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03・天山温泉郷
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「あ、ほら! もう少しで着くんじゃない?」
道を左に折れる。すぐにやや急な上り坂が現れた。歩道などはなく、舗装されているとはいえ、少し横幅が狭い道。道路脇には少し積もった残雪。
乗っているレンタカーは、スノータイヤを履いているとはいえ、ドライバーの彗が久々の運転などの不安要素があったが一応解消された。よくよく道路の中央を見れば穴が開いており、消雪パイプ――地下水を使って雪を融かす装置。道路の凍結防止にも役立っている――がちゃんと設置されていたからだ。
「雪が少なくてよかった」
彗は安堵の息を漏らしている。久々の運転が雪道とか私なら絶対嫌だ。雪があると神経も使うし技術もいる。多少の雪でもスリップするものはする。カッコつけのために、車をぶつけたくないもん。だからある意味コイツは凄いと思う。
「さすが儲かっている温泉郷は違うわね。道幅がもうちょっと広ければ、もっとよかったのに」
「手厳しいね」
彗の口調にオイオイと言う感情が混ざっている。
「ツメが甘いのよ。お金をかけるべきところをもっと吟味するべきね。たくさんの何台のバスとすれ違ったか憶えてる? スレッスレのギリッギリだったじゃない。今まで事故がなかったのが不思議なくらい」
「狭い道のこととなると、目が厳しくなるのは変わらないね」
「当たり前じゃない。ユキはそのせいで――」
ハッと口をつぐんで彗のほうへ顔を向けた。横顔が緩んでいるように見えたから、これ以上はムカつくから言ってやらない。
「もしかして、あのときのことを思い出している?」
あのときのこととは、十年ほど前の話である。今みたいな狭い山道で、私の母が運転する自動車が、カーブの所でバスに当てられてしまったのだ。私たち母娘は無傷だったものの、彗が片足を骨折する大けがを負ってしまったのだ。それでしばらく私は、寂しい思いを――
「そそ、そんなんじゃないわよっ!」
「夕季は優しいね」
「優しくなんかない!!」
「毎日お見舞いに来てくれて、学校の話とかゲームの話とかしたよね。帰り際は泣きそうな顔になって、ボクも釣られて泣きそうになったっけ」
なんでそんなことまで憶えているのコイツ! 手玉に取られている感じがして超ムカつく。
「してないし、憶えてないわよっ!」
「お、アーチ看板が見えるね」
彗がハンドルから左手の人差し指だけ離す。イライラしながら正面を見た。
『天山温泉郷へようこそ!』と描かれたきらびやかなアーチ看板。その先に続く石畳の道。今まで通って来た道とは違い、歩道も含めてかなり広くなった。着物に防寒服を羽織った観光客たちが目立ち、大いに賑わっていた。洋服の人を探すほうが難しいくらいだ。
木造の昔ながらの建築物が、左右にズラリと立ち並んでいる。車の窓は閉めているが、濃厚な硫黄のニオイが入ってくる。脳を揺さぶる刺激的なニオイ。温泉に来たことをまざまざと思わされた。最初の十字路に差しかかる。案内標識には地名ではなく、主だった温泉旅館の名前しか表記されていない。
「ここならではの光景だね」
「一般道だったら考えられないわね」
いくつかの十字路を通り過ぎた。彗の運転する車は曲がる気配がまったくない。それもそのはずで、目指す旅館――天昇館は最奥部にあるのだ。
制限速度の関係もあるけど、それにしたってその辺に路駐している車の多さよ……。なかなか進まないし、通りづらくてかなわない。よくまあ彗はイライラしないものだ。
「お、抜けたね」
辛抱強く走り続けてようやく混雑から抜け出せた。すると、左右に展開していた建物群は消え、代わりに鬱蒼とした林が出現した。昼間にも関わらずやや薄暗く、ヘッドライトを点けなければならないほどだ。熊やら蛇やらたぬきやらの獣が出てきてもおかしくない。
「ねえ、夕季。熊とか出てきたらどうしよう」
同じことを考えていたのかコイツは。
「出てきたらじゃなくて、出て来ないようにすればいいのよ」
「そうか。じゃあ、窓を開けて音楽を流せばいいんだ!」
「バカ。それじゃ輩の車じゃないの」
窓を開け、ドゥンドゥン音を立てている黒塗りのワンボックスカーがハッキリと思い浮かぶ。完全に偏見。
「でも、襲われるよりマシじゃないか?」
「確かに……」
出ない保障はどこにもない。やられた後じゃ遅い。やられる前に対策を打っておいてもいいのかも。
「天昇館がちょっとでも見えたら、窓を閉めて音量を適正にするわよ。あらぬ誤解だけは避けたいから」
「よし、わかった。うーん、この曲にしようかな」
『淫ら淫らに ほどけていくキミの心 ボクの奥底で劣情が目を覚ます』
セクシー且つパワフルな歌声のアカペラ。歌い始めのワンフレーズが終わると、一斉に楽器隊の演奏が始まった。私が大好きな女性ロックバンドの『Purple Attract』の『One night』という曲だ。初っ端の歌詞からわかるように、とてもエロい曲だ。
だから急いでカーステレオの音量をゼロにした。
「大バカ! 昼間っからなんつーもんを流してるの! Purpleを聴くのは基本的に夜なのよ! 替えなさい!」
「好きな曲なんだけどな……」
アンタも好きならここでかける曲じゃないってわかるでしょ! 昼間っから大音量で聴く曲ではない。彗が渋々曲を変える。壮年の女性歌手が、熊殺しのマタギの悲哀を歌った演歌を選択した。
「これまたピンポイントなのが入ってたわね……」
「たまたまだよ。この曲なら熊も出て来ないね」
「人間も近づきたくないと思うけど」
道を左に折れる。すぐにやや急な上り坂が現れた。歩道などはなく、舗装されているとはいえ、少し横幅が狭い道。道路脇には少し積もった残雪。
乗っているレンタカーは、スノータイヤを履いているとはいえ、ドライバーの彗が久々の運転などの不安要素があったが一応解消された。よくよく道路の中央を見れば穴が開いており、消雪パイプ――地下水を使って雪を融かす装置。道路の凍結防止にも役立っている――がちゃんと設置されていたからだ。
「雪が少なくてよかった」
彗は安堵の息を漏らしている。久々の運転が雪道とか私なら絶対嫌だ。雪があると神経も使うし技術もいる。多少の雪でもスリップするものはする。カッコつけのために、車をぶつけたくないもん。だからある意味コイツは凄いと思う。
「さすが儲かっている温泉郷は違うわね。道幅がもうちょっと広ければ、もっとよかったのに」
「手厳しいね」
彗の口調にオイオイと言う感情が混ざっている。
「ツメが甘いのよ。お金をかけるべきところをもっと吟味するべきね。たくさんの何台のバスとすれ違ったか憶えてる? スレッスレのギリッギリだったじゃない。今まで事故がなかったのが不思議なくらい」
「狭い道のこととなると、目が厳しくなるのは変わらないね」
「当たり前じゃない。ユキはそのせいで――」
ハッと口をつぐんで彗のほうへ顔を向けた。横顔が緩んでいるように見えたから、これ以上はムカつくから言ってやらない。
「もしかして、あのときのことを思い出している?」
あのときのこととは、十年ほど前の話である。今みたいな狭い山道で、私の母が運転する自動車が、カーブの所でバスに当てられてしまったのだ。私たち母娘は無傷だったものの、彗が片足を骨折する大けがを負ってしまったのだ。それでしばらく私は、寂しい思いを――
「そそ、そんなんじゃないわよっ!」
「夕季は優しいね」
「優しくなんかない!!」
「毎日お見舞いに来てくれて、学校の話とかゲームの話とかしたよね。帰り際は泣きそうな顔になって、ボクも釣られて泣きそうになったっけ」
なんでそんなことまで憶えているのコイツ! 手玉に取られている感じがして超ムカつく。
「してないし、憶えてないわよっ!」
「お、アーチ看板が見えるね」
彗がハンドルから左手の人差し指だけ離す。イライラしながら正面を見た。
『天山温泉郷へようこそ!』と描かれたきらびやかなアーチ看板。その先に続く石畳の道。今まで通って来た道とは違い、歩道も含めてかなり広くなった。着物に防寒服を羽織った観光客たちが目立ち、大いに賑わっていた。洋服の人を探すほうが難しいくらいだ。
木造の昔ながらの建築物が、左右にズラリと立ち並んでいる。車の窓は閉めているが、濃厚な硫黄のニオイが入ってくる。脳を揺さぶる刺激的なニオイ。温泉に来たことをまざまざと思わされた。最初の十字路に差しかかる。案内標識には地名ではなく、主だった温泉旅館の名前しか表記されていない。
「ここならではの光景だね」
「一般道だったら考えられないわね」
いくつかの十字路を通り過ぎた。彗の運転する車は曲がる気配がまったくない。それもそのはずで、目指す旅館――天昇館は最奥部にあるのだ。
制限速度の関係もあるけど、それにしたってその辺に路駐している車の多さよ……。なかなか進まないし、通りづらくてかなわない。よくまあ彗はイライラしないものだ。
「お、抜けたね」
辛抱強く走り続けてようやく混雑から抜け出せた。すると、左右に展開していた建物群は消え、代わりに鬱蒼とした林が出現した。昼間にも関わらずやや薄暗く、ヘッドライトを点けなければならないほどだ。熊やら蛇やらたぬきやらの獣が出てきてもおかしくない。
「ねえ、夕季。熊とか出てきたらどうしよう」
同じことを考えていたのかコイツは。
「出てきたらじゃなくて、出て来ないようにすればいいのよ」
「そうか。じゃあ、窓を開けて音楽を流せばいいんだ!」
「バカ。それじゃ輩の車じゃないの」
窓を開け、ドゥンドゥン音を立てている黒塗りのワンボックスカーがハッキリと思い浮かぶ。完全に偏見。
「でも、襲われるよりマシじゃないか?」
「確かに……」
出ない保障はどこにもない。やられた後じゃ遅い。やられる前に対策を打っておいてもいいのかも。
「天昇館がちょっとでも見えたら、窓を閉めて音量を適正にするわよ。あらぬ誤解だけは避けたいから」
「よし、わかった。うーん、この曲にしようかな」
『淫ら淫らに ほどけていくキミの心 ボクの奥底で劣情が目を覚ます』
セクシー且つパワフルな歌声のアカペラ。歌い始めのワンフレーズが終わると、一斉に楽器隊の演奏が始まった。私が大好きな女性ロックバンドの『Purple Attract』の『One night』という曲だ。初っ端の歌詞からわかるように、とてもエロい曲だ。
だから急いでカーステレオの音量をゼロにした。
「大バカ! 昼間っからなんつーもんを流してるの! Purpleを聴くのは基本的に夜なのよ! 替えなさい!」
「好きな曲なんだけどな……」
アンタも好きならここでかける曲じゃないってわかるでしょ! 昼間っから大音量で聴く曲ではない。彗が渋々曲を変える。壮年の女性歌手が、熊殺しのマタギの悲哀を歌った演歌を選択した。
「これまたピンポイントなのが入ってたわね……」
「たまたまだよ。この曲なら熊も出て来ないね」
「人間も近づきたくないと思うけど」
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