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13. エル子と蛇と林檎と扉 後編
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「どうして、わたしはカメラを忘れたか……!」
エル子は本気で臍を噛んでいた。せめて携帯くらい持たせておけばよかった、と後悔していた。
今回は白巳様という強力な護衛がついているけれど、だからこそ余計に焦燥していた。あれほど強力な護衛がいるのに、ドライアドたちは帰宅も連絡もできない事態に陥っているのだ。きっと不安がっているに違いない。前みたいに、片方が首だけになって戻ってきたりするのは嫌だ。見たくない。
エル子は居ても立ってもいられなかった。
「迎えにいかなくちゃ――」
立ち上がり、玄関に向かう。
でも、そこまでだ。
「あ……ぅ……」
玄関扉を前にした途端、目が眩んだ。視界が歪んで、平衡感覚もどこかへ吹っ飛ぶ。天地が分からなくなって、咄嗟に自分から蹲った。そうしなかったら、倒れた弾みでどこかに頭を打っていただろう。
気絶を免れたエル子だったが、感覚の歪みはますます酷いことになっていた。首から下が麻痺したみたいに動かせず、手足の感覚もない。蹲っていることすらできず、玄関先でべちゃりと突っ伏してしまう。感覚がないおかげでフローリングの冷たさを感じなくて済んだけれど、代わりに頭痛がしてきた。
頭痛はたちまち酷くなり、頭蓋骨を内側から金鎚で乱打されているみたいな鈍痛に見舞われる。
起き上がろう。頭を上げよう――。
そう思う意思を上から押さえつけて、床に叩きつけるかのような頭痛。さらには眼窩が万力で締め上げられるみたいに、眼球がみしみしと悲鳴を上げる。
「っ……う、ぁ……行かなきゃ……あぅ……」
とうとう呼吸までおかしくなってくる。息をしている感覚が遠のいていき、どれだけ息をしても息が足りない。呼吸が、酸素が、足りない。もっと息をしないと、吸わないと――あ、違う。逆だ。これ、過呼吸。だ。吸いすぎ、止めなきゃ。呼吸。我慢。苦しい、でも。でも。でも――
――ガチャリ。
玄関扉の開かれる音が、やけに大きく響いた。
「……ごちゅじんちゃま?」
「家に帰るとマスターが死にかけてるとか……はぁ……」
エル子の頭上に降ってきたのは、タンポポちゃんの不思議そうな声と、鈴蘭ちゃんの疲れ切った溜め息だった。
「あ……」
這いつくばったまま顔を上げたエル子は、アドちゃんズが二人とも無事なのを確認したのと同時に、意識を手放した。
● ● ●
「んぁー……」
エル子が目を覚ますと、目の前にはタンポポちゃんがいた。仰向けで寝かされていたエル子の顔を、タンポポちゃんが覗き込んでいたのだ。
「あ、起きたでちゅ」
「おはよー……」
寝惚け眼で返事をしたところで、エル子、一気に目が覚めた。
エル子は床に肘を突いて身体を起こすと、改めて辺りを見回す。エル子が寝かされていたのは、自宅の茶の間だった。卓袱台のほうには、座布団に座って麦茶を飲んでいる鈴蘭ちゃんと白巳様の姿もあった。
「はぁ……やっと起きたんだ」
「無事に目覚められて何よりです。お体、触りはありませんか?」
鈴蘭ちゃんの溜め息と、白巳様のそこはかとなく他人行儀のご機嫌伺い。でも、いまはそんなこと気にならない。
「――よかった。無事だったー……!」
「わわっ」
エル子はタンポポちゃんに抱きついて、安堵の涙声だった。タンポポちゃんは驚きの声を上げたものの、すぐに力を抜いて、小さな手でエル子の背中をぽんぽん撫でた。
「あたぃたちは大丈夫でちゅよ。ご心配かけたでちゅ」
「んーん、無事ならいいのー……ん?」
エル子がタンポポちゃんを抱き締めて頬笑んでいると、横からシャツの裾をくいっと引っ張られた。
「……ん?」
見ると、鈴蘭ちゃんだった。いつの間にかエル子の隣に寄ってきていた鈴蘭ちゃんが、何か言いたげに唇を尖らせて、エル子のシャツをくいくいしていた。
エル子は見ただけで、その表情の意味を理解して、片手を差し伸べた。
「鈴ちゃんもおいで」
「……ん」
鈴蘭ちゃんは頬笑むエル子の胸に、ぽふっと飛び込んだ。
エル子は幼女姿のドライアド二人をまとめて胸に抱き締めて、二人が五体満足で帰ってきた安堵を噛み締めたのだった。
しばらくそうしていたら、麦茶に口を付けながら傍観していた白巳様にくすりと頬笑まれた。
「その花、とても大事にされているのですね」
「ええ、まあ……あっ、というか、白巳様もありがとうございました。二人を守ってくださったんですよね?」
「礼には及びません。そういう契約を交わしたのですから。ですが……そうですね、帰りが遅くなった理由は伝えておくべきでしょう」
白巳様がそう言うと、タンポポちゃんが顔を上げた。
「報告はあたぃからちまちゅ」
タンポポちゃんの舌足らずな声で語られた報告は、相変わらずの大活劇だった。
指定された待ち合わせ場所までは、何事もなく到着できた。待ち合わせ場所から車に乗って移動した先は、郊外にある大きな研究施設だった。タンポポちゃんの印象では、「なんか凄そうなとこでちた」だった。
エル子に連絡してきたスライム愛好家はその施設に勤務する研究者だったようで、施設内の一室で三人を出迎えた。そして、彼は挨拶もそこそこに、ドライアド二人の鞄に入れて運ばせた超銀河スライムの検査を始めた。検査にはドライアド二人と白巳様も立ち会ったが、スライムを切り刻んだり薬品漬けにするようなこともなく、何種類かのCTで断層写真を撮ろうとしたようだった。
アドちゃんズはよく分からなかったみたいだし、白巳様も関心がなかったようで、検査の詳細は分からなかった。でもとにかく、検査は上手くいかなかったらしい。スライム愛好家が考え得る全ての方法を試してみても、超銀河スライムのデータを得ることはできなかった。
そして、思い余った彼は、超銀河スライムを何かヤバい装置にかけようとしたらしい。他の研究者たちが止めようとするのを振り払って、彼はガラスの棺みたいな装置の中に超銀河スライムを入れた。アドちゃんズも止めようとして駆け寄ったが間に合わず、目の前で装置が起動。どうやら、ヤバい有害光線か何かが超銀河スライムに照射されたらしい。
直後、超銀河スライムが膨張を始めた。棺のような装置を内側から呑み込んで、人間を一呑みにできるサイズにまで膨張。そのまま襲ってくるんじゃないかと思った大方の予想を裏切り、超銀河スライムは自身の巨体をその場で激しく痙攣させると、星空を凝縮させたみたいな身体の内側から名状しがたい何かを吐き出し始めた。
名状しがたい何か――それは生き物とも生ゴミとも判断つかない、とりあえず有機物のような気がしなくもない何かだったそうな。
「目が見ることを拒否ちたとゆーか、頭が覚えることを拒否ちたとゆーか……でちた」
タンポポちゃん曰く、嫌悪感の上位版とでも言うべき感情が働いて、その何かを何かとしか記憶できなかったのだという。
「とにかく、気持ち悪いっぽかったでちゅ」
話を聞いているだけだとあんまり分からないけれど、とにかくなんかヤバそうなのが、ヤバいっぽい光線を浴びた超銀河スライムの中から出てこようとしていたということだった。
「んでー、その何かはどうなったん?」
エル子が尋ねると、タンポポちゃんは白巳様を見た。その視線を受けて、白巳様は鷹揚に頷く。
「あれは存在を許されざるものでしたので、身共が対処しました」
「……おーぅ」
淡々と、ゴキブリが出たから駆除しました、くらいの軽い感じで答えられて、エル子はそんな声しか出せなかった。
いや、ゴキブリを駆除するのが軽いことはこの際置いておくとしても、その名状しがたい何かがゴキブリ比で何倍ヤバいものなのかが分からないから、それを倒したのがどれくらい凄いことなのか、エル子には正確なところが分からなかったのだ。
白巳様が凄く強いのはなんとなく感じているけれど、白巳様が余裕で倒せるレベルなら、自分でも必死こけば倒せるレベルかも……なんて思っちゃってるエル子なのだった。
「言っておきますが、身共でもあれを誅滅することは能いません」
白巳様の、まるでエル子の内心を見透かしているかのようなお言葉だった。
「えっ……そうなんですか?」
ぽかんとした顔で聞き返したエル子。聞きようによっては侮るような物言いだったが、白巳様は眉ひとつ動かさずに答えた。
「身共は、あれを穴の向こうに押し戻しただけにすぎません。対処、と言ったでしょう」
白巳様が言うには、超銀河スライムという穴を通して現れたのは、何かのごく一部だったらしい。何かからすれば、突然目の前に穴が開いたので試しに指先で少し触れてみた程度の行為だったのでしょう――とも、白巳様は言っていた。
「身共はその指先を全身全霊で叩いて押し返しただけです。あれが本気で穴を通る気だったら、身共程度では如何ともし難いところでした」
「……とにかく凄いヤバかったけど、運良くなんとかなったーってことですね」
想像以上に壮大そうな話になっていて、エル子は早々、理解を放棄。笑って話を終わらせた。
「じゃ、続けまちゅね」
白巳様が話している間は静かにしていたタンポポちゃんが、話を再開させた。……といっても、後は大して長くなかった。
スライム愛好家の研究者は、他の研究者たちに取り押さえられた。タンポポちゃんたちは超銀河スライムを回収して、現場が混乱しているうちにさっさか帰ってきた。そしていま、エル子に報告しているというわけだった。
「なるほどー……とにかく、今回もお疲れさまだったねー」
報告を聞き終えて、エル子はしみじみと頷いてから、笑顔で二人を労った。勿論、白巳様にお礼を言うのも忘れない。
「白巳様のおかげで、アドちゃんたちもスライムくんも無事に帰ってきてくれました。護衛、ありがとうございましたーっ」
エル子は座布団の上で正座し直すと、深々と頭を下げた。
「礼は不要です。すでに貰っていますから」
「でも、お酒の一杯だけじゃ割に合わなかったんじゃないですか……?」
白巳様は澄まし顔で言っていたけれど、名状しがたい何かとやらの撃退はたぶん、もの凄くもの凄いことだったんじゃないかにゃー……と、エル子は慮っているのだ。
エル子のお伺いを立てるような目線を受けて、白巳様の黒ダイヤのごとき瞳がきらりと光る。薄く開いた唇からは、桃色の先割れ舌がちろりと覗く。
「礼は不要、と重ねて言うこともできますが、あまり断ってばかりというのも無粋でしょう。人の世はなあなあのずぶずぶで回るものですし……よろしい、追加の謝礼をいただくとしましょう」
「……ん?」
エル子、笑顔で固まる。
あれ? なんかこれ……あれ? お礼の言葉じゃなくて、お礼の品を求められているみたいな? ……あっ、これ、あれだ。藪蛇だ。突いちゃったやつだ……。
エル子の脳内を高速で後悔が去来していった。
そんな一瞬の後悔すら、白巳様はお見通しのようだ。薄い唇に蠱惑的な笑みを浮かべて、
「では――いただきます」
言うが早いか、その口が耳元まで裂けてくわわっと開かれ、白い首がにゅるるんと餅のように伸びて――座布団に座っていた幼気な童女二人を、二人まとめて一呑みにした。
息を呑む暇もないほどの早業だった。
「ひはっ……!? はっ……は、は……!!」
エル子は両目と口を大きく開けて固まっている。瞬きを忘れ、息の仕方も忘れて、身も心も固まらせていた。睨まれたわけでもないのに金縛りだった。
「ん――」
幼女サイズ二人分を一気に丸呑みした白巳様は、閉じた口元を手で隠す。そして、その手に吐き出したものをそっと卓袱台の上に転がした。
それぞれに異なる花の蕾を付けた、ふたつの球根だった。
「ふぅ……ご馳走様でした。こちらはお返しします」
白巳様は唇を指でひと拭いすると、楚々と頬笑んだ。先ほどの、口裂け女の本気! みたいな食事姿を見ていなかったら、エル子も素直に見惚れていたことだろう。
「どういたしましてー……」
引き攣った笑顔でそう返すのがやっとだった。
お粗末様でした、とは言いたくなくて言葉を探したものの上手い言葉が見つからなくての、「どういたしまして」だった。
「ん、ふっ」
白巳様が慈母の顔で頬笑む。
「花実の化生を食したことはこれまでにも何度かありましたが、熟す前からこれほど美味なものは初めてでした。丹精に育てられているのですね」
「えっと……そうなんですか?」
エル子、思わず聞き返しちゃった。
そうしたら、今度はくっくっと喉を鳴らして笑われた。
「く、くふ、ふ……なるほど。身共は野暮を言ってしまったようです。今のは忘れてください」
「はぁ……」
エル子はよく分からなかったけれど、白巳様には何か感じるところがあったらしい。一人で、くっくっと肩を揺すって笑んでいる。
「ええとー……」
エル子が反応に困っていると、白巳様は小さく咳払いして笑いを呑み込む。
「ん……少々、長居してしまいましたね。身共は帰るといたしましょう」
「あっ、はい。どうもありがとうございましたー」
「では、またいずれ……」
白巳様の蠱惑的な微笑みが、ふわっと湧いてきた霞に呑まれた――かと思ったら、もう消えていた。現れたとき以上の唐突さで、白巳様は帰っていったのだった。
そして誰もいなくなった茶の間で、一人、エル子は呟く。
「嵐のような一日だったー……」
台風一過。
嵐はお土産を残していっていた。
タンポポちゃんに持たせていた鞄から超銀河スライムを取り出したら、白金に輝く愚者の林檎も一緒に転がり出てきた。
客用の座布団を片付けようとしたら、白巳様が座っていた座布団に数枚の鱗が落ちていた。銀雪のようにも万色の虹のようにも輝く鱗は、愚者の林檎に劣らないくらい品格の高い逸品だった。
だけど、エル子は喜ぶよりも、
「なんかもーどっとー疲れたー。しばらくネトゲしかしたくにゃーにゃーにゃー」
……なんかもう、そんな感じなのだった。
エル子は本気で臍を噛んでいた。せめて携帯くらい持たせておけばよかった、と後悔していた。
今回は白巳様という強力な護衛がついているけれど、だからこそ余計に焦燥していた。あれほど強力な護衛がいるのに、ドライアドたちは帰宅も連絡もできない事態に陥っているのだ。きっと不安がっているに違いない。前みたいに、片方が首だけになって戻ってきたりするのは嫌だ。見たくない。
エル子は居ても立ってもいられなかった。
「迎えにいかなくちゃ――」
立ち上がり、玄関に向かう。
でも、そこまでだ。
「あ……ぅ……」
玄関扉を前にした途端、目が眩んだ。視界が歪んで、平衡感覚もどこかへ吹っ飛ぶ。天地が分からなくなって、咄嗟に自分から蹲った。そうしなかったら、倒れた弾みでどこかに頭を打っていただろう。
気絶を免れたエル子だったが、感覚の歪みはますます酷いことになっていた。首から下が麻痺したみたいに動かせず、手足の感覚もない。蹲っていることすらできず、玄関先でべちゃりと突っ伏してしまう。感覚がないおかげでフローリングの冷たさを感じなくて済んだけれど、代わりに頭痛がしてきた。
頭痛はたちまち酷くなり、頭蓋骨を内側から金鎚で乱打されているみたいな鈍痛に見舞われる。
起き上がろう。頭を上げよう――。
そう思う意思を上から押さえつけて、床に叩きつけるかのような頭痛。さらには眼窩が万力で締め上げられるみたいに、眼球がみしみしと悲鳴を上げる。
「っ……う、ぁ……行かなきゃ……あぅ……」
とうとう呼吸までおかしくなってくる。息をしている感覚が遠のいていき、どれだけ息をしても息が足りない。呼吸が、酸素が、足りない。もっと息をしないと、吸わないと――あ、違う。逆だ。これ、過呼吸。だ。吸いすぎ、止めなきゃ。呼吸。我慢。苦しい、でも。でも。でも――
――ガチャリ。
玄関扉の開かれる音が、やけに大きく響いた。
「……ごちゅじんちゃま?」
「家に帰るとマスターが死にかけてるとか……はぁ……」
エル子の頭上に降ってきたのは、タンポポちゃんの不思議そうな声と、鈴蘭ちゃんの疲れ切った溜め息だった。
「あ……」
這いつくばったまま顔を上げたエル子は、アドちゃんズが二人とも無事なのを確認したのと同時に、意識を手放した。
● ● ●
「んぁー……」
エル子が目を覚ますと、目の前にはタンポポちゃんがいた。仰向けで寝かされていたエル子の顔を、タンポポちゃんが覗き込んでいたのだ。
「あ、起きたでちゅ」
「おはよー……」
寝惚け眼で返事をしたところで、エル子、一気に目が覚めた。
エル子は床に肘を突いて身体を起こすと、改めて辺りを見回す。エル子が寝かされていたのは、自宅の茶の間だった。卓袱台のほうには、座布団に座って麦茶を飲んでいる鈴蘭ちゃんと白巳様の姿もあった。
「はぁ……やっと起きたんだ」
「無事に目覚められて何よりです。お体、触りはありませんか?」
鈴蘭ちゃんの溜め息と、白巳様のそこはかとなく他人行儀のご機嫌伺い。でも、いまはそんなこと気にならない。
「――よかった。無事だったー……!」
「わわっ」
エル子はタンポポちゃんに抱きついて、安堵の涙声だった。タンポポちゃんは驚きの声を上げたものの、すぐに力を抜いて、小さな手でエル子の背中をぽんぽん撫でた。
「あたぃたちは大丈夫でちゅよ。ご心配かけたでちゅ」
「んーん、無事ならいいのー……ん?」
エル子がタンポポちゃんを抱き締めて頬笑んでいると、横からシャツの裾をくいっと引っ張られた。
「……ん?」
見ると、鈴蘭ちゃんだった。いつの間にかエル子の隣に寄ってきていた鈴蘭ちゃんが、何か言いたげに唇を尖らせて、エル子のシャツをくいくいしていた。
エル子は見ただけで、その表情の意味を理解して、片手を差し伸べた。
「鈴ちゃんもおいで」
「……ん」
鈴蘭ちゃんは頬笑むエル子の胸に、ぽふっと飛び込んだ。
エル子は幼女姿のドライアド二人をまとめて胸に抱き締めて、二人が五体満足で帰ってきた安堵を噛み締めたのだった。
しばらくそうしていたら、麦茶に口を付けながら傍観していた白巳様にくすりと頬笑まれた。
「その花、とても大事にされているのですね」
「ええ、まあ……あっ、というか、白巳様もありがとうございました。二人を守ってくださったんですよね?」
「礼には及びません。そういう契約を交わしたのですから。ですが……そうですね、帰りが遅くなった理由は伝えておくべきでしょう」
白巳様がそう言うと、タンポポちゃんが顔を上げた。
「報告はあたぃからちまちゅ」
タンポポちゃんの舌足らずな声で語られた報告は、相変わらずの大活劇だった。
指定された待ち合わせ場所までは、何事もなく到着できた。待ち合わせ場所から車に乗って移動した先は、郊外にある大きな研究施設だった。タンポポちゃんの印象では、「なんか凄そうなとこでちた」だった。
エル子に連絡してきたスライム愛好家はその施設に勤務する研究者だったようで、施設内の一室で三人を出迎えた。そして、彼は挨拶もそこそこに、ドライアド二人の鞄に入れて運ばせた超銀河スライムの検査を始めた。検査にはドライアド二人と白巳様も立ち会ったが、スライムを切り刻んだり薬品漬けにするようなこともなく、何種類かのCTで断層写真を撮ろうとしたようだった。
アドちゃんズはよく分からなかったみたいだし、白巳様も関心がなかったようで、検査の詳細は分からなかった。でもとにかく、検査は上手くいかなかったらしい。スライム愛好家が考え得る全ての方法を試してみても、超銀河スライムのデータを得ることはできなかった。
そして、思い余った彼は、超銀河スライムを何かヤバい装置にかけようとしたらしい。他の研究者たちが止めようとするのを振り払って、彼はガラスの棺みたいな装置の中に超銀河スライムを入れた。アドちゃんズも止めようとして駆け寄ったが間に合わず、目の前で装置が起動。どうやら、ヤバい有害光線か何かが超銀河スライムに照射されたらしい。
直後、超銀河スライムが膨張を始めた。棺のような装置を内側から呑み込んで、人間を一呑みにできるサイズにまで膨張。そのまま襲ってくるんじゃないかと思った大方の予想を裏切り、超銀河スライムは自身の巨体をその場で激しく痙攣させると、星空を凝縮させたみたいな身体の内側から名状しがたい何かを吐き出し始めた。
名状しがたい何か――それは生き物とも生ゴミとも判断つかない、とりあえず有機物のような気がしなくもない何かだったそうな。
「目が見ることを拒否ちたとゆーか、頭が覚えることを拒否ちたとゆーか……でちた」
タンポポちゃん曰く、嫌悪感の上位版とでも言うべき感情が働いて、その何かを何かとしか記憶できなかったのだという。
「とにかく、気持ち悪いっぽかったでちゅ」
話を聞いているだけだとあんまり分からないけれど、とにかくなんかヤバそうなのが、ヤバいっぽい光線を浴びた超銀河スライムの中から出てこようとしていたということだった。
「んでー、その何かはどうなったん?」
エル子が尋ねると、タンポポちゃんは白巳様を見た。その視線を受けて、白巳様は鷹揚に頷く。
「あれは存在を許されざるものでしたので、身共が対処しました」
「……おーぅ」
淡々と、ゴキブリが出たから駆除しました、くらいの軽い感じで答えられて、エル子はそんな声しか出せなかった。
いや、ゴキブリを駆除するのが軽いことはこの際置いておくとしても、その名状しがたい何かがゴキブリ比で何倍ヤバいものなのかが分からないから、それを倒したのがどれくらい凄いことなのか、エル子には正確なところが分からなかったのだ。
白巳様が凄く強いのはなんとなく感じているけれど、白巳様が余裕で倒せるレベルなら、自分でも必死こけば倒せるレベルかも……なんて思っちゃってるエル子なのだった。
「言っておきますが、身共でもあれを誅滅することは能いません」
白巳様の、まるでエル子の内心を見透かしているかのようなお言葉だった。
「えっ……そうなんですか?」
ぽかんとした顔で聞き返したエル子。聞きようによっては侮るような物言いだったが、白巳様は眉ひとつ動かさずに答えた。
「身共は、あれを穴の向こうに押し戻しただけにすぎません。対処、と言ったでしょう」
白巳様が言うには、超銀河スライムという穴を通して現れたのは、何かのごく一部だったらしい。何かからすれば、突然目の前に穴が開いたので試しに指先で少し触れてみた程度の行為だったのでしょう――とも、白巳様は言っていた。
「身共はその指先を全身全霊で叩いて押し返しただけです。あれが本気で穴を通る気だったら、身共程度では如何ともし難いところでした」
「……とにかく凄いヤバかったけど、運良くなんとかなったーってことですね」
想像以上に壮大そうな話になっていて、エル子は早々、理解を放棄。笑って話を終わらせた。
「じゃ、続けまちゅね」
白巳様が話している間は静かにしていたタンポポちゃんが、話を再開させた。……といっても、後は大して長くなかった。
スライム愛好家の研究者は、他の研究者たちに取り押さえられた。タンポポちゃんたちは超銀河スライムを回収して、現場が混乱しているうちにさっさか帰ってきた。そしていま、エル子に報告しているというわけだった。
「なるほどー……とにかく、今回もお疲れさまだったねー」
報告を聞き終えて、エル子はしみじみと頷いてから、笑顔で二人を労った。勿論、白巳様にお礼を言うのも忘れない。
「白巳様のおかげで、アドちゃんたちもスライムくんも無事に帰ってきてくれました。護衛、ありがとうございましたーっ」
エル子は座布団の上で正座し直すと、深々と頭を下げた。
「礼は不要です。すでに貰っていますから」
「でも、お酒の一杯だけじゃ割に合わなかったんじゃないですか……?」
白巳様は澄まし顔で言っていたけれど、名状しがたい何かとやらの撃退はたぶん、もの凄くもの凄いことだったんじゃないかにゃー……と、エル子は慮っているのだ。
エル子のお伺いを立てるような目線を受けて、白巳様の黒ダイヤのごとき瞳がきらりと光る。薄く開いた唇からは、桃色の先割れ舌がちろりと覗く。
「礼は不要、と重ねて言うこともできますが、あまり断ってばかりというのも無粋でしょう。人の世はなあなあのずぶずぶで回るものですし……よろしい、追加の謝礼をいただくとしましょう」
「……ん?」
エル子、笑顔で固まる。
あれ? なんかこれ……あれ? お礼の言葉じゃなくて、お礼の品を求められているみたいな? ……あっ、これ、あれだ。藪蛇だ。突いちゃったやつだ……。
エル子の脳内を高速で後悔が去来していった。
そんな一瞬の後悔すら、白巳様はお見通しのようだ。薄い唇に蠱惑的な笑みを浮かべて、
「では――いただきます」
言うが早いか、その口が耳元まで裂けてくわわっと開かれ、白い首がにゅるるんと餅のように伸びて――座布団に座っていた幼気な童女二人を、二人まとめて一呑みにした。
息を呑む暇もないほどの早業だった。
「ひはっ……!? はっ……は、は……!!」
エル子は両目と口を大きく開けて固まっている。瞬きを忘れ、息の仕方も忘れて、身も心も固まらせていた。睨まれたわけでもないのに金縛りだった。
「ん――」
幼女サイズ二人分を一気に丸呑みした白巳様は、閉じた口元を手で隠す。そして、その手に吐き出したものをそっと卓袱台の上に転がした。
それぞれに異なる花の蕾を付けた、ふたつの球根だった。
「ふぅ……ご馳走様でした。こちらはお返しします」
白巳様は唇を指でひと拭いすると、楚々と頬笑んだ。先ほどの、口裂け女の本気! みたいな食事姿を見ていなかったら、エル子も素直に見惚れていたことだろう。
「どういたしましてー……」
引き攣った笑顔でそう返すのがやっとだった。
お粗末様でした、とは言いたくなくて言葉を探したものの上手い言葉が見つからなくての、「どういたしまして」だった。
「ん、ふっ」
白巳様が慈母の顔で頬笑む。
「花実の化生を食したことはこれまでにも何度かありましたが、熟す前からこれほど美味なものは初めてでした。丹精に育てられているのですね」
「えっと……そうなんですか?」
エル子、思わず聞き返しちゃった。
そうしたら、今度はくっくっと喉を鳴らして笑われた。
「く、くふ、ふ……なるほど。身共は野暮を言ってしまったようです。今のは忘れてください」
「はぁ……」
エル子はよく分からなかったけれど、白巳様には何か感じるところがあったらしい。一人で、くっくっと肩を揺すって笑んでいる。
「ええとー……」
エル子が反応に困っていると、白巳様は小さく咳払いして笑いを呑み込む。
「ん……少々、長居してしまいましたね。身共は帰るといたしましょう」
「あっ、はい。どうもありがとうございましたー」
「では、またいずれ……」
白巳様の蠱惑的な微笑みが、ふわっと湧いてきた霞に呑まれた――かと思ったら、もう消えていた。現れたとき以上の唐突さで、白巳様は帰っていったのだった。
そして誰もいなくなった茶の間で、一人、エル子は呟く。
「嵐のような一日だったー……」
台風一過。
嵐はお土産を残していっていた。
タンポポちゃんに持たせていた鞄から超銀河スライムを取り出したら、白金に輝く愚者の林檎も一緒に転がり出てきた。
客用の座布団を片付けようとしたら、白巳様が座っていた座布団に数枚の鱗が落ちていた。銀雪のようにも万色の虹のようにも輝く鱗は、愚者の林檎に劣らないくらい品格の高い逸品だった。
だけど、エル子は喜ぶよりも、
「なんかもーどっとー疲れたー。しばらくネトゲしかしたくにゃーにゃーにゃー」
……なんかもう、そんな感じなのだった。
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朝起きたら『チュートリアル 起床』という謎の画面が出現。怪訝に思いながらもチュートリアルをクリアしていき、報酬を貰う。そして近い未来、世界が一新する出来事が起こり、主人公・花房 萌(はなぶさ はじめ)の人生の歯車が狂いだす。
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💚催眠ハーレムとの日常 - マインドコントロールされた女性たちとの日常生活
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