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◇◇◇
第6話
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「吉成」
長い指にさらりと髪をすかれる。
大好きな撫で方に思わずすり寄ると、ふっ、と空気がいっそう優しくなった気がした。
くるくると毛束を指先で遊ばれて、額に落ちた髪を払われる。柔らかく唇を押し当てられ、きゅうと胸がいっぱいになって思わず口許が綻ぶ。
「…琉…」
ふと目を開けると、間宮の大きすぎるベッドの上でひとりきり。
額にはまだぬくもりが残っている気さえするのに、シーツの向こう側は乱れもなく整ったまま。取り残されたような心地で、くしゃりと髪をかき混ぜる。こころなしか空気も冷たい。
ベッドを降りて寝室を出ると、すでに家政婦さんが来ていた。
「おはようございます、吉成さん」
「おはようございます。間宮、帰ってきてませんでした?」
「さあ、私は存じ上げませんが…」
首を横に振られて落胆する。
自分用のマグカップにコーヒーを淹れてもらい、いつもの定位置に腰を落ち着ける。
質の良いソファーに、お気に入りのクッション。柔らかい肌触りの膝掛け。それらはすべて、こちらの好みを把握した間宮から与えられたものだが、いまはなんだか惨めに映る。犬か。
「吉成さん、本日はおでかけですよね?」
「そうです」
「用意が済みましたらお声掛けください」
私もともに出ますので。
家政婦さんはそう言ってにこりと微笑んだ。
この部屋に来てからひとりで出掛けたことがない。制限されているわけではないが、物理的に無理なのだ。
オレは、この部屋の鍵を持っていない。
どこかに出掛けるときは、それが近所のコンビニでも必ず誰かが付き添っていて、ひとりになることがない。そしてオレの動向は必ず間宮に知られている。
さらにその度に身体を拓かれていたら、いやでも学習した。間宮はオレを外に出したくないのだ。
部屋はオートロックのため、鍵を持たずに外に出ても防犯上は問題がないが、そうすると戻ってこられなくなる。
逃げ出すほどの意地もないオレは、澄み渡る青空を見上げて溜息をついた。
***
「お待たせしてすみません」
オフィスビル街の真ん中にある明るい雰囲気のカフェテラスに、その人はいた。
「久しぶりだね、吉成くん」
向かいに腰を下ろすと、すぐにウェイターが注文を取りにくる。
アールグレイのストレートティー。アイスでシロップはいらない。
「これ、今回頼まれていた分です」
ファイルに綴じた紙の束を渡せば、ぱらぱらと簡単な確認をする。
「うん、ありがとうね。いつも完璧で助かっているよ」
間宮と同じ色をした、けれどもっと濃厚な、蜜のような甘さのある瞳が笑顔で瞬いた。
彼の名は、間宮誉。
間宮家の分家では一番の出世頭で、間宮の年上の従兄。そして、間宮の元婚約者であるΩだ。
間宮に飼われて暇を持て余しているオレは、彼から家でもできるような簡単な翻訳の仕事を請け負っていた。
運ばれきたアイスティーがからんと音をたてる。
誉さんの前には温かいハーブティーが置かれていて、おやと思う。いつもはコーヒーなのに、好みが変わったのか。
「今日はどうしたんですか?いつもメールで連絡してくれるのに」
「うん。琉とはうまくやれてる?」
「間宮と、ですか」
自然と眉を顰めたのだろう、誉さんは苦笑した。
「ごめん、そんな恐い顔しないで。大体は聞いているよ」
―――琉、まだΩ遊びが続いてるんだって?
空を仰ぎ見ると、突き抜けるくらいの青空が広がっていた。太陽が眩しい。
「そんな話をするためにオレを呼び出したんですか」
誉さんもΩなのに、なんてことを言うんだか。
「吉成くん…」
「ごめんなさい、嘘です。誉さんは気分転換のために呼び出してくれたんですよね?」
「ううん、違わない。『そんな話』をするために君を呼んだんだよ」
「…ずるい」
誉さんの前では強がりや建前なんて何の意味もない。それは一度、オレのプライドが完膚なきまでにぐちゃぐちゃに壊されているから。
「オレ、誉さんのこと大嫌いだったのに」
「うん」
「でも、誉さんがΩじゃなかったら、ひとつも嫌いなところなんてなかった」
「…ぼくははじめから吉成くんのこと好きだったけど」
テーブルの上に置かれたオレの手をぎゅっと握られる。
「…ときどき思うんです。間宮がαじゃなかったら、こんな風になってなかったのかなって…」
間宮はαで、オレはβ。
それは変えられない事実なのに、まだオレは足掻いている。
「それはぼくも考えたことあるけど、ぼくの場合、Ω性を否定することはぼく自身を否定することだから。吉成くんは自分がβじゃなかったらよかったって思ってる?」
「思…って、ない」
「でしょう?きっと琉もそうだよ」
誉さんの表情は弟を見守る兄のように穏やかで、自然と俯いてしまう。
高校時代、振り返ればあの頃が一番幸せで穏やかな関係だった。
それが突如終わりを迎えたのは、誉さんという存在が露見したから。多分、幸せだと思っていたのはオレだけだったのだろう。間宮は裏で婚約者である誉さんとずっと関係を持っていた。
一度だけ見てしまったそれは衝撃だった。
αとΩの交わりは、まさに獣のそれ。間宮の裏切りを知ったショックはもちろん、βの出る幕などあるわけもないと言われているようで辛かった。
オレは逃げるような形で間宮に別れを告げた。
でも、誉さんは本当はあのとき…。
「ぼくと琉の関係は、αとΩとしては当たり前でも、ものすごく歪んだものだった。だからぼくは吉成くんに感謝してる。ぼくは幸せだよ。吉成くんは?」
オレの手に添えられた誉さんの左手の薬指には、シンプルだけど上品なデザインの指輪がある。
オレと同じように誉さんもずっと悩んできた。それを知ったときから、オレは誉さんを恨むことができなくなったのだ。
顔を上げると、目があった誉さんは照れ臭そうに笑った。少女のように恥じらうその笑顔に、すこし肩の力が抜ける。
「あのね、今日呼び出したのは、実は大事な報告があって――…」
長い指にさらりと髪をすかれる。
大好きな撫で方に思わずすり寄ると、ふっ、と空気がいっそう優しくなった気がした。
くるくると毛束を指先で遊ばれて、額に落ちた髪を払われる。柔らかく唇を押し当てられ、きゅうと胸がいっぱいになって思わず口許が綻ぶ。
「…琉…」
ふと目を開けると、間宮の大きすぎるベッドの上でひとりきり。
額にはまだぬくもりが残っている気さえするのに、シーツの向こう側は乱れもなく整ったまま。取り残されたような心地で、くしゃりと髪をかき混ぜる。こころなしか空気も冷たい。
ベッドを降りて寝室を出ると、すでに家政婦さんが来ていた。
「おはようございます、吉成さん」
「おはようございます。間宮、帰ってきてませんでした?」
「さあ、私は存じ上げませんが…」
首を横に振られて落胆する。
自分用のマグカップにコーヒーを淹れてもらい、いつもの定位置に腰を落ち着ける。
質の良いソファーに、お気に入りのクッション。柔らかい肌触りの膝掛け。それらはすべて、こちらの好みを把握した間宮から与えられたものだが、いまはなんだか惨めに映る。犬か。
「吉成さん、本日はおでかけですよね?」
「そうです」
「用意が済みましたらお声掛けください」
私もともに出ますので。
家政婦さんはそう言ってにこりと微笑んだ。
この部屋に来てからひとりで出掛けたことがない。制限されているわけではないが、物理的に無理なのだ。
オレは、この部屋の鍵を持っていない。
どこかに出掛けるときは、それが近所のコンビニでも必ず誰かが付き添っていて、ひとりになることがない。そしてオレの動向は必ず間宮に知られている。
さらにその度に身体を拓かれていたら、いやでも学習した。間宮はオレを外に出したくないのだ。
部屋はオートロックのため、鍵を持たずに外に出ても防犯上は問題がないが、そうすると戻ってこられなくなる。
逃げ出すほどの意地もないオレは、澄み渡る青空を見上げて溜息をついた。
***
「お待たせしてすみません」
オフィスビル街の真ん中にある明るい雰囲気のカフェテラスに、その人はいた。
「久しぶりだね、吉成くん」
向かいに腰を下ろすと、すぐにウェイターが注文を取りにくる。
アールグレイのストレートティー。アイスでシロップはいらない。
「これ、今回頼まれていた分です」
ファイルに綴じた紙の束を渡せば、ぱらぱらと簡単な確認をする。
「うん、ありがとうね。いつも完璧で助かっているよ」
間宮と同じ色をした、けれどもっと濃厚な、蜜のような甘さのある瞳が笑顔で瞬いた。
彼の名は、間宮誉。
間宮家の分家では一番の出世頭で、間宮の年上の従兄。そして、間宮の元婚約者であるΩだ。
間宮に飼われて暇を持て余しているオレは、彼から家でもできるような簡単な翻訳の仕事を請け負っていた。
運ばれきたアイスティーがからんと音をたてる。
誉さんの前には温かいハーブティーが置かれていて、おやと思う。いつもはコーヒーなのに、好みが変わったのか。
「今日はどうしたんですか?いつもメールで連絡してくれるのに」
「うん。琉とはうまくやれてる?」
「間宮と、ですか」
自然と眉を顰めたのだろう、誉さんは苦笑した。
「ごめん、そんな恐い顔しないで。大体は聞いているよ」
―――琉、まだΩ遊びが続いてるんだって?
空を仰ぎ見ると、突き抜けるくらいの青空が広がっていた。太陽が眩しい。
「そんな話をするためにオレを呼び出したんですか」
誉さんもΩなのに、なんてことを言うんだか。
「吉成くん…」
「ごめんなさい、嘘です。誉さんは気分転換のために呼び出してくれたんですよね?」
「ううん、違わない。『そんな話』をするために君を呼んだんだよ」
「…ずるい」
誉さんの前では強がりや建前なんて何の意味もない。それは一度、オレのプライドが完膚なきまでにぐちゃぐちゃに壊されているから。
「オレ、誉さんのこと大嫌いだったのに」
「うん」
「でも、誉さんがΩじゃなかったら、ひとつも嫌いなところなんてなかった」
「…ぼくははじめから吉成くんのこと好きだったけど」
テーブルの上に置かれたオレの手をぎゅっと握られる。
「…ときどき思うんです。間宮がαじゃなかったら、こんな風になってなかったのかなって…」
間宮はαで、オレはβ。
それは変えられない事実なのに、まだオレは足掻いている。
「それはぼくも考えたことあるけど、ぼくの場合、Ω性を否定することはぼく自身を否定することだから。吉成くんは自分がβじゃなかったらよかったって思ってる?」
「思…って、ない」
「でしょう?きっと琉もそうだよ」
誉さんの表情は弟を見守る兄のように穏やかで、自然と俯いてしまう。
高校時代、振り返ればあの頃が一番幸せで穏やかな関係だった。
それが突如終わりを迎えたのは、誉さんという存在が露見したから。多分、幸せだと思っていたのはオレだけだったのだろう。間宮は裏で婚約者である誉さんとずっと関係を持っていた。
一度だけ見てしまったそれは衝撃だった。
αとΩの交わりは、まさに獣のそれ。間宮の裏切りを知ったショックはもちろん、βの出る幕などあるわけもないと言われているようで辛かった。
オレは逃げるような形で間宮に別れを告げた。
でも、誉さんは本当はあのとき…。
「ぼくと琉の関係は、αとΩとしては当たり前でも、ものすごく歪んだものだった。だからぼくは吉成くんに感謝してる。ぼくは幸せだよ。吉成くんは?」
オレの手に添えられた誉さんの左手の薬指には、シンプルだけど上品なデザインの指輪がある。
オレと同じように誉さんもずっと悩んできた。それを知ったときから、オレは誉さんを恨むことができなくなったのだ。
顔を上げると、目があった誉さんは照れ臭そうに笑った。少女のように恥じらうその笑顔に、すこし肩の力が抜ける。
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