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第一章 第七節
転落 II
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薄墨ノ僧が暮らす棟で、最も日当たりが悪く狭い部屋。日中でも暗いのだが、真夜中を過ぎた今、そこはいよいよ深い闇に包まれていた。中には男が一人、座っている。男の強い光を湛えた目は、暗闇に浮かび上がる二つの蝋燭のように爛々と輝いていた。
(そろそろか。)
男は部屋の端に置かれた箪笥に向き直ると、一番下の段を開けた。そこには、彼には少し小さそうな、墨色の僧衣が入っている。
(昔から変わってないんだな。)
男はそれを取り出すと、静かに自分の衣を脱ぎはじめた。紺碧い衣がはらりと畳に落ちる。ごわごわとしたその黒いの僧衣を身に着けると、次に男は自分の髪の毛を一本引き抜いた。それを親指と人差し指でつまむと口の前へ持っいき、ふっと息を吹きかけた。その瞬間、髪の毛から濃い霧のようなものが出、その中から男とまったく同じ容姿のもう一人の男が現れた。鳶色の髪も、瞳も、引き締まった体躯も、すべてが生き写しだ。
「その服を着ろ。それから、門まで行って、もう一人の僧を待つんだ。そいつと一緒に寺を出て、誤魔化せるところまで誤魔化せ。」
もう一人の男は黙ってうなずくと、足元に落ちている紺碧い衣を拾い上げ、着替えはじめた。
「頼んだぞ。」
はじめの男はそう言ってもう一人の男の肩に手をのせると、彼が着替え終わるのも待たずに部屋を後にした。
今夜は新月。あたりは真っ暗で、蝋燭の光がなければ目を開けているのか、閉じているのかさえ分からない。墨色の衣をまとったその男はすぐに闇の中にとけこんだ。男は音も立てずに中庭へ下りると、厠の後方に鬱蒼と茂った竹藪へと歩きはじめた。辺りに人の気配はなかったが、男は険しい表情のまま、足音を忍ばせ竹藪に入ると、できるだけ身体が竹に触れないようにしながら慎重に進んだ。しばらく行くと、人ひとり立てそうなほどの大きさの、開けた場所が現れた。そこは崖になっていて、数歩先はごつごつとした岩肌の急斜面がのびている。眼下に黒々とした森が海のように広がり、広大な空には幾千もの星がきらきらと輝いている。男は、崖の先端まで進むと、草履を懐にしまい、躊躇うことなく崖を伝い下りはじめた。最初の足場を見つけ、そこへ足をかけようとしたその時、男は誰かが藪を掻き分け走ってくる音を捉えた。
(まずい。)
焦って進めば落ちるかもしれない。しかし、このままだと見つかってしまう。足音が去るまでじっとしているのが得策だと判断した男は、手をかけている場所を少しずらし、崖の側面に張り付くようにして動きを止めた。足音がだんだんと近づいてくる。男は自分の心臓が早鐘を打ちはじめ、脂汗が額を伝うのを感じた。と、ぱさぁっ、という音とともに竹藪から誰かが飛び出してきた。
「こんな寺、消えろっーーーーーー!!!!!!!消えろっ、消えろっ、消えろっ!!!!もう全部全部燃えてしまえばいいんだ!!何が名誉ある寺だ!くそ野郎!!!くそっ、くそっ!腐ってる!!ここはどこも!!腐ってるんだ!!もうこんな所、無くなってしまえ!!ぜんぶ、みんな、消えろっーーーー!!!!!」
男は崖につかまったまま、驚いて目を見開いた。
「ああああああああああーーーー!!!!あああああああーー!!あああぁぁぁ、あっ、げほっ、あ゛っ、あ゛っ、げほっ、あぁっー……」
駆けてきた男は、しばらく咳き込みながら絶叫していたが、次第にその声に嗚咽が交じりはじめた。
「う゛ぅっ……あ゛っう゛っ……ひっ…」
と、突然、びゅうっ、と強い風が崖の下から上へと吹き上げ、泣いていた男が驚いて顔を上げた。その刹那、隠れている男の黒い袖が、ふわりと宙にはためいた。
「だっ、誰かいるのか!」
泣いていた男は急いで涙を拭って厳しい声で問いかけたが、辺りはしんと静まり返っている。
「だ、誰かいるなら出てこい。わ、私は薄紫ノ僧の澄史だ。就寝時間を過ぎても出歩いていたことは…お、お互い様だから、ちゃんと出てきたら誰にも言わないと約束しよう。」
返事を待ったが、やはり何の気配もない。見間違いだったのかと不審に思いながら、澄史は辺りを見回した。何も、誰もいない。見えるのは時折風に揺れてかさかさと音を立てる背の高い竹だけだ。
(おかしいな。絶対何か動いたのを見たんだけど。)
澄史は眉をひそめ、崖の先まで進むと、もう一度きょろきょろと辺りを見回した。その時、目線の下の方に何かを捉えた気がして、崖の下に目をやると、なんとそこには黒い僧衣をまとった男が張り付いているではないか。
「うわぁっ!!」
澄史は驚いてのけぞり、その場に尻もちをついた。
「なっなっなっ、何してるんだ!」
男は何も言わず、崖に張り付いたままじっと澄史を見つめ返してくる。澄史は先ほどの衝撃でまだ心臓が激しく脈打っていたが、もう一度よくその男を見てみると、どこか見覚えがある。鳶色の髪、瞳、長い睫毛に、すっと通った鼻筋。
「く…空隆…?」
二人の間に、息の詰まるような沈黙が流れた。双方、互いに見つめ合ったまま微動だにしない。
「……またお前か。」
しばらくして、男が聞こえるか聞こえないかくらいの声でぼそりと呟いた。
「え?」
「お前、ここから出たいか。」
「え...?」
「この腐った寺を捨てて自由になりたいか、と訊いてる。」
「……」
その意味を理解した瞬間、澄史は雷に打たれたかのごとく体中に衝撃が走ったのを感じた。
(こいつは空隆だ。絶対間違いない。ということはやっぱり世緒が空隆で、あの時の俺の直観は正しかったんだ!でも、任務はどうする?俺たち二人で白海部の病を調べに行くんじゃなかったのか?なんで空隆がこんな所に…。一体どうなってる?まさかこいつ、任務を放棄するつもりか?)
「お前、帝の勅命はどうなった。」
「俺の質問に答えろ。ここから出たいか、出たくないか。」
男の鳶色の目は暗闇に爛々と光り、射貫くように澄史をじっと見てくる。澄史はどうして良いかわからず俯いた。
(そりゃ、出たい。出たいよ、こんな腐りきった寺…。でもここから出て俺に何ができるっていうんだ。幼い頃から法門の修行ばかりしてきて、それ以外何も知らないのに。ここにいれば、確実に何もかも手に入るんだ。成功も、名誉も、地位も。十分幸せじゃないか。…でも本当にそれでいいのか?途中で嫌にならないか?それが俺の幸せなのか…?)
「く、空隆。ひとつ、きいていいか。お前、寺を出たこと、後悔してないのか。」
「俺の質問に答えろと言っている。ここから出たいか。お前が決めるんだ。」
澄史はその言葉にはっとした。自分で出すべき答えを、他人に頼って出そうとしていたのだ。
(俺は…)
今まで忠清寺で生きてきた記憶が、澄史の頭の中を走馬灯のように駆け巡る。厳しい修行。理不尽な罰。新しい法術を修得する喜び。周囲の嫉妬、尊敬、焦燥、孤独。縁にしていた友情、その裏切り、失望――。
(俺は何のためにここまで頑張ってきたんだろう?)
ふとよぎった疑問に、澄史は顔を上げた。その先には、まっすぐに澄史を見つめる鳶色の瞳があった。
「出たい。」
滑るように出てきた己の言葉を聞いて、澄史は驚いた。しかし同時に、憑き物が落ちたような、胸がすくような不思議な爽快感があった。
(そうか、俺は、ずっとこいつを追いかけてきたんだ――)
澄史の返事を聞いて、男は崖につかまったまま右手を差し伸べてきた。
(えっと…?この状態で、手を取れということか…?)
澄史が困惑した表情を浮かべながら恐る恐るその手を取ると、男はつないだ手をぐいと引き下げ、その反動で崖の上へと跳び上がった。
「?!」
体勢を崩して前へよろめいた澄史を男は抱きとめると、そのままくるりと背を向け、澄史の腕をつかんでぐいと引っ張り、彼を背負った。
「おっ、おい!ちょ、何して…」
澄史が言い終えるのも待たず、男は澄史を背に乗せたまま崖を伝い下りはじめた。今度は自分だけでなく、同じくらいのもう一人分の重みをその両手足に握っているのだ。彼の力を込めた指先は白く変色し、その額にはびっしりと脂汗が浮いている。澄史は何だか申し訳なくなってきて思わず口を開いた。
「あの、俺、自分で…」
「い、ま…しゃべる…な。」
「ご、ごめん。」
澄史が口をつぐんだのと同時に、びゅうっと風が吹き上げてきた。つられて下を見た澄史は愕然とした。黒々と広がる森が、足元の遥か遠くのほうにあったからだ。
(こんな急な崖、寺で経ばかり読んできた俺には到底降りるなんて無理だったな…。こりゃ落ちたら串刺しか、木端微塵だ…。)
背中に冷たいものが走るのを感じて、澄史は思わずつかまっていた腕にぎゅっと力を込めた。
「だい…じょ、ぶ、だ……め…つむ、て…ろ。」
思ってもいなかった励ましの言葉に澄史は一瞬驚いたが、こくりとうなずくと、硬く目を閉じた。
男の呼吸はいよいよ荒くなり、全身から汗が吹き出してきた。二人の身体が触れ合っている部分はさらに熱を持ちはじめ、互いの衣は蒸れてしっとりとしている。緊張でどくどくと脈打つ二人の心臓の鼓動は、ひとつ、またひとつと岩を移る度さらに速さを増していく。緊張に耐え切れず澄史がそうっと薄目を開けると、男の足の少し下に、人ひとり立って歩けそうなほどの洞穴があるのが見えた。
「し…かり…つかま、てろ。」
男は途切れ途切れにそう言うと、岩を握った両手にぎゅっと力を込め、空を蹴ってそのまま洞穴へと跳び降りた。どさり、という音がして、二人は倒れ込むように着地した。男の上に覆い被さっていた澄史は慌てて脇へ退くと、すぐさま彼を助け起こした。
「お、おい、大丈夫か、空隆。」
肩で息をしながら、男が応える。
「そ、の、名は…もう、捨てた…」
「じゃ、じゃあ、世緒?」
「それも、危ない…」
「じゃ、じゃあ何て呼べばいいんだよ。」
少しやけになって尋ねた澄史を、男はじっと見て言った。
「その二つ以外なら何でもかまわない。時間がないんだ。今はとにかく山を下りるぞ。髪を一本くれるか。それと、お前の衣の切れ端も。」
澄史は少し困惑したが、男の強い口調におされ、言われるままに髪の毛を一本引き抜き、衣の袖を引き裂いた。男はそれらを受け取ると、ふっと息を吹きかけた。その途端、男の手から一瞬ぼわりと煙が噴き出てきて、中から澄史と同じ僧衣を着た、澄史そっくりの人間が現れた。
「?!」
さらさらした黒髪に、黒く丸い瞳、兎のように小さな鼻と、小柄な背丈。すべてがまったく同じだ。澄史は驚きのあまり口を半開きにしてもう一人の自分を見つめた。
「そいつに任務に行ってもらう。お前の代わりだ。話すこともできるが、所詮はお前の姿をした殻。どこまで騙せるかは分からないが、ある程度の時間稼ぎにはなってくれるはずだ。」
男はその殻に顎で崖の方を指すと、彼はくるりと踵を返して出て行った。後にはとんとんと、岩肌を跳び越えるような音が聞こえてきた。
「あ、あいつは…」
「ただの殻だから、人のような重さがないんだ。崖なんて跳んで登ることができる。もちろん降りることも。」
(そ、そうじゃなくて…!いや、確かに崖なんて登れるのかって思ってはいたけど、そもそもどうやって俺の殻なんて作ったんだ?!どんな法術だ…?!)
まだ困惑している澄史をよそに、男は立ち上がって言った。
「時間がないから、この先走るぞ。だがこの地下通路は迷うと出られなくなる。俺は道を知っているから、ついてきてくれるか。」
男は言いながら、すっと手を差し出した。
(俺の殻の次は秘密の地下通路か。もう訳が分からない…)
澄史は何だか頭が痛くなってきた。
「さっきから一体何がどうなってるんだ。地下通路?お前、そもそもなんでこんなものがあるのを知ってる?ここで育った俺でさえも知らなかったんだぞ?」
「それは全部後で説明する。時間がないんだ。まだ奴らに気づかれていない間に、できるだけ遠くへ逃げなければ危ない。」
「や、奴ら?奴らって誰だよ!」
澄史は言ってすぐにはっとした。
(まさかこいつ、忠清寺の企みにもう気づいて…?いや、それならさっきの崖で俺を殺していたはず。じゃあやっぱり奴らって一体誰だ?)
「俺もちゃんと説明したいが、今は本当に時間がないんだ。お願いだ。俺を信じてくれ。」
男の目には懇願の色が浮かんでいた。彼は差し出した手をぴくりとも動かさずに澄史を待っている。彼の額の汗が顎を伝って滴り落ち、はだけた胸元にすうっと流れた。
(こいつを、信じる…?正直、こいつは得体の知れない男だ。一度は忠清寺を捨てて流れ者になったのに、また戻ってきて、俺の知らない法術をたくさん知っていて、ここの地下通路とやらも知っている…。考えてみれば、そんな胡散臭い男が、そもそもなんで俺を一緒に連れて行くんだ?さっきの崖でもそうだけど、俺がいた方が足手まといだ。それか、実は俺を使って忠清寺に何かしようとしている…?)
疑いに満ちた澄史の顔を見て、男が口を開いた。
「俺がお前を連れてきたのは、崖の上で叫ぶお前が、昔の俺に見えたからだ。この腐った寺に辟易し、すべてを捨てて自由になりたいと思っていたあの頃の俺に、重なって見えたんだ。」
泣きながら絶叫していたあの姿を見られていたのだと改めて気づいて、澄史は顔を赤らめた。
(恥ずかしい…。でも、こいつは、あんなに幼い時からすでに寺の腐敗ぶりに気づいていたのか…。いや、気づいていない方がおかしいか。幼くしていくつも飛び級し、大僧正たちに気に入られ、かなり寺の内部に入り込んでいたんだからな。嫌な部分も散々見てきたはず。…だからあの日、お前はここを捨てたのか…。)
澄史は、自分が何も考えず無邪気に遊んでいたあの頃、この男がすでに寺の陰湿な面に気がついていただけでなく、寺で築き上げてきたすべてを捨て、危険を承知で新しい人生を歩む勇気を持っていたという事実に、かすかな羨望を覚えた。
(俺ももう少し幼かったら、迷わずこの手を取ることができたのだろうか。)
「あの日、俺が寺を出て行くところを見たのもお前だったな。」
「あ…ああ。」
「あの後すぐに追手が来なかったということは、告げ口はしないでいてくれたんだな。」
「それは…お前の瞳が忘れられなかったから…」
言ってしまってすぐに、自分の言葉がどう聞こえるか気がついた澄史は、赤面しながら慌てて弁解をはじめた。
「ちっ、違うんだ!ただ、お前が、あの時だけすごく生き生きして見えたんだよ!いつも死んだような目してたのに。だから、もしお前が連れ戻されたら、また死んだような目になるんじゃないかと思って…。それは寺の戒を破るより悪いことのような気がして…」
男は一瞬驚いたように目を見開いたが、ふっと微笑んだ。
「じゃあやはり、俺が逃げ切れたのもお前のお陰だったんだな。ありがとう。」
その鳶色の瞳に宿った優しい光には、見る者を包みこむようなあたたかさがあった。澄史は、自分の胸がどきりと一回大きく脈打つのを感じた。
(なっ、なんだ、今の…)
「俺はお前に大きな借りがあるんだ。だから絶対にお前を裏切ったりしない。必ずお前を自由にする。だから、俺を信じてくれないか。」
真剣な眼差しでじっと見つめてくるその男を、澄史は迷いに満ちた表情で見つめ返した。
(今は、こいつを…信じてみるしかないんだ…)
澄史の手が、差し出された男の手の方へそろそろとのびはじめた。
(本当に俺は忠清寺を捨てたのか?捨てられるのか?俺たちは誰かに狙われているみたいな口ぶりだったし…。この先には何が待っているか分からない…。そもそも、こいつは本当は誰なんだ?空隆で、世緒で、でもその名前は使えなくて?それに、紫ノ僧から仰せつかった任務は?こいつを本当に信じていいのか?これから俺はどこへ行くんだ?先へ進めばもう戻れないぞ。いいのか?)
頭の中を駆け巡るたくさんの声がうるさい。澄史の額から一筋の汗が伝い落ちた。二人の指はもう触れそうなほど近い。
(この先死ぬかもしれないぞ?忠清寺の僧でなくなったら、お前は誰でもなくなるんだぞ?この先どうす…)
澄史は頭の中の声をすべて締め出すようにぎゅっと目を瞑ると、その勢いで男の手を固く握った。
「!」
男は澄史の指先が触れた瞬間彼の手を掴むとぐいと引っ張り、そのまま澄史を連れて脱兎のごとく駆け出した。
そして二人は、黒洞々たる闇の中に消えていった。
(そろそろか。)
男は部屋の端に置かれた箪笥に向き直ると、一番下の段を開けた。そこには、彼には少し小さそうな、墨色の僧衣が入っている。
(昔から変わってないんだな。)
男はそれを取り出すと、静かに自分の衣を脱ぎはじめた。紺碧い衣がはらりと畳に落ちる。ごわごわとしたその黒いの僧衣を身に着けると、次に男は自分の髪の毛を一本引き抜いた。それを親指と人差し指でつまむと口の前へ持っいき、ふっと息を吹きかけた。その瞬間、髪の毛から濃い霧のようなものが出、その中から男とまったく同じ容姿のもう一人の男が現れた。鳶色の髪も、瞳も、引き締まった体躯も、すべてが生き写しだ。
「その服を着ろ。それから、門まで行って、もう一人の僧を待つんだ。そいつと一緒に寺を出て、誤魔化せるところまで誤魔化せ。」
もう一人の男は黙ってうなずくと、足元に落ちている紺碧い衣を拾い上げ、着替えはじめた。
「頼んだぞ。」
はじめの男はそう言ってもう一人の男の肩に手をのせると、彼が着替え終わるのも待たずに部屋を後にした。
今夜は新月。あたりは真っ暗で、蝋燭の光がなければ目を開けているのか、閉じているのかさえ分からない。墨色の衣をまとったその男はすぐに闇の中にとけこんだ。男は音も立てずに中庭へ下りると、厠の後方に鬱蒼と茂った竹藪へと歩きはじめた。辺りに人の気配はなかったが、男は険しい表情のまま、足音を忍ばせ竹藪に入ると、できるだけ身体が竹に触れないようにしながら慎重に進んだ。しばらく行くと、人ひとり立てそうなほどの大きさの、開けた場所が現れた。そこは崖になっていて、数歩先はごつごつとした岩肌の急斜面がのびている。眼下に黒々とした森が海のように広がり、広大な空には幾千もの星がきらきらと輝いている。男は、崖の先端まで進むと、草履を懐にしまい、躊躇うことなく崖を伝い下りはじめた。最初の足場を見つけ、そこへ足をかけようとしたその時、男は誰かが藪を掻き分け走ってくる音を捉えた。
(まずい。)
焦って進めば落ちるかもしれない。しかし、このままだと見つかってしまう。足音が去るまでじっとしているのが得策だと判断した男は、手をかけている場所を少しずらし、崖の側面に張り付くようにして動きを止めた。足音がだんだんと近づいてくる。男は自分の心臓が早鐘を打ちはじめ、脂汗が額を伝うのを感じた。と、ぱさぁっ、という音とともに竹藪から誰かが飛び出してきた。
「こんな寺、消えろっーーーーーー!!!!!!!消えろっ、消えろっ、消えろっ!!!!もう全部全部燃えてしまえばいいんだ!!何が名誉ある寺だ!くそ野郎!!!くそっ、くそっ!腐ってる!!ここはどこも!!腐ってるんだ!!もうこんな所、無くなってしまえ!!ぜんぶ、みんな、消えろっーーーー!!!!!」
男は崖につかまったまま、驚いて目を見開いた。
「ああああああああああーーーー!!!!あああああああーー!!あああぁぁぁ、あっ、げほっ、あ゛っ、あ゛っ、げほっ、あぁっー……」
駆けてきた男は、しばらく咳き込みながら絶叫していたが、次第にその声に嗚咽が交じりはじめた。
「う゛ぅっ……あ゛っう゛っ……ひっ…」
と、突然、びゅうっ、と強い風が崖の下から上へと吹き上げ、泣いていた男が驚いて顔を上げた。その刹那、隠れている男の黒い袖が、ふわりと宙にはためいた。
「だっ、誰かいるのか!」
泣いていた男は急いで涙を拭って厳しい声で問いかけたが、辺りはしんと静まり返っている。
「だ、誰かいるなら出てこい。わ、私は薄紫ノ僧の澄史だ。就寝時間を過ぎても出歩いていたことは…お、お互い様だから、ちゃんと出てきたら誰にも言わないと約束しよう。」
返事を待ったが、やはり何の気配もない。見間違いだったのかと不審に思いながら、澄史は辺りを見回した。何も、誰もいない。見えるのは時折風に揺れてかさかさと音を立てる背の高い竹だけだ。
(おかしいな。絶対何か動いたのを見たんだけど。)
澄史は眉をひそめ、崖の先まで進むと、もう一度きょろきょろと辺りを見回した。その時、目線の下の方に何かを捉えた気がして、崖の下に目をやると、なんとそこには黒い僧衣をまとった男が張り付いているではないか。
「うわぁっ!!」
澄史は驚いてのけぞり、その場に尻もちをついた。
「なっなっなっ、何してるんだ!」
男は何も言わず、崖に張り付いたままじっと澄史を見つめ返してくる。澄史は先ほどの衝撃でまだ心臓が激しく脈打っていたが、もう一度よくその男を見てみると、どこか見覚えがある。鳶色の髪、瞳、長い睫毛に、すっと通った鼻筋。
「く…空隆…?」
二人の間に、息の詰まるような沈黙が流れた。双方、互いに見つめ合ったまま微動だにしない。
「……またお前か。」
しばらくして、男が聞こえるか聞こえないかくらいの声でぼそりと呟いた。
「え?」
「お前、ここから出たいか。」
「え...?」
「この腐った寺を捨てて自由になりたいか、と訊いてる。」
「……」
その意味を理解した瞬間、澄史は雷に打たれたかのごとく体中に衝撃が走ったのを感じた。
(こいつは空隆だ。絶対間違いない。ということはやっぱり世緒が空隆で、あの時の俺の直観は正しかったんだ!でも、任務はどうする?俺たち二人で白海部の病を調べに行くんじゃなかったのか?なんで空隆がこんな所に…。一体どうなってる?まさかこいつ、任務を放棄するつもりか?)
「お前、帝の勅命はどうなった。」
「俺の質問に答えろ。ここから出たいか、出たくないか。」
男の鳶色の目は暗闇に爛々と光り、射貫くように澄史をじっと見てくる。澄史はどうして良いかわからず俯いた。
(そりゃ、出たい。出たいよ、こんな腐りきった寺…。でもここから出て俺に何ができるっていうんだ。幼い頃から法門の修行ばかりしてきて、それ以外何も知らないのに。ここにいれば、確実に何もかも手に入るんだ。成功も、名誉も、地位も。十分幸せじゃないか。…でも本当にそれでいいのか?途中で嫌にならないか?それが俺の幸せなのか…?)
「く、空隆。ひとつ、きいていいか。お前、寺を出たこと、後悔してないのか。」
「俺の質問に答えろと言っている。ここから出たいか。お前が決めるんだ。」
澄史はその言葉にはっとした。自分で出すべき答えを、他人に頼って出そうとしていたのだ。
(俺は…)
今まで忠清寺で生きてきた記憶が、澄史の頭の中を走馬灯のように駆け巡る。厳しい修行。理不尽な罰。新しい法術を修得する喜び。周囲の嫉妬、尊敬、焦燥、孤独。縁にしていた友情、その裏切り、失望――。
(俺は何のためにここまで頑張ってきたんだろう?)
ふとよぎった疑問に、澄史は顔を上げた。その先には、まっすぐに澄史を見つめる鳶色の瞳があった。
「出たい。」
滑るように出てきた己の言葉を聞いて、澄史は驚いた。しかし同時に、憑き物が落ちたような、胸がすくような不思議な爽快感があった。
(そうか、俺は、ずっとこいつを追いかけてきたんだ――)
澄史の返事を聞いて、男は崖につかまったまま右手を差し伸べてきた。
(えっと…?この状態で、手を取れということか…?)
澄史が困惑した表情を浮かべながら恐る恐るその手を取ると、男はつないだ手をぐいと引き下げ、その反動で崖の上へと跳び上がった。
「?!」
体勢を崩して前へよろめいた澄史を男は抱きとめると、そのままくるりと背を向け、澄史の腕をつかんでぐいと引っ張り、彼を背負った。
「おっ、おい!ちょ、何して…」
澄史が言い終えるのも待たず、男は澄史を背に乗せたまま崖を伝い下りはじめた。今度は自分だけでなく、同じくらいのもう一人分の重みをその両手足に握っているのだ。彼の力を込めた指先は白く変色し、その額にはびっしりと脂汗が浮いている。澄史は何だか申し訳なくなってきて思わず口を開いた。
「あの、俺、自分で…」
「い、ま…しゃべる…な。」
「ご、ごめん。」
澄史が口をつぐんだのと同時に、びゅうっと風が吹き上げてきた。つられて下を見た澄史は愕然とした。黒々と広がる森が、足元の遥か遠くのほうにあったからだ。
(こんな急な崖、寺で経ばかり読んできた俺には到底降りるなんて無理だったな…。こりゃ落ちたら串刺しか、木端微塵だ…。)
背中に冷たいものが走るのを感じて、澄史は思わずつかまっていた腕にぎゅっと力を込めた。
「だい…じょ、ぶ、だ……め…つむ、て…ろ。」
思ってもいなかった励ましの言葉に澄史は一瞬驚いたが、こくりとうなずくと、硬く目を閉じた。
男の呼吸はいよいよ荒くなり、全身から汗が吹き出してきた。二人の身体が触れ合っている部分はさらに熱を持ちはじめ、互いの衣は蒸れてしっとりとしている。緊張でどくどくと脈打つ二人の心臓の鼓動は、ひとつ、またひとつと岩を移る度さらに速さを増していく。緊張に耐え切れず澄史がそうっと薄目を開けると、男の足の少し下に、人ひとり立って歩けそうなほどの洞穴があるのが見えた。
「し…かり…つかま、てろ。」
男は途切れ途切れにそう言うと、岩を握った両手にぎゅっと力を込め、空を蹴ってそのまま洞穴へと跳び降りた。どさり、という音がして、二人は倒れ込むように着地した。男の上に覆い被さっていた澄史は慌てて脇へ退くと、すぐさま彼を助け起こした。
「お、おい、大丈夫か、空隆。」
肩で息をしながら、男が応える。
「そ、の、名は…もう、捨てた…」
「じゃ、じゃあ、世緒?」
「それも、危ない…」
「じゃ、じゃあ何て呼べばいいんだよ。」
少しやけになって尋ねた澄史を、男はじっと見て言った。
「その二つ以外なら何でもかまわない。時間がないんだ。今はとにかく山を下りるぞ。髪を一本くれるか。それと、お前の衣の切れ端も。」
澄史は少し困惑したが、男の強い口調におされ、言われるままに髪の毛を一本引き抜き、衣の袖を引き裂いた。男はそれらを受け取ると、ふっと息を吹きかけた。その途端、男の手から一瞬ぼわりと煙が噴き出てきて、中から澄史と同じ僧衣を着た、澄史そっくりの人間が現れた。
「?!」
さらさらした黒髪に、黒く丸い瞳、兎のように小さな鼻と、小柄な背丈。すべてがまったく同じだ。澄史は驚きのあまり口を半開きにしてもう一人の自分を見つめた。
「そいつに任務に行ってもらう。お前の代わりだ。話すこともできるが、所詮はお前の姿をした殻。どこまで騙せるかは分からないが、ある程度の時間稼ぎにはなってくれるはずだ。」
男はその殻に顎で崖の方を指すと、彼はくるりと踵を返して出て行った。後にはとんとんと、岩肌を跳び越えるような音が聞こえてきた。
「あ、あいつは…」
「ただの殻だから、人のような重さがないんだ。崖なんて跳んで登ることができる。もちろん降りることも。」
(そ、そうじゃなくて…!いや、確かに崖なんて登れるのかって思ってはいたけど、そもそもどうやって俺の殻なんて作ったんだ?!どんな法術だ…?!)
まだ困惑している澄史をよそに、男は立ち上がって言った。
「時間がないから、この先走るぞ。だがこの地下通路は迷うと出られなくなる。俺は道を知っているから、ついてきてくれるか。」
男は言いながら、すっと手を差し出した。
(俺の殻の次は秘密の地下通路か。もう訳が分からない…)
澄史は何だか頭が痛くなってきた。
「さっきから一体何がどうなってるんだ。地下通路?お前、そもそもなんでこんなものがあるのを知ってる?ここで育った俺でさえも知らなかったんだぞ?」
「それは全部後で説明する。時間がないんだ。まだ奴らに気づかれていない間に、できるだけ遠くへ逃げなければ危ない。」
「や、奴ら?奴らって誰だよ!」
澄史は言ってすぐにはっとした。
(まさかこいつ、忠清寺の企みにもう気づいて…?いや、それならさっきの崖で俺を殺していたはず。じゃあやっぱり奴らって一体誰だ?)
「俺もちゃんと説明したいが、今は本当に時間がないんだ。お願いだ。俺を信じてくれ。」
男の目には懇願の色が浮かんでいた。彼は差し出した手をぴくりとも動かさずに澄史を待っている。彼の額の汗が顎を伝って滴り落ち、はだけた胸元にすうっと流れた。
(こいつを、信じる…?正直、こいつは得体の知れない男だ。一度は忠清寺を捨てて流れ者になったのに、また戻ってきて、俺の知らない法術をたくさん知っていて、ここの地下通路とやらも知っている…。考えてみれば、そんな胡散臭い男が、そもそもなんで俺を一緒に連れて行くんだ?さっきの崖でもそうだけど、俺がいた方が足手まといだ。それか、実は俺を使って忠清寺に何かしようとしている…?)
疑いに満ちた澄史の顔を見て、男が口を開いた。
「俺がお前を連れてきたのは、崖の上で叫ぶお前が、昔の俺に見えたからだ。この腐った寺に辟易し、すべてを捨てて自由になりたいと思っていたあの頃の俺に、重なって見えたんだ。」
泣きながら絶叫していたあの姿を見られていたのだと改めて気づいて、澄史は顔を赤らめた。
(恥ずかしい…。でも、こいつは、あんなに幼い時からすでに寺の腐敗ぶりに気づいていたのか…。いや、気づいていない方がおかしいか。幼くしていくつも飛び級し、大僧正たちに気に入られ、かなり寺の内部に入り込んでいたんだからな。嫌な部分も散々見てきたはず。…だからあの日、お前はここを捨てたのか…。)
澄史は、自分が何も考えず無邪気に遊んでいたあの頃、この男がすでに寺の陰湿な面に気がついていただけでなく、寺で築き上げてきたすべてを捨て、危険を承知で新しい人生を歩む勇気を持っていたという事実に、かすかな羨望を覚えた。
(俺ももう少し幼かったら、迷わずこの手を取ることができたのだろうか。)
「あの日、俺が寺を出て行くところを見たのもお前だったな。」
「あ…ああ。」
「あの後すぐに追手が来なかったということは、告げ口はしないでいてくれたんだな。」
「それは…お前の瞳が忘れられなかったから…」
言ってしまってすぐに、自分の言葉がどう聞こえるか気がついた澄史は、赤面しながら慌てて弁解をはじめた。
「ちっ、違うんだ!ただ、お前が、あの時だけすごく生き生きして見えたんだよ!いつも死んだような目してたのに。だから、もしお前が連れ戻されたら、また死んだような目になるんじゃないかと思って…。それは寺の戒を破るより悪いことのような気がして…」
男は一瞬驚いたように目を見開いたが、ふっと微笑んだ。
「じゃあやはり、俺が逃げ切れたのもお前のお陰だったんだな。ありがとう。」
その鳶色の瞳に宿った優しい光には、見る者を包みこむようなあたたかさがあった。澄史は、自分の胸がどきりと一回大きく脈打つのを感じた。
(なっ、なんだ、今の…)
「俺はお前に大きな借りがあるんだ。だから絶対にお前を裏切ったりしない。必ずお前を自由にする。だから、俺を信じてくれないか。」
真剣な眼差しでじっと見つめてくるその男を、澄史は迷いに満ちた表情で見つめ返した。
(今は、こいつを…信じてみるしかないんだ…)
澄史の手が、差し出された男の手の方へそろそろとのびはじめた。
(本当に俺は忠清寺を捨てたのか?捨てられるのか?俺たちは誰かに狙われているみたいな口ぶりだったし…。この先には何が待っているか分からない…。そもそも、こいつは本当は誰なんだ?空隆で、世緒で、でもその名前は使えなくて?それに、紫ノ僧から仰せつかった任務は?こいつを本当に信じていいのか?これから俺はどこへ行くんだ?先へ進めばもう戻れないぞ。いいのか?)
頭の中を駆け巡るたくさんの声がうるさい。澄史の額から一筋の汗が伝い落ちた。二人の指はもう触れそうなほど近い。
(この先死ぬかもしれないぞ?忠清寺の僧でなくなったら、お前は誰でもなくなるんだぞ?この先どうす…)
澄史は頭の中の声をすべて締め出すようにぎゅっと目を瞑ると、その勢いで男の手を固く握った。
「!」
男は澄史の指先が触れた瞬間彼の手を掴むとぐいと引っ張り、そのまま澄史を連れて脱兎のごとく駆け出した。
そして二人は、黒洞々たる闇の中に消えていった。
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