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「……どうしたの?」

 当然、ミリセントはそう聞かずにはおれなかった。

 ダニエルはなにか両手に収まるていどのものを胸の前で手にしたまま、少し気まずげにはにかんだ。

「……格好をつけたくて、失敗したって感じかな」
「どうしたの、急に」

 舞台はクライマックスへと向かっている。オーケストラの演奏が、厳粛に坂道を登り始めたかのようだった。ダニエルとミリセントは、自然と見つめ合う形となっている。

「私が、ミリーに愛を捧げたいと言ったら、ミリーは受け取ってくれる?」

 ダニエルが指を開くと、その手の中にはベルベット張りの小さなケースがあった。

 ダニエルがそのフタを開けると、中にはユリの花をかたどった、銀色のブローチが収まっていた。

 舞台上では、職人として生まれついたヒーローが、ユリの花の形に鋳金したブローチを、貴族令嬢に生まれついたヒロインに差し出す。ヒロインはそれを受け取り、永遠の愛を約束した証として、胸につけて微笑む。

「それってまるで」
「プロポーズのつもり、なんだけど」
「……わたしたちってもう婚約してるじゃない」
「そうだね。でもそれは親に決められたものだから。決して嫌じゃないけれど、一度こうしてきちんとプロポーズしておきたかったんだ。教会で永遠の愛を誓い合う前に、私なりの言葉にしておきたくて」
「それって――」

 ――まるで、わたしに「恋」してるみたい。

 ミリセントがその言葉を口にする前に、ダニエルは言った。

「ごめんミリー。私は君に嘘をついた。君に『恋愛』のことを知らないふりをして、『恋愛』がしたいと言った。……本当は、ミリーにどうしようもなく恋しているにもかかわらず。でも、臆病風に吹かれて嘘をついた。それは、謝罪する」

 ダニエルの発言はミリセントにとっては衝撃的なものだった。

 しかしそれよりも、ダニエルがあまりにも悲痛な表情をしているものだから、ミリセントはんだか奇妙な笑いが込み上げてきて、どうしようもなくなった。

「なんか……大げさ」
「……だって、私は嘘をついて今まで君を欺いていたわけで――」
「だから、いちいち気にしすぎなんだってば。ダンってそういうところがあるよね」

 ダニエルが、戸惑ったように目を瞬かせる。

 ミリセントはそんなダニエルの手のひらに収まったケースから、ユリの花をかたどった銀色のブローチをひょいと手に取る。

 ダニエルが呆気に取られているあいだにミリセントは銀色のブローチを胸元につけて、微笑んだ。

「聞きたいことはたくさんあるけれど、先に私の答えを言っておくね」

 ダニエルは呆けた顔をしていたかと思うと、今度は赤くなったり青くなったりと大忙しだ。

「――それで、ダンはどうして『恋愛がしたい』とか面倒なことを言い出したの?」
「……ミリーの気持ちに確信が持てなくて。『恋愛がしたい』って言えば君の恋愛観や、好みがわかるかなと思って」
「わたしの気持ちに確信が持てなかったのに、『恋愛がしたい』って言えば付き合ってくれるっていう確信はあったんだ?」
「ミリーは優しいから……」
「それって、ダン限定だよ。わたしはダンほど優しくないし、可愛げもない」

 ミリセントは自分のことを悪人だと思ったことはないが、さりとて善人だと思ったこともない。ほどほどに情があって、ほどほどに薄情で。言うならば凡人だろうという確信はある。

「ミリーは優しいし、可愛いよ」
「……ダンからはそう見えているってことね」
「うん。ミリーがいなかったら、きっと私は母の死から立ち直れなかっただろうし、父とも和解できなかった」
「……なんか、急に話が壮大になった気がする」
「そうかな? 私の、原点の話なんだけれど」

 ダニエルの母親はもともと体が弱かった。医者からも、お産は場合によっては命にかかわると言われてきた。だからダニエルの父親と結婚するときにもひと悶着あったのだそうだ。

 それでもダニエルの母親の強い望みもあって、ダニエルを妊娠し、出産した。しかし産後の肥立ちが悪く、ダニエルを産んだあとはほとんど寝たきりの生活を送っていた。

 ミリセントも、今ではおぼろげとなった幼いころの記憶の中でダニエルの母親が、いつもベッドにいたことは覚えている。顔色は悪かったが、常に微笑みを絶やさない女性だったことも。

 ダニエルはどこかで母親がほとんど寝たきりの生活を送っているのは、自分を産んだからだと知った。そのうちに、父親は母親をベッドへと追いやった自分を疎ましく思っているのではないかと思い込むようになった。恐らく、口さがない親戚からなにか言われたのだろう。

 ダニエルの生真面目な性格は父親由来だと思えるていどにはそっくりだった。ダニエルの物腰柔らかで心優しい性格は母親から、生真面目なところは父親から受け継いだものだろうとミリセントは思っている。

 ミリセントの知るダニエルの父親は、自分にも他人にも厳しい人物だ。かと言ってその厳格さに理不尽なところはない。ただ、いい加減な性格だったり、気の弱い人間からすると、ダニエルの父親は息苦しい相手かもしれないなとはミリセントの考えである。

 幼いダニエルからすると、そんな父親は恐るべき存在だった。加えて、母親の病状から息子である自分を恨んでいるのではとすらダニエルは考えるようになっていたから、ひと一倍ダニエルは己の実父を恐れた。

 ある年の冬を越せず、母親が亡くなるとダニエルは絶望に突き落とされた。

 優しい母親の死は幼いダニエルにとっては世界が壊れてしまったかのように、衝撃的なものだった。同時に、父親の顔を見られなくなった。もしそこに自分への嫌悪があれば――ダニエルはきっとひどく傷つき、立ち直れなくなるからだ。

「でも、ミリーが言ってくれた。『ダンのお父様がダンのことをひどく心配していらっしゃるわ』って。それから母が私のことをずっと心配してくれていたことも。だから、私は逃げずに真実を見る勇気が出た。……まあ、臆病な性根はご覧の通りぜんぜん変わっていないんだけれど……」

 ミリセントは知っていた。ダニエルの父親が繊細すぎるきらいのある息子をずっと気にかけていたことを。ダニエルの母親が死に逝く自分の運命をとっくの昔から覚悟していて、遺してしまう息子を心配していたことも。

 ミリセントは知っていたから、それをそのまま――本当にそっくりそのまま、ダニエルに伝えただけだ。

 当時はダニエルと同じように幼かったミリセントは、どうすれば落ち込んでいる幼馴染を慰めることができるのか、わからなかった。社会経験も、語彙も乏しかった。だから、自分の知っている限りのことをダニエルに伝えた。ミリセントからすると「それだけ」の話ではあった。

 けれどもダニエルからすれば、ミリセントの言葉は今ある世界を引っくり返せるほどの、壊れた世界を新しく作り直せるほどの、そんな革命的な言葉だったのだ。

「わたしは……わたしにできることをしただけだと思う」
「それって、すごく難しいことだと私は思うよ。私は、私の言葉が上滑りすることを恐れてしまって言えないことってたくさんあるから」
「――つまり、それが変な作戦の理由?」
「『変な』……うっ、うん。まあ、そういうこと」
「ふーん」
「ごめん……」

 しょんぼりと落ち込んでいるダニエルを見るのは、珍しいことではない。

 そしてそんな彼を励ますのは、いつだってミリセントだった。

「ねえ、ダン」
「は、はい」
「わたしがこのブローチをつけて、今も外していない理由は言わなくてもわかるよね?」
「それって――」
「――チケット。また用意してよ。ダンのお陰で最後まで劇に集中できなかったんだから」

 階下の席や、周囲のボックス席から、万雷の拍手が舞台へと贈られる。

 ミリセントは拍手の音にかき消されないよう、ダニエルの耳元へそっと唇を寄せた。

「またいっしょに観劇したら許すよ。わたしの――愛しのダン」

 ダニエルは耳まで赤くして、言葉が出てくる前に何度もうなずいていた。
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