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第二章 第二節
極彩色 I
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天井に生い茂った蔦の間から朝日が差し込み、すやすやとよく寝ている黒髪の男の顔を照らし出した。普段外出しないことが明らかな青白い肌に、少し骨ばった細い身体。朝日を受けた彼の前髪は、光を反射して今は白っぽく見える。男は眩しそうに両腕で顔を覆ったが、今度は強い朝日に腕が熱くなってきたのか、すぐにそれをほどいた。彼はしばらく右へ左へと体の向きを変えていたが、しぶしぶといった様子で目を開けた。兎のような黒く丸い瞳が、ぼんやりと空を見つめる。
(ここは…?)
彼の目に映っていたのは、見慣れた檜の天井ではなく、蔦に覆われ、今にも落ちてきそうな穴だらけの黒ずんだ天井だった。一瞬自分がどこにいるのか分からず、彼は横になったままぼんやりと辺りを見回した。と、すぐ右横に見覚えのある男が横たわっている。
(!)
彼を見た瞬間、雪崩のように昨日起きたことのすべてが蘇ってきてた。
(そうだ、俺はもう『澄史』じゃなくて、『明空』になったんだった。こいつも…)
隣にいる男は一向に目覚める気配がない。かなり深く眠っているようだ。よく見るとどことなく眉根を寄せているような、顔をしかめているような、真剣な寝顔をしている。明空は改めてこの男をしげしげと見つめた。柔らかそうな鳶色の髪、凛々しい眉、すらりと通った鼻筋。顔の一つひとつの部位は昔の面影を残しているが、くっきりと突き出した顎の線や、淡褐色に焼けた肌、分厚くなった胸板や腕から、あの頃とは別人のような力強い雄々しさが醸し出されていた。
(この十年間、一体どんな風に生きてきたんだろうな。)
明空はふと、その硬そうな淡褐色の肌に触れてみたいという衝動に駆られ、思わず手を伸ばした。その瞬間、鳶飛がぱちりと目を開けた。くぐもった声で彼が言う。
「ん、起きていたか。」
明空はどきりとして、中途半端に伸びた腕を慌てて引っ込めながら必死に弁解をはじめた。
「え、あ、ああ、うん、ついさっきだけど。これは、その、えと、今ちょうどお前を起こそうかどうしようかと思ってたところで…」
ひきつった笑顔を浮かべる明空をよそに、鳶飛はむくりと半身を起こした。
「結局丸一日寝たな。」
「え?」
(あ、そうか。俺たちが忠清寺を逃げ出したのが深夜で、この寺に着いたときにはもう朝だったから…それで今も朝ということは…)
「うわ、本当に丸一日だ。俺たち、大丈夫なのか?」
「まあ、必要な休息だったんだろう。お前は初めてのことばかりで肉体だけじゃなく精神的にも疲れていただろうし、俺自身、殻を二体つくった後にお前を背負って山を駆け下りて、霊力も体力もほとんど尽きかけていたから。」
「ご、ごめん…。」
「お前が謝ることは何もない。それに、まだあの殻で追手を騙せているみたいだ。」
「え、そんなことどうやって分かるの?」
「殻をつくった者は、その殻の目を通して景色を見ることができる。だから俺は今、実質、俺自身の目に加えて、俺の殻の目と、お前の殻の目、合わせて六つ目を持っているわけだ。」
「す、すごいな…。」
「昨日の明け方、俺たちがちょうどここに着いた頃、威雅山の麓であの殻たちは何者かに襲われたんだ。おそらく天威皇子を暗殺しようとしていた者の手の内にある奴らだろう。当初はそのまま俺たちが死んだことにしようと思っていたんだが、急に数人の男たちが現れて、はじめの追手を始末してしまった。結局、俺たちの殻は生き延びて、今は都の南のほうへ向かっている。そこを通って白海部まで出るつもりだろう。」
『急に現れた数人の男』ときいて、澄史はぴんときた。
「どうした。何か心当たりでもあるのか。」
明空の表情の微かな変化を見逃さなかった鳶飛が尋ねた。
(こ、これは言っていいのかな…。忠清寺の極秘中の極秘事項だし…。いや、俺はもうあんな寺捨てたんだ。…捨てたんだけど…すごく罪悪感というか、抵抗が…)
彼の葛藤を見透かしたように、鳶飛が口を開いた。
「十何年もあの寺の奴隷でいたのなら、その縛りから抜け出すことが難しいことは分かっている。時には引き戻されそうになる気持ちも分かる。だがその度に自分に問うてみろ。お前はあの寺に囚われたままでいたいか、それとも自由になりたいか。」
鳶飛の口調はとても淡々としていたのに、彼の言葉は明空のこころにぐさりと突き刺さった。
(俺は…俺は、本当はどうしたかったんだっけ。)
その問いかけに応えるように、彼の脳裏に崖の上で叫んでいた自分の姿が蘇ってきた。寺で築いてきた功績も人望も、もう何もかもどうでもいいから、とにかく自由になりたい――
「たぶん、そのはじめの追手を始末した奴らは忠清寺の《飛影》だと思う。忠清寺にとって都合の悪い人間を始末するための刺客だよ。紫ノ僧に、俺がお前の術を習得した後、お前を殺すように命じられてるんだ。」
気づけば言葉が口をついで出ていた。
(なんだ…。こんなに簡単なことなんだ…。)
明空は、不思議と穏やかな安堵が胸に広がっていくのを感じた。
「そうか。だとすると、逆に言えばお前がまだ俺の法術を習得しないうちは、《飛影》は俺たちを守るしかないということだ。それで、はじめの刺客から俺たちの殻を守った、と。」
「ああ、だと思う。お前は追手に俺たちを始末したと思わせて、出来るだけ早く奴らを振り払うつもりだったんだろうけど、何かややこしくなってしまったな…。」
「いや、返って好都合かもしれない。お前、天威皇子が暗殺されそうになっていたこと、知らなかったな?ということは、《飛影》たち――加えて、その頭の紫ノ僧たちも知らなかったということで間違いないか。」
「ああ、おそらくは。もし知っていたなら、俺にお前の術を盗むよう命を下したときに伝えていたはずだ。でも何も聞かされていないし、やはり気づいていなかったんだと思う。」
「なら、《飛影》たちは今回初めて自分たち以外にも俺の命を狙っている輩がいると知ったわけだ。反対に奴らも、はじめて《飛影》の存在を知った。ということは、双方互いの正体を暴こうとしばらくは走り回ってくれるだろうし、うまい具合に俺たちへの手を分散させることができる。」
「確かに…。でも鳶飛、俺たちこれからどうするつもりなんだ?」
「海を渡って、ザッハルへ行く。」
「ザッハル?!正気か?!」
ザッハルというのは、海を越えて雅真ノ国の北西にある大国だ。明空は、昔書物でその名を目にしたことはあったが、雅真ノ国との交流も薄く、どんな国かはまったく知らなかった。
「ああ。あそこまで行けば雅真ノ国の追手がかかることはまずない。それに、ザッハルの港町には近ごろ異人が多いから、俺たちも紛れることができるはずだ。」
「そんな簡単そうに言うけど、船とかどうするんだよ?」
「心配するな。金はある。」
そう言うと鳶飛は懐から紫色の何かをちらりと覗かせた。少し開いた口から、ピカピカと光る金色のものが見える。鳶飛が軽く指でつつくと、中からチャリチャリと金属が触れ合う音がした。
「それ、まさか大判か?!ど、どっからそんな金…!」
鳶飛は目を丸くする明空ににやりと笑って応えた。
「もし仮に道中何か起こって金がなくなっても、水夫として働きながら船に乗り込むか、最悪どこかの船に忍び込めばいい。」
「そんな、もし見つかったらどうするんだよ?!」
「見つかったら、ザッハルで学んでくるよう忠清寺から遣わされたんだとか何とか言って、お前の得意の経でも披露して誤魔化せばいいだろ。」
平然として大それたことを言う鳶飛に明空は唖然とした。
「なっ…そっ…!」
呆れてものも言えないといった様子の明空を歯牙にもかけず、鳶飛は続ける。
「俺は寺を出た後そうやってリャンヘイまで渡ったぞ。」
「?!」
リャンヘイは、いくつもの小さな島が集まってできた国で、雅真ノ国と海を挟んでちょうど対岸にある。人や物の行き来で成り立っており、閉鎖的な雅真ノ国が長年交流を続けてきた唯一の国だ。
(鳶飛、寺を出てからリャンヘイまで行ってたのか!というかそんな小賢しいやり方で海を越えてたのかよ…。)
「ならわざわざザッハルより、リャンヘイへ行けばいいじゃないか。リャンヘイなら海を越えるといっても対岸だからザッハルに比べれば近いし、それこそ異人がほとんどを占めるような国だ。ここの方が紛れられるだろ。それにお前が一度行ったことのある国なら勝手も分かっているだろうし…」
「いや、だめだ。リャンヘイは雅真ノ国と交流が深すぎる。それに、俺はあそこには行けない。」
「なんでだよ?」
一瞬、鳶飛はしまった、という顔をしたが、すぐに仏頂面に戻って言った。
「それはお前には関係のないことだ。」
突き放すような言い方に、明空はむっとした。
「ああそうか。なら、お前がザッハルに行って、俺がリャンヘイに行くってのもありだよな。」
鳶飛はそれを聞くと、きょとんとして明空を見た。
「俺はそれでも構わないが、お前、一人で異国でやっていけるのか。」
「なっ、はぁっ?そ、そんなの、」
やっていけるに決まってるだろ、と言おうとしたが、はっとして明空は口をつぐんだ。
(いや、俺、金も何も持ってない…。それにリャンヘイの言葉は書物で学んだと言っても、読み書きだけだ。話すことはできない。それに、リャンヘイではまた違った信仰がされているらしいし、ということは俺が僧として生きていくことはできない…。俺、やっぱりこのままじゃ何もできないんじゃ…)
忠清寺を一歩出ればいかに自分が役立たずかを見透かされたようで、明空は猛烈に恥ずかしくなってきた。
「や…やっぱり、その…俺もお前とザッハルに行く…。」
鳶飛は無表情のまま軽く相づちを打つと、淡々と続けた。
「ならこのまま北の港へ向かおう。追手や《飛影》は俺たちの殻と一緒に都の南側にいるから、鉢合わせすることはないだろうし、まだもう少し奴らを引き付けておいてくれるはずだ。となれば、まずは服を変えないとな。忠清寺の僧服のままで歩くのはまずい。特にお前のそれはかなり目立つ。街中でそんなもの身につけているだけで誰に目をつけられるか分からないぞ。」
明空は改めて自分の僧衣を見た。光沢のある美しい藤色の布地だけでもその高価さを物語っているが、袖や胸元にある繊細な花の刺繍も加わって、着ている者がかなりの階級であることは一目瞭然だ。
「…確かにこれはまずいな。」
「ああ。都の北門近くにいい呉服屋がある。そこで何か見繕ってもらおう。」
そう言うと鳶飛はすくっと立ち上がった。明空も続いて立ち上がろうとしたが、足に力を入れた瞬間、体中に激痛が走った。
「いっ…!」
体を動かそうとする度、筋肉の隅々に軋むような痛みが走る。
「普段ほとんど使っていない体に、一晩であれだけ負担をかけたんだ。痛くもなる。」
鳶飛は明空の腰に腕を回して立ち上がらせた。
(うぅ…。今になって修行のために経ばかり読んでいたことが悔やまれる…。俺はこんなに体が痛いのに、こいつはまったく問題なさそうなのもなんか癪に障るな…。)
明空はよろよろと歩きながら、確かな足取りで寺の敷居をまたぐ鳶飛の背中を恨めしそうに見た。と、ふいに鳶飛が明空を振り返り、真面目な顔で尋ねてきた。
「辛いなら、おぶろうか。」
思わぬ提案に、明空は真っ赤になって答える。
「なっ、そんなっ、大丈夫だよ!これくらい!い、いくら俺がずっと寺で育ったからって馬鹿にすんな!」
「いや、馬鹿にしたのではな…」
「わかってるよ!余計な気つかわなくていいって言ってるんだ!」
「そうか。」
くるりと前に向き直ると、何事もなかったかのようにまた平然と歩き出した鳶飛の後ろで、明空は俯きながらなぜか体がほてってくるのを感じていた。
(こいつはほんとに、何言い出すかわからないな。というか、こんな風に声を荒げたのなんていつぶりだ…。忠清寺では良くも悪くも俺を神童扱いしてくる奴ばっかりだったから、こう普通に接される方がどうしていいかわからない…。)
明空は足の痛みに顔を歪めながら、鳶飛に続いて外に出た。空は青々と晴れ渡り、白い釉薬を流したような薄い雲が遠くに広がっている。澄んだ空気に、微かに金木犀の香りが混じっていた。
「今日は気持ちのいい日だな。」
ぼそりと呟いた鳶飛を横目で見ながら、明空は、胸の中に希望とも不安とも言い難い、ふわふわとした何かが湧き上がってくるのを感じていた。
(ここは…?)
彼の目に映っていたのは、見慣れた檜の天井ではなく、蔦に覆われ、今にも落ちてきそうな穴だらけの黒ずんだ天井だった。一瞬自分がどこにいるのか分からず、彼は横になったままぼんやりと辺りを見回した。と、すぐ右横に見覚えのある男が横たわっている。
(!)
彼を見た瞬間、雪崩のように昨日起きたことのすべてが蘇ってきてた。
(そうだ、俺はもう『澄史』じゃなくて、『明空』になったんだった。こいつも…)
隣にいる男は一向に目覚める気配がない。かなり深く眠っているようだ。よく見るとどことなく眉根を寄せているような、顔をしかめているような、真剣な寝顔をしている。明空は改めてこの男をしげしげと見つめた。柔らかそうな鳶色の髪、凛々しい眉、すらりと通った鼻筋。顔の一つひとつの部位は昔の面影を残しているが、くっきりと突き出した顎の線や、淡褐色に焼けた肌、分厚くなった胸板や腕から、あの頃とは別人のような力強い雄々しさが醸し出されていた。
(この十年間、一体どんな風に生きてきたんだろうな。)
明空はふと、その硬そうな淡褐色の肌に触れてみたいという衝動に駆られ、思わず手を伸ばした。その瞬間、鳶飛がぱちりと目を開けた。くぐもった声で彼が言う。
「ん、起きていたか。」
明空はどきりとして、中途半端に伸びた腕を慌てて引っ込めながら必死に弁解をはじめた。
「え、あ、ああ、うん、ついさっきだけど。これは、その、えと、今ちょうどお前を起こそうかどうしようかと思ってたところで…」
ひきつった笑顔を浮かべる明空をよそに、鳶飛はむくりと半身を起こした。
「結局丸一日寝たな。」
「え?」
(あ、そうか。俺たちが忠清寺を逃げ出したのが深夜で、この寺に着いたときにはもう朝だったから…それで今も朝ということは…)
「うわ、本当に丸一日だ。俺たち、大丈夫なのか?」
「まあ、必要な休息だったんだろう。お前は初めてのことばかりで肉体だけじゃなく精神的にも疲れていただろうし、俺自身、殻を二体つくった後にお前を背負って山を駆け下りて、霊力も体力もほとんど尽きかけていたから。」
「ご、ごめん…。」
「お前が謝ることは何もない。それに、まだあの殻で追手を騙せているみたいだ。」
「え、そんなことどうやって分かるの?」
「殻をつくった者は、その殻の目を通して景色を見ることができる。だから俺は今、実質、俺自身の目に加えて、俺の殻の目と、お前の殻の目、合わせて六つ目を持っているわけだ。」
「す、すごいな…。」
「昨日の明け方、俺たちがちょうどここに着いた頃、威雅山の麓であの殻たちは何者かに襲われたんだ。おそらく天威皇子を暗殺しようとしていた者の手の内にある奴らだろう。当初はそのまま俺たちが死んだことにしようと思っていたんだが、急に数人の男たちが現れて、はじめの追手を始末してしまった。結局、俺たちの殻は生き延びて、今は都の南のほうへ向かっている。そこを通って白海部まで出るつもりだろう。」
『急に現れた数人の男』ときいて、澄史はぴんときた。
「どうした。何か心当たりでもあるのか。」
明空の表情の微かな変化を見逃さなかった鳶飛が尋ねた。
(こ、これは言っていいのかな…。忠清寺の極秘中の極秘事項だし…。いや、俺はもうあんな寺捨てたんだ。…捨てたんだけど…すごく罪悪感というか、抵抗が…)
彼の葛藤を見透かしたように、鳶飛が口を開いた。
「十何年もあの寺の奴隷でいたのなら、その縛りから抜け出すことが難しいことは分かっている。時には引き戻されそうになる気持ちも分かる。だがその度に自分に問うてみろ。お前はあの寺に囚われたままでいたいか、それとも自由になりたいか。」
鳶飛の口調はとても淡々としていたのに、彼の言葉は明空のこころにぐさりと突き刺さった。
(俺は…俺は、本当はどうしたかったんだっけ。)
その問いかけに応えるように、彼の脳裏に崖の上で叫んでいた自分の姿が蘇ってきた。寺で築いてきた功績も人望も、もう何もかもどうでもいいから、とにかく自由になりたい――
「たぶん、そのはじめの追手を始末した奴らは忠清寺の《飛影》だと思う。忠清寺にとって都合の悪い人間を始末するための刺客だよ。紫ノ僧に、俺がお前の術を習得した後、お前を殺すように命じられてるんだ。」
気づけば言葉が口をついで出ていた。
(なんだ…。こんなに簡単なことなんだ…。)
明空は、不思議と穏やかな安堵が胸に広がっていくのを感じた。
「そうか。だとすると、逆に言えばお前がまだ俺の法術を習得しないうちは、《飛影》は俺たちを守るしかないということだ。それで、はじめの刺客から俺たちの殻を守った、と。」
「ああ、だと思う。お前は追手に俺たちを始末したと思わせて、出来るだけ早く奴らを振り払うつもりだったんだろうけど、何かややこしくなってしまったな…。」
「いや、返って好都合かもしれない。お前、天威皇子が暗殺されそうになっていたこと、知らなかったな?ということは、《飛影》たち――加えて、その頭の紫ノ僧たちも知らなかったということで間違いないか。」
「ああ、おそらくは。もし知っていたなら、俺にお前の術を盗むよう命を下したときに伝えていたはずだ。でも何も聞かされていないし、やはり気づいていなかったんだと思う。」
「なら、《飛影》たちは今回初めて自分たち以外にも俺の命を狙っている輩がいると知ったわけだ。反対に奴らも、はじめて《飛影》の存在を知った。ということは、双方互いの正体を暴こうとしばらくは走り回ってくれるだろうし、うまい具合に俺たちへの手を分散させることができる。」
「確かに…。でも鳶飛、俺たちこれからどうするつもりなんだ?」
「海を渡って、ザッハルへ行く。」
「ザッハル?!正気か?!」
ザッハルというのは、海を越えて雅真ノ国の北西にある大国だ。明空は、昔書物でその名を目にしたことはあったが、雅真ノ国との交流も薄く、どんな国かはまったく知らなかった。
「ああ。あそこまで行けば雅真ノ国の追手がかかることはまずない。それに、ザッハルの港町には近ごろ異人が多いから、俺たちも紛れることができるはずだ。」
「そんな簡単そうに言うけど、船とかどうするんだよ?」
「心配するな。金はある。」
そう言うと鳶飛は懐から紫色の何かをちらりと覗かせた。少し開いた口から、ピカピカと光る金色のものが見える。鳶飛が軽く指でつつくと、中からチャリチャリと金属が触れ合う音がした。
「それ、まさか大判か?!ど、どっからそんな金…!」
鳶飛は目を丸くする明空ににやりと笑って応えた。
「もし仮に道中何か起こって金がなくなっても、水夫として働きながら船に乗り込むか、最悪どこかの船に忍び込めばいい。」
「そんな、もし見つかったらどうするんだよ?!」
「見つかったら、ザッハルで学んでくるよう忠清寺から遣わされたんだとか何とか言って、お前の得意の経でも披露して誤魔化せばいいだろ。」
平然として大それたことを言う鳶飛に明空は唖然とした。
「なっ…そっ…!」
呆れてものも言えないといった様子の明空を歯牙にもかけず、鳶飛は続ける。
「俺は寺を出た後そうやってリャンヘイまで渡ったぞ。」
「?!」
リャンヘイは、いくつもの小さな島が集まってできた国で、雅真ノ国と海を挟んでちょうど対岸にある。人や物の行き来で成り立っており、閉鎖的な雅真ノ国が長年交流を続けてきた唯一の国だ。
(鳶飛、寺を出てからリャンヘイまで行ってたのか!というかそんな小賢しいやり方で海を越えてたのかよ…。)
「ならわざわざザッハルより、リャンヘイへ行けばいいじゃないか。リャンヘイなら海を越えるといっても対岸だからザッハルに比べれば近いし、それこそ異人がほとんどを占めるような国だ。ここの方が紛れられるだろ。それにお前が一度行ったことのある国なら勝手も分かっているだろうし…」
「いや、だめだ。リャンヘイは雅真ノ国と交流が深すぎる。それに、俺はあそこには行けない。」
「なんでだよ?」
一瞬、鳶飛はしまった、という顔をしたが、すぐに仏頂面に戻って言った。
「それはお前には関係のないことだ。」
突き放すような言い方に、明空はむっとした。
「ああそうか。なら、お前がザッハルに行って、俺がリャンヘイに行くってのもありだよな。」
鳶飛はそれを聞くと、きょとんとして明空を見た。
「俺はそれでも構わないが、お前、一人で異国でやっていけるのか。」
「なっ、はぁっ?そ、そんなの、」
やっていけるに決まってるだろ、と言おうとしたが、はっとして明空は口をつぐんだ。
(いや、俺、金も何も持ってない…。それにリャンヘイの言葉は書物で学んだと言っても、読み書きだけだ。話すことはできない。それに、リャンヘイではまた違った信仰がされているらしいし、ということは俺が僧として生きていくことはできない…。俺、やっぱりこのままじゃ何もできないんじゃ…)
忠清寺を一歩出ればいかに自分が役立たずかを見透かされたようで、明空は猛烈に恥ずかしくなってきた。
「や…やっぱり、その…俺もお前とザッハルに行く…。」
鳶飛は無表情のまま軽く相づちを打つと、淡々と続けた。
「ならこのまま北の港へ向かおう。追手や《飛影》は俺たちの殻と一緒に都の南側にいるから、鉢合わせすることはないだろうし、まだもう少し奴らを引き付けておいてくれるはずだ。となれば、まずは服を変えないとな。忠清寺の僧服のままで歩くのはまずい。特にお前のそれはかなり目立つ。街中でそんなもの身につけているだけで誰に目をつけられるか分からないぞ。」
明空は改めて自分の僧衣を見た。光沢のある美しい藤色の布地だけでもその高価さを物語っているが、袖や胸元にある繊細な花の刺繍も加わって、着ている者がかなりの階級であることは一目瞭然だ。
「…確かにこれはまずいな。」
「ああ。都の北門近くにいい呉服屋がある。そこで何か見繕ってもらおう。」
そう言うと鳶飛はすくっと立ち上がった。明空も続いて立ち上がろうとしたが、足に力を入れた瞬間、体中に激痛が走った。
「いっ…!」
体を動かそうとする度、筋肉の隅々に軋むような痛みが走る。
「普段ほとんど使っていない体に、一晩であれだけ負担をかけたんだ。痛くもなる。」
鳶飛は明空の腰に腕を回して立ち上がらせた。
(うぅ…。今になって修行のために経ばかり読んでいたことが悔やまれる…。俺はこんなに体が痛いのに、こいつはまったく問題なさそうなのもなんか癪に障るな…。)
明空はよろよろと歩きながら、確かな足取りで寺の敷居をまたぐ鳶飛の背中を恨めしそうに見た。と、ふいに鳶飛が明空を振り返り、真面目な顔で尋ねてきた。
「辛いなら、おぶろうか。」
思わぬ提案に、明空は真っ赤になって答える。
「なっ、そんなっ、大丈夫だよ!これくらい!い、いくら俺がずっと寺で育ったからって馬鹿にすんな!」
「いや、馬鹿にしたのではな…」
「わかってるよ!余計な気つかわなくていいって言ってるんだ!」
「そうか。」
くるりと前に向き直ると、何事もなかったかのようにまた平然と歩き出した鳶飛の後ろで、明空は俯きながらなぜか体がほてってくるのを感じていた。
(こいつはほんとに、何言い出すかわからないな。というか、こんな風に声を荒げたのなんていつぶりだ…。忠清寺では良くも悪くも俺を神童扱いしてくる奴ばっかりだったから、こう普通に接される方がどうしていいかわからない…。)
明空は足の痛みに顔を歪めながら、鳶飛に続いて外に出た。空は青々と晴れ渡り、白い釉薬を流したような薄い雲が遠くに広がっている。澄んだ空気に、微かに金木犀の香りが混じっていた。
「今日は気持ちのいい日だな。」
ぼそりと呟いた鳶飛を横目で見ながら、明空は、胸の中に希望とも不安とも言い難い、ふわふわとした何かが湧き上がってくるのを感じていた。
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