アルジュナクラ

Merle

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5章 太歳公主

5-10.

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 三つの領地からやってくる軍勢のうち、コーサラー軍を寝返らせる。それこそが、アルジュとカンヴァの描いた絵図だった。
 もう少し正確に言うなら、カンヴァが言葉巧みにアルジュの思考を誘導して描かせた絵図、だった。

        ●        ●        ●

 アルジュの率いるグプタ軍が侯都を攻めている裏で、カンヴァは一握りの手勢を連れて密かにコーサラー軍の進路に先回りし、同軍の大将でもあるコーサラー侯シャカと謁見していた。
 コーサラー軍を率いているのが領主自身であることは、事前に調べをつけていた。だが、カンヴァがコーサラー軍の前に飛び出して名乗りを上げたところで、コーサラー侯と謁見できるかは分の悪い賭けだった。そこで捕らえられる、あるいは処断される可能性のほうが、対話の機会を得られる可能性よりもずっと高かったはずだ。

 演義では、カンヴァとコーサラー侯シャカが既知の間柄だったとする説もある。
 マガーダ領とコーサラー領は隣り合っているわけだから、互いの慶事などで祝いの使者を送り合うことなどはあっただろう。だが、領主やその息子が行き来するようなことがあったかというと疑問だ。少なくとも、カンヴァとシャカがこのとき以前に会っていたことを示す史料は見つかっていない。
 それでも、二人は既知だった、という説が歴とした事実のように語られるのは、そうでもなければ信じられないほど、シャカがカンヴァとの対話に応じたことが奇跡的だったからだ。

「よくもまあのこのことやって来られたものだな、カンヴァ殿よ」
 陣中の天幕内にて、椅子に座っているシャカが、地べたに跪いているカンヴァに向かって冷笑を浴びせる。
 シャカは四十路手前の、顔立ちや所作から育ちの良さが滲み出ている優男だったというが、このときばかりは酷薄な目でカンヴァを見据えていたことだろう。

「私の話に耳をお貸しいただき、ありがとうございます」
 カンヴァが深く頭を垂れると、シャカは鷹揚に手を振った。

「前置きは要らぬ。行軍を止めて話を聞いてやっているのだ、用件を話せ」
「では、単刀直入に……私に味方なさい。そうすれば、私は貴方の国を滅亡から救って差し上げましょう」

 その言葉を聞くや、シャカの眉間に苛立ちの皺が刻まれた。

「おい、いまのは聞き間違いか? おまえの味方になれ? そうすれば救ってやる? 私はてっきり、おまえは“どうか愚かな私めを助けてください”と命乞いしてくるのだと思っていたのだが」
「それはまた、なんと寛大なお言葉でしょうか。自国が滅びる瀬戸際だというのに、それを置いて私ごときを救おうとしてくださるとは!」

 カンヴァは大袈裟な節回しで吟じた。
 はっきりと相手を馬鹿にした言い草に、シャカは両目を剥いて怒鳴りつけようとした。が、一瞬で真顔になったカンヴァの言葉が機先を制した。

「我が又甥ブリハルドは貴国コーサラーの他、カーシーとアガンに対しても、自分の後ろ盾になってくれた謝礼を十年かけて支払うと約束したのでしたな」
「……それがなんだ?」

 シャカは怒りを顔に出しつつも、カンヴァの言葉に興味を持ってしまう。領主として、無下に聞き流すことができなかった。
 シャカが聞き返してきたことに、カンヴァは唇の端を僅かに持ち上げた、すぐに真面目くさった顔に戻って続けた。

「三国それぞれに同等の謝礼を支払う、という約束だそうですが……さて、それは本当でしょうか?」
「……そうだ」
 シャカは訝しげに目を眇めつつも、頷いてみせる。

「そうですか」
 カンヴァはそこで少し言葉を切ってから、皮肉めかした笑みを閃かせた。

「シャカ様はまさか、それが五年後も同じだとは思っておりますまいな?」
「む……?」
「貴方様は初め、ブリハルドではなく、我が甥にして愛すべき猪武者シュンガを支持した。そしてアガン侯は私を支持し、ブリハルドを最初から支持していたのはカーシー侯ただ一人だ――そうでございましたな」
「……それを理由に、カーシー侯が謝礼の独り占めをすると言うのだな」

 シャカの言葉に、カンヴァは微笑で答えた。

「言うまでもないと思いますが、カーシー領はこの一帯では最大の領地にございます。現在の力関係から言っても、また真っ先に支援表明してくれた恩を返すためにも、カーシーが謝礼の独占を企てたら、ブリハルドも受け入れるでしょうな。貴領とアガン領との約束など、当然のごとく反故にして」
「むむ……」

 シャカは顰めっ面で呻いた。カーシー侯カーシャの為人を考えれば十分に有り得る話だ、と思ってしまったからだ。
 ブリハルドは自分の言葉が効いていることを確かめると、ゆっくりささやくような声音を紡ぐ。

「貴領とカーシーはマガーダ領を挟んで南北に位置しております。このままマガーダがカーシーの傀儡、属領になったとき、カーシーが次に狙うのはどこの領地でしょうな? 西に隣接するアガン領でしょうか――いやいや、アガン領に手を出せば、さらに西方の領主を刺激しかねませんな。私だったらきっと、いずれアガンにも手を伸ばすとしても……まずは東部にもうひとつくらい足場を作っておこうと考えますかね。そう、例えば……事実上併呑したマガーダの北方一帯の土地ですとか、ね」

「……」
 シャカの眉間に寄っていた皺がさらに深まった。

 カーシー領の領主であるカーシャが強い領土的野心を持っていることは周知の事実だ。マガーダ候継承に際してブリハルドを支援したのも、ブリハルドから請われて腰を上げたのではなく、カーシャが勝手に救援の兵を押しつけたのだという説もある。

 なお、このを肯定する書簡も見つかっているのだが、使われている花押に違いがあるなど、いまいち信憑性に欠ける点もある。まるで誰かが、後になってからの証拠をでっち上げようとして作った書簡のようでもあった。
 しかしながら、他の史料に散見されるカーシャの為人から考えても、”援軍の押し売り”説は大いに有り得そうな話だった。少なくとも、どちらかといえば武辺者のコーサラー侯が証拠もなしに「あのカーシー侯ならやりかねない」と疑ってしまうくらいには、カーシー侯カーシャという人物は野心的な人物だったようだ。

 まったくの余談ながら、カーシャは好色で知られた前グプタ候ウルゥカに「私の娘を一人やるから、おまえの領土と交換しないか」と持ちかけて、ウルゥカから「おまえの嫁をくれるなら考える」と返された――という逸話が残されている。
 べつに書簡が見つかったりしたわけではないのだが、なぜかよく知られている逸話である。


 さて、閑話休題。
 継承戦争の際、ブリハルドに支援をのかどうかは置いておくとしても、だ。野心家のカーシー侯カーシャならば、カンヴァが語った通りに、マガーダから隣接する三領に対して支払われる謝礼を独占しようと考えることは大いにあり得る。警戒しておくべきだろう。むしろ、なぜ今日まで警戒していなかったのか――。
 シャカの眉間に深く刻まれた皺は、そうした内心を雄弁に語っていた。
 余人には先ほどまでと何ら変わらない苛立ちの表情に見えても、カンヴァの目には、シャカの気持ちが自分への苛立ちからカーシャへの警戒へと変わったことが透けて見えていた。

「そんな方法があるのかは別として……おまえに味方すれば、条約通りの謝礼を保証する、と?」

 カーシャの問いに、カンヴァはゆるりと首を横に振る。

「いえ、違います。約束の五割増しの額を保証いたします」
「ほう!」

 さすがに予想していなかった返答に、シャカの眉が跳ね上がる。
 カンヴァは三国に一ずつ支払うより、一国に一.五を支払う方が半額で済んでお得だ、と計算したのだろう。

「無論、その保証をするためには、私がマガーダ候にならなくてはなりませんが」
「この援軍を退かせろと言うのではなく、おまえのために戦え――と言うのか!」
「なに、大したことは頼みませんよ。ただ、がら空きの侯都グリハラージャを取っていただければ良いだけです」
「侯都を!?」
「侯都の軍は我が盟友、魔王アルジュに誘き出されて、侯都の外に出払っております。精悍さで知られるコーサラーの軍に空き巣のようなことをお頼みするのは気が引けるのですが……」
「ご託はいい。その後はどうなる? カーシーとアガンはいきり立ってグリハラージャを攻めてくるのではないか?」
「カーシーの軍は魔王殿が撃退します。そうなれば、アガンからの援軍も恐れをなして逃げ帰るでしょう」
「魔王アルジュか。噂が本当なら、カーシーの手勢を追い返すくらい造作もないことなのだろうな……だが、あれはおまえの兄の仇だろう? そいつの力を借りて又甥を攻めることに呵責を覚えないのか?」

 しばらくカンヴァの紡ぐ言葉に呑まれていたシャカだったが、カンヴァが魔王アルジュと本当に手を結んでいるのだと確信したことで、人並みに嫌味を言いたくなったらしい。非難の視線をカンヴァに向ける。

「魔王殿へ先に手を出したのは、兄上のほう。最初にカーシーの力を借りて私を討とうとしたのも、又甥殿のほう――呵責を覚えるべきは、私ではないと考えております」
 カンヴァは慇懃にそう答えた。

「……そういう考え方もあるかもしれんな」
 シャカはふっと苦笑する。

 コーサラー侯シャカは武人気質だったと言われているが、領主一族のご多分に漏れず、身内での後継者争いを経験している。無論、マガーダの継承戦争ほど激しいものではなかったが、忠孝の念というものに見切りを付ける程度の経験はしたのだろう。

 演義では、シャカを「節操なしの強突く張り」として描いているが、このくらいの打算と割り切りができなければ、王権の陰りが著しいこの時代、領主は勤まらない。シャカはただ単に、領主として普通に計算ができる男だっただけだ。

「さて……シャカ様、私の提案はお互いに益するものだと思いますが」
「ふむ……」
 カンヴァの言葉にシャカは即答せず、眉間の皺を深くして押し黙った。
 カンヴァも急かすことなく、無言で待つ。そうしてしばらく経った後、シャカは椅子から立ち上がると、近侍の者に命令を発した。

「進軍を再開せよ。行き先は変わらず、マガーダ領が侯都グリハラージャだ――ただし、我々は援軍ではない。侯都を攻め落とすぞ!」
 シャカの号令に、カンヴァは深く頭を垂れて感謝しながら、会心の笑みを浮かべた。
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