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四章

その31 四章の補足

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 星を見ていた。

 真っ黒なキャンバス。それを塗り潰さんとばかりに煌めきを放つ星々の輝きに、ただ目を奪われていた。

 ナツキの話では、おおかみ座なんかも観測できているらしいが、それがどれを指しているのか全くわからない。星座には無頓着過ぎたせいで、どの星が何の星座なのかもわからない。

 それでも、この夜空の美しさは伝わってくる。

 「夜空も、いいものですね…」

 ポツリと、そんな呟きが隣から聴こえてきた。声のした方に顔を向けると、そこにはフユカが立っていた。

 フユカは無邪気な顔で夜空を見上げていた。月の放つ僅かな明かりが、彼女の表情をぼんやりと照らしていた。満天の星空を、その大きな瞳に溢れんばかりに映し出す。短い黒髪は夜のように黒く、しかして彼女の表情は星々にも劣らぬ輝きを見せていた。

 普段見たことのないようなフユカのその顔に、俺も思わず見惚れてしまった。

 こちらの視線に気がついたのか、フユカがこちらに顔を向けてくる。

 「どうかしましたか?顔に何かついてましたか」
 「いや、そういうわけじゃない。………フユカは、星とか好きなのか?」
 「好きか嫌いかで言われたら、それは好きですが。それでも関心はありませんでしたね」
 「そうか。まぁ俺も似たようなものだな」
 「?今日のシュウはおかしいですね。いや、おかしいのはいつものことでしたか」
 「それはどういう意味だ」
 「そのままの意味ですよ」

 クスクスと口元に手を当てて、フユカが笑った。

 不思議と気分が高揚していた。他愛のない会話でも、いつもみたいな軽口でも、フユカと会話しているだけでなぜだか不思議と楽しい気分だった。きっとこれは星空の魔力なのだろう。きっとそうに違いない。

 「あっ……!ちょっとアレ!見てくださいよシュウ!流れ星ですよ!」
 「うわっ!ちょ、フユカ……!」

 突然夜空に向かって指を差したかと思えば、フユカはいきなりこちらに体を近づけてきた。左手で夜空を示しながら、反対の手を俺の肩に置いてゆさゆさと揺さぶってきている。俺の肩がフユカに引っ張られているせいで、二人の顔はとてつもなく近い。

 流れ星は勿論気になっているのだが、今の俺にはそんな余裕がなくなっていた。感じているのは、肌が触れ合う距離にいるフユカの温もり。ふわりとなびく黒髪からは、シャンプーの良い香りが漂ってきた。

 どうしようもなく、頬に熱が集まってくるのがわかる。
 恥ずかしい!この状況めちゃ恥ずかしい!

 恥ずかし過ぎるこの現状をどうにかしないと。ただ、今の心境をそのまま吐露するわけにもいかないので、それらしいことを言ってみた。

 「そ、そんなに肩を揺すると見えないだろ!」
 「え?あっ………!」

 すると、やっとこさフユカも現状に気がついたらしい。顔が一瞬で赤く染まると同時に、バッと俺から飛び退いた。息がかかる程に近かった二人の距離に空間ができた。そのことに僅かな物悲しさを覚えたのだが、今は恥ずかしさでそれどころではなかった。

 「す、すみません…!全然気が付かなくって…!」
 「い、いやいや。別に悪くはないから……」

 両手を体の前で合わせながら、焦った様子で頭を下げてくるフユカ。俺も同じくらい焦っていて、意味もなく後頭部に手を当てながら頭を下げる。そして、二人してヘコヘコとお辞儀をし合う謎の光景が誕生してしまった。これぞ七不思議が一つ『屋上でお辞儀をし合う男女』である。

 他の部員達の不思議なものを見る目が流石に気になってきたので、十数回お辞儀をしたところで中断となった。

 それにしても今が夜で助かった。赤くなった頬も、きっと今はわかりづらいだろうからな。
 ただ、フユカの場合ははっきりと朱色の頬がわかってしまっていた。肌が色白なので、月明かりでも十分に認識できる。まぁフユカにとっても恥ずかしい体験だったに違いない。友達がいないと言っているフユカが、こんな体験をしたことはなかっただろうから。俺ですら初体験である。

 「七不思議も解明したしー星空も堪能したから、そろそろ帰ろうかー」

 ナツキのその言葉で、素晴らしい星空観察もお開きとなった。

 「そうね…、ってうわっ。もう九時半じゃない。結構時間立ってたのね」
 「これ以上星を見てたら、一人で待ってる校長先生が不憫だね」
 「そういやそうだった。校長先生待っててくれたんだったな」
 「それならば早いとこ戻りましょう」

 どうやら相当な時間、星空を眺めていたようだ。待ってくれている校長先生の元へ戻るべく、俺達は屋上を後にしようと出入り口の方へと向かった。

 その時、スマホの着信音が鳴り出した。

 「ん?ああ、ごめん僕のだ」
 「こんな時間に電話か?誰からなんだよ」

 個人名を聴きたいわけではなく、アメになんとなくそう尋ねた。そもそもアメの文芸部以外の知り合いなんて一人たりとも知らないので、個人名が出てきても困る。

 夜ももう遅い。確かに俺達高校生はまだ活動している時間帯とは言え、流石にこんな時間に電話をかけてくるのはマナー違反みたいなものだろう。

 スマホをポケットから取り出したアメは、画面を見て軽く首を傾げた。

 「クラスの女の子からだ。どうしたんだろう」
 「まさか告白とかじゃないのかー?」
 「それは本当にまさかだよ。この人とは少し喋ったことがあるくらいだし」
 「それより電話でなくてもいいのー?」
 「ああ、そうだった」

 アメは画面をタッチして、スマホ耳に当てた。電話の内容を盗み聞きしても悪いので、この場から立ち去ろうとしたのだが、意外と電話は早く終わった。

 「えー会話終わるの早すぎじゃないの?もうちょっと話すことくらいあったでしょ」
 「とりあえず折り返し電話するって伝えただけだよ。ここで皆を待たせても悪いしね」
 「別に気にしなくても良かったんだぞ」
 「校長先生を気にしたんだよ」
 「それは仕方ないねー」

 俺達は出入り口の扉を開けて、校舎の中へと入っていった。それから下駄箱で上履きから革靴に履き替えて、校長先生の待つ、駐車場へと向かった。

 帰りの車の中でも、俺達の会話は尽きることなく紡ぎ続けられていた。星空の話、夏休みの課題の話、学校の話。紡ぐ話題は留まることを知らずに、俺達は笑顔を浮かべて語り合っていた。

 そうして今日の文芸部の活動は、終了した。

◆◆◆

 今思えば、この日が分岐点だったのだろう。

 過ぎてしまった過去のことを、どうこう言ってももう遅いのはわかりきってはいる。それに、この時の俺達にはどうすることもできなかったことも事実。

 結果を選ぶのは、彼だったわけだ。

 アメだったわけだ。

 そして彼は選んだ。その道を選んだ。


 次の日、彼の姿は文芸部にはなかった。

 その次の日も。そのまた次の日も。


 結局アメは、夏休みが終わるまで一度も文芸部に来ることはなかった。
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