなやっていることだぜ?」
「みんななんて知らないし、関係ないよ」
 彼が占拠する段をまたいで階段を下りる。朝起きたら武衛がいなかったので外の様子が知りたかったし、何より家の中にずっといるのはめまいがする。外の空気は冷たいが、しっかり着込めば外のほうが気分がよかった。
「明日の日暮れから一時間後だ、阿貴」
 ポストが並んだ玄関に差し掛かった時、背後から山口が言った。その、妙に力のこもった声に、阿貴は振り返る。影になって表情はよくわからないが、双眸の白いところが爛々と輝いて見える。
「うるさい」
「一緒に行こう、物さえ手に入れば、ここから抜け出せるんだぞ?」
 山口の声に肩をつかまれているような錯覚を覚えた。その考えを振り払うように外に出て、路地に転がっているコンクリートの重石に腰を下ろす。本来はゴミ捨て場の網や通行禁止の柵が不用意に動かないようにするためのものだ。頭上には濃い灰色の雲が広がっている。ポケットから隣の部屋で見つけたクッキーの袋を取り出した。朝ごはんだ。
「あのぉ、阿貴さん、今、大丈夫です?」
「ん、はい」
声をかけてきたのは、吉川夫婦の隣の家で、母親と姉妹二人で住んでいる佐山家の、おそらく妹のほうだった。水の配給の時に少し喋ったきりなので記憶が曖昧だが。武衛よりもさらに年上のように見えて、化粧気のない顔に髪の毛を低いところで引っ詰めている。
「よく一緒にいる方は今はいないんですか?」
「はい、なんか朝起きたらいなくて。荷物はあったので戻ってはくると思うんですけど」
阿貴が答えると、彼女は少し遠くを見ながら頷いた。
「あの、ちょっと手伝って欲しくて。重いものをどかしたいんですけど、私たちじゃちょっとお手上げなんです」
「僕でよければ、いいですよ」
 ちょうど乾パンを食べ終わったので、彼女について家に行く。玄関よりも奥に入ったところにある荷物置き場の扉があかないのだという。阿貴は少し考えた結果、アパートの一階で見つけた工具箱から、トンカチとバールが両端についている棒を持ってきた。バール部分を扉と枠の隙間に差し込んで力と体重をかけると扉が開いた。
「やっぱ男の人がいると助かるね。ありがとう」
 中には防災グッズや古いキャンプ、阿貴が持っているような工具が入っていた。ここをよく使っていたのは単身赴任中の父なのだと、佐山は話してくれた。「せっかくだから」と佐山家の中に入れてもらった阿貴は、一家に混じってコーヒーを飲ませてもらった。
「贅沢だとは思うんだけどね、今は食べ物は限られてくるし、コーヒーだけでも前と同じように楽しみたいの」
 妹の恵美が、たっぷりの熱い湯を沸かしながら言った。姉の利恵はあとからリビングに入ってきたと思うと、「はい、私のへそくり」と雑然とするテーブルの上にいくつかの茶菓子を広げた。「りっちゃん、こんなの持っていたの?」「だからへそくり。お客さんくるのなんて久しぶりだし」と母親の指摘を躱す。阿貴は、母親のことを『佐山さん』と呼ぶことにした。
 佐山家の中は、阿貴たちがいるアパートとは別世界のようにきれいに整えられていた。詰め込まれたゴミ袋が廊下に出されていたり、普段ならしまわれているコンロが出しっぱなしになっていたりと生活感はあるが、埃もなく整理整頓もされている。「綺麗にされているんですね」と思ったことを口にすると、利恵が苦く笑う。
「なんもやることがないし、外にも出れないから、家事と読書くらいしかできないの」
「本って言ってもお父さんが残している歴史小説だけどね」
「ほんと、この一ヶ月で織田信長と豊臣秀吉に十人くらい出会ったわ」
 姉妹は丁々発止とでもいうのか、阿貴が相槌をつくよりさきに話を進めていく。「テレビも動画もないと暇だから、手袋三つとセーター編んじゃったんだよね」と妹の恵美は手作りの編み物を見せてくれた。
 女性三人のお茶会に招かれた阿貴は、久しく浴びていなかったその活力のある様子に驚いて、どこか安心を覚えた。彼女たちはずっとここにいるのだと阿貴に話し、阿貴もこれまでのことをかいつまんで話した。
「それじゃあ、あの武衛さんとは、数日前に出会ったばっかりなの?」
「そうです。そこの路地裏で、倒れていて」
「……あの人、怖くない? 感じ悪いよね、変に脅されたりしていない?」
 誰が聞いているわけでもないのに、声を低くして利恵が阿貴に尋ねてきた。「りっちゃん、何言ってんの」と母親がたしなめるが、阿貴はその反応は当然に思えて、なのにそれをおかしいと思った。利恵は顔をむくれさせる。
「だって、あの人、水の配給の時も感じ悪いことを大声で言ってたんだよ。かちんと来ちゃった」
「あの時は確かに……怖い感じですし思ったことも口に出ちゃいますけど、話せば普通の人ですよ。警戒心が強くて、今は少し、ピリピリしているだけです」
「本当に?」
「はい。強面の犬がなついてきたみたいな気分です」
「はは、それは阿貴さんが大物なのかもね」
 恵美が笑い飛ばして、利恵は肩をすくめた。帰ったら武衛にこのことを伝えて、もう少し感じよくするように言わなきゃだな、と愛想笑いをしながら阿貴は考える。
 コーヒーが冷えて、すっかりカップが空になる頃にお茶会はお開きになった。最後には「お父さんのなんだけど、もしよかったら使ってね」と手袋やコート、それに買い置きの下着までもらった。阿貴にはサイズが大きいが、武衛には合うかもしれない。……ひらひらのトランクスなので、ボクサーパンツ派らしい彼は嫌な顔をするかもしれないけど。
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