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第1部

第6話

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 押し倒してしまった老議員は平気そうだ。
 安心したあたしは立ち上がると、母様へ向かって駆け出す。
 ジャリっとサンダルの底が音を立てる。
 大理石の床でガラスの破片がキラキラと輝いていた。

「母様、今のチャズザーは本物? あの魔物フィーンドは何だったの!?」

「落ち着け。今、ネサレテが託宣を受けている」
 
 ネサレテ先生は目を瞑り、ブツブツと何事かを呟いていた。
 託宣と言っても大仰な儀式をする訳じゃなくて、交神コミューンの呪文を唱え、オグマに質問をしているのだ。

 交神コミューンは仕える神から「然り」または「否」いずれかで、三つまで質問の回答を得られる呪文だ。
 ちなみに、神様だって分からない事柄については「定かならず」と回答される場合もあるらしい。

ラスチェク公ノーナー・オヴ・ラスチェク、公女、我々の前に現れたのは幻像ですが、チャズザーはエレボスに実在しています。
 アンデッドではなく、魂と血肉を備えた存在であると思われます。
 如何にして蘇ったのかは分かりかねますが、何者かが成りすましている訳ではなさそうです」
 早速、オグマからの託宣を得たネサレテ先生があたしたちの疑問に答えてくれた。

「それと、あの魔物フィーンドはグリーン・アビシャイですね。
 ティアマトに仕えるデヴィルの中でも奸智に長け変身能力を持つ種です。
 チャズザーであれば、アビシャイを使役しているとしても不思議はないでしょう」
 さすがネサレテ先生、本当に専門外の知識ってないんじゃない?
 ……なんて感心してる場合じゃないよね。
 母様はかなりチャズザーを挑発してたけど、お産を控えているのにどうやって戦うつもりなんだろう。
 
ラスチェク公ノーナー・オヴ・ラスチェク、今からでも遅くはございません。
 お考えを改められ、王の聖遺物ロイヤル・レガリアをお渡しになられた方がよろしいかと」
 あたしが物心ついたときからずっと統治評議会の議長をしているファラクセス・ゾラが母様に詰め寄っている。
 特別な武勲を立てたり富豪だったりする訳でもなく、市民階級から統治評議会の一員に選ばれたファラクセスには政治家としての実力があるらしい。
 それって何なのか良く分かんないんだけど、このひと確かに妙な圧があるんだよね。

「評議会議長としての助言か?」

「統治評議会の総意にございます」

 物凄く違和感がある。
 外交使節の正体が魔物フィーンドだって分かったら、「たぶらかされなくて良かった」ってならない?
 何事にも動じない母様は別格として、この状況でエレボスとの交渉を続けようとしている議会って変。
 大体、祝祭日に突然やってくる使節なんておかしいし。
 ようするに、ラスチェクとエレボス双方の政府同士で話は出来ていて、母様は蚊帳の外にされてるんじゃないの!?

「二度同じ言葉を言わせるな。
 エレボスとの戦いに備え全軍を招集する」

「出来ませぬ」

「なぜだ?」

「軍を編成し、戦の準備を行うのは我ら統治評議会の役目です。
 今、我らはラスチェク軍を動員する判断を致しかねます」

「軍の司令官は誰か知っているか?」

ラスチェク公ノーナー・オヴ・ラスチェクが戦場へ立たれれば、全ての将兵が従うでしょう。
 しかし、今の閣下が前線にて指揮を執られるのは現実的ではありません」

 母様は声を荒げるタイプではないけれど、その威圧感はものすごい。
 その気になれば指一つ動かさず相手の存在を消し去る武器を持っている。
 けれど、ファラクセスは母様の圧力の壁に押し負けないよう気力で対抗しているように見える。
 謁見の間の空気は張り詰め、誰もが身じろぎ一つしないまま何十秒かの時間が経過した。

「なるほど。身重の私には戦場での指揮は無理か……。
 ならば、公の執務もいささか荷が重いな。
 私は“産休”を取る。
 これよりは、公女ヴィムル・バーディス・カラノックを我が摂政とし全ての権限と職務を任せる」

 母様は御座から立ち上がり台座を降ると、自分の小指から印象指輪を外し、あたしの左手を取ってそれを嵌めた。
 カラノック家の三日月の紋章が刻まれた指輪は、あたしの指には大きすぎてするりと抜け落ちそうになり、慌てて拳を握りしめる。
 間近で見上げた母様の顔は血の気がなく、とても具合が悪そうだった。

「ネサレテ先生、母様を御寝所へ」
 自分の声が遠くに聴こえる。
 ”黒曜石の御座ぎょざ”へ登る、ほんの数段がとてつもなく長く遠いものに感じられた。

 磨き上げられた石の冷たい肌触りを感じながら、ネサレテ先生や鮮血の盾ブラッド・シールドを従えて退出していく母様の後ろ姿をぼんやりと見送る。

「このような不義不忠が許されるものか!
 ラスチェク公ノーナー・オヴ・ラスチェクはただお身体を崩しておられる訳でありません。
 カラノック家の宝となる御子をご出産されるために戦っておられるのです。
 君が動けないとき、その手足となって動くのが臣たる我らの役目ではないのですか!?」

 あたしを現実に引き戻したのは、ナリアが張り上げた声だった。
 何となく、彼女も母様についていったものだと思い込んでいた。
 そうか……ここにいてくれたんだ。
 
「痴れ者が! 無位無官のお前がこの場で発言するなど許されぬ! 分を弁えよナリア・チェス!」
 怒声に打たれたナリアは硬直しているものの、目だけは力を失わずファラクセスを睨みつけている。

「ファラクセス殿、娘の不調法を許されよ」
 ナリアとそっくりな美男だけれど、いつも不誠実に見える薄ら笑いを浮かべているこの男、マリク・チェス議員があたしは大嫌いだ。

「女にはまつりごとは理解できないものです。
 あれはあれなりの忠義からの言葉。
 大目に見てやろうではありませんか。
 さあ、ナリア、下がりなさい。
 館へ戻って頭を冷やすんだ」

「父上、私はラスチェク公ノーナー・オヴ・ラスチェクの命でここにいるのです。
 主命に背き公女のお側を離れる訳にはいきません!」 
 
 マリク・チェス、何て不愉快な奴なんだろう。
 恋人の父親じゃなければ許容できないような態度の人物ではあるけれど、今のは最悪すぎる。
 都市国家ポリスの政治を動かしているのは男かもしれない。
 でも、あなたたちが仕えているのは誰なのか分かっている?

 今日はもう変身してしまっていて良かった。
 もし今ドラゴンの姿になれるとしたら、あたしは自分を抑えられる自信がない。

 どうやって憤りをぶつけてやろうか思案している間に、ルセンが音もなくナリアへと近づき耳元で何かを囁いた。
 ナリアは目を見開いて両手で口を押える。
 そして、何も言わずそのまま走り去ってしまった。

 あくまで母様の代理としての立場であっても君主でいるのは窮屈だ。
 今すぐ、恋人を追いかけ、何を言われたのか聞き出す訳にもいかない。
 
 口を開けば、ファラクセスへの、マリクへの、ルセンへの罵詈雑言が止まらなくなるのが分かっている。
 感情のせきが切れたら、みっともなく泣きわめく自分が想像できる。
 摂政としてそんな醜態は晒せない。
 冷静になって、ヴィムル・バーディス……。
 
 あたしは深く息を吸いながら、謁見の間を見渡した。
 床で何かが光っている。
 視線を上げるとガラス窓が打ち破られた天井から青い空が見えていた。
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