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哀しい『寝取られ姫』
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空に黒い天鵞絨がかかる頃、フィーネが部屋に夕食を運んできてくれた。
正直、食欲はなかったが、心遣いを無碍にしたくないので何とか笑顔で食べ終える。
湯をつかった後にあれこれと世話を焼いてくれた後、フィーネは部屋を辞した。
残されたウルリーケは寝台まで歩くと、糸が切れたように倒れ込んでしまう。
柔らかな敷布に顔をうずめながら、ウルリーケは何故今自分がここに居るのか……ここに来るまでの激動の出来事に、溜息と共に思いめぐらせた。
ウルリーケの祖父は、カレンベルク侯爵という名の知れた、そして権勢誇る名家の当主だった。
祖父には一人娘しか居らず、娘に婿を迎え、そしてウルリーケが生まれた。
しかし、父はウルリーケが十二歳の時に病気で亡くなった。
亡き父は皇宮の庭園の責任者を任せらえる程の園芸家であり、同時に様々な植物の育種家としても有名な人だった。皇宮の『秘されし庭』の権限を許されるほどの人でもあった。
今でも庭園の花々の美しさを称えながら父の早すぎる死を悼む人が居り、多くの救荒植物を広めた人として名を語られる事がある。
父はウルリーケに惜しむ事なく持てる知識を与えてくれた。
そのお蔭か、ウルリーケの園芸に関する知識と技能はかなりのものとなり、皇宮の庭師たちにも『緑の指』と呼ばれる域に至り、植物に関する生き字引とすら呼ばれもした。
ウルリーケに、父の跡を継いで皇宮の庭の管理者になってもらいたいと言ってくれる人もいた。恐らくは父に配慮したお世辞ではあるだろうが、嬉しいものは嬉しかった。
父の思い出を辿る事ができる庭いじりは彼女が唯一つ楽しいと思える事だった。
しかし、それはけして褒められる事はない、むしろ淑女としては恥ずかしいと言われ続け、いつしか人目を忍ように庭に向かうようになっていた。
恥ずかしい、とは母の言葉だった。
現カレンベルク侯爵の一人娘にあたるウルリーケの母・デリアは実に美しい人である。
父を婿に迎えたものの祖父は父に対して不満があったようでいつまでも爵位を譲らなかった。そして父がそのまま亡くなった為、母は今でも『カレンベルク侯爵令嬢』である。
ウルリーケのような年頃の娘がいるとは思えない程若々しく、華やいだ雰囲気を持つ美貌で知られている。
そればかりではなく、淑女としてあらゆるたしなみに優れている上、夫の忘れ形見を立派に育てあげた教育熱心な母親の鑑とも言われているのだ。
ただし、その娘……つまりはウルリーケについての評判は良いものではない。
優しく理想的な母の献身も虚しく、教養といえる教養を身に着ける事は出来ず、更には容姿に引け目を感じて母が気遣っても屋敷から出ようとしない。
土いじりなどという令嬢らしからぬ趣味に興じて、身の回りの事にもまるで無頓着。デリアは自分が不甲斐ないせいでと涙を零す。
言い訳じみてしまうが、ウルリーケとしてはけして令嬢としての学びを怠った心算はない。
けれども、母はいつも「お前は何時になったら」……と顔を曇らせる。褒めるとしても、何か前置きがある。けして、手放しに彼女の頑張りを褒めてくれた事はない。
それも仕方のない事なのだと自分に言い聞かせる。母が心血注いでくれたのに、母の求める水準に達する事が出来ないのだから。
自分が至らないせいと心の内で己を責めるウルリーケに、母の嘆きは更に続く。
ドレスのセンスが悪い、自分を磨く努力が足りない、とてもみっともなくて人前に出せない……。
挙句、庭師の真似事までして恥ずかしい、と嘆かせてしまった。
それでも、母はウルリーケを愛しているのだと言ってくれた。
愛しているから厳しくするし、お前にとって一番良いと思うからあれこれ口出しもするのだと。
母の望む通りにさえ出来れば、良い子だと抱き締めてもくれた。
お前はお母様の自慢よと、頬を寄せてくれもした。
その母が恥ずかしくて人前に出せないというなら、自分は本当に見るに堪えない容貌であるし、たしなみも足りない娘なのだ。
だから母の言う通りにするのが正しいのだ、と疑う事もなかった。
侍女はそんな事はありません、お嬢様はお美しいし教養もおありです、と慰めてくれたけれど。
そういえば、彼女は急に暇を取ってしまった。別れを言う間も無かった事が悔やまれる。
ウルリーケにとって母は絶対的な行動と価値観の指針であり、世界そのものと言える人だった。
そんな世界に僅かに揺らぎが生じたのは、ウルリーケの『結婚』がきっかけだった……。
ウルリーケは気が付けば十八歳となっていた。
しかし、その頃には早々と売れ残りと囁かれていた。
好きで売れ残っていたわけではない。そもそも、ウルリーケには自分の結婚相手を決める事など出来なかったのだから。
縁談について決定権を持っていたのは、母デリアである。
どれだけいい縁談が持ち込まれても、母がほんの僅かな瑕疵でも見つけてはそれを理由に難色を示し断った。
中にはウルリーケとしては好ましいご縁があったが、私の大切な娘の縁談なのだからもっと良い相手が居ると言う母は次から次へと断り続けてきた。
母がそういうならば、そうなのだろうと思い続けるウルリーケの前で、縁談は次々破談になっていく。
貴方の為とご縁が断ち切られ続けた結果、とうとう一つの縁談も持ち込まれなくなっていた。しかも、母が断っているとは外には知られていないらしく、ウルリーケが気位高く選り好みしていると悪評がたった。
親不孝であり我儘、醜いうえに気位だけは一級品、ウルリーケの評判はすっかり地に落ちていた。
胸にある靄のようなものは気のせいだと思いながら、もはや嫁ぐ事は諦めて、せめて祖父と母に尽くしていきていこう。
そんな事をぼんやりと考えていた時だった。
何と、気まぐれを起こした皇帝陛下が、妻として……皇后としてウルリーケを望まれたのである。
聞いた話によると、たまには売れ残りのゲテモノというのも悪くはないではないか、と笑っておられたとのこと。
当代の皇帝陛下は、ウルリーケとは親子ほど年が離れている上に、女癖の悪い放蕩者であると国内外に知れ渡ったお方であった。
既にウルリーケよりも年上の皇子もいらっしゃるし、今まで三人ほど妃が変わっている。いずれも飽きたといって離縁されたのだ。
政治の場よりも愛妾の部屋に居る事が多いとされており、如何に尊いお方であると思っても話を聞いた瞬間、正直ウルリーケは血の気が引いた。
だが、母は目を輝かせた。私の愛娘が皇后になれるなんて、と。
良かったわね、お前はお母様の自慢の娘よ、と涙ぐみながら抱き締めてくる母に、ウルリーケは何も言えなかった。
祖父もまた賛同した。
家門から皇后を出せるのは名誉な事だと祖父と母が喜んでいるのを見れば、更にウルリーケは何も言えなくなってしまった。
花嫁の意向は置き去りで、婚姻は定まり、家をあげて輿入れの支度がなされる。
慌ただしく変わっていく環境の中、母が上機嫌で娘が皇后になると知己に告げて歩いているのを見て、多分これで良かったのだと思った。
ただ、もう庭いじりが出来なくなる事だけが悲しかった。
皇宮は華やかな場所だから、屋敷の中しか知らない閉じこもりの貴方は気後れしてしまうでしょう。だから私が一緒にいってあげるわ、という母に付き添われて、とうとうその日はやってきた。
煌びやかな広間に足を踏み入れた途端、宮廷人が自分を見て何やら熱心に囁きあっているのが見えた。
何を話しているのかは聞こえないが、恐らく自分の見た目が思った以上に醜いとでも話しているのではなかろうか。それとも、所作に品がないとでも。
皇宮に入る前に、母から言われていたのだ。貴方にがっかりする声が多いでしょうけれど、気にしないようになさいと。
緊張に表情を強ばらせながら、ウルリーケと母は皇帝陛下に謁見した。
しかし花嫁と皇帝との対面の場において。
ウルリーケにとっても、母にとっても、その場に居合わせた人々にとっても。
そして、皇宮の人にとっても、民にとっても、まったく予想外の出来事が起きた。
あろうことか、皇帝たる証の玉璽の指輪をはめた皇帝陛下は花嫁ではなく、つき添う母親の美貌に魅せられてしまったのだ。
確かに母はウルリーケ程の年の娘が居るとは思えない若々しい美貌の持ち主であるし、娘ほどに年の離れたウルリーケより余程皇帝の食指が動く年頃だったろう。
呆れて言葉もない家臣たちを横目に。
花嫁になる筈だったウルリーケをもはや目もくれず。
何と、皇帝はその日のうちにデリアを寝所に招いたのである。
そして翌日、大変満足そうな様子の皇帝は、うっとりとしなだれかかるデリアの肩を抱いて謁見の間に現れた。
あまりの経緯に呆然として何も言う事も出来ない人々に向かって高らかに宣言したのだ『デリアを皇后に迎える』と。
皇后に望まれた母は、涙ぐみながら言った。
元々、娘は恐れ多いと結婚を嫌がっていたのです。
だから、わたくしが代わりになりますとお願い申し上げました。そう、これはウルリーケの為なのです。
あの子には申し訳ない事だと思っています。
けれど、わたくしは陛下と出会って真実の愛を見つけてしまったのです……。
母の言葉に、娘は呆然としたまま言葉なく立ち尽くしていた。
確かに、望んでいた結婚ではないが、これはあまりにも。流石にこれは、と。
いや、母の言う事は今まで正しかった。ならば、これもきっと正しいのだ。
あくまで『これはウルリーケの為』と微笑む母に、ウルリーケは青白い顔で、絞り出すように感謝と祝福を口にしたのだった。
祖父は何も言わず、ただ皇帝の意向を受け入れて娘を皇后として差し出した。
祖父にしてみれば、家門から皇后を出せれば、それが娘であろうと孫であろうと何方でも構わなかったのだ。
そもそも唯一絶対の証をもって国に君臨する皇帝の意向に逆らえる筈もない。
空虚な心を抱えるウルリーケの前で、本来ウルリーケを迎える為のものだった盛大な式を以て母は迎えられ、皇后として戴冠した。
『真実の愛』に目覚めたデリアは、眩い程に艶めいていた。
そんな母へ、笑顔以外を浮かべられなくなった娘は、機械仕掛けの人形のように拍手を送り続けた……。
華やかな式の後、ウルリーケは皇后の連れ子という扱いで、一応皇帝の継子という立ち位置に置かれた。
しかし、本来花嫁にする予定だった相手を娘として傍に置くのは皇帝も気まずいものがあったようだ。
愛娘に良いご縁をという皇后の願いを聞き入れたと言って、ウルリーケを自身の甥にあたるギーツェン大公・スヴェンに嫁がせると言い出した。
ギーツェン城があるのは帝都から遥か遠くに存在する『枯れ谷』とも呼ばれる荒れ果てた峡谷の領地である。
スヴェンは先帝唯一の皇子であるが、生来の問題故に帝位を継ぐ事は出来なかった。心を病んだ甥を哀れに思った皇帝が、大公位と領地を与え、療養出来るよう取り計らった。
……ということになっている。
何でもスヴェン皇子は出生に曰くがある為に皇位継承権を与えられず、煙たがられて辺境にほぼ幽閉されたようなものであるという。
そこに嫁げということは、だ。
――実質的な追放であると、如何に世間の事情に疎いウルリーケとてわかった。
皇帝の権限と権威が絶対であるこの国における皇帝の命令と『貴方の為よ』という母の口癖に逆らえる筈がなく。
ヘルムフリート皇子が花婿を努める代理結婚の式を終えると、ウルリーケは早々に皇宮から出立させられたのである。
先帝の皇后陛下の遺品だという古ぼけた人形だけを嫁入り道具と持たされて。
胸に生じた消しようのない亀裂を感じつつ『寝取られ姫』という有難くない二つ名を囁かれながら……。
最初は人形と最低限の荷物だけ渡されると、勝手に行けといわんばかりの状態だった。
母が見送りに来る事は無かった。
そのことを告げにきた侍従が「まだお出ましにならないので……」と目を逸らした事で、ウルリーケは全てを察した。
もし心優しい皇子が護衛を引き受けてくれなければ、一人で見知らぬ旅路を延々と進む羽目になっていただろう。
確かに皇帝の息子であるヘルムフリートは、継子であるウルリーケにとって兄と呼べる人かもしれない。
心が衝撃に死にかけた一連の出来事の中、あの人の優しさは唯一の救いだった気がする。
けれど、そのヘルムフリートももうここには居ない。
ウルリーケの脳裏に、夫となったスヴェンの冷たい美貌が過る。
歓迎されるとは思っていなかった。一方的に押し付けられた花嫁を快く思う筈がない。
しかし、あそこまで開口一番に拒絶されるとはさすがに思わなかった。
それでも置いてはもらえるということで、路頭に迷って途方にくれる心配だけはなくなったようだ。
ただし、今の処、である。
何かのきっかけでスヴェンが機嫌を損ねたら、その日の内に追い出されたとしても文句は言えない。
スヴェンは世間体を気にするような事は無いだろう。恐らく本当にウルリーケをこの城から追い払う気がしている。
今の自分には、帰る場所もなければ、身近に頼れる存在もないのだ。
今まで指針であったものも失い、世界から放り出された先の荒れ野の城。
伴侶である人と自分との間には見えない絶対の壁がある。
まるでこの国がある半島と外の世界を隔てる『霧の壁』のような。
どれだけ進もうとしても、元の場所に戻ってきてしまうという不思議な壁のような。どれだけ近づこうと願っても、一歩も進む事ができない何かのような……。
自分にはもう何もないのだと思えば、身を切るように痛い胸の空虚さにウルリーケは身を震わせた――。
正直、食欲はなかったが、心遣いを無碍にしたくないので何とか笑顔で食べ終える。
湯をつかった後にあれこれと世話を焼いてくれた後、フィーネは部屋を辞した。
残されたウルリーケは寝台まで歩くと、糸が切れたように倒れ込んでしまう。
柔らかな敷布に顔をうずめながら、ウルリーケは何故今自分がここに居るのか……ここに来るまでの激動の出来事に、溜息と共に思いめぐらせた。
ウルリーケの祖父は、カレンベルク侯爵という名の知れた、そして権勢誇る名家の当主だった。
祖父には一人娘しか居らず、娘に婿を迎え、そしてウルリーケが生まれた。
しかし、父はウルリーケが十二歳の時に病気で亡くなった。
亡き父は皇宮の庭園の責任者を任せらえる程の園芸家であり、同時に様々な植物の育種家としても有名な人だった。皇宮の『秘されし庭』の権限を許されるほどの人でもあった。
今でも庭園の花々の美しさを称えながら父の早すぎる死を悼む人が居り、多くの救荒植物を広めた人として名を語られる事がある。
父はウルリーケに惜しむ事なく持てる知識を与えてくれた。
そのお蔭か、ウルリーケの園芸に関する知識と技能はかなりのものとなり、皇宮の庭師たちにも『緑の指』と呼ばれる域に至り、植物に関する生き字引とすら呼ばれもした。
ウルリーケに、父の跡を継いで皇宮の庭の管理者になってもらいたいと言ってくれる人もいた。恐らくは父に配慮したお世辞ではあるだろうが、嬉しいものは嬉しかった。
父の思い出を辿る事ができる庭いじりは彼女が唯一つ楽しいと思える事だった。
しかし、それはけして褒められる事はない、むしろ淑女としては恥ずかしいと言われ続け、いつしか人目を忍ように庭に向かうようになっていた。
恥ずかしい、とは母の言葉だった。
現カレンベルク侯爵の一人娘にあたるウルリーケの母・デリアは実に美しい人である。
父を婿に迎えたものの祖父は父に対して不満があったようでいつまでも爵位を譲らなかった。そして父がそのまま亡くなった為、母は今でも『カレンベルク侯爵令嬢』である。
ウルリーケのような年頃の娘がいるとは思えない程若々しく、華やいだ雰囲気を持つ美貌で知られている。
そればかりではなく、淑女としてあらゆるたしなみに優れている上、夫の忘れ形見を立派に育てあげた教育熱心な母親の鑑とも言われているのだ。
ただし、その娘……つまりはウルリーケについての評判は良いものではない。
優しく理想的な母の献身も虚しく、教養といえる教養を身に着ける事は出来ず、更には容姿に引け目を感じて母が気遣っても屋敷から出ようとしない。
土いじりなどという令嬢らしからぬ趣味に興じて、身の回りの事にもまるで無頓着。デリアは自分が不甲斐ないせいでと涙を零す。
言い訳じみてしまうが、ウルリーケとしてはけして令嬢としての学びを怠った心算はない。
けれども、母はいつも「お前は何時になったら」……と顔を曇らせる。褒めるとしても、何か前置きがある。けして、手放しに彼女の頑張りを褒めてくれた事はない。
それも仕方のない事なのだと自分に言い聞かせる。母が心血注いでくれたのに、母の求める水準に達する事が出来ないのだから。
自分が至らないせいと心の内で己を責めるウルリーケに、母の嘆きは更に続く。
ドレスのセンスが悪い、自分を磨く努力が足りない、とてもみっともなくて人前に出せない……。
挙句、庭師の真似事までして恥ずかしい、と嘆かせてしまった。
それでも、母はウルリーケを愛しているのだと言ってくれた。
愛しているから厳しくするし、お前にとって一番良いと思うからあれこれ口出しもするのだと。
母の望む通りにさえ出来れば、良い子だと抱き締めてもくれた。
お前はお母様の自慢よと、頬を寄せてくれもした。
その母が恥ずかしくて人前に出せないというなら、自分は本当に見るに堪えない容貌であるし、たしなみも足りない娘なのだ。
だから母の言う通りにするのが正しいのだ、と疑う事もなかった。
侍女はそんな事はありません、お嬢様はお美しいし教養もおありです、と慰めてくれたけれど。
そういえば、彼女は急に暇を取ってしまった。別れを言う間も無かった事が悔やまれる。
ウルリーケにとって母は絶対的な行動と価値観の指針であり、世界そのものと言える人だった。
そんな世界に僅かに揺らぎが生じたのは、ウルリーケの『結婚』がきっかけだった……。
ウルリーケは気が付けば十八歳となっていた。
しかし、その頃には早々と売れ残りと囁かれていた。
好きで売れ残っていたわけではない。そもそも、ウルリーケには自分の結婚相手を決める事など出来なかったのだから。
縁談について決定権を持っていたのは、母デリアである。
どれだけいい縁談が持ち込まれても、母がほんの僅かな瑕疵でも見つけてはそれを理由に難色を示し断った。
中にはウルリーケとしては好ましいご縁があったが、私の大切な娘の縁談なのだからもっと良い相手が居ると言う母は次から次へと断り続けてきた。
母がそういうならば、そうなのだろうと思い続けるウルリーケの前で、縁談は次々破談になっていく。
貴方の為とご縁が断ち切られ続けた結果、とうとう一つの縁談も持ち込まれなくなっていた。しかも、母が断っているとは外には知られていないらしく、ウルリーケが気位高く選り好みしていると悪評がたった。
親不孝であり我儘、醜いうえに気位だけは一級品、ウルリーケの評判はすっかり地に落ちていた。
胸にある靄のようなものは気のせいだと思いながら、もはや嫁ぐ事は諦めて、せめて祖父と母に尽くしていきていこう。
そんな事をぼんやりと考えていた時だった。
何と、気まぐれを起こした皇帝陛下が、妻として……皇后としてウルリーケを望まれたのである。
聞いた話によると、たまには売れ残りのゲテモノというのも悪くはないではないか、と笑っておられたとのこと。
当代の皇帝陛下は、ウルリーケとは親子ほど年が離れている上に、女癖の悪い放蕩者であると国内外に知れ渡ったお方であった。
既にウルリーケよりも年上の皇子もいらっしゃるし、今まで三人ほど妃が変わっている。いずれも飽きたといって離縁されたのだ。
政治の場よりも愛妾の部屋に居る事が多いとされており、如何に尊いお方であると思っても話を聞いた瞬間、正直ウルリーケは血の気が引いた。
だが、母は目を輝かせた。私の愛娘が皇后になれるなんて、と。
良かったわね、お前はお母様の自慢の娘よ、と涙ぐみながら抱き締めてくる母に、ウルリーケは何も言えなかった。
祖父もまた賛同した。
家門から皇后を出せるのは名誉な事だと祖父と母が喜んでいるのを見れば、更にウルリーケは何も言えなくなってしまった。
花嫁の意向は置き去りで、婚姻は定まり、家をあげて輿入れの支度がなされる。
慌ただしく変わっていく環境の中、母が上機嫌で娘が皇后になると知己に告げて歩いているのを見て、多分これで良かったのだと思った。
ただ、もう庭いじりが出来なくなる事だけが悲しかった。
皇宮は華やかな場所だから、屋敷の中しか知らない閉じこもりの貴方は気後れしてしまうでしょう。だから私が一緒にいってあげるわ、という母に付き添われて、とうとうその日はやってきた。
煌びやかな広間に足を踏み入れた途端、宮廷人が自分を見て何やら熱心に囁きあっているのが見えた。
何を話しているのかは聞こえないが、恐らく自分の見た目が思った以上に醜いとでも話しているのではなかろうか。それとも、所作に品がないとでも。
皇宮に入る前に、母から言われていたのだ。貴方にがっかりする声が多いでしょうけれど、気にしないようになさいと。
緊張に表情を強ばらせながら、ウルリーケと母は皇帝陛下に謁見した。
しかし花嫁と皇帝との対面の場において。
ウルリーケにとっても、母にとっても、その場に居合わせた人々にとっても。
そして、皇宮の人にとっても、民にとっても、まったく予想外の出来事が起きた。
あろうことか、皇帝たる証の玉璽の指輪をはめた皇帝陛下は花嫁ではなく、つき添う母親の美貌に魅せられてしまったのだ。
確かに母はウルリーケ程の年の娘が居るとは思えない若々しい美貌の持ち主であるし、娘ほどに年の離れたウルリーケより余程皇帝の食指が動く年頃だったろう。
呆れて言葉もない家臣たちを横目に。
花嫁になる筈だったウルリーケをもはや目もくれず。
何と、皇帝はその日のうちにデリアを寝所に招いたのである。
そして翌日、大変満足そうな様子の皇帝は、うっとりとしなだれかかるデリアの肩を抱いて謁見の間に現れた。
あまりの経緯に呆然として何も言う事も出来ない人々に向かって高らかに宣言したのだ『デリアを皇后に迎える』と。
皇后に望まれた母は、涙ぐみながら言った。
元々、娘は恐れ多いと結婚を嫌がっていたのです。
だから、わたくしが代わりになりますとお願い申し上げました。そう、これはウルリーケの為なのです。
あの子には申し訳ない事だと思っています。
けれど、わたくしは陛下と出会って真実の愛を見つけてしまったのです……。
母の言葉に、娘は呆然としたまま言葉なく立ち尽くしていた。
確かに、望んでいた結婚ではないが、これはあまりにも。流石にこれは、と。
いや、母の言う事は今まで正しかった。ならば、これもきっと正しいのだ。
あくまで『これはウルリーケの為』と微笑む母に、ウルリーケは青白い顔で、絞り出すように感謝と祝福を口にしたのだった。
祖父は何も言わず、ただ皇帝の意向を受け入れて娘を皇后として差し出した。
祖父にしてみれば、家門から皇后を出せれば、それが娘であろうと孫であろうと何方でも構わなかったのだ。
そもそも唯一絶対の証をもって国に君臨する皇帝の意向に逆らえる筈もない。
空虚な心を抱えるウルリーケの前で、本来ウルリーケを迎える為のものだった盛大な式を以て母は迎えられ、皇后として戴冠した。
『真実の愛』に目覚めたデリアは、眩い程に艶めいていた。
そんな母へ、笑顔以外を浮かべられなくなった娘は、機械仕掛けの人形のように拍手を送り続けた……。
華やかな式の後、ウルリーケは皇后の連れ子という扱いで、一応皇帝の継子という立ち位置に置かれた。
しかし、本来花嫁にする予定だった相手を娘として傍に置くのは皇帝も気まずいものがあったようだ。
愛娘に良いご縁をという皇后の願いを聞き入れたと言って、ウルリーケを自身の甥にあたるギーツェン大公・スヴェンに嫁がせると言い出した。
ギーツェン城があるのは帝都から遥か遠くに存在する『枯れ谷』とも呼ばれる荒れ果てた峡谷の領地である。
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……ということになっている。
何でもスヴェン皇子は出生に曰くがある為に皇位継承権を与えられず、煙たがられて辺境にほぼ幽閉されたようなものであるという。
そこに嫁げということは、だ。
――実質的な追放であると、如何に世間の事情に疎いウルリーケとてわかった。
皇帝の権限と権威が絶対であるこの国における皇帝の命令と『貴方の為よ』という母の口癖に逆らえる筈がなく。
ヘルムフリート皇子が花婿を努める代理結婚の式を終えると、ウルリーケは早々に皇宮から出立させられたのである。
先帝の皇后陛下の遺品だという古ぼけた人形だけを嫁入り道具と持たされて。
胸に生じた消しようのない亀裂を感じつつ『寝取られ姫』という有難くない二つ名を囁かれながら……。
最初は人形と最低限の荷物だけ渡されると、勝手に行けといわんばかりの状態だった。
母が見送りに来る事は無かった。
そのことを告げにきた侍従が「まだお出ましにならないので……」と目を逸らした事で、ウルリーケは全てを察した。
もし心優しい皇子が護衛を引き受けてくれなければ、一人で見知らぬ旅路を延々と進む羽目になっていただろう。
確かに皇帝の息子であるヘルムフリートは、継子であるウルリーケにとって兄と呼べる人かもしれない。
心が衝撃に死にかけた一連の出来事の中、あの人の優しさは唯一の救いだった気がする。
けれど、そのヘルムフリートももうここには居ない。
ウルリーケの脳裏に、夫となったスヴェンの冷たい美貌が過る。
歓迎されるとは思っていなかった。一方的に押し付けられた花嫁を快く思う筈がない。
しかし、あそこまで開口一番に拒絶されるとはさすがに思わなかった。
それでも置いてはもらえるということで、路頭に迷って途方にくれる心配だけはなくなったようだ。
ただし、今の処、である。
何かのきっかけでスヴェンが機嫌を損ねたら、その日の内に追い出されたとしても文句は言えない。
スヴェンは世間体を気にするような事は無いだろう。恐らく本当にウルリーケをこの城から追い払う気がしている。
今の自分には、帰る場所もなければ、身近に頼れる存在もないのだ。
今まで指針であったものも失い、世界から放り出された先の荒れ野の城。
伴侶である人と自分との間には見えない絶対の壁がある。
まるでこの国がある半島と外の世界を隔てる『霧の壁』のような。
どれだけ進もうとしても、元の場所に戻ってきてしまうという不思議な壁のような。どれだけ近づこうと願っても、一歩も進む事ができない何かのような……。
自分にはもう何もないのだと思えば、身を切るように痛い胸の空虚さにウルリーケは身を震わせた――。
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