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 アンジュの過去を、生い立ちを、ハルは仔細に渡って把握しているわけではない。

 知っているのは、魔法否定派のコミューンで生まれ育ったこと。しかし魔法の才に目覚めたために、魔法否定派の両親や、生まれ育ったコミューンの村から追放されたこと。路頭に迷ったところを、ゾーイーに見いだされて学園に通うようになったこと――。

 アンジュの口ぶりからして、彼はまだ故郷への想いを持っているのだろう。ハルからすれば、魔法否定派のコミューンだなんてロクでもない集団だが、そこで生まれ育ったアンジュからすると、また違った感想を抱くのだろうことは容易に想像がつく。

 アンジュは、コミューンに戻りたいとまでは、思っているかは定かではないものの、郷愁はあるに違いなかった。ハルにはまったくわからないし、理解も出来なかったが。

 だからユーリが「元の世界へ帰りたい」ともし言えば、アンジュはその意見を尊重したいと願うのだろう。

 アンジュにとって、ユーリは愛する妻であると同時に、それ以上の――なんというか、高みに位置している存在なのだ。

 アンジュとエルンストは水と油と言ってもいいが、ユーリに対して愛はあっても、明確な性欲を抱いている様子がないという点では、彼らはよく似ていた。

 アンジュは、ユーリへのドロドロとした執着心を持っていない。――ハルとは違って。ハルとアンジュは親に捨てられたことや、ゾーイーが後見を務めていること、ユーリの夫であること……様々な共通項はあったが、彼らを明確に異にしているのは、その点であった。

 アンジュは、ユーリによって精神的に救われたと思っている。だから、ユーリが苦しんでいるのであれば救ってやりたいと願うだろう。ユーリが悩んでいるのであれば、アンジュはその背を優しく押すのだろう。

 ハルからすれば、それは自身の幸福を度外視しているように映る。けれども、ユーリの幸福はアンジュの幸福なのだ。もしユーリが元の世界へ帰りたいと願えば――アンジュは全力でその願いを叶えようとするに違いなかった。

「……本気か?」

 ハルは肺の底から息を吐き出したあと、ようやくそう問えた。

 ハルにだってアンジュの言い分を理解できるだけの共感性は、あった。あったが、アンジュの出した結論を聞いて、胸に浮かんだのは、不快感だった。

「お前――あいつのこと、好きじゃないのかよ」
「好きですよ。愛しています。これ以上ないくらい……」
「じゃあ」
「ハルさんはこう言いたいんでしょう? 『愛しているのなら手放せないハズだ』と」

 図星を突かれたハルは、思わず息を詰めた。

 そんなハルを見てアンジュは微笑んだ。どこか泣きそうな顔をして。

「僕だって……ユーリさんがどこにもいない世界なんて考えられない。でも、この世界にいてユーリさんが不幸になるばかりで、元の世界へ帰ればその問題が解決するのならば、そうするべきだと思うんです」

 ハルの脳裏に昨日の出来事がよぎる。あの事件はストーカー男が全面的に悪いのだが、ユーリは己を責めている様子だった。強くありたいと願っても、ユーリは女で、そうなると単純な腕力では男よりも弱いという、純然たる事実が横たわっている。ユーリはそれを改めて自覚して、傷ついている様子だった。

 ハルは、アンジュの言うように、ユーリにつきまとう諸問題が、彼女が元の世界へ帰ったからといってすべて解決するとまでは思っていない。思ってはいないが、少なくともユーリが生まれ育った世界に戻るほうが、彼女は息をしやすくなるのだろうということは、わかる。

 けれども。

 ……エルンストには「ユーリが元の世界へ帰りたいのなら、素直に送り出すのが筋」などともっともらしく語ったハルだったが、いざ同じことをアンジュが口にしているところを聞くと、じわじわと胸中で違和感がにじみ出てくるようだった。

 同時に、アンジュのそれは単なるあきらめとは違うということは、わかる。好きだから、手放せる。幸福を思って、背中を押せる。あきらめて歩を止めるのではなく、勇気を持って一歩踏み出せる。

 頭では理解できる。しかし心では――ハルは、アンジュの気持ちも、そこから出てきた結論も、理解できなかった。



 ハルはなにも持っていなくて、奪われるのが当たり前だった。

 ハルの父親は、ハルの母親の最初の夫だった。はじめはそれなりに仲睦まじく暮らしていたようだが、結局ハルの母親は、ハルの父親を捨てた。まだ幼かったハルと一緒に。

 ハルの父親は、妻――すなわちハルの母親――を巡る家中の権力闘争に負けたのだ。ハルもそのときは魔法が使えなかったから、父親ともども屋敷を追い出されてスラムに居を移さざるを得なかった。

 この世界に男は有り余るほどいるから、男児であり、魔法も使えないハルは母親からは必要とされなかった。男児を養育する権利や義務は、しばしば夫の側に押しつけられるもので、例によってハルの親権はハルの父親だけのものとなった。

 まだあの屋敷にいたころの父親のことを、ハルは上手く思い出せない。記憶の中にいる父親は、飲んだくれて日がな一日泣き暮れているような男だった。ハルに暴力を振るうことはなかったが、しかし面倒を見てくれるわけでもなかった。ネグレクトされていたが、そんな立場に置かれている男児は、このスラム街ではありふれていた。

 ハルは元妻――ハルの血縁上の母親――を思って嘆き、幾度となく家中の権力闘争に敗北した話を繰り返す父親を見て、「女なんて」と思うようになった。同時に、そんな父親のことも不甲斐なく感じ、人間そのものに不信感を募らせて行った。

 転機が訪れたのは、政府の福祉政策によって、不衛生で犯罪の温床であるスラム街を一掃する一大キャンペーンが打たれたときのことだ。

「アンタには才能がある」

 白髪を綺麗に整えた、いかにも立派な身なりの老女――ゾーイーは、スラム街にいた多くの男児たちと共に、保護施設に収容されたハルを見てそう言った。

「アタシについてきな」

 ゾーイーは有無を言わせずハルを屋敷へ連れ帰って、次の日からなにもかもを――知識を、容赦なく叩き込んだ。

 人間不信のハルは始めは反発していたものの、老獪なゾーイーに説き伏せられて、気がつけば勉学に励むようになっていた。

「魔法を、才能を磨きな。そうすればアンタが欲しいものは大体手に入る」

 今振り返っても無茶苦茶なことを豪語しているなとハルは思う。ハルのことを「クソガキ」と呼ぶし、ハルとユーリの夜の営みを気にするしで、ゾーイーとはそういう、普通とは違う人間だから、いちいち気にしてはいられないというのもあった。

 けれど、ゾーイーの言うことはおおかた間違ってはいなかった。事実、ハルはゾーイーに言われるがまま学園に通っていたからこそ、ユーリと出会って結婚することが出来たのだから。

 ゾーイーに引き取られてしばらくすると、ハルの生家――すなわち、母親の家から「戻ってこないか」という打診があった。どこかからゾーイーに引き取られたことや、魔法の才が発現したことを耳にしたのだろう。

 ハルはそれを思いっきり袖にしてやった。痛快だった。

 けれどもそのことは、救護院で暮らしている父親には言えなかった。酒を断ち、今は心穏やかに暮らしている父親は、それでも元妻――ハルの母親だった女への未練は、大いに残していたから。

 奪われるばかりだったハルは、魔法を覚えて色んなものを手にした。ゾーイーが言ったとおりに。

 ――「アンタが欲しいものは大体手に入る」。たしかにそうだった。けれどももちろん、そう上手く行くことばかりではないわけで、ユーリの件が今はその筆頭だろう。

 それでも、エルンストやアンジュと言葉を交わして、段々とハルは己の本心が――出したい答えが、見えてきたような気がした。
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