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季節のはじまり
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「ウバラ、手伝うか?」
ぴんと空へと向かって立つ耳を、ぐりぐりと左右に動かしながら、くすんだ黒い毛並みに鋭い金の目をした水狼の少年は巨木のウロから顔を出す。
木すそで膝を折っているのは、柔らかそうな灰色の毛並みに白い花が散り散りに咲く花鼠の少女だ。磨き上げられた黒曜石のような大きな瞳は、荷車のひもと格闘する小さな手を映していた。
「だいじょうぶ」
ウバラと呼ばれた花鼠の少女はそう返す。けれどもひもはほどける気配を見せない。
はやる気持ちばかりが先行して、ひもの結び目はますます固くなって行くようだ。
「……だ、だいじょうぶ。だいじょうぶだから、ギョクは先に中を片づけておいてくれる?」
とは言われたものの、することのない少年――ギョクは、再びそう大きくはないウロの出入り口からウバラを見下ろす。
「片づけなきゃいけないほど、中はちらかってない」
冷静にそう告げれば、木すそにうずくまるウバラが、気まずげにこちらを見上げた。水狼のギョクと違って、「愛らしい」と形容される大きな瞳が情けない視線を送って来る。
日暮れまではまだ時間はあったが、もたもたしている暇がないのも事実だ。
太陽が中天に差しかかり、背の高い木々の隙間からは穏やかな日差しが差し込んでいる。平素であれば地に出来た日だまりで、ひなたぼっこを決め込みたいところではあるが、今日ばかりはそうもいかない。
なにせ、今天上にある太陽が沈めば、もう蝕の季節なのだから。
蝕の季節のあいだは、空はまるで墨を垂らしたかのように黒く染まる。太陽は出て来ないのか、果たして出て来ているけれど見えないのかは定かではない。ただそれ以外の季節と同じように、昼は問題なく周囲を見渡せるから、太陽は出ているのだという主張が森の民のあいだでは優勢であった。
昼はそれ以外の季節とは特に変わりはない。問題は夜だ。
夜になると辺りは本当に真っ暗闇へと変わってしまう。周囲を照らせる光源は、民が作りだす火種か、繁殖期に忙しなく発光する灯火虫くらいのものである。
それこそ墨壺の中へ落とされたようになってしまうのが、蝕の季節の夜であった。
しかし森の民たちが蝕の季節を一等重要な時期と定めているのは、そんな奇異な天上のせいだけではない。
蝕の季節の夜には、「神」と呼ばれるものが森を気ままに闊歩するのである。
「神」には様々な姿かたちがあるが、総じて巨大である。しかし足音はほとんどない。ほとほと、というささやかな足音がするばかりだから、眠りを阻害しないという利点がある一方、ぎりぎりにならなければ接近に気づけないという欠点がある。
森の民は「神」と出遭うことを恐れている。おおむね、良いことがないからだ。「神」と出遭って帰って来なかった民の話など枚挙にいとまがなく、ゆえに民たちは「神」を忌避する。
先に述べたように「神」は総じて巨大であった。ゆえに遭遇すれば群れが全滅することも珍しくはない。
よってこの時期に民たちは一度形成した群れを崩し、おのおのふたりひと組で「パートナー」を作る。このパートナーは同じ群れの中で作ることもあれば、別の種族と形成して欠点を補い合うこともある。
そうしてパートナーを作ったものは、ヤモリの木と呼ばれる巨樹を一時の棲みかとする。良い立地にあるヤモリの木はすぐに押さえられてしまうため、パートナーを決めるのは早め早めが良いとされていた。
ヤモリの木を選ぶのは、「神」がそこには近づかないからである。近づかないというよりも、この木の中にいる民を認識できないのではないのか、とも言われているが、定かではない。
それでも念には念を入れて、寝床とした木のウロでは強い香を焚くならわしである。「神」は良しにせよ悪しきにせよ、強い香りを嫌うからだ。
そのようにパートナーを作り、季節の支度を終えた民たちは、ヤモリの木のウロで、ただひたすら蝕の季節が去るのを待つのである。そして終わればまた群れを形成し、季節を駆け抜け、蝕の季節が訪れればまた群れを崩す。森の民たちはそういう仕組みの中で生きていた。
さてここにいるギョクとウバラも例外ではないのだが、このふたりがパートナーを組んだのは五日ほど前のこと。そう、今日にも蝕の季節がやって来るというのに、このふたりが互いをパートナーとする誓約を結んだのは、五日ばかり前の話なのだ。
周囲が巣篭りの準備に忙しくしているというのに、ウバラはひとりぼんやりと湖を眺めていた。そこに声をかけたのが幼馴染のギョクである。
幼馴染とは言っても、長じるに従い疎遠となっていた仲だ。だから久々の会話はほとんど知人程度のぎこちなさが伴っていた。
「お前のおっかさんに聞いた」
ギョクはウバラの母から、彼女にはまだパートナーがいないことを聞いたのだと言う。
そうして彼はどこか気まずげな視線をさまよわせながら、落ち着かなさそうな様子でパートナーにならないかと告げた。
ウバラはびっくりしてギョクを見た。未だ彼にパートナーがいないことにおどろいたのだ。こんな時期になってもパートナーがいないのは、自分くらいのものだとウバラは思っていたのだから、なおさらだ。
そんなウバラの視線に気づいたのか、ギョクは所在なさげに自身の黒髪をかき上げた。
「情けない話なんだけどよ」
「うん……」
「俺、逃げられてさ。逃げられたっていうか、鞍替えされたっていうか、まあ」
なにに、とは言わなくてもわかった。そしてその事実を告げるのがプライドの高い雄にとって、どれほど屈辱的なのかも。
だからウバラは「どうして」と言いたい気持ちを飲み込んだ。いかに疎遠になっていた相手とはいえ、不躾な態度は取れない。花鼠は頭が足りないと言われるが、それくらいの礼を失しないていどの常識は持ちあわせている。
「わたしでいいの?」
それは「わたしを選んで欲しい」という言葉の裏返しだった。ギョクにそれがわかっていたかどうかは、わからないが。
「ああ。むしろこっちが聞きたいな」
ウバラは首を横に振った。ウバラは、もうなにも聞かないつもりだった。もうなにも言わなくてもいいという意思表示だった。
「……はやく家を見つけなきゃ」
わかりやすく話をそらしたウバラを、ギョクは茶化したりはしなかった。ただ湖から森へと視線を移して「じゃあ行くか」と、ウバラが立ち上がるのを見守った。
そうしてギリギリのタイミングで見つけたのが、ふたりともに土地勘のない場所に生えていた、一本のヤモリの木である。
大きなウロのある位置は、高すぎず、さりとて低すぎず申し分ない。小さなウロは貯蔵庫代わりにしようと話しあって、今日になってやっと荷車を押して引っ越してきたのである。
荷車のひもは結局ギョクが切った。
「ごめん」
ウバラは恥ずかしそうに縮こまって、気まずげな目でギョクを見た。
「気にすんな」
これから蝕の季節が終わるまでふたりで暮らすのだ。あまりしこりを残したくなくて、ギョクはウバラの肩を気安げに叩いた。群れの仲間でもない相手にするのは初めてのことだったから、ギョクはちょっとドキドキした。
「――わたし」
けれどもウバラはそれですべてが水に流れるとは、思わなかったらしい。その気持ちを反映するように、毛並みに咲く白い花が心なしかしおれている。
「頭が悪くて物を知らないから」
たしかに花鼠は頭が足りないと良く言われるし、おまけに忘れっぽいと来ている。その知能を揶揄する向きがあるのも、ギョクは知っていた。
「だから」
また無意味な謝罪の言葉が来たら面倒だな、とギョクは思った。……その予想は外れるわけだが。
「あの、わたしに教えてください。ダメなところ、とか。直しますから。……お願いします」
深々と頭を下げたウバラのつむじを見ながら、ギョクはちょっと目を瞠った。
「頭上げろよ」
「はい……」
「……俺も、頭は良くないし、あんたら花鼠からしたら粗暴だろう」
「そうなんですか?」
「そう言われる」
頭が良くない、忘れやすいと言われる花鼠は、反して繊細な面を持つ。それは彼らが作る工芸品にも表れている。
一方の水狼は水中を縦横無尽に駆け回って狩りをする種族で、水の性質を反映したように統制が取れた面と、荒々しい面とを包括している。
だから花鼠からすると水狼は野蛮に見えるだろうと、ギョクはごく一般的なものの見方を伝えたにすぎない。……まあ、ウバラにはピンと来なかったようではあるが。
「俺も至らない点とかあるだろうからな。なにかダメな部分があってもお互い様で済まそう。……これからいっしょに暮すんだからよ」
「『お互い様』、ですか」
「なんでも最初っから完璧にできるやつなんていねえしな」
「そう、でしょうか……」
先ほどよりもウバラの顔は晴れたものの、それでもまだなにやら胸に引っかかるものがあるようだ。
ギョクはウバラの母親から聞いた話を思い出す。以前の蝕の季節にウバラがパートナーとトラブルを起こしたという話だ。その話もギョクからすればそのパートナーの心が狭いとしか言いようのないものであったが……。
「お互い、できることをやって行こう。ウバラはなにができる?」
「え、えっと……料理なら、ちょっとだけ……」
「そうか。俺はお前を守ることができる」
ギョクは荷車から銛を取り出す。黒く磨き上げられ、使い込まれた愛用の銛だ。それを手にするとしっくり来るものがある。
ギョクは顔を上げるとウバラに向き直った。
「そうやってお互いのできることで力を合わせるんだ」
「うん……」
「俺のパートナーになったんだ。俺はお前を守る。わかったか」
「うん」
ウバラは朝にギョクと出会ってから、初めて顔の筋肉を緩めたようだった。
*
ウロの中に溜まったゴミを掃き出して、持って来た荷物を収めて行く。とは言っても一時の棲みかである。家具なんてものは無きに等しく、着替えと布団、それから調理道具にあとは諸々生活に必要な品があるばかりだ。
一番重要なのは香炉とそこに入れるお香である。これがなければ蝕の季節を乗り切れない。あとはすぐに作るのが難しい布団の上下に火打ち石くらいだろうか。それ以外は森で暮らす民である。豊かな森もあるのだから、即席でなんとか出来てしまう。
時間が余れば周囲の散策と行きたいところであったが、残念ながらそんな暇はなかった。
道中で捕まえた灯火虫がいる虫籠を天井から吊るすと、今度は香炉を出入り口に吊るす。香炉は他にも出入り口に吊るすものより一回り小さい、携帯用のものがある。これは外を出歩くときに持って行くものだ。
「こんなもんか。なあ、他にすることってあったか?」
「ううん」
首を横に振るウバラを見てから、ギョクはウロの中を見渡す。ウロにはもちろん窓なんてものはないし、灯火虫二匹の光量なんてたかが知れていたから、室の中はずいぶんと暗く感じられた。日暮れが迫っているせいもあるだろう。
部屋の暗さが気になるのは自分が水狼だからだろうなと思いつつ、ギョクはウロの出入り口へと向かった。
「ウバラ、お前も来いよ。太陽の見納めだ」
ギョクの言葉に素直に従い、ウバラは彼の横に並んでウロから顔を出す。周囲は真っ赤な夕日の色に染め上げられていて、平素であればどこか物哀しさをかき立てられるそれも、今ばかりは名残惜しいという感情をもたらす。
延々と続く木々と、それによって形成された森の彼方。その地平線の向こう側へ、じりじりと太陽が沈んで行く。
常であれば濃紺が迫る空は、すでに墨のような黒がひたひたと迫っていた。そこに青白い月はなく、またたく星もない。完全な夜の闇が、すぐそこまで来ていた。
先に顔を引っ込めたのは、またギョクだった。
「そろそろ夕食にするか」
ウバラもそれに続いてウロの中に戻る。出入り口にかけたカーテンを閉めると、ウロの中にまで入って来ていた朱色が少しだけやわらいだ。ウロから垂らした出入り用の綱は、すでに中に入れてある。
夕食を携帯食で軽くすませるともう就寝となる。そう広くはないウロの中に布団をふたつ並べて、ふたりはそこに体を横たえた。
パートナーとは言うものの、そういう意味でのパートナーではない。けれどもまったくそうではないと言い切れるものでもまた、なかった。
なにせ短くない蝕の季節をたったふたりで乗り切るのだ。そこに特別な感情が芽生えない可能性は低くなく、またそういった情がなくとも体を許すことはある。蝕の季節のあいだだけと割り切って、体の関係を含めた付き合いをする民もいる。
けれどもギョクもウバラも、群れを離れられる程度には成熟してはいたものの、未だ少年と少女の域を脱してはいない。だからそういう話を、ふたりともがあえて避けているというのが現実だった。
天井から吊るされた灯火虫のほの明かりを見つめながら、ギョクもウバラも押し黙ったままだ。
外からは恐ろしげな声が、ときおり聞こえて来る。「神」の声だろう。それは空気をわななかせるように振るわせて、森の民たちの心を脅かす。
これが近くで聞こえたら、さしもの勇者も肝を冷やすだろう。そんなことを考えていたギョクに、隣から声がかかる。
「ギョクは……『神』を見たことがある?」
ウバラがまだ寝ていなかったのだと思うと、ギョクはちょっと嬉しくなった。案外、さみしいと感じていたのかもしれない。
「子供ならあるな」
それはいつかの蝕の季節。まだギョクが今よりもずっと幼かったころの話だ。
「へえ、どんなのだった?」
「気持ち悪かったな。毛がまったく生えてなくて。見たのは昼だったし、子供だったからそんなに怖くはなかった」
「大丈夫だったの?」
「おっとうがひと息に仕留めたよ」
「すごい」
ウバラから感嘆の声が上がると、ギョクはなんだか気恥しいような気持ちになりながらも、誇らしげに胸をふくらませた。
「お前は?」
言ったあとで、ギョクは失敗だったと悟った。
「見たのかな? 夜に……大人の。暗かったから毛が生えていたかはわからなかったけれど」
遠くから「神」の恐ろしげな声が響き渡って、このヤモリの木まで届く。
「明日はどうするの?」
ウバラが話をそらしてくれて、ギョクは心の内でそっと安堵の息を吐いた。
「辺りを散策しよう。時間がなくてあまり見て回れなかったし。前に見つけた水辺にも行きたい」
「そうだね。じゃあもう寝たほうがいいね」
「だな。……おやすみ」
「おやすみなさい」
それきり会話はなくなった。聞こえるのは「神」が森をかきわけて行進する音と、ときたま聞こえるその声だけ。
ウバラの呼吸はやがてゆっくりと落ち着いたものに変わって、彼女が寝入っているのだと知れた。
ギョクはウバラの母から聞いた話を頭の中で反芻する。
蝕の季節にパートナーとあることでいさかいを起こし、巣を追い出された話を。
ぴんと空へと向かって立つ耳を、ぐりぐりと左右に動かしながら、くすんだ黒い毛並みに鋭い金の目をした水狼の少年は巨木のウロから顔を出す。
木すそで膝を折っているのは、柔らかそうな灰色の毛並みに白い花が散り散りに咲く花鼠の少女だ。磨き上げられた黒曜石のような大きな瞳は、荷車のひもと格闘する小さな手を映していた。
「だいじょうぶ」
ウバラと呼ばれた花鼠の少女はそう返す。けれどもひもはほどける気配を見せない。
はやる気持ちばかりが先行して、ひもの結び目はますます固くなって行くようだ。
「……だ、だいじょうぶ。だいじょうぶだから、ギョクは先に中を片づけておいてくれる?」
とは言われたものの、することのない少年――ギョクは、再びそう大きくはないウロの出入り口からウバラを見下ろす。
「片づけなきゃいけないほど、中はちらかってない」
冷静にそう告げれば、木すそにうずくまるウバラが、気まずげにこちらを見上げた。水狼のギョクと違って、「愛らしい」と形容される大きな瞳が情けない視線を送って来る。
日暮れまではまだ時間はあったが、もたもたしている暇がないのも事実だ。
太陽が中天に差しかかり、背の高い木々の隙間からは穏やかな日差しが差し込んでいる。平素であれば地に出来た日だまりで、ひなたぼっこを決め込みたいところではあるが、今日ばかりはそうもいかない。
なにせ、今天上にある太陽が沈めば、もう蝕の季節なのだから。
蝕の季節のあいだは、空はまるで墨を垂らしたかのように黒く染まる。太陽は出て来ないのか、果たして出て来ているけれど見えないのかは定かではない。ただそれ以外の季節と同じように、昼は問題なく周囲を見渡せるから、太陽は出ているのだという主張が森の民のあいだでは優勢であった。
昼はそれ以外の季節とは特に変わりはない。問題は夜だ。
夜になると辺りは本当に真っ暗闇へと変わってしまう。周囲を照らせる光源は、民が作りだす火種か、繁殖期に忙しなく発光する灯火虫くらいのものである。
それこそ墨壺の中へ落とされたようになってしまうのが、蝕の季節の夜であった。
しかし森の民たちが蝕の季節を一等重要な時期と定めているのは、そんな奇異な天上のせいだけではない。
蝕の季節の夜には、「神」と呼ばれるものが森を気ままに闊歩するのである。
「神」には様々な姿かたちがあるが、総じて巨大である。しかし足音はほとんどない。ほとほと、というささやかな足音がするばかりだから、眠りを阻害しないという利点がある一方、ぎりぎりにならなければ接近に気づけないという欠点がある。
森の民は「神」と出遭うことを恐れている。おおむね、良いことがないからだ。「神」と出遭って帰って来なかった民の話など枚挙にいとまがなく、ゆえに民たちは「神」を忌避する。
先に述べたように「神」は総じて巨大であった。ゆえに遭遇すれば群れが全滅することも珍しくはない。
よってこの時期に民たちは一度形成した群れを崩し、おのおのふたりひと組で「パートナー」を作る。このパートナーは同じ群れの中で作ることもあれば、別の種族と形成して欠点を補い合うこともある。
そうしてパートナーを作ったものは、ヤモリの木と呼ばれる巨樹を一時の棲みかとする。良い立地にあるヤモリの木はすぐに押さえられてしまうため、パートナーを決めるのは早め早めが良いとされていた。
ヤモリの木を選ぶのは、「神」がそこには近づかないからである。近づかないというよりも、この木の中にいる民を認識できないのではないのか、とも言われているが、定かではない。
それでも念には念を入れて、寝床とした木のウロでは強い香を焚くならわしである。「神」は良しにせよ悪しきにせよ、強い香りを嫌うからだ。
そのようにパートナーを作り、季節の支度を終えた民たちは、ヤモリの木のウロで、ただひたすら蝕の季節が去るのを待つのである。そして終わればまた群れを形成し、季節を駆け抜け、蝕の季節が訪れればまた群れを崩す。森の民たちはそういう仕組みの中で生きていた。
さてここにいるギョクとウバラも例外ではないのだが、このふたりがパートナーを組んだのは五日ほど前のこと。そう、今日にも蝕の季節がやって来るというのに、このふたりが互いをパートナーとする誓約を結んだのは、五日ばかり前の話なのだ。
周囲が巣篭りの準備に忙しくしているというのに、ウバラはひとりぼんやりと湖を眺めていた。そこに声をかけたのが幼馴染のギョクである。
幼馴染とは言っても、長じるに従い疎遠となっていた仲だ。だから久々の会話はほとんど知人程度のぎこちなさが伴っていた。
「お前のおっかさんに聞いた」
ギョクはウバラの母から、彼女にはまだパートナーがいないことを聞いたのだと言う。
そうして彼はどこか気まずげな視線をさまよわせながら、落ち着かなさそうな様子でパートナーにならないかと告げた。
ウバラはびっくりしてギョクを見た。未だ彼にパートナーがいないことにおどろいたのだ。こんな時期になってもパートナーがいないのは、自分くらいのものだとウバラは思っていたのだから、なおさらだ。
そんなウバラの視線に気づいたのか、ギョクは所在なさげに自身の黒髪をかき上げた。
「情けない話なんだけどよ」
「うん……」
「俺、逃げられてさ。逃げられたっていうか、鞍替えされたっていうか、まあ」
なにに、とは言わなくてもわかった。そしてその事実を告げるのがプライドの高い雄にとって、どれほど屈辱的なのかも。
だからウバラは「どうして」と言いたい気持ちを飲み込んだ。いかに疎遠になっていた相手とはいえ、不躾な態度は取れない。花鼠は頭が足りないと言われるが、それくらいの礼を失しないていどの常識は持ちあわせている。
「わたしでいいの?」
それは「わたしを選んで欲しい」という言葉の裏返しだった。ギョクにそれがわかっていたかどうかは、わからないが。
「ああ。むしろこっちが聞きたいな」
ウバラは首を横に振った。ウバラは、もうなにも聞かないつもりだった。もうなにも言わなくてもいいという意思表示だった。
「……はやく家を見つけなきゃ」
わかりやすく話をそらしたウバラを、ギョクは茶化したりはしなかった。ただ湖から森へと視線を移して「じゃあ行くか」と、ウバラが立ち上がるのを見守った。
そうしてギリギリのタイミングで見つけたのが、ふたりともに土地勘のない場所に生えていた、一本のヤモリの木である。
大きなウロのある位置は、高すぎず、さりとて低すぎず申し分ない。小さなウロは貯蔵庫代わりにしようと話しあって、今日になってやっと荷車を押して引っ越してきたのである。
荷車のひもは結局ギョクが切った。
「ごめん」
ウバラは恥ずかしそうに縮こまって、気まずげな目でギョクを見た。
「気にすんな」
これから蝕の季節が終わるまでふたりで暮らすのだ。あまりしこりを残したくなくて、ギョクはウバラの肩を気安げに叩いた。群れの仲間でもない相手にするのは初めてのことだったから、ギョクはちょっとドキドキした。
「――わたし」
けれどもウバラはそれですべてが水に流れるとは、思わなかったらしい。その気持ちを反映するように、毛並みに咲く白い花が心なしかしおれている。
「頭が悪くて物を知らないから」
たしかに花鼠は頭が足りないと良く言われるし、おまけに忘れっぽいと来ている。その知能を揶揄する向きがあるのも、ギョクは知っていた。
「だから」
また無意味な謝罪の言葉が来たら面倒だな、とギョクは思った。……その予想は外れるわけだが。
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深々と頭を下げたウバラのつむじを見ながら、ギョクはちょっと目を瞠った。
「頭上げろよ」
「はい……」
「……俺も、頭は良くないし、あんたら花鼠からしたら粗暴だろう」
「そうなんですか?」
「そう言われる」
頭が良くない、忘れやすいと言われる花鼠は、反して繊細な面を持つ。それは彼らが作る工芸品にも表れている。
一方の水狼は水中を縦横無尽に駆け回って狩りをする種族で、水の性質を反映したように統制が取れた面と、荒々しい面とを包括している。
だから花鼠からすると水狼は野蛮に見えるだろうと、ギョクはごく一般的なものの見方を伝えたにすぎない。……まあ、ウバラにはピンと来なかったようではあるが。
「俺も至らない点とかあるだろうからな。なにかダメな部分があってもお互い様で済まそう。……これからいっしょに暮すんだからよ」
「『お互い様』、ですか」
「なんでも最初っから完璧にできるやつなんていねえしな」
「そう、でしょうか……」
先ほどよりもウバラの顔は晴れたものの、それでもまだなにやら胸に引っかかるものがあるようだ。
ギョクはウバラの母親から聞いた話を思い出す。以前の蝕の季節にウバラがパートナーとトラブルを起こしたという話だ。その話もギョクからすればそのパートナーの心が狭いとしか言いようのないものであったが……。
「お互い、できることをやって行こう。ウバラはなにができる?」
「え、えっと……料理なら、ちょっとだけ……」
「そうか。俺はお前を守ることができる」
ギョクは荷車から銛を取り出す。黒く磨き上げられ、使い込まれた愛用の銛だ。それを手にするとしっくり来るものがある。
ギョクは顔を上げるとウバラに向き直った。
「そうやってお互いのできることで力を合わせるんだ」
「うん……」
「俺のパートナーになったんだ。俺はお前を守る。わかったか」
「うん」
ウバラは朝にギョクと出会ってから、初めて顔の筋肉を緩めたようだった。
*
ウロの中に溜まったゴミを掃き出して、持って来た荷物を収めて行く。とは言っても一時の棲みかである。家具なんてものは無きに等しく、着替えと布団、それから調理道具にあとは諸々生活に必要な品があるばかりだ。
一番重要なのは香炉とそこに入れるお香である。これがなければ蝕の季節を乗り切れない。あとはすぐに作るのが難しい布団の上下に火打ち石くらいだろうか。それ以外は森で暮らす民である。豊かな森もあるのだから、即席でなんとか出来てしまう。
時間が余れば周囲の散策と行きたいところであったが、残念ながらそんな暇はなかった。
道中で捕まえた灯火虫がいる虫籠を天井から吊るすと、今度は香炉を出入り口に吊るす。香炉は他にも出入り口に吊るすものより一回り小さい、携帯用のものがある。これは外を出歩くときに持って行くものだ。
「こんなもんか。なあ、他にすることってあったか?」
「ううん」
首を横に振るウバラを見てから、ギョクはウロの中を見渡す。ウロにはもちろん窓なんてものはないし、灯火虫二匹の光量なんてたかが知れていたから、室の中はずいぶんと暗く感じられた。日暮れが迫っているせいもあるだろう。
部屋の暗さが気になるのは自分が水狼だからだろうなと思いつつ、ギョクはウロの出入り口へと向かった。
「ウバラ、お前も来いよ。太陽の見納めだ」
ギョクの言葉に素直に従い、ウバラは彼の横に並んでウロから顔を出す。周囲は真っ赤な夕日の色に染め上げられていて、平素であればどこか物哀しさをかき立てられるそれも、今ばかりは名残惜しいという感情をもたらす。
延々と続く木々と、それによって形成された森の彼方。その地平線の向こう側へ、じりじりと太陽が沈んで行く。
常であれば濃紺が迫る空は、すでに墨のような黒がひたひたと迫っていた。そこに青白い月はなく、またたく星もない。完全な夜の闇が、すぐそこまで来ていた。
先に顔を引っ込めたのは、またギョクだった。
「そろそろ夕食にするか」
ウバラもそれに続いてウロの中に戻る。出入り口にかけたカーテンを閉めると、ウロの中にまで入って来ていた朱色が少しだけやわらいだ。ウロから垂らした出入り用の綱は、すでに中に入れてある。
夕食を携帯食で軽くすませるともう就寝となる。そう広くはないウロの中に布団をふたつ並べて、ふたりはそこに体を横たえた。
パートナーとは言うものの、そういう意味でのパートナーではない。けれどもまったくそうではないと言い切れるものでもまた、なかった。
なにせ短くない蝕の季節をたったふたりで乗り切るのだ。そこに特別な感情が芽生えない可能性は低くなく、またそういった情がなくとも体を許すことはある。蝕の季節のあいだだけと割り切って、体の関係を含めた付き合いをする民もいる。
けれどもギョクもウバラも、群れを離れられる程度には成熟してはいたものの、未だ少年と少女の域を脱してはいない。だからそういう話を、ふたりともがあえて避けているというのが現実だった。
天井から吊るされた灯火虫のほの明かりを見つめながら、ギョクもウバラも押し黙ったままだ。
外からは恐ろしげな声が、ときおり聞こえて来る。「神」の声だろう。それは空気をわななかせるように振るわせて、森の民たちの心を脅かす。
これが近くで聞こえたら、さしもの勇者も肝を冷やすだろう。そんなことを考えていたギョクに、隣から声がかかる。
「ギョクは……『神』を見たことがある?」
ウバラがまだ寝ていなかったのだと思うと、ギョクはちょっと嬉しくなった。案外、さみしいと感じていたのかもしれない。
「子供ならあるな」
それはいつかの蝕の季節。まだギョクが今よりもずっと幼かったころの話だ。
「へえ、どんなのだった?」
「気持ち悪かったな。毛がまったく生えてなくて。見たのは昼だったし、子供だったからそんなに怖くはなかった」
「大丈夫だったの?」
「おっとうがひと息に仕留めたよ」
「すごい」
ウバラから感嘆の声が上がると、ギョクはなんだか気恥しいような気持ちになりながらも、誇らしげに胸をふくらませた。
「お前は?」
言ったあとで、ギョクは失敗だったと悟った。
「見たのかな? 夜に……大人の。暗かったから毛が生えていたかはわからなかったけれど」
遠くから「神」の恐ろしげな声が響き渡って、このヤモリの木まで届く。
「明日はどうするの?」
ウバラが話をそらしてくれて、ギョクは心の内でそっと安堵の息を吐いた。
「辺りを散策しよう。時間がなくてあまり見て回れなかったし。前に見つけた水辺にも行きたい」
「そうだね。じゃあもう寝たほうがいいね」
「だな。……おやすみ」
「おやすみなさい」
それきり会話はなくなった。聞こえるのは「神」が森をかきわけて行進する音と、ときたま聞こえるその声だけ。
ウバラの呼吸はやがてゆっくりと落ち着いたものに変わって、彼女が寝入っているのだと知れた。
ギョクはウバラの母から聞いた話を頭の中で反芻する。
蝕の季節にパートナーとあることでいさかいを起こし、巣を追い出された話を。
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