紺碧のかなた

こだま

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第二章 第二節

極彩色 II

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 雅真ノ国は、山脈と海に囲まれた、細長い形の国だ。最高峰の水麒山すいきざんには天威皇子が療養していた離宮が、そして次に高い山である威雅山いがさんには忠清寺が居を構える。都は海と山の間にわずかに残った平地の中心部に立てられ、その周りにひしめき合うようにして商人や平民たちが暮らしている。山側に近いほど身分の高い貴族の住まいが多い。
 鳶飛と明空は、あの荒れ果てた寺を出てから半日ほど歩き、都の北の入り口である北龍門ほくりゅうもんの脇まで来ていた。
 (これ、どうやって歩くんだ…?!)
正午を過ぎた都は、門前でさえもすでに人で溢れかえっている。大声で客を呼びながら桶に入った魚を売り歩く商人、うまそうな匂いを漂わせる屋台、これでもかというほど荷を積んだ馬、もうもうと立ち上がる土煙。生まれて初めてこんなにも多くの人や物々を見た明空は何だか頭がくらくらしてきた。
 「呉服屋はすぐそこだが、絶対に俺から離れないでくれ。」
 「…わかった。」
鳶飛は、自信なさげに返事をした明空をしばらくじっと見つめると、ふいに彼の手を取り、ぎゅっと握りしめた。
 「なっ、何。」
 「万が一のためだ。」
正直、この人混みを見ているだけで圧倒されていた明空は、こうして手を握ってもらえるほうが安心だった。鳶飛は門の方へと足を進めながら、もう一度ちらりと明空を振り返った。その目に一抹の不安が宿っているのを捉えて、明空は眉を寄せた。
 「お前今、手くらいじゃ不安だなって思っただろ。」
 「…本当はこの前のように背負って行きたい。」
 「はぁっ?!それは舐めす…」
言い終わる前に鳶飛は人混みの中へと分け入っていき、明空もぐいと引っ張られ彼に続いた。その途端、混沌と喧噪が滝のように明空に押し寄せてきた。人が多すぎて、周りの景色がほとんど見えない。目に映るのは、色とりどりの着物ばかりだ。四方八方からぎゅうぎゅうと押され、息をすることさえ難しい。誰とも分からない汗ばんだ肌が時折ぺとりと腕や頬をかすめていくのも無性に気色が悪い。周囲から漂ってくる汗のような尿のような、つんとした匂いがさらに濃くなり、思わず明空は袖で鼻を覆った。
 (くっさい…!)
今まで経験したことのない強烈な不快さに、明空は顔をしかめた。と、どん、と誰かが彼の肩にぶつかってきた。
 「っと!若いの、気をつけな!」
背後から太い声で怒鳴られ、明空はびくりと軽く飛び上がった。
 (き、気をつけろったって、どこをどう気をつけるんだよ!)
彼はだんだん、あたかもこの人混みがうごめく巨大なひとつの生き物で、その中に自分が飲み込まれていくような錯覚に陥った。頭ががんがんと痛み、吐き気がしてくる。何でもいいから、とにかくここから出たい。出たい、出たい、出たい…!ぎゅっと目を瞑った瞬間、前方から強く腕を引っ張られ、明空は体ごとそちらへ倒れ込んだ。地面に倒れる、と思ったが、大きく体勢を崩す前に誰かに抱きかかえられた。驚いて目を開けると、視線の先には無表情で彼を見下ろす鳶色の瞳があった。
 「鳶飛…」
 「大丈夫か。」
 「あ、ああ…」
ふと周りを見渡すと、いつの間にか二人はあの凄まじい人混みを抜け、一軒のこぎれいな呉服屋の前に来ていた。
 「ここか?」
 「ああ。入るぞ。」
鳶飛は明空をそっと放すとくるりと踵を返し、藍色の暖簾を上げて店の中へと入っていった。明空も慌てて彼に続いた。
 店へ入ってまず明空を圧倒したのは、壁一面に吊るされた、さまざまな色、形、模様の衣の数々だった。燃えるような真紅や、澄み切った瑠璃、夕日のように鮮やかな茜…。そのどの布地にも、金や銀など、きらきらと光る糸で菊や蝶の刺繍がほどこされている。中には細かい幾何学模様の入った異国の衣もあり、忠清寺の質素な僧服しか見たことがなかった明空は、心奪われたようにその多種多様な着物に見入った。
 「いらっしゃい。今日は何をお探しで。」
脇から声がし、振り返ってみると、いかにも人のよさそうな背の低い中年の男が立っている。明空は、その男が着ている質の良さそうな紫の着物から、恐らく店主だろうと思った。
 「俺とこいつに、着物を見繕ってもらいたい。旅向きの、動きやすそうなものがいい。」
 「かしこまりました。ではこちらへ。」
二人は店の奥へと案内され、衝立ついたての向こうで待つようにと言われた。しばらくすると、巻き尺や針刺しを小脇に抱えた二人の若い女が現れた。二人は一礼して鳶飛と明空の足元へ屈みこむと、彼らの採寸を始めた。
 (うわっ、女だ…!)
物心ついてから初めて目にする女という生き物に、明空は全身に緊張が走るのを感じた。
 「両腕を広げて下さいますか。こんな風に。」
そんな明空の動揺をよそに、女は手本を見せるように両腕を広げた。彼は言われるがまま両腕を横に開いたが、心臓は早鐘のように打っている。
 (三つになるまで母上や乳母がいたけど、もうほとんど覚えてない…。女って、こんなに小さかったっけ?母上たちはもっと大きく見えた…って俺が赤子だったから当たり前か。それになんか、いい匂いがしないか?何だろう?花のような少し甘い香り…)
 「そんなにじっと見つめられては、何だか照れます。勘違いする女子おなごが出てきますよ。特にお客さん、かわいらしい顔をしてらっしゃるんだから。」
ふふっ、と笑われ、明空は初めて自分が彼女をじっと見つめていたことに気がついた。
 「あっ、いやっ、違うんです!俺は、その、いや…」
 (何て説明すればいいんだ?!三つの頃から女人禁制の寺で修行してたのであなたが珍しくて、なんて言えるか!絶対怪しまれる!でもなんて言えば…)
明らかに狼狽えている明空の様子を見て、彼女はくすりと笑った。
 「そんなに緊張しなくていいんですよ、お客さん。ただの採寸ですから。ほら、胸張って、背筋伸ばして。」
まるで心の内を見透かされたようで、明空は耳まで真っ赤になった。恥ずかしさの余り言葉も出ない。彼は彼女から目を逸らすと、聞こえているのではないかと思うほど大きな音を立てている自分の心臓を恨めしそうに睨みつけた。
 しばらくして、少し落ち着いてきた明空は、ふと顔を上げた。すると、腰囲を測られていた鳶飛とばちりと目が合った。鳶飛は彼を見た瞬間、ぷっ、と微かに吹き出した。
 (なっ…!)
明空は、馬鹿にされたような気がして文句を言おうとしたが、すぐそばに女がいるのを思い出して口を閉じた。別に、採寸中に連れと話すくらい何も悪いことではない。しかし、ほぼ初めて見る女という生き物は、彼にとってはどうしても得体の知れない異物のように思えてしまう。その奇異な生き物がそばいると考えただけで、途端に彼の全身はこわばり、どう振る舞えばよいのか分からなくなってしまうのだった。
 そうして明空が目を白黒させているうちに採寸は終わり、彼女たちは二人にそこで待つように伝えると、着物を取りに隣の部屋へと下がっていった。
 「…鳶飛、お前さっき俺のこと馬鹿にしただろ。」
 「すまない。お前があまりにも取り乱していたから。」
 「う、うるさいな!こちとら三つのころから男に囲まれて育ったんでね!どうしていいか分からないんだよ!そういうお前はどうなんだよ?慣れてるっていうのか?」
 「まあ、採寸で動揺するほどうぶではない。」
 (こいつっ…!)
何か言い返そうと口を開いた明空の耳に、ふと微かな囁き声が聞こえてきた。隣の部屋であの女たちが話しているのだ。
 「なかなか見目のいい殿方たちだったね、さっきの。」
 「そうだねぇ。でも、あの黒髪の小さい方の客、採寸だけで体中冷や汗かいてたよ。女慣れしてないのかねぇ。かわいい。」
 「ええ、採寸だけで?近頃にしちゃうぶな男もいたもんだ。ちょっとからかってやりたくなるね。」
 「いや、あたしは我慢できなくてちょっとからかっちまったよ。まあ、あれ以上動揺させるのも気の毒だったから、途中でやめたんだけどね。でもほら、あんたの方の客もすんごい男前じゃなかったかい?」
 「そう!あたし、仕事中なのにどきどきしちゃったよ!見目麗しいってあれのことだよ。背も高くて体も引き締まっててさ…あのかたい腕で抱き寄せられてみたいもんだわぁ!」
 「なぁに言ってんだいあんた。あんな男前に相手がいないわけないじゃないか。まぁ、いないならあたしも是非一度お願いしたいけどもねぇ。」
あけすけな会話に、明空はみるみる赤くなっていく。
 (どいつもこいつも、俺のこと馬鹿にして…!)
羞恥心と怒りで、明空は体が熱くなってくるのを感じた。と、隣の部屋の襖が開き、採寸した女たちがいくつか着物を抱えて出てきた。彼女たちは先ほどの会話を聞かれていたとは露知らず、何事もなかったかのように鳶飛と明空の前に立つと、持ってきた着物を並べて見せた。
 「旅衣というと、こういったものを買われる方が多いですね。これなんてどうでしょう?」
そういうと女は萌黄色の衣を指し、
 「お客さんのそのきれいな茶髪にきっと似合うと思いますよ。」
と鳶飛を見て言った。明空は、その声に心なしか妙な艶っぽさがあるのを感じて眉をひそめた。
 「ならそれにしよう。」
鳶飛はあっさりと勧められたものに決めると、明空のほうを見た。
 「お前はどれがいい。」
 「え…」
急に話を振られ、明空は戸惑った。目の前には五着の着物が並べてある。紺、浅黄、山吹、茜、茶。特に色にこだわりのない明空は、正直どの色を選べばよいのか分からない。顎に手を当て考え込む明空を見て、鳶飛がぼそりと言った。
 「この紺、お前の肌の色に映えると思う。」
 「ああ、そうですねぇ!お客さんは色が白いから、この紺がきっと似合うわ。」
 「じゃあ、それで…。」



 無事新しい着物に着替えた二人は店を出たが、明空は一人なんだが浮かない顔をしている。それを見て鳶飛が口を開いた。
 「どうした。気に入らなかったか。」
 「いや、そうじゃなくて…。いい着物だよ。ありがとう…。いや、本当に何でもない。それより、俺たちが今まで着ていた僧衣はどうする?」
 「もしも追手に見つかれば、俺たちがここにいた証拠になってしまう。どこかで燃やすか、絶対に誰の手にも渡らない所で捨てるかしよう。それまで必ず肌身離さず持っていてくれ。」
 「わかった。」
明空は、小さく畳んで丸めた藤色の僧衣を、懐の奥にしまいこんだ。
 「次はどうするんだ?」
 「このまま西に進んで、港を目指す。遅くても十日もあれば着くはずだ。暗くなる前にどこかに宿をとろう。」
 「分かった。」
 「この大通りの反対側に、もう一つ道があるのが見えるか。」
 「ん?ああ。」
 「あそこはこの道よりは人が少ないから、あそこを行こう。その先には宿もたくさんある。向こう側に着くまで、また人混みに入るが、少し我慢してくれ。」
明空は、鳶飛の言葉を聞くなり彼の腕をつかんだ。驚いて眉を上げた鳶飛に、
 「どうせこうするつもりだったんだろ。それに、あの人混みは本当にかなわないからな。ちゃんとつかまっておくから、先に行ってくれるか。」
鳶飛は黙ってうなずくと、川の流れのような人混みへと入っていく。明空もぎゅっと目を瞑り、鳶飛の腕に顔を押し付けるようにしてついていった。鳶飛が人の波を分け入って進んでいくので、彼のすぐ後ろには少しだけ空間ができ、そのお陰で明空は辛うじて息ができた。彼は、鳶飛につかまる腕に力を込めたまま、蒸し暑い人海の熱気にしばらく耐えていたが、ふいに周りが涼しくなって、目を開けた。気がつくとすでに道の反対側に辿りついていたのだ。先ほどの大通りとは違ってここはそれほど混み合っておらず、体を縮めずとも歩くことができる。明空はほっとして安堵のため息をついた。
 「行こうか。」
鳶飛は明空に声をかけると、再び歩き出した。
 鳶飛と並んで歩く明空の目には、見たこともない店の数々が映っていた。竹ざるにこんもりと積まれた赤や黄色の香辛料、道端に並べられた青々とした野菜や果物、甘く香ばしい香りが漂う菓子の屋台。
 (外の世界は、こんなにもいろどりに溢れていたのか…!)
明空は子どものように目をきらきらと輝かせながら、まるでその目に映りうるすべてを見ようとしているように、賑やかな街の景色のあちこちを見渡した。
 「明空、視線は前一点に集中しろ。自分はここで生まれ育ったと思って自信を持って歩くんだ。」
明空ははっと我に返った。子どものようにはしゃいでしまった自分が恥ずかしい。
 「わ、わかった。」
彼は気を取り直し、前へ向き直った。と、前方の店の軒先に、何かがきらりと光った。
 (あれは何だ?)
軒先に吊るされたそれは、艶々と光沢のある瑠璃色の二本の細い紐を絡めて縦にねじったような形をしていて、風が吹くたびにくるくると回り出すのだ。そうして回る度、一つひとつのねじれがどんどん上へ上へと進んで行っているように見える。この不思議な物体に、明空は目を奪われた。近づいてよく見たかったが、視線を前へと言われたばかりだ。彼は溢れる好奇心をぐっと抑え、その前を通り過ぎた。
 「明空。」
店を通り過ぎたところで後ろから名前を呼ばれ、振り返ると、鳶飛があの不思議な紐の前で手招きしている。
 「なんだ。」
鳶飛はそれを指先でくるくると回しながら明空に尋ねた。
 「これが欲しいのか?」
 「ほ、欲しいっていうか…ただ気になって。初めて見たから、これは何かなと…。」
 「風紬かぜつむぎだ。こうして軒や窓に吊るして、風に吹かれて回るのを見るのを楽しむ飾りだ。」
 「へぇ。」
明空はついその不思議な動きに見入ってしまった。先ほどは瑠璃色に見えたそれは、光沢があるせいか陽の光を反射すると玉虫色に輝き、縫い込まれた金の糸が星のようにちかちかと光っている。鳶飛の指の動きに合わせて、ねじれが湧き出す水のように滑らかに上へと昇っていく。何度見ても捉えどころのない不思議な動きだ。明空は魅せられたようにその動きをじっと目で追った。
 「これ、もらえるか。」
明空の様子を見ていた鳶飛が、奥にいる店主に声をかけた。
 「え、いや、いいって。」
慌てて遠慮する明空に、鳶飛はふっと笑った。
 「そんな顔して、何言ってるんだ。」
 (え?!そんな顔って、俺今どんな顔してるんだよ?!)
明空が赤面している脇で鳶飛は会計を済ませ、ぽん、と彼に風紬を手渡した。手の中で揺れるたび、それは陽光
を反射し煌めいている。
 「あ、ありがと…。大切にする。」
ぼそりと言った明空の顔が、とても嬉しそうなのを見て鳶飛は口元に微笑を浮かべた。
 (そういえば、こんな風に何かを欲しいと思ったことも、それを誰かからもらったことも初めてかもしれない。)
明空は、胸の底からじわじわと湧き上がってくる感じたことのない喜びに、ほんのりと頬を染めた。



 しばらくそのまま歩いていると、広場のような開けた場所に出た。そこには、食べ物を売る屋台が所狭しと立ち並んでおり、食欲をそそる匂いが辺りに漂っていた。
 「ここは食べ物を売る店ばかりが集まっているのか?」
 「ああ。ちょうどこの辺りは安くてうまい屋台が集まっている。腹が減っているなら、何か食べるか?」
きかれて初めて、明空は丸一日以上何も食べていないことに気がついた。あまりにたくさんのことが一気に起こったので、すっかり忘れていたのだ。修行の一環で断食には慣れている明空だったが、目の前でうまそうな匂いを漂わせる屋台にはさすがに空腹感を刺激された。
 「ああ。できれば何か食べたいな。」
 「何がいい。」
 「えぇ…」
何がいいかときかれても、寺の精進料理のほかは食べたことのない明空にとって、ここには選択肢がありすぎて返って何を選べばよいのか分からない。よい具合に焦げ目のついた串焼き肉や、湯気を上げる白い饅頭のようなもの、竹の葉に包まれた飯、胡麻をまぶした甘い団子…明空の鼻孔は、出来立ての食べ物独特の芳しい香りで満たされていた。
 「どれがいいとか、正直分からないよ。どれも食べたことないし…。鳶飛が好きなものを俺も食べる。」
 「そうか。」
鳶飛はそう言うと、串焼き肉の屋台へとすたすた歩いて行った。彼の背後から明空がそっと様子をのぞき込むと、店主が肉を焼いている金網からもうもうと煙が立ち昇り、刺すような独特の香辛料の匂いが漂ってくる。明空はまともにその煙と匂いを吸いこんでいまい、けほけほと咳き込んだ。
 「ほら。」
顔を上げると、いつの間にか注文も支払いも終えていた鳶飛が、両手に六本の串を手にして立っていた。
 「早っ。」
 「お前がどんな味が好きか分からなかったから、適当に頼んだぞ。この茶色いたれは醤油と梔子くちなしの蜜を混ぜたもので、一番人気らしい。こっちは普通の塩だ。」
 「この赤いのは?すんごい辛そうだけど。」
明空は、鳶飛が左手に持った、真っ赤な粉がびっしりとまぶしてある肉を指さした。
 「それは、バハラータ…香辛料だ。リャンヘイにある、バーハラという木の実から作られる。お前が言った通り相当辛いが、猪肉との相性は最高だ。」
そういうと鳶飛は三種類の串焼きを明空に手渡し、バハラータのかかった真っ赤な肉にかぶりついた。明空には相当辛そうに見えたのだが、彼は少しも表情を変えないまま、黙々とそれを咀嚼している。
 明空は改めて、手に持った三本の串焼きに視線を落とした。
 (猪肉、か…。肉は禁忌だったから、食べたことがないな。)
明空は、串に刺さった一口大の肉片をじっと見た。どれもほどよく焦げ目がついており、脂がてらてらと光っている。彼は、塩で味付けられたそれを口元まで持っていったが、口に入る寸前でふと手を止めた。
 (何躊躇ってるんだ…。もうあんな寺は捨てたんじゃないか。)
忠清寺とは決別した――頭では分かっているのだが、長年身に染みついた掟を破るのは、やはり心のどこかで抵抗があった。と、突然、明空の顔前を鳶色の影が一瞬横切った。驚いてのけぞった明空の手元には、五つあったはずの肉が四つになった串焼きが残っている。横を見ると、鳶飛が満足そうな顔でもぐもぐと口を動かしていた。
 「おい!今俺の食べただろ!」
 「のろのろしているお前が悪い。いらないなら俺が食うぞ。」
明空はむっとして、反対の手で串焼きを守るように覆いながら、残った肉を一気に口に入れた。
 「!」
噛んだ瞬間、肉汁がじゅわっと口の中に溢れ出してきた。塩がよくきいていて弾力があり、噛むたびに染み出してくる脂がたまらなく美味い。明空は夢中になって、茶色いたれがかかったほうも頬張った。そちらは甘辛く、ほんのりと梔子の香りがする。肉の部位が違うのか、こちらの方が柔らかい。噛めばほろほろと口の中で崩れるその肉には、初めのものとはまた違ったこってりとした旨みがあった。明空は二本目もあっという間に食べ終えてしまうと、三本目の、真っ赤な粉がかかった肉に勢いよくかぶりついた。
 「かっっっら!!」
今まで経験したことのない辛さに、明空は思わず声を上げた。ひりひりと焼けるような感覚が舌を覆っていく。それは次第に刺すような痛みに変わり、喉と鼻の奥までもが痛くなってきた。彼の顔はあっという間に真っ赤になっていき、その目からはぽろりと涙が落ちた。顔を歪めながらはふはふと荒く息をする彼に、鳶飛が落ちついて声をかけた。
 「ほら、これでも飲め。」
明空は、鳶飛に手渡された椀を勢いよく掴むと、ごくごくと一気にその中味を飲み干した。それは水ではなく、甘い果実のような味がする、桃色のどろりとした液体だった。何かは分からなかったが、冷たく爽やかな甘みがさっきの辛さを中和してくれる。ぷはぁっ、という音とともに明空は椀から口を離した。
 「あぁぁー…辛かった…。はぁ、この飲み物のお陰で助かったよ。これは何?」
 「リャンヘイで取れるレランという実の果汁だ。こうなるんじゃないかと思ってさっき買っておいた。」
鳶飛は、明空が手にしているバハラータのかかった串焼きを顎で指して言った。
 「分かってたなら先に言えよ!」
 「さっき相当辛いと言ったぞ、俺は。」
 「いや、だけど!お前が全然平気そうに食べてたから大丈夫かと思って…」
 「俺はこの辛さが好きなんだ。だが、豆と野菜ばかり食べてきたお前には少々刺激が強すぎたようだな。」
明空はむっとして、ぷいとそっぽを向いた。
 「お前、その残った肉、どうするんだ。」
串に残った四切れの赤い肉を指さして鳶飛が言った。
 「それは…」
何だか悔しいので食べきってしまいたかったが、あの涙が出るほどの辛さを思い出すととても食べられそうにない。
 「まぁ、その…いろいろと世話になってるしな。お前にやるよ。」
 「ならありがたく。」
すると鳶飛は、明空が手にした串にずいと顔を近づけるなり、そのままぱくりと三切れの肉を一気に口に入れてしまった。急に近づかれ、明空は一瞬びくりとしたが、それよりも彼を驚かせたのは、鳶飛があの辛い肉を一度に三つも食べたということだった。
 (あんな辛いのに!こいつ舌おかしいんじゃないのか?)
明空は、相変わらず無表情でもぐもぐと肉を噛んでいる鳶飛を唖然として見つめた。しばらくして鳶飛はごくりと肉を飲み込むと、平然と言った。
 「串、横に向けてくれ。」
 「いや、というか、最初から自分で持てよ。」
明空が文句を言いつつも串を横向きにすると、鳶飛は一番下に刺さっている最後の肉にがぶりと噛みついた。桃色の舌が一瞬覗き、肉汁が彼のうすい唇に垂れる。明空はふと、その唇ぬぐいたいという衝動に駆られた。鳶飛はかぶりついた肉を引き抜こうとしたが、案外かたく串に刺さっているようで動かない。彼は明空の手に自分の手を重ねると、串と一緒にぐいと引き抜いた。
 (うわっ。)
無遠慮につかんできた鳶飛の手は大きく温かく、明空の手を包み込んだ。どきん、と心臓が大きく跳ねる。
 (何だ、今の。)
さっきふとこみ上げてきた衝動も、今の胸の高鳴りも――鳶飛といると、時おり言いようのない感覚にとらわれてしまう。
 「どうだった、初めての肉は。」
鳶飛にきかれて、明空ははっと我に返った。そういえば、生まれて初めて、寺では禁忌であった肉というものを食べたのだ。
 「うまかった。すごく。バハラータは辛すぎたけど。」
 「ならよかった。」
 「さっき鳶飛がくれた…レランだっけ。あれもすごくうまかった。俺は辛いのよりあっちの方が断然好きだな。」
 「明空は甘党か。ならこの先たくさん菓子屋があるし、何か食べていくか。」
 「え、いいのか?!」
ぱぁっと明空の顔が輝いたのを見て、鳶飛はふっと口元に微笑を浮かべた。
 「何笑ってるんだよ。」
 「いや、何も。行こう。」
いつも仏頂面の鳶飛がこうして時たま微笑むのを見る度、明空は胸の奥がざわめくのを感じる。なんだか、ふわふわと浮いているような、踊りだしたくなるような――。明空は、その不思議な心地よさに身を委ねるように、軽やかな足取りで鳶飛に並んで歩き出した。




 二人が手ごろな宿を見つけたのは、もう日も傾き、ぽつぽつと店や家々の灯りがともりはじめたころだった。愛想のよい仲居が二人を出迎え、彼らは二階の奥の部屋へと案内された。
 「お風呂はそこを曲がった左にありますので。ごゆっくりどうぞ。」
 「ありがとう。すまないが、夕餉を運んできてもらえるか。」
 「かしこまりました。」
 初めて宿というものに泊る明空にとって、この何の変哲もない質素な六畳の部屋さえも特別に思えた。彼は、興奮した様子できょろきょろと部屋中を見渡していたが、ついと南側の丸窓に近寄ると、期待を込めて開けてみた。しかし、隣の民家の壁と屋根しか見えない。明空はがっくりと肩を落とした。その様子を見て、畳に腰を下ろしながら鳶飛が言った。
 「ここは山上の寺じゃないんだ。大したものは見えない。」
 「そりゃそうだけど…」
明空は不服そうに口を尖らせた。と、外から仲居の声が聞こえてきた。
 「失礼します。ご夕食をお持ちしました。」
仲居は襖を開け、しずしずと部屋に入ってきた。彼女は二人の前に向かい合うようにして膳を並べると、深々と一礼してすぐに部屋を出て行った。
 膳にのっている料理は、寺では禁忌だった魚を除いて、明空の見たことのあるものばかりだった。
 「玄米、吸い物、きゅうりの漬物に魚、か…。なあ鳶飛、この魚は何ていうんだ?」
 「それは鮎という川魚だ。こうやって塩焼きにしてあるのは物凄くうまい。」
 「ふうん…。」
 (なんか目が…こわいな…。)
鮎のくすんだ白い目がじっと空を見つめている。野菜や豆腐ばかり食べて育った明空にとって、魚のように顔のある食べ物が皿に乗っているのを見るのは初めてのことだ。彼は、意を決するようにごくりと唾をのむと、からりと焼き上がったその魚に恐る恐る箸をつけた。
 「…!うまい!」
身はほろりと柔らかく、塩のきいた旨味が口の中にじゅわっと広がる。皮もぱりぱりと香ばしい。
 「そうか。」
夢中で箸を動かす明空に対して、鳶飛はいつもの仏頂面で黙々と食べている。
 「世の中には、こんなにうまいものがたくさんあるんだな。本当に感動したよ。この宿に入る前に食べたあの四角い饅頭みたいなのもすごく美味かったし。」
もぐもぐと忙しく口を動かしながら明空が言う。
 「ああ、ロッカムか。」
 「あれ、何で作ってるんだ?ほんのり甘くて、柔らくて、食感は饅頭みたいだったが、色は見たことのないものばかりだったな。どれも鮮やかな赤や緑や黄色で、木の実がまぶしてあるのもあって…見ているだけでも楽しかった。」
 「何で作っているのかは俺も知らないが、ロッカムはリャンヘイよりずっと西の、ハガール=シムという国の菓子だ。」
 「へぇ。リャンヘイの通商の幅は本当に広いんだ。」
 「そうだな。…おい、明空、そんなに急いで食べるな。ロッカムの時みたいに喉に詰まらせるぞ。特に魚は骨があ…」
言い終える前に、がつがつと箸を進めていた明空が咳き込みはじめた。
 「ほら、言ったそばから…」
鳶飛が水を手渡そうと懐の包みをほどいている間に、明空は膳にのっていた徳利を鷲掴みし一気にぐいと飲み干した。
 「明空、それは…!」
 (なんだこれっ…!喉が焼ける…!)
明空はげほげほと激しく咳き込んだ。水だと思って飲んだ透明の液体は、独特のつんとした匂いで彼を頭の芯まで痺れさせた。舌に触れた瞬間はとろりと甘いのに、喉を通るころには焼け付くような痛みに変わっている。鳶飛は明空の脇へくると、咳き込む彼の背中をやさしくさすり、水の入った竹筒を差し出した。
 「あっ…ありが、と…」
明空は真っ赤になりながらそれを受け取り、出来るだけ多く口に含んで飲み込んだ。溢れた水が数滴、筋をつくって顎まで垂れていく。体全体がふつふつとほてってきて、心臓がどくどくと脈打ちはじめた。指先まで熱を持ってきている。
 「なんだよ、これ…。水じゃないのか?」
 「それは酒だ。この宿の隣、酒蔵だったろ。恐らく、一緒に商売してるんだろう。」
 「さ、酒?!俺、肉と魚に続いて、酒まで飲んだのか…。もう立派な俗人だな…。というか、こんなもの飲んで喜ぶなんて、俗世の人間はどうかしてるよ。」
明空の耳も首も、もう真っ赤になっている。何だかふわふわと宙に浮いているような心地もしてきた。
 「ほら、もっと水を飲め。」
 「…ん。」
明空は、もう一度竹筒を口元まで持っていこうとしたが、手が小刻みに震えて上手く持てない。再び竹筒を握り直そうとした瞬間、それは手の中でつるりと滑ってしまい、明空は自分の胸元に盛大に中身をぶちまけた。からから…と竹筒が畳に落ちる乾いた音が部屋に響いた。
 「ああ…。すまない。」
朦朧とする意識の中で明空は謝ると、懐から手巾を取り出した。
 「いや、それもびしょ濡れだ。貸せ。後で干しておくから。」
鳶飛は、濡れて色の変わった明空の手巾を取り上げると、懐から自分の手巾を取り出し、明空の濡れた胸元を拭いはじめた。
 「盛大にこぼしたな。腹も…腿のあたりまで濡れてる。」
 「んや…ん…そか…。ごめん…俺…」
もごもごと中身のない返事をする明空をよそに、鳶飛は黙々と彼の腹の辺りを拭っている。
 「えん…び…ちょ、い、痛い…」
目の粗い布で容赦なく体をこすられ、明空は何だか皮膚が痛くなってきた。
 「何か言ったか?」
 「だ、から…」
一旦体を離そうと明空は鳶飛の肩をつかんだが、酔いのせいで体勢を崩し、どさりと後ろへ倒れた。肩を掴まれていた鳶飛も、つられて明空の上にかぶさるように倒れ込んだ。
 「っつ…すまない。」
鳶飛はすぐに畳に手をついて半身を起こしたが、ふと明空の姿が目に入った。紺色の着物はへその下あたりまで大きくはだけ、白く滑らかな肌が大胆にのぞいている。あばらが浮き出し、成人した男とは思えないほど細く薄い身体と、ぴんと突き出た小さな薄紅色の乳首はどこかちぐはぐで、奇妙に映えた。艶々した黒髪がかかるうなじは蓮の花のように紅潮し、耳や頬も同じ色に染まっている。少し開いた赤い唇は先ほどの水で濡れており、中から浅い呼吸がはあはあと漏れ出していた。彼の兎のように大きく丸い目は、今はとろんと半ば閉じられ、ふさふさした睫毛が目元に影をつくっている。鳶飛は無表情でしばらく彼をじっと見つめていたが、脇へ退くと、静かな声でこう言った。
 「畳は硬いだろ。」
鳶飛はそういうなり明空の頭の下に手を入れると、そっと持ち上げ、あぐらをかいた自分の足の上に乗せた。
 「んー…。あぁ…ありがと…」
明空は焦点の定まらない眼差しでぼんやりと答えた。
 「……おれさぁ…今日ずっとおもってらけど…なんかも…だめらなぁって。」
 「何が?」
濡れた明空の下腹を拭きながら鳶飛が尋ねる。
 「らってさぁ、おれ、ごふくやでも馬鹿にされて、辛いものも食えなくて…こんどは魚、ほね、つまらせて…。ほんと、おれ、ばからぁ…。も、やんなる…。」
明空は両腕で顔を覆った。
 「寺ではあんらにちやほやされてらのに…。いっぽ出ればたらのやくたらずだよぉ。ほんろはおれ知ってたんだぁ、おれ、じぶんが脳なしらって…。ほんろはおまえみたいな、しんろうなんかじゃぜんぜんないっれ…。」
 「何て?しんろう?」
 「だぁからぁ、し、ん、ろ、う!しんろうだよぉ、すげぇ子ろも!」
 「神童か…。」
 「そういっらだろぉ!もうぅ…。だからぁ、おれはただのふつうのにんげんなの!へいぼんらの!らけど、あそこで、生きのこるために…むりしてしんろうぶってきたんらよ…。みんなにきらわれてぇ、うとまれてぇ…。それれもやってきらの!それれなんとかすごい僧になっらの!なのに!あの寺出ららおれって、こんなにもなんにもれきないのかっれ…」
鳶飛は、明空の腕の隙間から、ついと一筋の涙が落ちるのを見た。
 「魚の骨詰まらせた後は泣きながら絡み酒か。」
 「なんらよ!おれはおまえみらいにかんふぇきじゃないの!おまえみらいに…なりらいけろなれないの!くそやろぉ!」
 「どこに俺みたいになる必要がある?俺の事何も知らないのに。」
 「なんらよぉ、なにもしらないってぇ…。だっららはなせよぉ!ぜんぶ!おまえがてらをれれからしてきたことぜんぶら!おれしりらいよ!おまえのころもっと。らっておれ、ずっろおまえのころおいかけて…!」
明空は明らかにむっとして口を尖らせ、拳で鳶飛の膝をぽんぽんと叩いた。鳶飛は彼の拳をつかんで止めると、
 「やめろ。少なくとも、今のお前には話さないよ。話しても明日には何も覚えていないだろうしな。」
 「なんらよぉ。やくたらずのおれにははなすかちもないっれかぁ。」
 「違う。なぁ明空。お前は今日、寺を出てはじめて都に来たんだ。例えるなら今、お前は赤ん坊だ。『明空』として生まれ直したんだ。赤ん坊は生まれた時から一人で立てるか?ちゃんと話せるか?」
 「…んーん。」
明空は眠そうな目で鳶飛を見ながら首を振った。
 「だろう?だから、お前が今日ここでたくさん失敗したのは当たり前のことなんだ。お前は今赤ん坊なんだから。何も恥ずかしいことじゃない。」
 「んー…。じゃあ、えんびもむかしはいっぱいしっぱいしら?」
 「したよ。たくさん。思い出したくないようなことばかりだ。」
 「そっかぁー…。」
明空は嬉しそうにくっくっと笑った。
 「まぁとにかく、今赤ん坊のお前が、どんな大人になるのかをこれから一緒に見つけに行くんだろ。必要なときは俺が手助けするから、安心して失敗すればいい。」
 「そっかぁ。えんびがいっしょにいれくれるならあんしんらぁ。ありがろ…」
明空はそういうと、するりと手を滑らせて鳶飛の手を握り返し、自分の顔にすりよせた。
 「ふふ…。おまえのれ、あっらかくてからくてきもちぃ…。」
明空はそのまま、鳶飛の膝の上でうつらうつらしはじめた。
 「本当に赤ん坊だな…。」
鳶飛は明空の額にかかった髪をよけると、とろけたその顔をじっと見た。ふと、胸の奥をかきむしりたいような、何とも言えないざわざわとした感覚が鳶飛を捉えた。
 (どうやら俺は、物凄く手のかかるのを連れてきてしまったらしい。)
 「俺の手はからくてきもちいい、か…。」
その無邪気な寝顔を見ていると、図らずも笑いの波がこみ上げてきて、鳶飛はくっくと肩を揺らした。


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