花舞う庭の恋語り

響 蒼華

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 ――目を閉じれば、楽しげに笑う愛しい桜の姿が浮かぶ。
 獣は巡る追想に身を委ねた。
 
 あれは、続く戦いの報せを憂いていたある日の事。
 周は、父に大陸での戦争に征くように命じられた。
 予備役の役立たずと疎んじていた父が突然そのように言い出した理由について、周は概ね検討がついていた。
 実際の戦況が芳しくない事に、父は気付いていだろう。
 父としては健人に行かせたくない。けれど軍人華族の家の当主としては息子を出さぬわけにはいかない。
 故に、代わりに差し出す贄として周を選んだのだ。
 元より生きていても死んだと同じ存在、どう転んだとしても構わないと。

『あの庭も、桜も。どうするか決める事が出来るのは家長だけだ』

 父は周が裏庭の枝垂桜に執心である事に気付いていた。
 それ故に、命に従わせるために花霞の存在を持ち出した。
 花霞の本体である桜を伐採すると無慈悲に言い放ったのだ。
 そしてそれを覆せるのは、自分の意に適う者だけであると。

『跡継ぎ足らんとするなら、家名を上げるよう努めるがいい。次の家長として相応しい事を示してみろ』

 情けの欠片も見せずに言い放つ父の事は、もうどうでも良かった。
 ただ、花霞だけは奪われたくなかった。
 あの桜だけが、周の光だから。
 死にぞこないの長男を片づけるいい機会だと思われても、仕方ない。
 周が武勲を上げたとしても、野垂れ死んだとしても、父にとっては利しかないとしても、周の知った事ではない。
 花霞を失わずに済む術がそれだけなのだとしたら。
 そう悟った周に、迷いは一かけらも無かった。

 元々、周は父に愛されていなかった。
 それは周の資質によるものではなく、父が母を疎んじていたからだ。
 母は御一新の動乱に乗じて富を築いた新興の実業家の娘だった。
 名門ではあれど金に窮した相神を救うべく嫁いできたものの、家人は所詮成り上がりの娘と蔑むばかり。
 奥方として遇されたのは最初だけ、不本意な結婚に矜持を傷つけられた父は当てつけのように妾を囲った。
 母は病弱な性質であり、子供は諦めたほうがと医師が諫めても聞かず、無理をおして周を産んだ。
 それはけして愛情故ではなかった。
 周を取り上げられた母は用済みだと言わんばかりに裏庭の離れに押し込められた。
 息子は母屋にて跡継ぎとして厳しく育てられた。血筋の卑しさを払拭し跡継ぎとして相応しくあれと。
 母の元へ足を運ぶ事は、あまりいい顔はされなかったが止められる事はなく。
 母への情があったわけではないものの、そうあるべきという形に従って母を見舞った。
 母は離れを訪れる幼い周の肩を病人とは思えぬ力で掴みながら呻くように言ったものだ。

『お前はこの家の跡継ぎ。何時かお前がこの家の全てを手にして、母の受けた仕打ちの報いを与えてやるのです』

 その為に周を産んだと母は執念の籠った眼差しで息子を見据えながら、嗤った。
 愛していたから望んだのではなく、己を蔑む人間を見返す為、意趣返しの為。
 耳元で囁かれ続けた言葉は周を縛る呪いの鎖となって、彼を苛んだ。
 母は周の成長を見届ける事なく、呪いだけを遺して世を去った。
 母が亡くなった途端、父は妾と異母の妹たちを家へと迎え入れる。そして、程なく後妻となった女は健康な男児を産み、家は湧いた。
 後妻は先妻の子を目障りに思い、自分の産んだ子を跡継ぎにしたいと望み、周囲もまた健康とは言えぬ長男よりはと異母弟をこそ、と囁くようになる。
 元より妾に甘い父は、愛情をもてなかった正妻よりも愛しむ女が産んだ子を跡継ぎとしたかったようである。
 ただ、周が嫡男である事は変わらず、廃するに値する理由がなければただの理不尽というのは分かっていたようだ。
 けれども、弟を実質的な嫡男として扱うようになっていった。
 親の愛情と期待を一身に受け、家人に持て囃され増長した弟や、それに付き従う妹たちはあからさまに兄を蔑むようになる。
 周りの人間は、そんな弟たちにへりくだりすりよって甘い汁を吸おうとする。

 何もかもが下らないと思った。
 薄汚い思惑だらけの人々も、母親の虚しい怨念も、何もかも。
 消えてしまえばいい、いっそ塵と化して消えてしまえばいい。
 何時しか周はそれだけを抱えた妄執の塊と化していた。息をするだけの、重苦しい汚泥のような存在になりかけていた。

 それを救ったのが、あの愛しい枝垂桜だったのだ。

 何もかもが面白くなくて、裏庭の桜の樹を幼い手で殴りつけていた、その時だった。 

『このような場所で、何を湿っぽい顔をしておるのか』

 不意に聞こえた柔らかな声に、周は思わず動きを止めてそちらを見た。
 うつくしい少女がそこに居た。
 古式ゆかしい桜の襲の衣裳に、結い上げた髪には桜の花簪。
 淡い桜の髪に、瞳は琥珀の玉。愛らしい面差しは繊細な目鼻立ちによって成り立ち、人には非ざる色彩が何と調和して美しいのだろう。
 穴があく程に見つめてしまった周に、少女は驚いたように目を瞬いた。

『そなた、わらわが見えるのか?』

 周はぶんぶんと首を勢いよく縦に振って頷いていた。
 それを見た人ならざる少女は、敢えて顰め面を作って見せると殊更重々しく樹を示して言ったのだ。

『そのような小さな手で叩いても痛くも痒くもないが、理由もなく叩かれれば流石に不愉快ぞ』

 咲き乱れる桜を示して言われた言の葉が、少女が桜の化身である事を知らせた。
 不思議と恐ろしいと思う事はなく、むしろとても慕わしく思えたのだ。
 周は母を悼むという名目で裏庭を訪れては、花霞と過ごした。

 花霞が居たからこそ、周は人になれたのだ。 
 あの美しい手が、自分を泥から人に戻した。明るき場所へ、笑みに笑みが返る幸せに、連れ戻してくれた。
 花霞と過ごす時は、周に数多のこころをくれた。
 他愛無い日常の言葉のやり取りでさえ、愛おしくてたまらない。
 彼女の声が、笑みが、確かに周にとっての光だった。
 この世において無くしたくないと願う、唯一つだった。

 花霞は、周の魂を美しいと言ってくれた。
 違う、美しくなどない。そんなに良いものではない。
 そう見えるとしたら、花霞が居たからだ。
 花霞を守る為ならば、父の思惑通りに動く事すら厭わないと思っていた。
 けれども。

『どうせ家に帰ったって、桜もなくなっちまってるんだから』

 戦場の動乱に紛れてこちらに銃を向けた男達の一人が薄笑いを浮かべながら呟いたのを聞いて、周は目を見開いた。
 そういえば、男達の顔は弟の腰巾着の中に見かけた気がする。
 その言葉は、健人が何をしようとしているのか示すものだった。
 周を亡き者にしようとしただけなら、それも定めとして受け入れたかもしれない。
 しかし、健人は花霞をも殺そうというのだ。

 許せない、周の裡に昏い焔が生じた。
 許せない、許せない、許せない。
 跡取りの地位などくれてやる、腑抜けた兄と蔑まれようと構わない、欲しいものがあるならくれてやる。
 だが、あの桜だけは渡さない。
 花霞は、自分の桜だ。自分だけの花だ。

 花霞を害そうとしている弟が憎くて堪らなかった。
 男達が怯えたように慌て、銃の引き金を弾いた。
 痛くない、むしろ甘んじて受け止めよう。
 愛しい桜を守る為ならば、この身体とていらない、命とていらない。
 魂は千里をかけるというならば、器を捨てても構わない。
 倒れ伏した身体を見下ろす不思議な感覚と共に、自分が何かに変質しようとしているのを感じる。
 それを見た慮外者どもが悲鳴をあげて逃げていくけれど、そんなものはもうどうでもいい。
 どろりとした澱みが自分から滴り落ちる、徐々に二本の足ではなく、四つ足の姿に転じていくのが分かる。
 人ならざる者になろうと、彼女を救えるならば恐ろしくない。
 どうか、今すぐにでも愛しいあのひとの元へ――。

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