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《翠》 喝采の宴

喝采・二

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 数日たったある風の強い曇りの日の事。その日、劇場は騒動に揺れた。

 始まりは、大道具の柱が揺らいだ事から始まる。轟音と共に柱が倒れたのだ――そこに居た灯里へと目掛けて。
 咄嗟の事に硬直して逃れる事ができなくなっていた灯里は、ああここで死ぬのかとぼんやり思っていた。
 けれども、そんな彼女を押し倒すように庇った人影があった――緑子である。
 緑子は灯里を抱きかかえながら転がり、直後轟音と共に上がる土煙。
 舞台裏が俄かに阿鼻叫喚となる中、土煙が晴れた後にそこに二人の姿を見つけて人々は一先ず息をついた。
 緑子は灯里をけして離すものかというように強く抱きしめている。々が次々に叫びながら二人へと駆け寄っていく。

「緑子さん! 灯里さん! 大丈夫か!?」
「……わたしは、大丈夫、です‥…」

 緑子に守られた灯里は精々が小さいかすり傷がある程度、けれども守った方の緑子は……。

「……痛……っ」
「緑子さん!」

 ぽたり、と紅い雫が落ちた。
 その源を見たならば、緑子の白く美しい頬に木片が掠って切れたような傷がある。
 赤い玉は次々に生じては落ちて、緑子の衣服を汚していく。
 主演女優の大事な顔に、傷が……と一瞬にして舞台裏の空気が凍り付く。
 開演までそう間もない、白粉で隠すにしても限度がある。無理をすれば痕が残るかもしれない。
 如何するのだとどよめく人々に対して、緑子が静かに口を開いた。

「それなら、灯里に代わりをさせなさい」
「緑子さん!?」

 緑子が静かに告げたなら、その場にいた人間の視線が一斉に灯里に集中する。
 主演女優は何を言っているのだ、こんな地味な少女に彼女の代わりが出来るわけが。
 その場の空気がそう言っている。灯里だってそう思う、緑子の代わりが自分に務まる筈がない。
 自分何かを庇わなければ、この人は傷つかなかったのに。
 どうしてですか、何で私なんかをと、声にならない呟きだけが募る。
 自責の念に苛まれ、灯里の目には涙の雫が生じては頬を伝い落ちていく。

「灯里は全ての台詞も歌も覚えているわ、アタシが保証する」

 重々しく緑子は告げる。静かで欠片の偽りもない、冗談が滲む事はない、託宣のような言葉だった。
 困惑していた人々は、その言葉に動かされるように三々五々に散り、準備を始めていく。
 どこか熱に浮かされて、操られているような様子である気がした。
 灯里の涙を、緑子の細い指先がそっと拭う。

「ほら、泣かないで。早くお化粧して支度して。……アタシの可愛い灯里。ねえ、笑って?」

 傷を負いながらも、あまりに優しく包み込むような眼差しと声音に、灯里の心に熱が灯る。
 貴方の声に応えたい。貴方に見て欲しい、私を。聞いて欲しい、私の歌を。
 貴方の為に。アタシの可愛い灯里と言ってくれた、貴方の……。
 胸に灯った熱は、身体を巡り満たす激しい焔となる。
 立ち上がり歩き出した時、灯里の瞳には揺るがぬ強い光があった。
 緑子は傷の手当を受けながら、歩き出したその背を愛おしむような光を宿して見つめていた。


 結果として、その日の舞台は大盛況のうちに幕を下した。
 別人のように美しくなった灯里は、無事に主演の代役を務めおおせたのだ。支配人をして完璧と思う程に。 
 客は突如として現れ見事に主演女優の代役を務めたあの少女は何者と声高に叫んだ。
 あれほどの逸材をどうして隠していたのか、期待の新人かと問いはどよめきとなり劇場に満ちていた。


 夜闇が満ちて、灯里は何時ものようにランタンを手にして人気の消えた舞台へと足を運ぶ。
 夢のような日だった、そう思えば知らずのうちに吐息が零れる。
 眩い輝きに照らされてうけた喝采と、割れんばかりの拍手と、身の内を満たした燃え上がる熱。
 心が高ぶる。落ち着けと、あれは仮初の夢だったのだと言い聞かせても裡なる自分は落ち着いてくれない。
 庇われた時、ああ、あの人はやはり男の人なのだ、と感じた。
 抱き締める腕は、あまりに温かくて頼もしいものだった。
 何故そうしたのか、何を想って。そんな事あるわけがないと、あってはいけないと思う。
 他意なんかない、あの人は面倒見が良くて優しいから。自分じゃなくて他の人だったとしてもああしただろう。
 もしかして、を抱く事すら烏滸がましい……。この気持ちは、きっと刹那の思い違い……。
 歌詞と旋律を思い出しながら歌を紡ぐけれど、心の揺れは明確に声に表れて震えてしまっていて、大きく息を吐くと歌うのを中断する。
 大きな溜息をついた、その時だった。
 灯里以外誰も居ないはずの場所に、聞き覚えのある声が響いたのは。

「……音程が少し不安定ね」
「み、緑子さん!?」

 動揺するあまり、声が裏返り気味になってしまう。
 そこには、頬を被覆材で覆った緑子が立っているではないか。
 何故緑子がここにいるのだ、誰にも気づかれていないと思っていたのに。
 何と言い繕っていいのか迷いに惑って何も言葉が出てこない。けれどそんな灯里を見つめる緑子の眼差しは、優しい光を宿している。
 灯里は悟った。
 この人は、知っていたのだと。
 灯里が夜更けてから一人、舞台に立っていた事を。歌わずには居られなかった事を。
 だからこそ、あの時灯里を推してくれたのだ。灯里が主演の歌も台詞も覚えている事を、聞いて知っていたから。
 悪戯を見つけられて固まってしまった子供のような灯里を見て、緑子は優しい苦笑を零す。

「こんな風に毎晩練習するぐらい好きなのに、何で女優を目指さないの?」

 裡に息づく秘めた願いを見透かされてしまって、灯里は罰の悪い表情を浮かべる。
 それは表に出すまいと決めていたもの、けれども緑子にはお見通し。
 暫しの躊躇いの沈黙の後、ぽつりと灯里は言葉を紡いだ。

「ソプラノの高音が出せないので」
「それを言うならアタシも同じじゃない」

 取り繕うように言ってはみたものの、直ぐ様切り返されて再び言葉を失う。
 黙り込んでしまった灯里に、緑子は続きを促すように無言で眼差し向けている。
 再びの躊躇いがあり、観念したように溜息をひとつついた後、灯里は再び紡ぐ。

「……私は、光の当たる場所にいたら、いけないので」

 人目に付かず光の当たらぬ処で生きていけ、兄の叫んだ言葉は今も尚灯里のこころに突き刺さっている。
 それと同時に説明できない『何か』の予感がある、人目に触れてしまえば、今の平穏は失われてしまうという。
 もう少しきちんとした説明は出来ないものだろうかと苦く思う灯里だったが、緑子はわかったわ、と言ってそれ以上触れようとしなかった。
 その代わりに、歌い方を教えてくれた。舞台での所作も、台詞をより響かせる術も。
 喝采を受け輝く女優が持てる技術を、余す事なく灯里へと注いでくれたのだ。
 それから毎日、舞台が終わって夜更けてから、緑子は灯里の練習に付き合ってくれるようになった。

 ――光の当たる場所へとたった、忘れられぬ一夜。それが運命の転機となった事を、灯里は知らなかった。
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