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今までハルちゃんを介してしか接点を持たなかったわたしとヨシくん。
けれどもあの日からそれは変わって、ハルちゃんがいないときでも、ちょくちょく話すようになった。
それは本当にほんのちょっぴり。ばったり出会ったらちょっと会話を交わす程度。
けれどもわたしにとって、それは劇的ではないにせよ、ある程度の衝撃を持った、目に見える変化だった。
最初はマコちゃんとかになにか言われやしないかと気になった。
だって、ヨシくんとのこれまでとは関係が変わってしまったから。
けれどもそれは杞憂だった。
周囲の人間からすれば、わたしとヨシくんは普通にしゃべるくらい、仲がいいものと思われていたようだ。
たしかにハルちゃんがいるときは話していたけれど……というのは、どうやらわたしの認識の中だけでの話だったらしい。
ヨシくんとは、ハルちゃんがいないときはいっしょに帰ることが多くなった。
示し合わせているわけじゃないけれど、遅くまで残って作業をしていると自然と「送って行ってやれば?」という声がかかってしまうからだ。
次に、あるいは前から続く言葉は「仲がいいんだから」とかなんとか……。
その日もそうなるのかな、と思いながらヨシくんとどうでもいいような、くだらないおしゃべりに興じる。
不思議と、ヨシくんとはハルちゃんといっしょにいるときのように、会話には困らなかった。
湯水のようにあとからあとから会話のネタが頭に浮かぶし、それはするりと口から出て行く。
その感覚は不快ではなく、むしろ楽しいものだった。
「あっ」
ヨシくんが教室に忘れ物をしたと言うので、いっしょに帰ることになっていたわたしもそれに着いて行く。
別に、下駄箱で待っていてもいいんだけれど、なんとなくそのときは着いて行った。
本当に、なんとなくで。
「教室の鍵まだ開いてるかな」「水野さんと田中くんが残ってるはず……」――わたしは文化祭の実行委員であるクラスメイトの名を上げる。
たしかならば、ふたりは最後にやることがあるから、教室の施錠は自分たちがすると残っているはずだった。
……たしかにふたりは教室にいた。
いたけれども――。
「え? なに?」
小さく声を上げたヨシくんに釣られて、わたしも教室の中を覗こうとする。
するとわたしの口元にヨシくんの手が伸びる。ぴったりと唇にくっつきはしなかったけど、手の温度を感じられるほどの距離に縮まって、ヨシくんのわたしよりずっと大きな手が口元にかざされる。
「シーッ」
ヨシくんは口元に人差し指を当てるという、至極古典的な手法で「黙れ」と言ってきた。
わたしはそれにおどろいて、目だけをきょろきょろと動かす。
そして何度か首を縦に振った。
するとヨシくんはわたしから手を離し、膝をかがめて教室内を覗き込む。
わたしもそれに倣って、黙ったまま、かがんだヨシくんの背中から教室の中を見た。
「あっ」……と、わたしもそんな声を上げそうになった。
キスしてる。
水野さんと田中くんが、目をつむって、じっとりとキスをしていた。
田中くんが水野さんの肩をそっとつかんで、水野さんは身じろぎもせずに、ふたりはキスをしていた。
わたしはそんなふたりから視線を離せなかった。
見るべきではないことはわかっているし、見ていてひどく恥かしい気持ちにもなった。
けれども差し込む日で陰になったふたりの姿を見ながら――くっついては離れる、ふたつの唇を見ながら――わたしはまんじりともせず見ているほか、なかった。
ヨシくんが軽くわたしの肩を叩いたので、わたしはどうにか我に返ることができた。
「帰るぞ」
声をひそめてヨシくんが言う。
忘れ物のプリントはいいのかと、視線を教室にやって問うと、ヨシくんは首を横に振った。
たしかに今、あの場に入って行くことなんて到底できやしなかったし、水野さんたちが教室を出て行けばわたしたちがいるのがバレてしまう。
だからヨシくんは「帰るぞ」と言ったのだ。
わたしはそれに否やはなく、黙ったまま首を縦に振って答えた。
「お前はさ、キスしたことある?」
「あるわけないじゃん」
「マジで?」
学校を出て、駅までの道を歩きながら、ヨシくんのくだらない質問を一蹴する。
キスをしたことなんて一度もないし、そもそもしたいとも考えたことはなかった。
……ということをヨシくんに言うと、ヨシくんはまた「マジで?」とおどろいた顔をして聞き返してくる。
「だって、恋とかよくわかんないし」
「ハルは?」
「なんでハルちゃん?」
「まあ、幼馴染とか定番でしょ」
「マンガの読みすぎ」
「まあまあ、で? 本当のところはどうなのよ?」
「ないない」
わたしは脳裏にハルちゃんを思い浮かべる。
美しいハルちゃん。そんなハルちゃんとわたしがキスをする?
想像すらできなくて、頭の中でもう一度「ないない」とハルちゃんの幻影をかき消す。
「ヨシくんはあるんだ」
「そりゃ、あるけど? だってもう中二なんだぜ?」
「ふーん」
「『ふーん』って……本当に興味ないの?」
「ないよ。別に急ぐことでもないし」
「まあ、そうだけどさ……」
不意に会話が途切れる。けれども居心地の悪さはない。
わたしはふと思いついたことを口にする。
「ハルちゃんはあるのかな」
「ハルはモテるだろ? カノジョいたことないの?」
「ない……はず」
「お前が言うならないんだろうなー」
「そうかな」
「そうだって。……でも演技で、とかはあるのかな? いや、これからあるのか?」
「どうだろうね」
そうやって気のないフリをしながら、わたしの心にはあのもやもやとした雲が立ち込める。
ハルちゃんがだれかとキスをする? それはきっとカノジョとになるんだろう。演技でのキスはキスしたうちに入んないよ、うん。
ハルちゃんとキスすることはまったく想像できなかったのに、それらは易々と明瞭なイメージとしてわたしの脳裏に映る。
それはひどく不快だった。不快だというのに、なかなかそのイメージは消えてくれない。
不快の理由は単純で、それはきっとわたしの知らないところで行われるんだろうという、独占欲がもたらすもの。
いつどこでキスするかなんて、ハルちゃんの勝手だということを十分知りながら、わたしはそれにいい気がしないのだった。
ハルちゃんには絶対に言えないことだ。
言ってしまえば、ハルちゃんはわたしのことを疎ましく思うかもしれない。軽蔑するかもしれない。
だからこのことは胸に秘めておかなければならない。
「ハルちゃんならもうしててもおかしくないかも」
「ない『ハズ』じゃなかったのか?」
「そうだけどさ……ハルちゃんなら」
ハルちゃんは美しくて、賢くて、なんでもできる。
きっといつかわたしの手の届かないところにいってしまう人。
今いっしょにいられるのは、単にまだわたしたちが子供だから。
それは明白な事実のはずなのに、悲しくて仕方なかった。
いや、悲しいというよりはむしろ――
「そんな顔すんなよ」
「どんな顔?」
「さみしそうな顔」
「……そう?」
「……うん」
隣を歩くヨシくんを見る。
てっきり、見えるのはヨシくんの横顔だと思っていた。
けれどもヨシくんはこちらを見ていて。
……見ていて。
不意に、わたしの顔に影がかかる。
わたしよりずっと背の高いヨシくんが腰を傾けてわたしの顔を覗き込んでいた。
案外、まつげが長い。
唇は、ちょっと薄そう。
ヨシくんはしばらくそうしていたあと――わたしにキスをした。
ふにっと唇の肉と肉がふんわりと当たるだけの、そんな「接触」と言ってしまえるものだった。
なにかの間違いのような、軽い感覚だった。
少なくとも、先ほど教室で見た水野さんと田中くんがしていたような、湿ったキスではなかった。
けれども間違いなくそれは、「キス」と呼ばれるものだった。
「じゃ、また明日」
気がつけば小さな駅の改札口を前にしていて、ヨシくんはそう言って別れを告げる。
ちょっと待って。なにか言ってよ。
わたしはそう思ったものの、「うん、また明日ね」とぎこちなくいつも通りのセリフを口にするに終わる。
ヨシくんのわたしよりずっと大きな背中が、小さくなるまで見送る。呆然と。
わたしに衝撃を与えたのはキスだけではなかった。
ヨシくんとのキスが不快ではなかった。その明らかな事実が、キスをされたことよりも、ずっとずっとショックだった。
けれどもあの日からそれは変わって、ハルちゃんがいないときでも、ちょくちょく話すようになった。
それは本当にほんのちょっぴり。ばったり出会ったらちょっと会話を交わす程度。
けれどもわたしにとって、それは劇的ではないにせよ、ある程度の衝撃を持った、目に見える変化だった。
最初はマコちゃんとかになにか言われやしないかと気になった。
だって、ヨシくんとのこれまでとは関係が変わってしまったから。
けれどもそれは杞憂だった。
周囲の人間からすれば、わたしとヨシくんは普通にしゃべるくらい、仲がいいものと思われていたようだ。
たしかにハルちゃんがいるときは話していたけれど……というのは、どうやらわたしの認識の中だけでの話だったらしい。
ヨシくんとは、ハルちゃんがいないときはいっしょに帰ることが多くなった。
示し合わせているわけじゃないけれど、遅くまで残って作業をしていると自然と「送って行ってやれば?」という声がかかってしまうからだ。
次に、あるいは前から続く言葉は「仲がいいんだから」とかなんとか……。
その日もそうなるのかな、と思いながらヨシくんとどうでもいいような、くだらないおしゃべりに興じる。
不思議と、ヨシくんとはハルちゃんといっしょにいるときのように、会話には困らなかった。
湯水のようにあとからあとから会話のネタが頭に浮かぶし、それはするりと口から出て行く。
その感覚は不快ではなく、むしろ楽しいものだった。
「あっ」
ヨシくんが教室に忘れ物をしたと言うので、いっしょに帰ることになっていたわたしもそれに着いて行く。
別に、下駄箱で待っていてもいいんだけれど、なんとなくそのときは着いて行った。
本当に、なんとなくで。
「教室の鍵まだ開いてるかな」「水野さんと田中くんが残ってるはず……」――わたしは文化祭の実行委員であるクラスメイトの名を上げる。
たしかならば、ふたりは最後にやることがあるから、教室の施錠は自分たちがすると残っているはずだった。
……たしかにふたりは教室にいた。
いたけれども――。
「え? なに?」
小さく声を上げたヨシくんに釣られて、わたしも教室の中を覗こうとする。
するとわたしの口元にヨシくんの手が伸びる。ぴったりと唇にくっつきはしなかったけど、手の温度を感じられるほどの距離に縮まって、ヨシくんのわたしよりずっと大きな手が口元にかざされる。
「シーッ」
ヨシくんは口元に人差し指を当てるという、至極古典的な手法で「黙れ」と言ってきた。
わたしはそれにおどろいて、目だけをきょろきょろと動かす。
そして何度か首を縦に振った。
するとヨシくんはわたしから手を離し、膝をかがめて教室内を覗き込む。
わたしもそれに倣って、黙ったまま、かがんだヨシくんの背中から教室の中を見た。
「あっ」……と、わたしもそんな声を上げそうになった。
キスしてる。
水野さんと田中くんが、目をつむって、じっとりとキスをしていた。
田中くんが水野さんの肩をそっとつかんで、水野さんは身じろぎもせずに、ふたりはキスをしていた。
わたしはそんなふたりから視線を離せなかった。
見るべきではないことはわかっているし、見ていてひどく恥かしい気持ちにもなった。
けれども差し込む日で陰になったふたりの姿を見ながら――くっついては離れる、ふたつの唇を見ながら――わたしはまんじりともせず見ているほか、なかった。
ヨシくんが軽くわたしの肩を叩いたので、わたしはどうにか我に返ることができた。
「帰るぞ」
声をひそめてヨシくんが言う。
忘れ物のプリントはいいのかと、視線を教室にやって問うと、ヨシくんは首を横に振った。
たしかに今、あの場に入って行くことなんて到底できやしなかったし、水野さんたちが教室を出て行けばわたしたちがいるのがバレてしまう。
だからヨシくんは「帰るぞ」と言ったのだ。
わたしはそれに否やはなく、黙ったまま首を縦に振って答えた。
「お前はさ、キスしたことある?」
「あるわけないじゃん」
「マジで?」
学校を出て、駅までの道を歩きながら、ヨシくんのくだらない質問を一蹴する。
キスをしたことなんて一度もないし、そもそもしたいとも考えたことはなかった。
……ということをヨシくんに言うと、ヨシくんはまた「マジで?」とおどろいた顔をして聞き返してくる。
「だって、恋とかよくわかんないし」
「ハルは?」
「なんでハルちゃん?」
「まあ、幼馴染とか定番でしょ」
「マンガの読みすぎ」
「まあまあ、で? 本当のところはどうなのよ?」
「ないない」
わたしは脳裏にハルちゃんを思い浮かべる。
美しいハルちゃん。そんなハルちゃんとわたしがキスをする?
想像すらできなくて、頭の中でもう一度「ないない」とハルちゃんの幻影をかき消す。
「ヨシくんはあるんだ」
「そりゃ、あるけど? だってもう中二なんだぜ?」
「ふーん」
「『ふーん』って……本当に興味ないの?」
「ないよ。別に急ぐことでもないし」
「まあ、そうだけどさ……」
不意に会話が途切れる。けれども居心地の悪さはない。
わたしはふと思いついたことを口にする。
「ハルちゃんはあるのかな」
「ハルはモテるだろ? カノジョいたことないの?」
「ない……はず」
「お前が言うならないんだろうなー」
「そうかな」
「そうだって。……でも演技で、とかはあるのかな? いや、これからあるのか?」
「どうだろうね」
そうやって気のないフリをしながら、わたしの心にはあのもやもやとした雲が立ち込める。
ハルちゃんがだれかとキスをする? それはきっとカノジョとになるんだろう。演技でのキスはキスしたうちに入んないよ、うん。
ハルちゃんとキスすることはまったく想像できなかったのに、それらは易々と明瞭なイメージとしてわたしの脳裏に映る。
それはひどく不快だった。不快だというのに、なかなかそのイメージは消えてくれない。
不快の理由は単純で、それはきっとわたしの知らないところで行われるんだろうという、独占欲がもたらすもの。
いつどこでキスするかなんて、ハルちゃんの勝手だということを十分知りながら、わたしはそれにいい気がしないのだった。
ハルちゃんには絶対に言えないことだ。
言ってしまえば、ハルちゃんはわたしのことを疎ましく思うかもしれない。軽蔑するかもしれない。
だからこのことは胸に秘めておかなければならない。
「ハルちゃんならもうしててもおかしくないかも」
「ない『ハズ』じゃなかったのか?」
「そうだけどさ……ハルちゃんなら」
ハルちゃんは美しくて、賢くて、なんでもできる。
きっといつかわたしの手の届かないところにいってしまう人。
今いっしょにいられるのは、単にまだわたしたちが子供だから。
それは明白な事実のはずなのに、悲しくて仕方なかった。
いや、悲しいというよりはむしろ――
「そんな顔すんなよ」
「どんな顔?」
「さみしそうな顔」
「……そう?」
「……うん」
隣を歩くヨシくんを見る。
てっきり、見えるのはヨシくんの横顔だと思っていた。
けれどもヨシくんはこちらを見ていて。
……見ていて。
不意に、わたしの顔に影がかかる。
わたしよりずっと背の高いヨシくんが腰を傾けてわたしの顔を覗き込んでいた。
案外、まつげが長い。
唇は、ちょっと薄そう。
ヨシくんはしばらくそうしていたあと――わたしにキスをした。
ふにっと唇の肉と肉がふんわりと当たるだけの、そんな「接触」と言ってしまえるものだった。
なにかの間違いのような、軽い感覚だった。
少なくとも、先ほど教室で見た水野さんと田中くんがしていたような、湿ったキスではなかった。
けれども間違いなくそれは、「キス」と呼ばれるものだった。
「じゃ、また明日」
気がつけば小さな駅の改札口を前にしていて、ヨシくんはそう言って別れを告げる。
ちょっと待って。なにか言ってよ。
わたしはそう思ったものの、「うん、また明日ね」とぎこちなくいつも通りのセリフを口にするに終わる。
ヨシくんのわたしよりずっと大きな背中が、小さくなるまで見送る。呆然と。
わたしに衝撃を与えたのはキスだけではなかった。
ヨシくんとのキスが不快ではなかった。その明らかな事実が、キスをされたことよりも、ずっとずっとショックだった。
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