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2章
24 仇敵には正面切って
しおりを挟む「みんな練習をやめやめ―――ッ! マウンドに集合―――ッ!」
そのまま体をグラウンドに向け、一転して大きな声でみなに呼びかける。園木が文句を言うつけ入る余地をなくすかのように。選手たちは返事をひとつし、キッチリ素早くマウンドの前に集合した。
「天下の拝藤組のみなさんが、ウチの練習を見に来てくれたわよ!」
全員が脱帽(だつぼう)して頭を下げる。対する拝藤組の面々は頭のひとつも下げない。耳を押さえつつ園木はニヤニヤしながら値踏みするような目線を流しているし、一女は底冷えするような目つきで眺めまわしている。だが、唯一お辞儀した人物がいた。つんと腕を組んでそっぽを向いている生名茜の隣に寄り添うようにいて、そわそわした様子の真鍋葵である。
――ふたりとも、らしいわね。
元の世界で生名茜と真鍋葵がどんな人物か知っている坂戸は懐かしい気持ちになった。若い茜は生意気真っ盛りで、礼儀正しい葵はあまり変わっていない。それ以外変わっていたら厄介(やっかい)極まりない。どうか不変であってほしかった。
――葵が異常なまでにそわそわしているのってやっぱり……。
我知らず茜の右腕に目が行く。元の世界でも酷使を酷使を重ねた茜は、親善試合までに肩を壊し、拝藤組から誰にも何も告げずに去ってしまっていた。それから表舞台に出てくるまで当分の時間を要した。あのときはこんなふうに拝藤組が見学に来ることがなく、茜を見たのは日本選手権が最後だったのだ。
「なーんかみんな貧弱な体をしているのよねぇ。よくあんなすぐにスタミナが切れそうな体格で、全国まで来れたもの――」
園木が動き出した途端、坂戸は手を鳴らした。
「さあ、みんな練習再開よっ!」
蜘蛛(くも)の子を散らすように選手たちは元の位置へ戻っていく。園木がその場に残った坂戸に詰め寄った。
「何よ。アタクシがあんな小汚い芋娘(いもむすめ)たちに何かすると思って?」
坂戸は大きくうなずき、口元をほころばせ、笑っていない目を向けた。
「当然じゃない。アラフォー変態カマクソハゲタコ親父」
マウンド近くにはふたりしかいないからか、坂戸は面と向かって罵倒した。
「な、な、なッ……!」
顔が瞬時にゆでダコのように赤くなり、口をパクつかせる。言い返したいがとっさに言葉が出てこないみたいだ。
「拝藤はもちろん、アンタにも痛い目を見てもらわないとね。私が受けた恨みつらみ屈辱はこんなもんじゃないよ」
並々ならぬ迫力に圧されて顔から血が引いた園木は、背中に悪寒を覚えつつも聞かずにはいられなかった。
「アタクシたちが何をしたって言うの」
「今は何もしていないと断言したいところだけど、実際は何かされている最中かもしれない。所詮(しょせん)、操られる駒のひとつであるアンタにはわからないことよ」
「さてはアンタ、陰謀論者? バカバカしい。バカと話してるとこっちの頭もイカレてしまいそうになるわ」
「元々イカレてるじゃない」
「何よッ」
園木がさらに詰め寄ろうとした途端、背後から短い悲鳴のような声が聞こえた。
どこから湧いて出たのか佳澄が葵に抱き着いていた。
「何してんのよ!」「何してんだよ!」
園木と葵の隣にいた茜が同時に叫んだ。
「その娘(こ)はアメリカ人と日本人のハーフだから距離が近いの。許してあげて」
坂戸が困ったように真面目くさったも口調で言った。もちろん大嘘である。
「ちょっと、アタクシは近づこうとしただけでダメで、あの娘はいいの!?」
「アンタは野郎で、あの娘(こ)は女。そんな簡単なことも理解できないの? 馬鹿なんじゃない」
「馬鹿はアンタよ。同性間でもセクハラはあるの!」
「ハアァ? ハーフだからスキンシップが人より強めなだけよ。よく見てみなさい、ハグしてるだけでしょ。下心の微塵(みじん)のかけらもない、純粋に純粋を重ねた清(きよ)い光景じゃないの。ハグされた真鍋さんが嫌がっているように見える?」
「見えないけど、隣の生名が怒り心頭よッ」
「おい、いい加減にしろよ! 葵もいつまでそのままでいるんだ、さっさと離れろ!」
今にも吠えかかりそうな自分を精いっぱい抑えているらしく、茜は小刻(こきざ)みに震えている。
「う、うん。ごめんね、茜ちゃん。佳澄さん、離れてもらってもいいかな?」
素直にパッと離れ、佳澄は大仰(おおぎょう)な仕草で残念がる。
「アーララー、残念だネー。んじゃ、次はお隣さんネ」
わざとらしいカタコトである。
「私はいい」
茜が言い終わった瞬間には佳澄はハグをしていた。
「っ!?」
「さすが社会人でも有数なエースなだけありますネー。体つきがしっかりしてマース。でもでも、肩の張りが気になりますネー」
「やめろッ」
茜が佳澄を引きはがす。
「オーウ、クールなニッポンジンもいるんですネー」
「あまり他人に体を触れてほしくない」
「ナールホド。ソーリーソーリー、タガワソーリー」
適当な謝罪を言い残し、佳澄は最後の獲物に飛びついた。
一女は175センチもあり、佳澄は155センチメートル弱。ちょうど一女が佳澄を胸の辺りでしっかり抱き留めた。
ちゃんと抱き返してきて嬉しかったのも束(つか)の間、本能的に底知れぬ恐怖に似たものを感じ取った。佳澄はよく鼻が利き、特に人のにおいを嗅ぐことが好きなちょっと変わった人間である。彼女独自の人の判断材料に、匂いの良し悪しが重んじられる。しかし一女から今、ムスク系で強めの香りの香水とはほかに、嗅(か)いだことのないニオイがわずかにした。それは佳澄だからわかったニオイだった。
一女が右手を佳澄の頭の後ろに回してくる。これで簡単に逃れらなくなってしまった。
「あなた……とてもかわいいですのね」
耳をくすぐるささやきに、佳澄の身の毛がよだつ。美人で善人ならともかく、さすがの佳澄も善悪の定かではない人間の近くにはいたくない。身をよじって離れようとするが、背中に回された一女の左腕の力が徐々に込められてきた。
「今おいくつ?」
童顔の佳澄は年齢より若く見られることが多い。一応今年で26歳になり、のちの言葉でいうアラサーでなおかつ既婚者なのだが、シワやシミがさっぱりない子どものような綺麗な顔をしている。
後頭部にある手が優しく動く。撫でられながら佳澄はどうやってこの場から逃げようか思考を巡らす。しかし早々案が出てくるわけがない。危険のシグナルが絶えず点滅し続けている。だが、この状況に身をゆだねてもいいと思う自分もいたりして、徐々に抵抗する力が失われてきた。一女の絶妙な手つきが逃げようとする意思を奪っているのだ。危険な香りがする人間ではある。そうではあるが、佳澄はそのニオイに惹かれつつあった。
「萩野、社長がお見えになった。そのへんにしときなさい」
園木が白々とした顔で言い放つ。
バックネット横からネイビースーツに臙脂(えんじ)色のネクタイを締め、白髪交じりの髪をポマードでオールバックの男――拝藤富士夫が、約束の時間を20分も遅れて悠々とした足取りでやってきた。後ろには懇意(こんい)にしているマスコミ連中が鈴なりに続いてくる。
拝藤の姿を認めた一女の腕の力が弱まる。浸食されきってなかった佳澄の脳の回路が活発になり、腕を潜り抜けすかさず脱兎(だっと)のごとく逃げ出した。一女は気にも留めず拝藤に最敬礼する。ほかの拝藤組の面々も遅れじと最敬礼した。
――こいつらは最敬礼の意味を知ってやってんのかね。拝藤組にいれば、この腐れ外道が高貴な人間に見えるのか。バカバカしい。
拝藤は軽く手を上げて応えただけで、言葉がけはしなかった。口元に笑みをたたえて坂戸のいるマウンド前までやってくる。
「失せろ」
「はい、失礼いたします」
拝藤の獣の唸り声に似たひと言で、園木は身を縮めて去っていく。坂戸と拝藤のふたりだけの対峙となった。一応役割は違えど、トップ同士のツーショットである。絵的にも映(は)えるからか新後側と拝藤側のマスコミたちがカメラのシャッターを一斉に切り始め、何台ものテレビカメラが回り出した。
「返事をお受けしに来ましたぞ」
拝藤がスッと手を差し出してきた。不気味なほどの笑顔である。元の世界では見たこともないような、まるで獲物を前に上機嫌で喰らわんとする猛獣だ。思わず悪寒が体を奔った。裏でも闇でもあるんじゃないかと疑いたくなる。実際、裏や闇だらけなのだろうが、さらにこちらも予想がつかないような裏や闇が、手をこまねいている気がしてならない。
いざ本人を目の前にして坂戸の胆力は溶かされつつあった。やはり、大手ゼネコンの一角の会社の長だけある。修羅場を潜ってきた経験が段違いだろうし、得も言われぬ見えない力――守護霊や背後霊の類(たぐい)――が働いているに思えた。それでも、強気なビデオレターを送ったからには、余裕を見せなければならない。
「ありがとうございます」
拝藤の手を強く握り返す。固い握手に周りがどよめく。シャッターやストロボがより一層激しくたかれ、ロクに目も開けていられないぐらいだ。
「僭越(せんえつ)ながら我が野球部も何かと様々なチームとの試合で忙しくてですな。こちらが親善試合の日程を指定してもよいですか」
社会的な立場は上だろうが、拝藤組が公式試合で負けたのは事実である。モノを言える立場では決してないが、へりくだりながらも図々しげに先に聞いてきた。しかもビデオレターの内容にはまったく触れてこない。口調も柔らかでとても拝藤富士夫本人なのかと疑いたくなる。
「いつになりますか?」
「12月12日の日曜日でよろしいですかな」
とりあえず心の中で安堵のため息をつく。最近思いついた策を、実行に移して結果が出るのに多少の時間がかかるのである。2週間もあればどうとでもなりそうだ。念のため頭の中でスケジュール帳を開く。何も予定がなく、坂戸としても新後アイリスとしても都合のいい日だった。
「こちらもその日で大丈夫です」
「では、決まりですかな」
拝藤が屈託なく笑い、踵(きびす)を返そうとした。
「あのー、拝藤さん。もうひとりの秘書がいませんね」
てっきり拝藤に付きっ切りだと思っていた秘書の五月(さつき)瑞加(ずいか)の姿が見当たらないことに、坂戸は胸騒ぎを覚えていた。何しろ元の世界では性別を偽り、日本選手権後に行われた親善試合で、野球において新後アイリスに引導(いんどう)を渡した拝藤の次に憎い人物だ。どこかで暗躍(あんやく)している可能性も考えられる。危険分子を野放しにされていては堪ったものではない。
「今は暇(いとま)を出してる最中だ」
吐き捨てるように言った拝藤の表情からは笑みが消え失せていた。
「どちらのほうへ?」
「君には関係なかろう」
冷たく突き放し、拝藤は引き連れてきたマスコミたちのもとへ帰ろうとする。まだ話が終わっていない坂戸は足を引き留めるべく、思い切って爆弾を落とした。
「海外――タイに行ってるんじゃないですか」
「だったらどうする」
肩越しに振り返った拝藤の眼はもはや慇懃さのかけらもなく、獲物に襲いかかる寸前の猛獣そのものである。坂戸はひるまず、声のトーンを落として言った。
「昔じゃあるまいし、今時分に宦官(かんがん)がいるなんて知れたら、あなたの飼っている奴らの餌食(えじき)ですよ」
「無礼なッ!」
再び坂戸と対峙した拝藤は大喝(たいかつ)する。
「王に近侍(きんじ)する人間は大変ですね」
「何を根拠に申しておるか、わかっているのか!」
「ムキになられるということは、本当におられる、と」
「そんなもんおらん。悪趣味も甚(はなは)だしい。なんのメリットがあるか言うてみいッ!」
「お断りいたします」
「何ッ」
拝藤が目を剥(む)いた。
「私はあなたの部下でもなんでもありませんので。戯(ざ)れ言(ごと)にムキになるお方に助言や提言をしても、何ひとつとして聞き入られないでしょうから」
冷静に流し続ける坂戸に、拝藤の腸(はらわた)が煮えくり返った。だが、マスコミたちや拝藤組の面々、さらに新後アイリスの選手たちのいる前で怒り狂ってもいいことなどひとつもない。醜態(しゅうたい)を世に曝(さら)すだけだ。それに気づいた拝藤は冷静さを急速に取り戻し、放言(ほうげん)を狙っているであろう目の前の中年女に悪態をついた。
「クソババアが」
「ババアで結構でございます」
飄然(ひょうぜん)とした言い方に怒りが再熱しかけたが、歯を軋(きし)らせて踵を返すと、憤然(ふんぜん)とした足取りでグラウンドから去っていく。拝藤組の面々も慌てて後を追っていった。
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