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ところは奇岩群を縫うように密林が広がる王国辺境の地。断崖絶壁の上に取り残されたかのように建つのがララタの家だ。
アルフレッドはその慎ましやかな家の戸を叩くが、返事はない。戸には錠前があるのだが、いつも鍵がかかっていないことをアルフレッドは知っている。
女の子の家なのに不用心だと言っても、ララタは気にしない。なぜならこんな場所をおとなうことができるのは、アルフレッドかそうでなければ鳥くらいのものであるからだ。
あるいは魔物の脚力を持ってすればこの崖を登りきれるかもしれない。そんなことを言ってもララタは聞く耳持たず。たしかにララタほどの魔法使いであれば、たいていの魔物は返り討ちにできる。
けれどもその魔物が、もし人間の姿をしていたとすれば――。たとえば、アルフレッドのような。……そんなことをアルフレッドは考える。全男性がそうとは言わないが、好いている女の子を前にすれば、男は容易に狼になってしまうということをララタは知っているのだろうか?
……恐らく、きっと、ララタはアルフレッドがそんなことをするわけがないと思っているだろうし、あるいは自分にそんな魅力はないと思っているだろう。それくらいは、長いつき合いのお陰で容易に想像することができた。
ララタは自分は異性にモテないと思っている。いや、思い込んでいる。
たしかにアルフレッドが初めて見たときのララタは――言ってしまえばチンチクリンであった。日常的にクシを入れていないだろう、ボサボサの赤毛で、顔にはソバカスが散っていた。手足も棒きれのようでちょっと気味が悪かった。
けれどもララタはこちらの世界に永住することが決まってから、みるみるうちに綺麗になった。燃えるような赤毛は手入れをしてキュートになったし、鼻の当たりに散っていたソバカスも今では薄い。手足は相変わらず細いものの、まあ貴族のご令嬢と同じくらいの太さにはなった。
ちょっと釣り目気味の、理知的なグリーンの瞳は、他人からすると隙のないネコのような印象を与えるが、アルフレッドは好きだ。そういう、人に馴れなさそうなところがいいんだというのが、アルフレッドの意見である。
――そんな目でララタを見るようになったのはいつからだっただろうか?
ララタの家の、鍵のかかっていない戸を開ければ、すぐ目に入るリビングのテーブルに寄りかかって、彼女は寝入っている。テーブルの上には魔法書が広げられていて、それを解読しようとしていたとわかるメモが、あちらこちらに落ちていた。
おおかた、魔法書の解読に熱中したものの、なかなか解けずに疲れて寝落ちしたか、フテ寝でもしているのだろう。
アルフレッドは広げられた魔法書に目をやるが、もちろん一見しただけではなにがなんだか、である。
しかし、これがアルフレッドの世界を変えたのだと思うと、途端に古ぼけた本がキラキラと輝いて見えてくるのだから、不思議だ。
アルフレッドはとにかく病弱だった。生まれたときから体が弱く、あちらこちらで病気を貰っては年がら年中臥せっていて、あるいは死にかけていた。
典医が訳知り顔で、こういう「個体」は自然界にもいるものだと言っていたのを、アルフレッドは熱にうなされながら聞いていた。つまりなにをしても大きくは育たないし、そのうちに死んでしまう。典医はもちろんそんなことを両の親である王様やお后様には言わなかったが、半ばあきらめていることをアルフレッドは知っていた。
生まれつきの病弱を直す特効薬など存在しないわけで、典医はそれでも頑張ってはくれたほうだ。健康になった今ならそうは言えるものの、当時のアルフレッドはそれなりに傷ついた。まるで自分が「失敗作」のような気がして、みじめな気分になったものだ。
アルフレッドには友人らしい友人はいなかった。乳兄弟は異性だったし、他に気安く話せるような同腹の兄弟もいなかった。アルフレッドの母親であるお后様はアルフレッドを産んだときに大変な難産で、次に妊娠すれば命を落とすと言われていたから、今後弟なり妹なりが生まれる予定もなかった。アルフレッドは第一子であったから、頼れるような兄や姉もいなかった。
王室にもたらされた待望の第一子で男児であったアルフレッドは、それはそれは大いなる期待を背負って生まれてきた。しかしアルフレッドは他に類を見ないほどの病弱で、一年をひとつひとつ越えるのだって、それはもう大変なことであった。
待望の王子であるアルフレッドが病弱であることは民草にまで知れ渡っていた。王宮の内部では新たな王子が望まれた。アルフレッドの傍らにつく者は、だれであれ難しい顔をした。アルフレッドはそんな空気がイヤでイヤで仕方なかった。
だれであれ、周囲の人間はアルフレッドを持て余しているようだった。ろくに机につけないアルフレッドの教育は遅れたし、将来のために次代の子息と顔合わせを――などということすら難しかった。
アルフレッドは同年代の貴族の子弟と顔合わせをしたときには、体調悪く発作を起こして地に寝転がって痙攣するハメになった。アルフレッドにとってそれは非常に恥ずかしい経験だった。自分を見下ろす子弟らの引きつった顔。哀れみの目。アルフレッドの幼いプライドはズタズタだった。
だからアルフレッドは表向きは大人しくいい子ぶっていたが、内心では他人のだれもが自分を見下していると思っていたし、両親ですら自分を見放していると思っていた。
唯一の例外は教育係のアンブローズ翁だった。いつでもニコニコと笑みを絶やさない背の小さな老爺だけが、アルフレッドの心許せる相手だった。
アンブローズ翁に心許せたのは、彼の境遇を聞いてからだ。アンブローズ翁はみな知っていることだが、王室の血を引いている。しかし彼には王位継承権など存在しなかった。母親は一生を日陰者として暮らし、アンブローズ翁は一生を庶子として暮らす道を選んだ。そこにどんな決意があったのかまでは、今のアルフレッドには多少推察することしかできない。
アンブローズ翁は大変な博学で知られ、昔は神童などと呼ばれていたらしい。さまざまな学問を修め、しかしそれに驕ることのない性格で多くの人間に慕われた。アルフレッドの父親である王様も、アンブローズ翁から様々なことを教わったと言う。
だからこそアルフレッドが「難しい子」だとわかったとき、王様はかつての師に助けを求めた。アンブローズ翁はアルフレッドを――この異母兄の直系である幼子を哀れに思ったのかも知れない。
だからこそアンブローズ翁は普段は語らない自分の生い立ちを語って聞かせてくれたのかもしれない。生きていればどうにかなると、そう言いたかったのかもしれない。
残念ながら幼いアルフレッドにはそこまで推察する力はなかった。しかしなんとなくシンパシーを覚えたのはたしかだ。深くは語らなかったが、アンブローズ翁も多くの人に慕われているからといって、万人に好かれているわけではない。だれからも好かれて、嫌われることがない――そんな人間は、この世には存在しない。アルフレッドはそれを知って、少しだけ気が楽になった。
しかしアルフレッドの病弱は、歳を経てもひどくなるばかりだった。勉強もロクにできやしなかったし、このまま仮に成人したとしても公務をこなすことは不可能に近かった。
そしてアルフレッドは腹違いの弟が生まれたことを知ったとき、初めて「死にたい」と思った。
いや、自分は死ぬべきなのだと思った。それが王室のために――引いては民草のためになるのだと信じて疑わなかった。
けれどもアルフレッドはこのころにはほとんど寝たきりでいることが多く、自殺をしようにも体力がない。
だから信を置くアンブローズ翁に心の内を打ち明けた。
このときアルフレッドは初めていつもニコニコしているアンブローズ翁の涙を見た。
そしてアンブローズ翁は言った。「必ず、殿下の体を治す方法を見つけまする」――と。
アルフレッドはそんなことはだれにもできないだろうと思った。たとえ博覧強記で知られるアンブローズ翁でさえも、成しえないことであろうと思った。
しかし、この賭けともいえる行いは、アンブローズ翁が執念で勝利した。
魔法書。今や衰退した魔法が記された古代の書物。アンブローズ翁はそれを紐解き、この世界には存在しなくなって久しい「魔法使い」を別の世界から喚び出した。
「魔法使い」は――名をララタと言った。アルフレッドからするとちょっと不思議な響きの名前だった。けれども「魔法使いらしい」とも思った。
ララタはアルフレッドと同じ歳くらいに見えたが、その見立ては正確だった。アルフレッドは先祖返りによって魔力を得ており、その流れがどういうわけか乱れている。ララタによると生まれつき魔力の流れが乱れている魔法使いは、それなりにいると言っていた。
そうしてアルフレッドはララタの懸命の治療のお陰で、もう病弱に悩まされることはなくなったのだった。それは、アルフレッドからすると奇跡のようなものだった。
アンブローズ翁が「魔法使い」の召喚に成功した奇跡。その「魔法使い」が快くアルフレッドの治療を請けてくれた奇跡。そしてその「魔法使い」が治療法を知っていた奇跡。
まるで、今までツイていなかったアルフレッドの運が、急激に巡り巡ってきたような感じだった。
そしてアルフレッドは身勝手にも、もう以前のような生活には戻りたくないと思った。また、魔力の流れが乱れるのが恐ろしかった。そうなれば治療できるのはこの世界にはアルフレッド以外に存在しない、「魔法使い」にしかできないのだから。
「ララタは……この世界に住むのはイヤ?」
我ながらイヤらしい言い方だとアルフレッドは思った。でも心の中は恐怖感でいっぱいだった。また病弱に戻れば、今度こそ見放されるかもしれない――。そう思うとアルフレッドは必死にならざるを得なかった。
アンブローズ翁が使ったのは、ひと月に一度だけ使える、月の神の力を借りた、彼曰く「原始的な」魔法だった。それでもまず月の神に請願を届けるために、多数の魔法書が用いられた。古の魔法書に残されたわずかばかりの魔力を借りて、そこから更に月の神へ願いを届けたのだ。……こんな魔法は、何度も使えるものではない。
でもララタがひとりいれば、すべてはコト足りる。
そんな浅ましい思いで、アルフレッドはララタをこの世界に引きとめたのだった。
アルフレッドの計算と違ったことは、ララタがこの世界に留まることを決めるのにあまり時間をかけなかったことだ。ララタはその理由を語りたがらなかったが、察することはできる。
アルフレッドは未だにララタが元の世界でどういう風に過ごしていたのかを知らない。けれどもそれがあまり恵まれていなかっただろうことくらいはわかる。でなければ、そう簡単に異世界に永住を決めるなんてことはしないハズだからだ。
そして最大の誤算は、ララタを好きになってしまったことだろうか。
けれどもアルフレッドはララタを好きになってよかったと思っている。独り善がりではない、ひと並みの思いやりを手に入れられたのはララタを好きになったからで、遅れに遅れていた勉学や鍛錬に対し、血のにじむような努力をしようと思えたのも、ララタを好きになったからだった。
好きだと自覚したきっかけは、思い出せない。ただいつのまにかララタを愛するようになって、そしてずっとそばにいて欲しいと望むようになった。今度は打算からではなく、心の底からそう思った。
だからアルフレッドはできるだけ穏やかな人間に見えるよう心がけた。いつもニコニコとして余裕のある素振りを努力した。
ララタもいつからか、そんなアルフレッドに対して好意を抱いているような態度を取るようになった。
けれどもアルフレッドもララタも、まだ一歩が踏み出せない。お互いにその点だけは妙に憶病だった。
それでもまだいい、とアルフレッドは思っている。時間はまだあるのだから、じっくりと外堀から埋めて行けばいい。
今はかりそめの妻であるララタを見ながら、アルフレッドはほくそ笑んだ。
アルフレッドはその慎ましやかな家の戸を叩くが、返事はない。戸には錠前があるのだが、いつも鍵がかかっていないことをアルフレッドは知っている。
女の子の家なのに不用心だと言っても、ララタは気にしない。なぜならこんな場所をおとなうことができるのは、アルフレッドかそうでなければ鳥くらいのものであるからだ。
あるいは魔物の脚力を持ってすればこの崖を登りきれるかもしれない。そんなことを言ってもララタは聞く耳持たず。たしかにララタほどの魔法使いであれば、たいていの魔物は返り討ちにできる。
けれどもその魔物が、もし人間の姿をしていたとすれば――。たとえば、アルフレッドのような。……そんなことをアルフレッドは考える。全男性がそうとは言わないが、好いている女の子を前にすれば、男は容易に狼になってしまうということをララタは知っているのだろうか?
……恐らく、きっと、ララタはアルフレッドがそんなことをするわけがないと思っているだろうし、あるいは自分にそんな魅力はないと思っているだろう。それくらいは、長いつき合いのお陰で容易に想像することができた。
ララタは自分は異性にモテないと思っている。いや、思い込んでいる。
たしかにアルフレッドが初めて見たときのララタは――言ってしまえばチンチクリンであった。日常的にクシを入れていないだろう、ボサボサの赤毛で、顔にはソバカスが散っていた。手足も棒きれのようでちょっと気味が悪かった。
けれどもララタはこちらの世界に永住することが決まってから、みるみるうちに綺麗になった。燃えるような赤毛は手入れをしてキュートになったし、鼻の当たりに散っていたソバカスも今では薄い。手足は相変わらず細いものの、まあ貴族のご令嬢と同じくらいの太さにはなった。
ちょっと釣り目気味の、理知的なグリーンの瞳は、他人からすると隙のないネコのような印象を与えるが、アルフレッドは好きだ。そういう、人に馴れなさそうなところがいいんだというのが、アルフレッドの意見である。
――そんな目でララタを見るようになったのはいつからだっただろうか?
ララタの家の、鍵のかかっていない戸を開ければ、すぐ目に入るリビングのテーブルに寄りかかって、彼女は寝入っている。テーブルの上には魔法書が広げられていて、それを解読しようとしていたとわかるメモが、あちらこちらに落ちていた。
おおかた、魔法書の解読に熱中したものの、なかなか解けずに疲れて寝落ちしたか、フテ寝でもしているのだろう。
アルフレッドは広げられた魔法書に目をやるが、もちろん一見しただけではなにがなんだか、である。
しかし、これがアルフレッドの世界を変えたのだと思うと、途端に古ぼけた本がキラキラと輝いて見えてくるのだから、不思議だ。
アルフレッドはとにかく病弱だった。生まれたときから体が弱く、あちらこちらで病気を貰っては年がら年中臥せっていて、あるいは死にかけていた。
典医が訳知り顔で、こういう「個体」は自然界にもいるものだと言っていたのを、アルフレッドは熱にうなされながら聞いていた。つまりなにをしても大きくは育たないし、そのうちに死んでしまう。典医はもちろんそんなことを両の親である王様やお后様には言わなかったが、半ばあきらめていることをアルフレッドは知っていた。
生まれつきの病弱を直す特効薬など存在しないわけで、典医はそれでも頑張ってはくれたほうだ。健康になった今ならそうは言えるものの、当時のアルフレッドはそれなりに傷ついた。まるで自分が「失敗作」のような気がして、みじめな気分になったものだ。
アルフレッドには友人らしい友人はいなかった。乳兄弟は異性だったし、他に気安く話せるような同腹の兄弟もいなかった。アルフレッドの母親であるお后様はアルフレッドを産んだときに大変な難産で、次に妊娠すれば命を落とすと言われていたから、今後弟なり妹なりが生まれる予定もなかった。アルフレッドは第一子であったから、頼れるような兄や姉もいなかった。
王室にもたらされた待望の第一子で男児であったアルフレッドは、それはそれは大いなる期待を背負って生まれてきた。しかしアルフレッドは他に類を見ないほどの病弱で、一年をひとつひとつ越えるのだって、それはもう大変なことであった。
待望の王子であるアルフレッドが病弱であることは民草にまで知れ渡っていた。王宮の内部では新たな王子が望まれた。アルフレッドの傍らにつく者は、だれであれ難しい顔をした。アルフレッドはそんな空気がイヤでイヤで仕方なかった。
だれであれ、周囲の人間はアルフレッドを持て余しているようだった。ろくに机につけないアルフレッドの教育は遅れたし、将来のために次代の子息と顔合わせを――などということすら難しかった。
アルフレッドは同年代の貴族の子弟と顔合わせをしたときには、体調悪く発作を起こして地に寝転がって痙攣するハメになった。アルフレッドにとってそれは非常に恥ずかしい経験だった。自分を見下ろす子弟らの引きつった顔。哀れみの目。アルフレッドの幼いプライドはズタズタだった。
だからアルフレッドは表向きは大人しくいい子ぶっていたが、内心では他人のだれもが自分を見下していると思っていたし、両親ですら自分を見放していると思っていた。
唯一の例外は教育係のアンブローズ翁だった。いつでもニコニコと笑みを絶やさない背の小さな老爺だけが、アルフレッドの心許せる相手だった。
アンブローズ翁に心許せたのは、彼の境遇を聞いてからだ。アンブローズ翁はみな知っていることだが、王室の血を引いている。しかし彼には王位継承権など存在しなかった。母親は一生を日陰者として暮らし、アンブローズ翁は一生を庶子として暮らす道を選んだ。そこにどんな決意があったのかまでは、今のアルフレッドには多少推察することしかできない。
アンブローズ翁は大変な博学で知られ、昔は神童などと呼ばれていたらしい。さまざまな学問を修め、しかしそれに驕ることのない性格で多くの人間に慕われた。アルフレッドの父親である王様も、アンブローズ翁から様々なことを教わったと言う。
だからこそアルフレッドが「難しい子」だとわかったとき、王様はかつての師に助けを求めた。アンブローズ翁はアルフレッドを――この異母兄の直系である幼子を哀れに思ったのかも知れない。
だからこそアンブローズ翁は普段は語らない自分の生い立ちを語って聞かせてくれたのかもしれない。生きていればどうにかなると、そう言いたかったのかもしれない。
残念ながら幼いアルフレッドにはそこまで推察する力はなかった。しかしなんとなくシンパシーを覚えたのはたしかだ。深くは語らなかったが、アンブローズ翁も多くの人に慕われているからといって、万人に好かれているわけではない。だれからも好かれて、嫌われることがない――そんな人間は、この世には存在しない。アルフレッドはそれを知って、少しだけ気が楽になった。
しかしアルフレッドの病弱は、歳を経てもひどくなるばかりだった。勉強もロクにできやしなかったし、このまま仮に成人したとしても公務をこなすことは不可能に近かった。
そしてアルフレッドは腹違いの弟が生まれたことを知ったとき、初めて「死にたい」と思った。
いや、自分は死ぬべきなのだと思った。それが王室のために――引いては民草のためになるのだと信じて疑わなかった。
けれどもアルフレッドはこのころにはほとんど寝たきりでいることが多く、自殺をしようにも体力がない。
だから信を置くアンブローズ翁に心の内を打ち明けた。
このときアルフレッドは初めていつもニコニコしているアンブローズ翁の涙を見た。
そしてアンブローズ翁は言った。「必ず、殿下の体を治す方法を見つけまする」――と。
アルフレッドはそんなことはだれにもできないだろうと思った。たとえ博覧強記で知られるアンブローズ翁でさえも、成しえないことであろうと思った。
しかし、この賭けともいえる行いは、アンブローズ翁が執念で勝利した。
魔法書。今や衰退した魔法が記された古代の書物。アンブローズ翁はそれを紐解き、この世界には存在しなくなって久しい「魔法使い」を別の世界から喚び出した。
「魔法使い」は――名をララタと言った。アルフレッドからするとちょっと不思議な響きの名前だった。けれども「魔法使いらしい」とも思った。
ララタはアルフレッドと同じ歳くらいに見えたが、その見立ては正確だった。アルフレッドは先祖返りによって魔力を得ており、その流れがどういうわけか乱れている。ララタによると生まれつき魔力の流れが乱れている魔法使いは、それなりにいると言っていた。
そうしてアルフレッドはララタの懸命の治療のお陰で、もう病弱に悩まされることはなくなったのだった。それは、アルフレッドからすると奇跡のようなものだった。
アンブローズ翁が「魔法使い」の召喚に成功した奇跡。その「魔法使い」が快くアルフレッドの治療を請けてくれた奇跡。そしてその「魔法使い」が治療法を知っていた奇跡。
まるで、今までツイていなかったアルフレッドの運が、急激に巡り巡ってきたような感じだった。
そしてアルフレッドは身勝手にも、もう以前のような生活には戻りたくないと思った。また、魔力の流れが乱れるのが恐ろしかった。そうなれば治療できるのはこの世界にはアルフレッド以外に存在しない、「魔法使い」にしかできないのだから。
「ララタは……この世界に住むのはイヤ?」
我ながらイヤらしい言い方だとアルフレッドは思った。でも心の中は恐怖感でいっぱいだった。また病弱に戻れば、今度こそ見放されるかもしれない――。そう思うとアルフレッドは必死にならざるを得なかった。
アンブローズ翁が使ったのは、ひと月に一度だけ使える、月の神の力を借りた、彼曰く「原始的な」魔法だった。それでもまず月の神に請願を届けるために、多数の魔法書が用いられた。古の魔法書に残されたわずかばかりの魔力を借りて、そこから更に月の神へ願いを届けたのだ。……こんな魔法は、何度も使えるものではない。
でもララタがひとりいれば、すべてはコト足りる。
そんな浅ましい思いで、アルフレッドはララタをこの世界に引きとめたのだった。
アルフレッドの計算と違ったことは、ララタがこの世界に留まることを決めるのにあまり時間をかけなかったことだ。ララタはその理由を語りたがらなかったが、察することはできる。
アルフレッドは未だにララタが元の世界でどういう風に過ごしていたのかを知らない。けれどもそれがあまり恵まれていなかっただろうことくらいはわかる。でなければ、そう簡単に異世界に永住を決めるなんてことはしないハズだからだ。
そして最大の誤算は、ララタを好きになってしまったことだろうか。
けれどもアルフレッドはララタを好きになってよかったと思っている。独り善がりではない、ひと並みの思いやりを手に入れられたのはララタを好きになったからで、遅れに遅れていた勉学や鍛錬に対し、血のにじむような努力をしようと思えたのも、ララタを好きになったからだった。
好きだと自覚したきっかけは、思い出せない。ただいつのまにかララタを愛するようになって、そしてずっとそばにいて欲しいと望むようになった。今度は打算からではなく、心の底からそう思った。
だからアルフレッドはできるだけ穏やかな人間に見えるよう心がけた。いつもニコニコとして余裕のある素振りを努力した。
ララタもいつからか、そんなアルフレッドに対して好意を抱いているような態度を取るようになった。
けれどもアルフレッドもララタも、まだ一歩が踏み出せない。お互いにその点だけは妙に憶病だった。
それでもまだいい、とアルフレッドは思っている。時間はまだあるのだから、じっくりと外堀から埋めて行けばいい。
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