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大蛇の昔語り

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 いつの間にか、窓から差し込む光は茜色を帯びていた。
 周囲を紅に染める光を受けながら、初穂はと玖澄は肩を寄せ合い、互いにもたれかかるように座している。
 玖澄は抱き締めていた腕からは解放してくれたが、初穂に触れていたがった。
 初穂も、玖澄と触れていたかった。だから、拒まなかった。
 その想いを示すように、二人はどちらからともなく伸ばした手に、そっと手を添えている。
 肩に感じる温もりに心が穏やかに凪いでいるのを感じながら、初穂は玖澄の言葉を待った。
 遠くに巣に戻ろうとする鳥が鳴き交わす声が聞こえる中、やがて玖澄は静かに語り始めた。

「私が生まれたのは、戦が絶えない戦国の世でした」

 過去に思いを巡らすように、玖澄は目を細めながら言う。
 初穂は驚きに目を瞬き、玖澄を見上げるように視線を向けた。
 玖澄は初穂の眼差しを受けて柔らかく微笑みながら、一つ息を吐いて続ける。

「私は、今とは違う名前でした。と言っても、もう元の名は覚えていません」

 長い時の中に、本来の名を忘れてしまったということだろうか。
 それならば、玖澄という名は新たに付けた名か、仮の名であるのか。
 思案しながらも初穂は玖澄から目を離さずに、静かに彼の言葉の続きを待っている。

「そして、私はその頃あやかしではありませんでした」
「え……?」

 思わず小さく驚きの声をあげてしまう。
 だって、ここに居る玖澄は、人ならざる虹彩と鱗を持ち、美しさを有し、確かにあやかしであるはずだ。
 瀬皓にて長い間語り継がれてきた、山にすまう力ある大蛇のはずだ。
 人の形をしていても人ならざる者であるはずの青年が告げた、思いもよらぬ言葉。
 きょとんとした表情で続く言葉が出てこない初穂を見て、玖澄が苦笑する。
 そして、初穂の中に巡る問いの答えを静かに口にした。

「……私は、元は人間だったのです」



 遡り、戦国の世。この瀬皓の地には、小さな国があった。
 けして豊かとは言えない土地であったが、周囲を山や渓谷に囲まれた攻め入りにくい地形が幸いして、民は穏やかに暮らしていた、と玖澄は言った。
 初穂も、それは聞いた事があった。
 村の老人たちが時折語る物語に、山間の国の話があった。
 時の流れの中に消えた、半ばおとぎ話のように思っていた昔語りを思い出しながら初穂は玖澄を見つめる。
 戸惑いの黒瞳を向けられた玖澄は、遠くを見つめるような様子で続きを紡いでいく。

「国を治める武家に、最初の男子として生まれたのが私です」

 国を治める血筋に、長男つまりは跡取りとして生まれた。
 玖澄の威圧感など感じさせない穏やかな物腰や声音を思えば、そうだったのかと納得するのが少しばかり難しい。
 やや困ったような、戸惑ったような色が表情に出てしまっていたのだろう。
 玖澄は一つ困った風に息を吐いた。

「幼い頃から、武術に学問にと大層厳しく育てられました。ただ、学ぶ事自体は嫌いではなかったのですが、人と争うのが怖くて」

 小国とはいえど、家門の跡継ぎとして生まれた玖澄。
 何れ家督を継いで、人の上に立ち、国を治めていく者として厳しく躾けられ、多くのものを求められた。
 学び、高みを目指す事は苦痛ではなかった。
 だが、人と競う事、人の上に立つ為に人を蹴落とすこと。そして、威厳を以て人を圧する事だけはどうしても苦手だったのだという。

「武器を構え相対するよりも、一人静かに書を読んで過ごすことのほうが好きでした。台所で料理をすることや、山を散策し小さな生き物と触れ合うほうが好きでした」

 初穂は、思わず頷いていた。
 玖澄が武器を構えて人を傷つけるところなど想像できない。戦の場にたっているところも、思い描くことは難しい。
 それよりも、玖澄には穏やかに過ごしている様子が似合うと思うのだ。
 楽しそうに台所に立つ姿や、縫物をしている姿。部屋にて書を捲り語って聞かせてくれるところや、小霊たちや動物に向ける優しい笑顔。
 それが玖澄に一番似合う、と初穂は思う。
 だが、かつて玖澄の周りにいた者はそうは思わなかったらしい。

「でも。武家の跡取りでありながら、陰気で、何事にも臆病で。私を見て周囲の者が何時も溜息をついていたのを知っています」

 何と女々しい、情けない。跡継ぎの覇気の無さを人々は嘆いたらしい。
 戦国の世に生まれた男であれば、雄々しく猛々しく、例え身の丈に合わぬとしても野心の一つも抱くもの。
 しかし、若君は刃を持つ事を厭い、女人のようにのんびりと過ごすことをお好みだ。
 これでは先が思いやられる。家人はおろか領民達までそう言って嘆いていたという。
 勝手な、と初穂は心に靄がたちこめた。
 憮然とした面もちになってしまった初穂だったが、玖澄が語る声はまだ続いている。

「それで次の当主とは情けないと、良く叱咤されることもありました。弟のほうがよほど相応しいという者もあったぐらいです」

 弟妹もまた、彼を不甲斐ない兄と疎んじていたらしい。
 このままでは、兄の代になったら近隣の大名に侮られ、国は滅ぼされてしまうのではと嘆いていた。
 彼としては、弟が相応しいというなら譲っても構わないと思っていたのだ。
 しかし、それでは長幼の序に反すると父に叱責された。弟を追い落としてでも跡継ぎを譲らぬ、という気概がないのを情けないと罵倒された。
 人々の期待に応えられぬ事を情けなく思い、自分を変えようとした。
 けれど、やはり武器を取る事が恐ろしいし、人と刃を以て対峙し、人を傷つけることが嫌だった。武器でも言の葉でも、誰かと争うのが嫌だった。
 だから、いつも立つ瀬がないように感じることを仕方ないと思っていた。
 疎まれているのを知っていても、期待に応えられぬ自分が悪いのだと自分を責めた。
 跡取りとして相応しい者であることができない自分が悪いのだと……。

 彼の周りには人が居なかった。
 彼は自然と一人で過ごすことになれ、身の回りのことを自分でするようになり。
 彼が居ると面倒そうな様子を隠さない人々に、いたたまれなくて山歩きにて屋敷を離れる事が増えていた。
 誰も彼もが情けない跡取りと話す事を厭うから、いつしか誰とも離さず住む場所へ逃れるようになっていた。
 身を切られるような寂しさに、何も言えずに耐えていた。
 そんな彼と向き合って話をしてくれたのは瀬皓の山に住まうという恐ろしいあやかし――山の大蛇だった。

 大蛇と出会ったのは、山歩きをしていて沢に落ちた時の事だった。
 身体を酷く打ち付け、自分はここで死ぬのだなとぼんやり思っていた時の事。
 のそりと何かが動いた音がしたかと思った次の瞬間、大きく視界が翳り。
 呆然と見開いた彼の視界に映ったのは、尋常ではないほどに大きな蛇が自分を覗き込んでいる姿だったという。
 あまりのことに気を失いかけた玖澄だったが、次の瞬間に聞こえたのんびりとした声に思わず目を見張った。

『こんなところで昼寝かい? 君は随分のんびり屋さんなのだね』

 そんな訳なかろう、と思いながらも久方ぶりに聞いた棘のない言葉に思わず吹き出してしまう。
 崖から落ちてしまったと説明すると、見目の恐ろしさに反して気の良い大蛇は、あれこれと手当をしてくれたのだ。
 不思議の力で忽ち傷は癒え、玖澄は礼を告げて山から下りた。
 恐ろしいと言い伝えられている大蛇と遭遇したのに無事であったこと、むしろ心配され、手を尽くして助けてもらったことを夢かと思いながら。
 後日、礼の品を携えて山を訪れた彼を、大蛇は喜んで出迎えてくれたという。
 それから彼と大蛇の交流は始まり、何時しか彼らは友と呼びあえる仲になっていた。

「……『玖澄』とは、本来、彼の名でした」

 不思議の世界にあるものにとって、名とは重要なものらしい。
 大蛇は確かに玖澄を友と認めたからこそ、名を許してくれたのだろう。
 玖澄が、友の名を名乗り続けるのも、友への想い故なのかもしれない。
 大蛇は元々この山に住まう土地神と呼ばれていたものらしい。
 まあ、ただ長く生きているだけの化生だがね、と本人は至って呑気に笑いを零していたが。
 敬わなければと思った玖澄が態度を改めようとしたが、伴侶に逃げられてしまったただの情けないあやかしだよ、と笑って止めたらしい。
 会話らしい会話のない色褪せた日々を送っていた玖澄にとって、大蛇との時間は鮮やかな色彩に満ちた時間に思えたという。
 長きを生きて深い思慮を持つ大蛇は、玖澄にとって友であり、時として師であった。
 大蛇は、玖澄が人々の期待に応えられず不甲斐ない自分を恥じているのを見て、こう告げた。

『君は、そのままでいいと思うのだよ』

 それを聞いた時、玖澄は俄かに信じられなかったという。
 今のままの自分でいいなんて、まさか。皆が口を揃えて情けないと嘆き、疎むこの不甲斐ない身を。

『皆は、情けないというのです……』
『戦うことより、和することのほうが余程難しい。猛々しくあることより、優しくあり続けることのほうが、よほど難しい』

 悄然と呟く玖澄に対して、大蛇は穏やかだが確りとした深い声音で言った。
 大蛇はゆるゆると頭を降って見せると、重ねて言い聞かせるように続けたのだ。
 玖澄は戸惑いを隠せなかったという。
 変わらなければ認められない、受け入れられないと思っていた。
 それなのに、大蛇は変わる事なき今のままの自分でいいと肯定してくれたのだ。
 返す言葉が紡げずにいる玖澄に、大蛇は優しく言った。

『君は充分強いのだよ。だから、君はそのままの君でいておくれ』

 友の、ただの慰めではない、本心からの言葉に。
 あまりに優しく温かで、それで居て深く玖澄を認めてくれる言葉に。
 玖澄は、ただ言葉なく涙したという……。

 山の大蛇と友誼を結んでから、幾年か過ぎた。
 剛健だった父も老いて病に倒れ、やがて父が亡くなると、玖澄は父の跡を次いで国主となった。
 治世は概ね安定していたが、やはり玖澄を頼りないと囁く者達はあった。
 だが、玖澄はそれを聞かぬ振りをして国を治めた。
 政が恙無く行われるように。民が心安らかに日々を送れるように。
 ただ一心に打ち込む姿に、人々は少しずつ玖澄の元に集まるようになっていった。厭う囁きも少しずつ減っていく。
 一人ではなくなりつつある友の姿を、山の大蛇は喜んでいてくれたという。
 穏やかで平和な日々だった。
 だが、それもある日終わりを告げた。

「けれど、ある理由で山を開いたことにより災いが起きて。私は山を閉じさせました」

 起きた災いについて何が原因かと頭を悩ませていた玖澄に対して、大蛇が原因を知らせた。
 それを聞いた彼は、直ちに山から手を引くように命じ。
 やがて災いは収まり、解決したかに思えた。
 だがその出来事が、落ち着いたように見えて燻り続けていた彼に対する不満を、燃え上がらせる結果になってしまう。

「山を開いたことにより利益を得ていた者達が、災いの原因は山の大蛇だと言い始めたのです」

 開かれた山からは、ある富が齎されていたのだ。
 やり様次第では、小国という括りから抜け出すことも叶うのではないか、と思わせるだけの。
 だが、玖澄は山を閉じさせ、それは夢物語で終わってしまった。
 人々の鬱屈は、罪のない山のあやかしに牙をむいた。
 起きた災いは山を開いたせいではない。大蛇が国を祟って起こしたことだ。
 山の大蛇がある限り、また同じ事が起きるかもしれない。国の安寧のためには、大蛇を討つ必要があるのだ。
 齎される筈だった富に目が眩んだ人々は、それを失わせた原因を玖澄に求めた。
 国を治める者であるならば、責任のもとに大蛇を討てと、皆は声高に叫ぶようになっていた。
 玖澄は出来る限りの強さを以て、人々を落ち着けようと声をあげた。
 けれど。

「もはや人々は乱を起こす寸前でした。私は、人々の声を抑えきれなかった。だから、私は唯一人の共に刃を向けました」

 刃を持ち、人々と共に現れた玖澄を見て、大蛇は何も言わなかったという。
 何も言わないまま。そして何の抵抗もしないまま、大蛇は友に討たれた……。

 語る玖澄の言葉から、玖澄がどれだけ友を大事に思っていたのか感じ取っていた初穂は思わず息を飲んだ。
 それを強いた人々に対して、怒りがこみ上げてくる。
 勝手に都合を押し付けて、苦行を彼に強いた人々に対してやるせない思いが抑えきれない。
 唇を噛みしめた初穂を見て考え込んでいた玖澄は、やがて再び口を開いた。

「武家の長として責任を取る為でした。でも、それは自分に対する唯の言い訳だったのです」

 声音に交じる苦さに、初穂が弾かれたように玖澄を見たならば。
 彼の顔には、己を嫌悪し、嘲笑う暗い表情があった。

「私は、嫌です、と言えなかった。ただでさえ元々失望を買っていた身です。漸く得た居場所を失う事を恐れ、人の期待を裏切る事を恐れ、否を口にできなかった」

 ようやく何とか人々に受け入れられ、一人ではなくなった。
 彼は、期待に応えることによって居場所を手に入れた。
 それなのに、期待を裏切ってしまったら。
 彼はまた、あの寒い場所に戻らなければならない。けれど、一度温かさをしってしまえば、もう戻れない。
 だから、玖澄は友を手にかけることを選んでしまった。
 玖澄を温かな場所に導いてくれたのは、他ならぬその友であったというのに……。

 身に浴びた友の血は、玖澄に決定的な変化を齎した。
 力あるあやかしだった大蛇を討った者に、討たれたものの意思とは関係なく、報いとして呪いが降り注いだのだ。
 身勝手な恐れ故に、嫌と言えず友を討った。その悲しみや無念を身に刻み続ける為に、彼は呪いを受け入れた。
 その時から、彼は人ならざる者となったのだ。
 流された血に宿る無念が他者に及ばぬように、呪い……罪をその身に封じて大蛇のあやかしと化した。
 彼はその日から、山に入り、人を避けて暮らすようになった。
 自分は罪人だから。咎を負う者には温かな場所など不相応だから。
 犯した罪に対する永劫に消えない枷として、友の名を……『玖澄』を名乗りながら。
 いつしか国が滅び忘れさられた後は、人と関わることなく、無闇な騒ぎを恐れて山で静かに暮らしていた。

「白妙達は、彼の子です」

 静かに呟かれた言葉に、初穂は目を見開いた。
 まさか、と問うような眼差しを向けてしまうが、玖澄は寂しげな微笑みを浮かべるばかりで否定は続かない。
 あれほど玖澄に二心なく仕える白妙。時として窘めながらも、温かな心を以て彼の側に控える少年。
 今聞いた話によるならば、白妙にとって玖澄は親の仇である。
 なのに、どうして。
 初穂がやや呆然としたままでいると、玖澄が言葉の続きを口にした。

「あの子達も、最初は私に復讐するつもりで私の前に現れた」

 親である大蛇が殺されたことを知り、まだ弱弱しい小さな蛇だった白妙達は玖澄の前に現れた。
 大蛇から存在を引き継いだ玖澄と彼らとでは、力の差は歴然としていた。
 玖澄は彼らに討たれるつもりだった。それこそが、玖澄が受ける相応しい報いだと思ったから。
 だが、白妙達は彼を見ると、悲しげに刃を下したのだ。

「でも、彼が……『玖澄』がそれを望んでいないと知ってしまったから。白妙達は、私を支えてくれるようになりました」

 貴方には、遺された父の思いがある。
 父は貴方を大切に思うからこそ。貴方が生きていくことを望んだからこそ討たれた。
 自分達に、貴方は殺せない。白妙達は、そう言って刃を捨てた……。
 それ以来、白妙達は玖澄の側に仕えるようになった。
 貴方は放っておくと危なっかしいから、と渋い顔をしながら、玖澄と共にいてくれるようになったのだ。
 同じものを大切に思ったもの同士。大切に想ったものを失ったもの同士。そう言いながら。
 玖澄を一人にしないということが、大蛇の願いであったのだと言葉に依らずとも伝えようというように……。

 初穂は、自分の手に添えられた玖澄の手に、そっともう片方の手をのせた。
 肩に感じる温もりをもっと確かに感じたくて、頬を寄せる。
 玖澄の心を思えば、ただ悲しく、切なくて。

 心にこみ上げてくる哀しみや、何とも形容しがたい思いに耐え唇を噛みしめている中、玖澄は尚も語り続けている。
 何時しか国があったことすら過去の昔語りとなる程、歳月は流れた。
 玖澄はただ静かにこの屋敷にて暮らしていた。
 白妙達や小霊達、山にすまうものたちは彼を慕ってくれる。彼は一人ではなかった。
 けれど、皆に微笑んで見せながら、彼の心には一つの思いがあった、
 消えない思いは、打ち消そうと思っても、消えるどころか今様に薄墨が広がるように年ごとに拡がっていく。
 だからこそ、彼は決意した。
 そして、その為に彼はあれ程避けていた人の世からの申し出を受け入れたのだ。
 何かに気づいて見上げた初穂と、玖澄の紅の眼差しが交錯する。
 初穂を真っ直ぐに見つめる瞳に宿るのは、あまりに悲しく透明な哀しみだった。

「私が瀬皓から花嫁を受け入れたのは、私という存在を終わらせてもらうためでした」

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