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第二章 第四節
黒雲
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明空はぱちりと目を覚ました。思った通り夜明け前で、辺りはまだ暗い。そっと起き上がり、鳶飛を起こさないよう静かに身支度する。息を殺して部屋の襖を開け、出る間際にちらりと鳶飛の方を振り返ると、彼はまだ固く目を閉じたまま熟睡していた。
(ふう。あいつが朝弱くて助かった。)
完全無欠のように思えた鳶飛だったが、一緒に旅をする中で見えてきたこともある。その一つが、彼は案外朝が苦手ということだった。早朝修行で早起きに慣れている明空と違って、鳶飛は起きるのが遅いばかりか、朝方は少し動きが鈍い。それを狙って、明空はある事をしようと昨晩から密かに策を練っていたのだ。明空の企み――それは、早朝に物乞いたちの見回りをしようということだった。昨日、護符をあげた少年に礼を述べられたとき、彼の頭にふとこの考えがひらめいたのだ。
(今まで見た限り、物乞いたちが集まる場所は邪気が溜まっていることが多い。きっと彼らの心の荒みにひかれてそういうものが集まるんだろうな。邪気が溜まってくると体の調子も悪くなるだけじゃない、悪霊なんかも引き寄せやすくなる。そんなのに憑かれたら自力では正気の人間には戻れなくなってしまう。俺は鳶飛みたいな法術は使えないけど、それでも忠清寺で魔除けや清めの術はしっかり身につけてきたんだ。俺の法術で、助けられる人もいるはず。俺にだって、できることがあるんだ。)
明空はそう自分に言い聞かせ宿を出た。通りに人の姿はなく、提灯や家々の灯りも消えている。日中の喧噪からは想像もできないほどうら寂しいその様子に、彼は思わず身震いした。
(あんまり遠くに行くと俺が戻る前に鳶飛が起きちゃうかもしれない。かといって近すぎても鳶飛に見つかるかもしれないし…。うーん、取りあえず隣の通りを見に行ってみるか。)
月明かりを頼りに隣の通りまで来てみると、思った通り、店先や家屋の間の路地裏に、くしゃくしゃに丸められたぼろ雑巾のように縮こまっている人の姿がちらほらと見えた。明空は道の真ん中に立つと、人差し指と中指をこめかみに当て、目を閉じて一番邪気の濃いところを探しはじめた。少し先の、魚屋の脇にある細い路地に、とりわけ強い邪気を感じる。明空はその路地の入り口まで来ると、用心しながら闇の中に目を凝らした。
(空気が重い…。かなりの邪気がここに溜まってるんだ。)
路地裏の暗闇に目が慣れてくると、奥の方に誰かが壁にもたれて座り込んでいるのが見えてきた。
(一人…女…?女だ。ん?腕に何か抱えて…)
明空の目に映ったのは、つぎはぎだらけの着物を着た青白い顔の女と、その腕に抱かれた、黒っぽい小さな塊――赤ん坊だった。
(この赤ん坊、死んでる…。)
そのやせこけた子どもは、息を引き取って数日になるのか、全身が変色し、肉が腐ったようなひどい匂いが漂ってくる。母親のほうからは辛うじて精気が感じられたが、明空が近くに来ても、虚ろな目で赤ん坊を大事そうにしっかりと腕に抱えたまま死んだようにぴくりとも動かない。
(埋葬されていない人間は大抵邪気を放つものだけど、この赤ん坊は特にすごいな…。どんな死に方をしたんだ。このままだと悪霊になってしまう。母親の悲嘆も合わさって、この路地全体が強い邪気に満たされてる。こんなに強いと、ほかの悪霊まで引き寄せかねないし、そうなったら母親も悪霊に乗っ取られてしまうかも…。早くここを清めないと。)
この場に漂う邪気の分厚さは相当なものなので、常人が護符など持たずにこの路地に一歩でも踏み込めば、途端に気を失うか、少なくとも立っていられなくなるだろう。しかし忠清寺で十数年清めや魔除けの修行を積んできた明空にとっては何も問題なかった。
(本当は火を焚いて本格的な祈祷をしないとすべての邪気は払えないけど、あの赤ん坊を埋葬して、母親の周りだけでも邪気を払えばかなりましになるはず。少なくともあの母親が悪霊に憑かれることはなくなるな。)
明空は母親の前に屈み込んだ。普段の明空ならば、女を前にしただけで全身が緊張でこわばってしまうのだが、使命感に燃える今の彼には、助けようとしている目の前の人間の性別などどうでもよかった。
「あの、大丈夫ですか。」
そっと母親の肩を叩いて言うと、彼女は皺だらけの顔を上げ、ゆっくりとその落ちくぼんだ目を彼に向けた。
「ん…。誰だい、あんた。」
「ここは邪気が濃すぎます。このままではあなたの身が危ない。まずはその子を埋葬しましょう、このままでは悪霊になってしまいますから。」
「あ…悪霊?何言ってんだいあんた。この子は…この子は悪霊なんかじゃないよ!この子は…まだ…!」
女は隠すように赤ん坊を胸にひしと抱き寄せた。明空はその様子をじっと見ていたが、静かな声で言った。
「お母さん、この子を見てください。」
「なっ、何だい、あんた。あっち行ってくれよ。関係ないだろ。」
「よく見てください。」
明空の強い口調におされ、母親は腕の中の子どもを見下ろした。皮膚は黒紫色に変色し、腹は膨れ、微かに開いた口の隙間には、漏れ出た血が乾いてこびりついている。その哀れな姿に、母親の目から涙がどっと溢れ出てきた。
「あああぁっ…!あっ、うぅっ…ごめんね、ごめんね…あたし…うっ、うぅ…」
母親は赤ん坊の小さな額に顔をすり寄せ、泣きながらひたすらに許しを乞いはじめた。
「…今この子にしてあげられる最善のことは、埋葬してあげることです。ね、お母さん、どこか…」
「あたしのせいなんだ!あたしが殺したんだよ、この子を!あああぁっ…!うっ…この子を身ごもってから、育てられないって分かってたんだよ、あたしはこんなだし…それで、この子を産むときに、あたし…あたし…!」
母親は明空の懐に掴みかかると、顔をしわくちゃにしてわんわん泣き出した。彼女のほうから、ぷぅんと物乞い独特の鼻を刺すような異臭が漂ってくる。明空は、じわじわと肩の辺りが涙で濡れてくるのを感じていた。その悲痛な泣き声を聞いていると、明空まで胸のあたりがひりひりと痛くなってくる。
「あなたは悪くないですよ、お母さん…。きっと、この子のために最善だと思うことを精一杯したんでしょう?さぁ、もういいから、最後にこの子に出来ることをしましょう。少し私にこの子を貸してくれますか。」
母親は戸惑ったように顔を上げたが、明空に優しいまなざしで見つめられ、しばらく躊躇った後、そろそろと子どもを手渡した。明空は赤ん坊を抱きかかえると、懐から護符を取り出し、その額にぺたりと貼りつけ、手巾で全身をくるんだ。
「お母さん、そこに穴を掘ってくれますか。」
明空は母親が座り込んでいたところを指さした。母親は言われるまま手で穴を掘りはじめ、穴が十分な深さになると、明空は布にくるんだ赤子をその中へ置いた。
「何か最後に、かける言葉はありますか。」
「え…あ…あぁっ…ごめんね、ごめんねぇ…母ちゃん、お前をちゃんと育ててやれなくて…」
母親はむせび泣きながら、地面に両手をついてただただ赤ん坊に謝り続けている。明空は、母親の横で両手を合わせて清めの手印を作ると、ぶつぶつと口の中で呪文を唱えた。すると、赤ん坊を覆っていた邪気がみるみる薄くなり、あっという間に消えていった。
土を被せ終わるころには、路地全体を覆っていた分厚い邪気もかなり薄くなっていた。母親はやつれた顔をしてはいたが、明空が最初に見たときに比べると少し顔色が良くなっている。
「これできちんと埋葬ができましたから、あなたのお子さんが今後悪霊になることは絶対にありません。それと、万が一のためにこれを。」
そういうと、明空は懐から先ほど赤ん坊の額に貼ったものと同じ護符を母親に手渡した。
「魔除けの護符です。こういう所は邪気が溜まりやすいですが、これがあればきっとあなたを守ってくれます。」
母親は驚いた顔で手の中の護符をじっと見た。
「それでは私はもう行きますが、どうかこの子のためにも、元気で生きてくださいね。」
「ま、待って!」
女は、立ち去ろうとした明空の腕をがしりとつかんで引き留めた。
「あ…その…何か、何かお礼を…」
「いえ、それには及びません。私が勝手にやったことですから。それに、埋葬と言っても、きちんとしたお墓を用意できたわけでもないですし。」
「え…でもそんな…!」
「本当にいいですから。どうしてもと言うなら、さっきも言いましたがその子のために元気に生きてください。それが俺への礼にもなります。」
驚いて大きく見開かれた女の目から、涙がぽろぽろと溢れ出した。
「あ…ありがとうございます…!」
明空はにこりと母親に向かってほほ笑むと、くるりと踵を返し、細い路地を後にした。
日の出が近づき、辺りが明るみはじめたころ、明空は宿に戻った。そろりそろりと足音を忍ばせ階段をのぼり、少しずつゆっくりと部屋の戸を開ける。恐る恐る中を覗くと、鳶飛はまだぐっすり眠っていた。
(あぁ、よかったぁ…。昨日あんなに怒られたのに、一人で物乞いの見回りなんてしてるってばれたらどうなるか。とにかくまだ寝ててくれて本っ当によかった。)
明空は安堵の溜め息をついた。そのまま息を殺して部屋へ入ると、そっと鳶飛の布団に近づきその様子を見下ろした。彼は硬く目を閉じ、すやすやと安らかな寝息を立てている。
(なぁんだ。こんなに良く寝てるなら、もうちょっと見回り続けてたらよかったな。いつ鳶飛が起きるかと思って冷や冷やしてたからすぐ帰ってきちゃったけど、明日はもっと早く起きて、出来るだけ色んな所を見回るか。)
最初に見つけた母親と赤ん坊を助けたあとは、明空はその周辺を見回り、特に邪気の濃かった場所を数ヵ所清め、その場にいた物乞いたちに護符を手渡してきたのだ。明空が邪気を祓った途端、彼らの顔色は格段に良くなり、護符を受け取った者たちは皆薄汚れた手で明空の手をひしと握り、顔をしわくちゃにしながら彼に感謝を述べた。
(いっつも鳶飛に助けられてばっかりの俺にも、やっぱりちゃんと出来ることあったんだよ。祓いや護符とか、ずっと修行ばかりしてきた俺にとっては何でもないことだけど、それで少しでもあの人たちの役に立てるなら、俺も嬉しいや。というかそもそも、こういう事のために修行してきたんだよな。寺では修行はただ上の位にのぼり詰めるための手段になってたけど。)
明空は腰をかがめて、鳶飛の寝顔をじっと見つめた。鳶色のふさふさした長い睫毛、凛々しい眉、すらりと通った鼻筋、滑らかな淡褐色の肌。呼吸に合わせて、その細く逞しい体が微かに上下している。
(寝てても綺麗な顔だな。あーあ、こいつといると、つくづく自分がちっぽけに思えるよ。眉目秀麗、体も俺よりずっと大きくて逞しいし、頭は切れるし、法術にも優れていて、こいつがいれば何だって解決するんだもん。俺たまに自分が情けなくなるよ。性格だって…最初は無口だし表情も乏しいから無愛想なやつだと思ってたけど、本当はいつも俺のこと気にかけてくれてるし、すごく優しいんだよな。せめてこいつがめちゃくちゃ嫌なやつだったらよかったのに。はぁ…俺も面倒なやつについてきちゃったよ。)
鳶飛のことは、とてもいい奴だと思っている。人として尊敬できるし、もしかしたら初めてできた友と呼べる存在なのかもしれない。しかし同時に、彼という存在が放つ輝きはあまりに強すぎて、目がくらみそうになるときがある。太陽の前には蝋燭の灯など消えたも同然なように、鳶飛といると、自分がどれだけ卑小な存在か思い知らされるのだ。彼を知れば知るほど、その秀逸さや意外な優しさに惹かれる一方、言いようのない焦りのような、恐怖のようなものもいつも感じてしまう。
(もしかしたら、忠清寺のほかの薄紫ノ僧たちも、俺に対してこんな気持ちを抱いてたのかな。)
そんなことを考えながらぼんやりと鳶飛の寝顔を眺めているうちに、ふいに明空の心にいたずら心がむくむくと湧いてきた。なぜか鳶飛の寝顔をつついてみたいという衝動に駆られたのだ。明空はどきどきしながらそっと人差し指を突き出し、彼の薄い頬をちょんとつついた。起こしたのではないかと恐くなりすぐに指を引っ込めたが、鳶飛は一向に目覚める気配がない。相変わらずすやすやと寝息を立てている。明空は、しめたとばかりににやりとほくそ笑むと、鳶飛の鼻先や瞼、顎などを調子に乗ってつつきはじめた。
(全然起きないな。)
明空は次に鳶飛の薄桃色の唇をつついた。指先のそれは思っていたよりずっと柔らかく弾力がある。
(ふふっ、ふにふにだ。)
明空は何だか楽しくなってきて、こみ上げてくる笑いを抑えながら、鳶飛の下唇をつまむとぎゅっと引っ張った。
「鳶飛ー、おはよう。朝だぞ。」
「…んぁ…」
「ほら、早く出ないと道が混むって言ったのお前だろ。起きろー。」
明空は最後に思い切り彼の唇を引っ張ると、ぱっと放した。
「ん…。おはよう…。」
このひどい起こした方に気づいているのかいないのか、鳶飛は黙ってむくりと起き上がると、目をこすりながら厠へと出て行った。
二人は宿を出ると、早朝でまだ人通りの少ない道を並んで歩いていた。
「なぁ鳶飛、思ってたんだけどさ、俺と会ったばかりの頃の方が寝起き良かったよな?いつも俺より早く起きてたし、起きた瞬間に難しい術でも使えそうなくらいばっちり目覚めてたし。それが今はどうしたんだ?俺に毎朝起こされたりしてさ。」
「…お前の気配に慣れただけだ。」
「どういう意味?」
「俺は寝ているときに知らない気配を感じたら起きるんだ。もうそうなっているんだよ、体が。最初の頃はお前の気配に慣れていなかったから、お前が寝返りなんか打ってこっちに近づいてくる度すぐ目が覚めたが、今はもうお前の気配がどんなものか覚えたし、別に警戒する必要がなくなった。それだけだ。」
「お、じゃあそれって、お前が俺に今は心開いてるってことか?」
明空はにやにやしながらきき返した。
「好きなように解釈しろ。」
鳶飛は呆れたようにふいとそっぽを向いた。
「あ~でも、あんまり油断しない方がいいかもよ?今日俺がどうやってお前のこと起こしたか知ってる?」
相変わらずにやにやしながら言う明空を横目でちらりと見ると、鳶飛は素早く手を伸ばし、無言で彼の下唇を思い切りつまんだ。
「いとぅぇっ!うぉいっ、えん…」
「警戒はしていないが、お前の気配を感じないわけじゃない。さ、まだ道が空いているうちに出来るだけ進むぞ。」
鳶飛はそう言うと、明空の唇をつまんだまま足を速めた。
「ふぁなせってっ!」
明空は、顔をぶんぶん左右に振ってやっとのことで鳶飛の手を振り払うと、文句を言いつつも、その背中を追いかけた。
(ふう。あいつが朝弱くて助かった。)
完全無欠のように思えた鳶飛だったが、一緒に旅をする中で見えてきたこともある。その一つが、彼は案外朝が苦手ということだった。早朝修行で早起きに慣れている明空と違って、鳶飛は起きるのが遅いばかりか、朝方は少し動きが鈍い。それを狙って、明空はある事をしようと昨晩から密かに策を練っていたのだ。明空の企み――それは、早朝に物乞いたちの見回りをしようということだった。昨日、護符をあげた少年に礼を述べられたとき、彼の頭にふとこの考えがひらめいたのだ。
(今まで見た限り、物乞いたちが集まる場所は邪気が溜まっていることが多い。きっと彼らの心の荒みにひかれてそういうものが集まるんだろうな。邪気が溜まってくると体の調子も悪くなるだけじゃない、悪霊なんかも引き寄せやすくなる。そんなのに憑かれたら自力では正気の人間には戻れなくなってしまう。俺は鳶飛みたいな法術は使えないけど、それでも忠清寺で魔除けや清めの術はしっかり身につけてきたんだ。俺の法術で、助けられる人もいるはず。俺にだって、できることがあるんだ。)
明空はそう自分に言い聞かせ宿を出た。通りに人の姿はなく、提灯や家々の灯りも消えている。日中の喧噪からは想像もできないほどうら寂しいその様子に、彼は思わず身震いした。
(あんまり遠くに行くと俺が戻る前に鳶飛が起きちゃうかもしれない。かといって近すぎても鳶飛に見つかるかもしれないし…。うーん、取りあえず隣の通りを見に行ってみるか。)
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(空気が重い…。かなりの邪気がここに溜まってるんだ。)
路地裏の暗闇に目が慣れてくると、奥の方に誰かが壁にもたれて座り込んでいるのが見えてきた。
(一人…女…?女だ。ん?腕に何か抱えて…)
明空の目に映ったのは、つぎはぎだらけの着物を着た青白い顔の女と、その腕に抱かれた、黒っぽい小さな塊――赤ん坊だった。
(この赤ん坊、死んでる…。)
そのやせこけた子どもは、息を引き取って数日になるのか、全身が変色し、肉が腐ったようなひどい匂いが漂ってくる。母親のほうからは辛うじて精気が感じられたが、明空が近くに来ても、虚ろな目で赤ん坊を大事そうにしっかりと腕に抱えたまま死んだようにぴくりとも動かない。
(埋葬されていない人間は大抵邪気を放つものだけど、この赤ん坊は特にすごいな…。どんな死に方をしたんだ。このままだと悪霊になってしまう。母親の悲嘆も合わさって、この路地全体が強い邪気に満たされてる。こんなに強いと、ほかの悪霊まで引き寄せかねないし、そうなったら母親も悪霊に乗っ取られてしまうかも…。早くここを清めないと。)
この場に漂う邪気の分厚さは相当なものなので、常人が護符など持たずにこの路地に一歩でも踏み込めば、途端に気を失うか、少なくとも立っていられなくなるだろう。しかし忠清寺で十数年清めや魔除けの修行を積んできた明空にとっては何も問題なかった。
(本当は火を焚いて本格的な祈祷をしないとすべての邪気は払えないけど、あの赤ん坊を埋葬して、母親の周りだけでも邪気を払えばかなりましになるはず。少なくともあの母親が悪霊に憑かれることはなくなるな。)
明空は母親の前に屈み込んだ。普段の明空ならば、女を前にしただけで全身が緊張でこわばってしまうのだが、使命感に燃える今の彼には、助けようとしている目の前の人間の性別などどうでもよかった。
「あの、大丈夫ですか。」
そっと母親の肩を叩いて言うと、彼女は皺だらけの顔を上げ、ゆっくりとその落ちくぼんだ目を彼に向けた。
「ん…。誰だい、あんた。」
「ここは邪気が濃すぎます。このままではあなたの身が危ない。まずはその子を埋葬しましょう、このままでは悪霊になってしまいますから。」
「あ…悪霊?何言ってんだいあんた。この子は…この子は悪霊なんかじゃないよ!この子は…まだ…!」
女は隠すように赤ん坊を胸にひしと抱き寄せた。明空はその様子をじっと見ていたが、静かな声で言った。
「お母さん、この子を見てください。」
「なっ、何だい、あんた。あっち行ってくれよ。関係ないだろ。」
「よく見てください。」
明空の強い口調におされ、母親は腕の中の子どもを見下ろした。皮膚は黒紫色に変色し、腹は膨れ、微かに開いた口の隙間には、漏れ出た血が乾いてこびりついている。その哀れな姿に、母親の目から涙がどっと溢れ出てきた。
「あああぁっ…!あっ、うぅっ…ごめんね、ごめんね…あたし…うっ、うぅ…」
母親は赤ん坊の小さな額に顔をすり寄せ、泣きながらひたすらに許しを乞いはじめた。
「…今この子にしてあげられる最善のことは、埋葬してあげることです。ね、お母さん、どこか…」
「あたしのせいなんだ!あたしが殺したんだよ、この子を!あああぁっ…!うっ…この子を身ごもってから、育てられないって分かってたんだよ、あたしはこんなだし…それで、この子を産むときに、あたし…あたし…!」
母親は明空の懐に掴みかかると、顔をしわくちゃにしてわんわん泣き出した。彼女のほうから、ぷぅんと物乞い独特の鼻を刺すような異臭が漂ってくる。明空は、じわじわと肩の辺りが涙で濡れてくるのを感じていた。その悲痛な泣き声を聞いていると、明空まで胸のあたりがひりひりと痛くなってくる。
「あなたは悪くないですよ、お母さん…。きっと、この子のために最善だと思うことを精一杯したんでしょう?さぁ、もういいから、最後にこの子に出来ることをしましょう。少し私にこの子を貸してくれますか。」
母親は戸惑ったように顔を上げたが、明空に優しいまなざしで見つめられ、しばらく躊躇った後、そろそろと子どもを手渡した。明空は赤ん坊を抱きかかえると、懐から護符を取り出し、その額にぺたりと貼りつけ、手巾で全身をくるんだ。
「お母さん、そこに穴を掘ってくれますか。」
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「何か最後に、かける言葉はありますか。」
「え…あ…あぁっ…ごめんね、ごめんねぇ…母ちゃん、お前をちゃんと育ててやれなくて…」
母親はむせび泣きながら、地面に両手をついてただただ赤ん坊に謝り続けている。明空は、母親の横で両手を合わせて清めの手印を作ると、ぶつぶつと口の中で呪文を唱えた。すると、赤ん坊を覆っていた邪気がみるみる薄くなり、あっという間に消えていった。
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「これできちんと埋葬ができましたから、あなたのお子さんが今後悪霊になることは絶対にありません。それと、万が一のためにこれを。」
そういうと、明空は懐から先ほど赤ん坊の額に貼ったものと同じ護符を母親に手渡した。
「魔除けの護符です。こういう所は邪気が溜まりやすいですが、これがあればきっとあなたを守ってくれます。」
母親は驚いた顔で手の中の護符をじっと見た。
「それでは私はもう行きますが、どうかこの子のためにも、元気で生きてくださいね。」
「ま、待って!」
女は、立ち去ろうとした明空の腕をがしりとつかんで引き留めた。
「あ…その…何か、何かお礼を…」
「いえ、それには及びません。私が勝手にやったことですから。それに、埋葬と言っても、きちんとしたお墓を用意できたわけでもないですし。」
「え…でもそんな…!」
「本当にいいですから。どうしてもと言うなら、さっきも言いましたがその子のために元気に生きてください。それが俺への礼にもなります。」
驚いて大きく見開かれた女の目から、涙がぽろぽろと溢れ出した。
「あ…ありがとうございます…!」
明空はにこりと母親に向かってほほ笑むと、くるりと踵を返し、細い路地を後にした。
日の出が近づき、辺りが明るみはじめたころ、明空は宿に戻った。そろりそろりと足音を忍ばせ階段をのぼり、少しずつゆっくりと部屋の戸を開ける。恐る恐る中を覗くと、鳶飛はまだぐっすり眠っていた。
(あぁ、よかったぁ…。昨日あんなに怒られたのに、一人で物乞いの見回りなんてしてるってばれたらどうなるか。とにかくまだ寝ててくれて本っ当によかった。)
明空は安堵の溜め息をついた。そのまま息を殺して部屋へ入ると、そっと鳶飛の布団に近づきその様子を見下ろした。彼は硬く目を閉じ、すやすやと安らかな寝息を立てている。
(なぁんだ。こんなに良く寝てるなら、もうちょっと見回り続けてたらよかったな。いつ鳶飛が起きるかと思って冷や冷やしてたからすぐ帰ってきちゃったけど、明日はもっと早く起きて、出来るだけ色んな所を見回るか。)
最初に見つけた母親と赤ん坊を助けたあとは、明空はその周辺を見回り、特に邪気の濃かった場所を数ヵ所清め、その場にいた物乞いたちに護符を手渡してきたのだ。明空が邪気を祓った途端、彼らの顔色は格段に良くなり、護符を受け取った者たちは皆薄汚れた手で明空の手をひしと握り、顔をしわくちゃにしながら彼に感謝を述べた。
(いっつも鳶飛に助けられてばっかりの俺にも、やっぱりちゃんと出来ることあったんだよ。祓いや護符とか、ずっと修行ばかりしてきた俺にとっては何でもないことだけど、それで少しでもあの人たちの役に立てるなら、俺も嬉しいや。というかそもそも、こういう事のために修行してきたんだよな。寺では修行はただ上の位にのぼり詰めるための手段になってたけど。)
明空は腰をかがめて、鳶飛の寝顔をじっと見つめた。鳶色のふさふさした長い睫毛、凛々しい眉、すらりと通った鼻筋、滑らかな淡褐色の肌。呼吸に合わせて、その細く逞しい体が微かに上下している。
(寝てても綺麗な顔だな。あーあ、こいつといると、つくづく自分がちっぽけに思えるよ。眉目秀麗、体も俺よりずっと大きくて逞しいし、頭は切れるし、法術にも優れていて、こいつがいれば何だって解決するんだもん。俺たまに自分が情けなくなるよ。性格だって…最初は無口だし表情も乏しいから無愛想なやつだと思ってたけど、本当はいつも俺のこと気にかけてくれてるし、すごく優しいんだよな。せめてこいつがめちゃくちゃ嫌なやつだったらよかったのに。はぁ…俺も面倒なやつについてきちゃったよ。)
鳶飛のことは、とてもいい奴だと思っている。人として尊敬できるし、もしかしたら初めてできた友と呼べる存在なのかもしれない。しかし同時に、彼という存在が放つ輝きはあまりに強すぎて、目がくらみそうになるときがある。太陽の前には蝋燭の灯など消えたも同然なように、鳶飛といると、自分がどれだけ卑小な存在か思い知らされるのだ。彼を知れば知るほど、その秀逸さや意外な優しさに惹かれる一方、言いようのない焦りのような、恐怖のようなものもいつも感じてしまう。
(もしかしたら、忠清寺のほかの薄紫ノ僧たちも、俺に対してこんな気持ちを抱いてたのかな。)
そんなことを考えながらぼんやりと鳶飛の寝顔を眺めているうちに、ふいに明空の心にいたずら心がむくむくと湧いてきた。なぜか鳶飛の寝顔をつついてみたいという衝動に駆られたのだ。明空はどきどきしながらそっと人差し指を突き出し、彼の薄い頬をちょんとつついた。起こしたのではないかと恐くなりすぐに指を引っ込めたが、鳶飛は一向に目覚める気配がない。相変わらずすやすやと寝息を立てている。明空は、しめたとばかりににやりとほくそ笑むと、鳶飛の鼻先や瞼、顎などを調子に乗ってつつきはじめた。
(全然起きないな。)
明空は次に鳶飛の薄桃色の唇をつついた。指先のそれは思っていたよりずっと柔らかく弾力がある。
(ふふっ、ふにふにだ。)
明空は何だか楽しくなってきて、こみ上げてくる笑いを抑えながら、鳶飛の下唇をつまむとぎゅっと引っ張った。
「鳶飛ー、おはよう。朝だぞ。」
「…んぁ…」
「ほら、早く出ないと道が混むって言ったのお前だろ。起きろー。」
明空は最後に思い切り彼の唇を引っ張ると、ぱっと放した。
「ん…。おはよう…。」
このひどい起こした方に気づいているのかいないのか、鳶飛は黙ってむくりと起き上がると、目をこすりながら厠へと出て行った。
二人は宿を出ると、早朝でまだ人通りの少ない道を並んで歩いていた。
「なぁ鳶飛、思ってたんだけどさ、俺と会ったばかりの頃の方が寝起き良かったよな?いつも俺より早く起きてたし、起きた瞬間に難しい術でも使えそうなくらいばっちり目覚めてたし。それが今はどうしたんだ?俺に毎朝起こされたりしてさ。」
「…お前の気配に慣れただけだ。」
「どういう意味?」
「俺は寝ているときに知らない気配を感じたら起きるんだ。もうそうなっているんだよ、体が。最初の頃はお前の気配に慣れていなかったから、お前が寝返りなんか打ってこっちに近づいてくる度すぐ目が覚めたが、今はもうお前の気配がどんなものか覚えたし、別に警戒する必要がなくなった。それだけだ。」
「お、じゃあそれって、お前が俺に今は心開いてるってことか?」
明空はにやにやしながらきき返した。
「好きなように解釈しろ。」
鳶飛は呆れたようにふいとそっぽを向いた。
「あ~でも、あんまり油断しない方がいいかもよ?今日俺がどうやってお前のこと起こしたか知ってる?」
相変わらずにやにやしながら言う明空を横目でちらりと見ると、鳶飛は素早く手を伸ばし、無言で彼の下唇を思い切りつまんだ。
「いとぅぇっ!うぉいっ、えん…」
「警戒はしていないが、お前の気配を感じないわけじゃない。さ、まだ道が空いているうちに出来るだけ進むぞ。」
鳶飛はそう言うと、明空の唇をつまんだまま足を速めた。
「ふぁなせってっ!」
明空は、顔をぶんぶん左右に振ってやっとのことで鳶飛の手を振り払うと、文句を言いつつも、その背中を追いかけた。
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