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50_壁の中の死体の真相_四
しおりを挟む思いがけない話題を出されて、顔が強張る。反射的に体を起こした和彦は口を動かしはするものの、言葉が出ない。自分が何を言いたいのか、思考が追い付かないのだ。まず頭に浮かんだのは、血なまぐさい事態が起こったのではないかというものだった。
「安心しろ。表立って物騒なことになっているわけじゃない。むしろ――」
「むしろ?」
鷹津は皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「気になるか?」
「気にならないはずがないだろ」
取り繕ったところで意味はなく、正直に答える。少しの間沈黙したあと、鷹津は意外なことを口にした。
「俺は、長嶺を脅した」
「……本当に命知らずだな、あんた」
「いまさらだな。――電話越しだったが、それでもあいつが心底怒っているのは伝わってきた。さすがに寒気がしたが、まあ、仕方ない。俺なんかに煽られる、あいつが悪い」
ここに来てから和彦は、賢吾だけでなく、長嶺組や総和会絡みの話題は避けるようにしていたが、今夜は気負うことなく触れることができた。そのタイミングが訪れたということだろう。一生触れないまま、ここにいるわけにはいかないのだ。
「俺は総和会という組織が昔から嫌いだ。ヤクザの生き血を啜る蛭みてーなものだ。性質が悪すぎて反吐が出る。だからといって、木っ端の警官にできることなんてない。それは、組織犯罪対策の刑事になったあとも変わらなかった。気がつけば、俺もヤクザと生き血を啜り合う仲だ。俺はこの程度の人間なんだと納得していたが――……」
意味ありげな視線を向けられ、和彦はベッドに座り直す。
「長嶺には、何度も警告していた。てめーのオンナを、総和会に近づけるなと。だがどうだ。あっさり取り上げられて、囲い込まれる寸前だった」
鷹津の声にわずかに滲むのは、怒りだった。咄嗟に和彦は、鷹津の腕に手をかける。
「あの人の……、賢吾の立場の特殊さはわかってるだろ」
「お前のそういうところが、長嶺を調子づかせたんだ。だいたい、何もかもわかったうえで、ヤクザになったはずだ。大事なものを取り上げられたくなかったら、そもそも、お前みたいな人間を薄汚い世界に引きずり込むべきじゃなかった」
ここまで言って鷹津は忌々しげに唇を歪めたあと、大きく息を吐いた。
「……ムカつくが、長嶺がお前を引きずり込まなきゃ、俺とお前が出会うこともなかった」
後悔はしていないと鷹津は言い切る。
「お前のおかげで、俺の人生はけっこうおもしろいものになってきた。ヨボヨボのじじいになるまで退屈したくないが、そのためには、どうしたって長嶺には踏ん張ってもらわなきゃならない。お前が総和会の檻に閉じ込められると、俺が困るんだ」
「賢吾を脅したって、つまり――」
「総和会と、自分の父親を抑える目処がつくまで、お前を返さないと言った。お前の父親である佐伯俊哉が、資金やらなんやらと手を貸してくれたのは、やっぱりお前が総和会の手の中にあるのは困るからだ」
和彦は、俊哉のことを考えた途端、胸苦しさに襲われる。膝を抱えると、鷹津は上着を肩からかけてくれた。自らの社会的地位を守るために、俊哉は立ち回っているという側面は確かにあるだろうが、それだけではない。佐伯俊哉という人間が抱えた闇は深く、その闇と同じものを抱えているのは、この世で守光だけなのだと、確信めいたものが和彦にはあった。
血の縛りを愛す男と、血の縛りを厭う男が、駆け引きを繰り広げているのだ。
「――……お前の態度次第では、縛り上げてでも、ここから出すなと言われていたんだ」
「父さん、が?」
「他に誰がいる」
多くを語らない間、鷹津が自分を観察していたのだと知っても、負の感情は湧かなかった。俊哉から何かしら任務を課されていたのは明らかだったし、実際のところ、鷹津は自由に行動させてくれたのだ。
「正直なところ、お前が長嶺のことを聞きたがらなかったのは、意外だった。他人の顔色をうかがうのが上手いお前のことだから、俺が機嫌を損ねると思って話題にするのを避けていた……というだけじゃないだろ」
和彦はぐっと唇を噛むと、膝に額を押し付ける。
「和泉の家を出てから、ずっと不安だった。自分がどこに帰ったらいいのか、わからなかったんだ。佐伯の家は、ぼくが本当に帰っていい場所じゃないのはわかった。総和会はもっと違う。長嶺組は……。帰ったら、面倒が起きるのはわかりきってる。それでなくても、賢吾を難しい立場に追いやっているのに」
「最初にお前を難しい立場に追いやったのは、あいつだ。なんなら、お前をさっさと手放すこともできたのに、それをしなかった」
怒りを押し殺すように、鷹津の声が低く掠れる。和彦がそっと顔を上げると、鷹津は真っ直ぐ正面を見据えていた。まるで誰かを睨みつけるように。和彦の視線に気づくと、決まり悪そうに顔をしかめる。
「……執着心ってのは厄介だな。ヤバイと頭ではわかっていても、手を引けない。もっと欲しいと思っちまう」
「本当にバカだ。悪徳刑事のままでいられたのに、辞めるなんて」
「おい。俺は長嶺の話をして――」
途中で言葉を切った鷹津は、数拍の間を置いてからこう言った。
「帰る先が不安なら、ずっとここにいるか? 生活のことは心配しなくていい。俺がなんとかする」
現実的ではない申し出だと、おそらく言った本人である鷹津もわかっている。和彦は小さく声を洩らして笑った。
「初めて会ったときのあんたに聞かせたい台詞だな、それ。ぼくのこと、養ってくれるのか」
「お前のことだから、いままで何人もから言われてきて、新鮮味もないだろ」
和彦が、そっと鷹津の手を握り締めると、きつく手を握り返される。否定しないところが性質が悪いとぼやきながら。
「――お前の父親は、総和会会長より、その息子を扱いやすいと見ている。俺にしてみりゃ、顔馴染みの分、長嶺の蛇の尾なんて踏みたくないが、あっちはあっちで総和会会長と昔馴染みのようだから、気質をよくわかっているのかもな。なんにしても、同じ業界にいる父親に息子をぶつけるというのは、手段として正しい。俺たちは待つだけだ」
「待つだけ……」
「長嶺父子と佐伯俊哉の三つ巴だ。それぞれに面子があって、通したい要求がある。お前の身柄を抑えている分、佐伯俊哉が有利ともいえるが、その代わり、社会的地位が足枷となる。交渉にどうカタをつけるか、当事者のお前は気になって仕方ないだろ?」
和彦はそっと嘆息した。
「弱っているときに、そんなことを聞かされなくてよかった。安定剤なしで、眠れる気がしない」
「今は?」
「……しばらくライトをつけていてくれ。さすがに今夜は、いろいろと考え込みそうだ」
考える素振りを見せたあと、鷹津は再びベッドを出た。
「やっぱりお茶を淹れてきてやる。俺はコーヒーにする。――夜更かしにつき合ってやる」
優しいな、と呟いた和彦は、微笑んで頷いた。
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