これがおれの運命なら

やなぎ怜

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 吐息が熱い。

 静かな個室の中で、おれの荒い呼吸音だけがやけに大きく聞こえる。フタを下ろした洋式の便器に情けなく腰を下ろし、うしろのタイル壁に背中をつける。服越しにひんやりとした冷たさが伝わって来て、逆に体の熱を知った。

 ――ここからどうしよう。

 ひとり思案するも、熱のせいか上手く頭が働かない。おまけに体の芯もぐずぐずと崩れて行くような感じがして、どんどんまともに動けなくなって行く。

 ホテルに入る前に飲まされた促進剤のせいだ。

 車に乗せられ連れて来られたホテルは、想像していたよりも数倍は厳かな外見だった。まさかラブホテルでとはさすがに思ってはいなかったけれども、こんなに金がかかりそうな場所に連れて来られるとも想像してはいなかった。

 おれがいくらで貸し出されることになったのかはわからない。けれどもホテルの件と併せて、金を持っているアルファなのだろうなとは考える。

 どんな人間かは想像したくもなくて、あえて頭の端にも上らせないようにした。どうせ、最初から会うつもりはないのだから。

 男の股間を蹴り上げるのは二度目だった。なんで短期間に二度もこんなことをしなければならないのかと思ってしまったが、そこが男の最大の急所であるからして、致し方ないと言えば致し方ないか。しかし、同じ男として色々複雑な感情があることは否定できない。

 ホテルのロビーに入り、父親が受付に向かったのを見ておれは逃げ出した。予想通り同行した兄がおれの腕をつかんだから、その股間を躊躇なく蹴り上げた。

 腕をつかむ手が離れた感覚を確認する間もなく、一目散にホテルの奥へと逃げ込む。背中を父親の怒声が追ったが、それもすぐに聞こえなくなった。

 車の窓から確認したところ、ホテルの外は思ったよりも景色が開けていたから、ふたりの追跡を振り切るのは難しいだろうと考えた。じゃあどこに逃げ出すかという話になったら、ホテルの外よりも中のほうがいいだろうと判断する。外よりは確実に、彼らの視線を切れる。

 階段を上ってむちゃくちゃに走ったあと、一度一階に下りてエントランスの様子をうかがう。さすがにそこまで動揺してはくれなかったらしく、出入り口付近に設けられた、ひとりがけのソファに座った兄が挙動不審に周囲を見回している。

 おれはすぐに顔を引っ込めて、一階のトイレに向かった。

 さすがにトイレの個室まで確認はしないだろう。父親は外面を気にする人だから、騒ぎにはしたくないはずだ。

 ひとまず、あのふたりから逃げおおせることは出来た。

 けれども、ここで手詰まりになってしまったのも事実だ。

 ――ここからどうしよう。

 このまま根比べをするしかないのだろうか。

 借金を抱えた現在の我が家の経済状況では、明らかにお高そうなこのホテルに泊まるなんてことは出来ないだろう。今日、ここに来ているか、これから来るだろうアルファも、おれが来ないんじゃさっさと帰るに違いない。

 そう考えるとやはり、トイレの個室に籠城するのが正解か。

 息を吐く。

 吐息が熱い。

 促進剤は正確には発情期を促進させるものではなく、肉体を疑似的に発情期の状態にするものらしい。通常の発情期とは違うので、効果が持続する期間は短いはずだ。

「……はあっ」

 息を吐き出す。

 体が熱い。

 おれの股間のものは、明らかに芯を持ち始めていた。肛門の辺りも、なんだか濡れているような気がする。

 瞳もなんだか潤んで来て、ふっと天井を見上げると、ライトの光が涙の中で乱反射する。

 促進剤を飲んでいるせいで、今おれのフェロモンは垂れ流しの状態になっているはずだ。ベータには感知出来ないものだけれど、アルファは違う。父親があきらめるか、ひとまずホテルから出て行くまでは、とにかくアルファが来ないことを祈るしかない――。

 扉を控えめにノックする音で、おれの意識は引き戻された。

 心臓がバクバクと大きく脈打ち始める。

 おれが入ったときはトイレの個室は全部空いていたし、個室に入ってからも何人かトイレにはやって来たが、だれも個室には入っていない。つまり、他の個室は空いている。

 ホテルの従業員だろうか? それなら腹の具合が悪いとかで誤魔化せばいい。

 でも、もし、アルファだったら? それなら個室から出なければいい。鍵はちゃんとかかっている。

 もしかしたら父親かもしれない。――そしたら、もう、逃げられない。

 様々な考えが頭を巡って、呼吸をするのを忘れてしまいそうだった。

 けれども次の瞬間には、本当に呼吸が止まってしまうかと思った。

「――透?」

 おれは、おかしくなってしまったのかもしれない。そう思った。

「透。いるんだよね?」

 ひそめた声は、耳によく馴染んだ。自習室でよく聞いていたから。

 透。昔はよく呼ばれていた気がする。母親に、父親に、兄に。けれども母親はおれの前からいなくなって、父親も兄も、それがまるでおぞましいものであるかのように口にはしなくなった。

 だから今、そうやっておれのことを呼んでくれるのは――ひとりしかいない。

「ゆう、いち」

 熱に浮かされながら、大好きなひとの名前を呼んだ。

「――なんで」

 なんでここにいるのだろう。おれは、都合のいい夢を見ているのかもしれない。祐一がおれを迎えに来てくれる、幸せな夢を。

 けれども扉の向こうからは、相変わらず祐一の声が聞こえて来る。

「迎えに来た。――遅くなってごめん」
「なんで……」

 頭が熱に浸食されている状態では、そうやってうわごとのように「なんで」を繰り返すことしか出来ない。実際に、そのときのおれは相当混乱していた。夢か現実か、その区別がつかないくらいには。

「とりあえず鍵を開けて欲しいんだけど」

 祐一の言葉に微塵の疑問も挟むことなく、おれはおぼつかない足で立ち上がると、言われるがままにスライド式の鍵を左に引いた。

 ゆっくりと、恐る恐る扉が開く。その板一枚が取り払われた向こうには、やはり、祐一が立っていた。制服のブレザーとは違う、ダークスーツを身にまとっているのを見て、おれはぼんやりとした頭で「似合っているな」と思った。

 祐一は黙っておれを抱きしめた。彼の肩におれの鼻がぶつかる。すると清潔感のある花のような香りが鼻腔をくすぐって、なんだかたまらない気分になった。

 それがいくらほど続いただろう。やはり祐一は押し黙ったままおれを引きはがすと、ひどく性急な様子でおれの手首をつかんだ。

「とりあえず部屋に行こう」

 早口にそれだけ言って、祐一はおれの手を引っ張って歩き出す。

 エレベーターを待つあいだも、乗っているときも、祐一はまるでおれを大切なもののように抱き寄せて、離してはくれなかった。お陰でちらりちらりと他の宿泊客の視線を貰ってしまい、おれは恥ずかしくて身を縮こまらせた。

 オートロック式の扉が閉まったことを確認すると、どっと体から力が抜けるような思いになる。

 ああ、もう大丈夫だと、無条件に安心出来た。

「次の発情期まだだったよね? ……あ、でも始まったばかりなら周期は安定してないか」

 そのまま寝室に案内され、恐らくはキングサイズのベッドのふちに座らされる。

「促進剤……飲んで」
「そっか。……つらい?」

 祐一の長い指が、おれのジーンズに触れる。太ももから、上へ。すーっと撫でられる感覚に、おれは身を震わせる。

 やがてその指はおれの股間へと到達した。

 ボクサーパンツの股間部は先走りでぐちゃぐちゃになっていて、その水分と熱がジーンズを蒸らす。色変わりはしていなかったけれども、触れられてしまえばそういう状況なのはわかってしまう。

「ひっ……」

 ジーンズのざらざらとした布越しに勃起した陰茎の形をなぞられて、喉の奥から引きつった声が漏れ出る。同時に肛門がひくりと収縮して、たまらずに愛液を垂れ流したのがわかった。

「ゆっ、祐一……!」

 助けを求めるように祐一を見る。彼はきっと悪戯っぽい顔をしているだろうと思った。だから「やめて」と言おうとした。

「……透」

 祐一の立派な喉仏が上下する。

 彼の目には明らかな情欲が宿っていた。否、それよりももっと凶暴な、獣欲。それを見た途端、おれの背筋を快感が駆け抜けて行った。

 ――このまま、祐一と?

 それを期待しなかったわけではない。それどころかおれのオメガの本能は、祐一を――アルファを求めていた。

 直腸部で彼を受け入れて、その奥にある子宮に種つけをして欲しいと、はしたなく期待する。興奮に肛門が収縮し、鈴口からは先走りが溢れ出る。

 ――でも、本当にそれでいいのか?

 理性的な部分が恐れを抱く。アルファとオメガの本能ではない部分で、相手を知りたい、感じたいと、おれたちはそう話し合った。それを今、反故にするのか?

 それに今、ここで性交をすればおれは妊娠してしまう可能性が高い。それも怖かった。まだ、そんな覚悟はまったく出来ていない。そんな状態で子供を宿したくはない。

「ゆう、いち」

 すがるように彼の名を呼ぶ。それは哀願だったが、そこには相反するふたつの感情があった。

「……祐一」

 痛いほどの静寂の中で、ふっと祐一が息を吐く。

「ごめん」

 なにに対する謝罪なのかわからないまま、おれは寝室から出て行く祐一の背を見送った。
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