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愛憎編
12、最後の風林火山
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山本菅助が武田勝頼本陣に入ると、重苦しい雰囲気をすぐに感じとれた。
武田勝頼や武田信豊など、菅助の策を信じた多数派は菅助が抱く恐怖感と同じだが、内藤昌秀など宿老や中堅家老たちは、全く違う。
山県昌景は叫んだ。
「信実様が討たれた。信玄公の弟君を、また死なせてしまった!」
山本道鬼の亡骸の前で誓った、武田一門の戦死させない。
その約束は、破られた。
馬場信春も真田兄弟も、その他、あの川中島を知る侍たちも全員、誓っている。
だから彼等の眼中には、勝ち負けのことなど無い。
あるのはこの責任を、敵に向けて爆発させることだけだった。
真田信綱・昌輝兄弟や土屋昌次などは皆、狼の如く敵陣を睨む。
馬場信春と山県昌景は、目線で内藤昌秀にむけて指示を欲した。
武田勝頼は、それでも負けを認めたくなくかった。
自ら軍配を上げ、戦おうとした。
しかし、内藤昌秀にその腕を掴まれ、止められた。
昌秀は首を振って、言う。
「我らが誇る御大将が、負け戦の軍配を握ってはなりませぬ。ここから先は、副将たる某の勤めです!」
昌秀と勝頼、お互い睨み合う。
信豊は圧迫感に押され、声が出ない。
命の賭け方は、桁外れに昌秀のほうが圧倒した。
その上、勝頼は昌秀の後ろに集まる老将たちからも睨まれていた。
今までにない、激しい威圧だ。
勝頼は軍配を下ろし、諦めた。
その軍配は、昌秀に手渡された。
昌秀が勝頼に一礼すると、後ろの皆も頭を下げた。
武田勝頼は深く息を吐くと、すぐ後ろを向き、何も語らず、本陣を出る。
武田信豊が慌ててその後を追いかけると、その他勝頼派の侍大将たちも、恐る恐ると引き下がった。
長坂釣閑斎は内藤昌秀に向かい、今の複雑な心境を語った。
「できればこのいくさに勝った上で、貴様には責任を取ってほしかったが、仕方がない」
「……後のことは、頼んだぞ」
昌秀は、以後の武田家を、自分を最も毛嫌いしてきた男に託した。
たとえ犬猿の仲でも、お互い、武田家のためだけに命を賭けてきた。
お互い、この一点だけは信頼できた。
釣閑斎は、言葉にはしなかったが、了解したとはっきり頷いてから、陣を立ち去ろうとする。
山本菅助にも、激しい責任感はある。
だから昌秀に言う。
「そ、某は残ります!」
と進言したとたん、釣閑斎に羽交い絞めされ、
「我らのいくさは既に終わった。若造の出る幕は、甲府に帰ってからだ!」
と、無理に連れて行かれた。
武田勝頼らの撤退組が、この本陣からいなくなった。
内藤昌秀と共に従う譜代衆は、改めて数えたら、山県昌景・馬場信春ら十三人いた。
兵も、八千人近くいる。
昌秀は頭を下げ、深く感謝した。
頭を上げ、皆に提案する。
「作ろう。我らの旗を!」
皆、賛成した。
白地無字の大旗が、机にした置き盾の上に敷かれる。
それぞれが一字づつ、文字を書く。
疾・如・風・徐・如・林………。
皆、悪筆だが、満足してる。
思い出される。
武田信玄とともに、この旗の下で暴れまわった頃を。
魂が震え、高揚する。
勝気の微笑みが浮かびあがった。
最後に昌秀が筆を持つ。
「山」の字を書き、旗を完成させた。
大旗が立ち上がり、風になびく。
本陣に、孫子の旗が復活した。
その猛々しさに、南北に陣する全軍からの歓喜が聞こえる。
みんなにこの旗が、見えたようだ。
ならば敵からも、見えるだろう。
歓喜は空気が揺れるほどに激しく、味方の士気は最高潮に達したと分かる。
内藤昌秀はそれを実感すると、表情を引き締めて、軍配を西にかざす。
そして、最後の号令を発した。
「我等が目指すは敵本陣が遥か彼方、武田信玄公がおわす、西方極楽浄土ぞ!」
「おう!」
「行くぞ。ミタ照覧っ!」
昌秀率いる八千の武田軍。
その一人ひとりの魂の中には、川中島で鬼神となった山本道鬼が蘇っている。
逃げ道なんか、既にない。
八千の全軍は一丸となって敵陣目掛け、怒涛の攻撃を開始した。
設楽原の東、戦場から離れた有海にある山本菅助と春日昌澄の陣。
菅助は昌澄にそのことを教えると、昌澄は泣きながら、
「これでは父上に顔向けができん!」
と叫び、我を忘れて自軍の指揮を放棄した。
昌澄は単騎で、無数の銃声が派手に鳴り響くほうへと馬を走らせた。
菅助は怒る。
「こらっ、待て! そっちに行きたいのはワシのほうなんだぞ!」
昌澄は視界から消えた。
菅助は急に昌澄の軍勢二百人まで預かることとなる。
仕方がないので、長坂釣閑斎に言われた通り、寒狭川の絶壁上の狭い街道を北上する、武田勝頼らの撤退を無事に済ませるため、最後まで見守るしかなかった。
本当に狭い崖道なので、両岸の道を使うしかない。
だから半分の兵は、再度渡河させなければならなかった。
退却組は、未の刻(午後二時)ごろにやっと渡河を終える。
この頃、設楽原では内藤昌秀の武田軍が、総崩れとなった。
あぜ道を渡るしかない武田軍。
何千もの兵が鉄砲の餌食になる。
水田は血の海と化す。
山県昌景が撃たれ、それでも後ろの兵が柵に食らいつき、ひとつひとつ壊しながら撃たれ、三重の柵を打ち破ったところで土屋昌次も撃たれ、その屍を踏みつけて敵陣内に乱入した内藤昌秀は、四方八方から串刺しにされた。
あの孫子の旗も、銃弾に打ち抜かれて倒され、敵兵に踏みにじられた。
武田軍の敗走が始まる。
敵連合軍は発砲をやめ、陣を出て、怒涛の追撃戦を始めた。
真田兄弟や馬場信春は、このときに討たれている。
有海では、武田勝頼の撤退組全員が無事に街道に乗った。
これで山本菅助は、敵が来る前に殿軍の役を全うできた。
「よし、ワシとて山本道鬼の血が流れてるのじゃ。やっぱり設楽原へ戦おう!」
と、気持ちを切り替える。
しかしここで突然、長篠城の奥平貞昌勢と酒井忠次・金森長近隊三千余名の猛攻を受ける。
この場を、戦場にされてしまった。
菅助は烈しく苛立った。
「くそう。にっくき家康めを、信長めを討たせろ! ワシを孫子の旗の下で死なせろ!」
とはいえ敵襲を受けた以上、撤退した勝頼たちの壁にならないといけない。
菅助は槍を持ち、自らも戦う。
四百の山本勢は必死に防戦するも、もろくも崩れてしまう。
菅助は見知らぬ雑兵に槍で横腹を突かれ、額にも刀のかすり傷をつけられた。
菅助は槍を捨て、刀を抜き、突かれた槍を叩き割って逃げる。
よろめきながらも、崖の上の森へ逃げ隠れた。
菅助は、木に背をつきながらしゃがみこむと、疲労がドッと出て意識がもうろうし、立てなくなる。
――風林火山、風林火山……。
声が出せず、心で叫ぶ。
すぐ下で行われてる小競り合いは五月蝿いのに、菅助は何も聞こえない。
この静寂の中で、菅助の脳裏から、胴と首が離れ、その首を手に持つ内藤昌秀が現れた。
昌秀は、菅助を睨んで叱る。
――このいくさの全てを悟れたにも関わらず、なぜ次に活かそうと考えないのじゃ? この死に急ぎ野郎め!
菅助は泣く。
失禁までする。
昌秀はすぐに消えた。
菅助はホッとすると、今度はおふうがフッと現れた。
処刑直後の姿だ。
乱れ髪で、額が血に染まってる。
――また騙されたの? 困った人ね。
と冷笑された。
菅助は心の中で、
――そ、そんなぁ……。
と、みじめに嘆く。
ここで突然、首筋に何か痛いものを感じた。
意識の全てが、ぷっつり切れた。
日暮れ、敵連合軍の勝鬨があがる。
西空には黒雲が現れ、雷鳴が聞こえていた。
(終)
武田勝頼や武田信豊など、菅助の策を信じた多数派は菅助が抱く恐怖感と同じだが、内藤昌秀など宿老や中堅家老たちは、全く違う。
山県昌景は叫んだ。
「信実様が討たれた。信玄公の弟君を、また死なせてしまった!」
山本道鬼の亡骸の前で誓った、武田一門の戦死させない。
その約束は、破られた。
馬場信春も真田兄弟も、その他、あの川中島を知る侍たちも全員、誓っている。
だから彼等の眼中には、勝ち負けのことなど無い。
あるのはこの責任を、敵に向けて爆発させることだけだった。
真田信綱・昌輝兄弟や土屋昌次などは皆、狼の如く敵陣を睨む。
馬場信春と山県昌景は、目線で内藤昌秀にむけて指示を欲した。
武田勝頼は、それでも負けを認めたくなくかった。
自ら軍配を上げ、戦おうとした。
しかし、内藤昌秀にその腕を掴まれ、止められた。
昌秀は首を振って、言う。
「我らが誇る御大将が、負け戦の軍配を握ってはなりませぬ。ここから先は、副将たる某の勤めです!」
昌秀と勝頼、お互い睨み合う。
信豊は圧迫感に押され、声が出ない。
命の賭け方は、桁外れに昌秀のほうが圧倒した。
その上、勝頼は昌秀の後ろに集まる老将たちからも睨まれていた。
今までにない、激しい威圧だ。
勝頼は軍配を下ろし、諦めた。
その軍配は、昌秀に手渡された。
昌秀が勝頼に一礼すると、後ろの皆も頭を下げた。
武田勝頼は深く息を吐くと、すぐ後ろを向き、何も語らず、本陣を出る。
武田信豊が慌ててその後を追いかけると、その他勝頼派の侍大将たちも、恐る恐ると引き下がった。
長坂釣閑斎は内藤昌秀に向かい、今の複雑な心境を語った。
「できればこのいくさに勝った上で、貴様には責任を取ってほしかったが、仕方がない」
「……後のことは、頼んだぞ」
昌秀は、以後の武田家を、自分を最も毛嫌いしてきた男に託した。
たとえ犬猿の仲でも、お互い、武田家のためだけに命を賭けてきた。
お互い、この一点だけは信頼できた。
釣閑斎は、言葉にはしなかったが、了解したとはっきり頷いてから、陣を立ち去ろうとする。
山本菅助にも、激しい責任感はある。
だから昌秀に言う。
「そ、某は残ります!」
と進言したとたん、釣閑斎に羽交い絞めされ、
「我らのいくさは既に終わった。若造の出る幕は、甲府に帰ってからだ!」
と、無理に連れて行かれた。
武田勝頼らの撤退組が、この本陣からいなくなった。
内藤昌秀と共に従う譜代衆は、改めて数えたら、山県昌景・馬場信春ら十三人いた。
兵も、八千人近くいる。
昌秀は頭を下げ、深く感謝した。
頭を上げ、皆に提案する。
「作ろう。我らの旗を!」
皆、賛成した。
白地無字の大旗が、机にした置き盾の上に敷かれる。
それぞれが一字づつ、文字を書く。
疾・如・風・徐・如・林………。
皆、悪筆だが、満足してる。
思い出される。
武田信玄とともに、この旗の下で暴れまわった頃を。
魂が震え、高揚する。
勝気の微笑みが浮かびあがった。
最後に昌秀が筆を持つ。
「山」の字を書き、旗を完成させた。
大旗が立ち上がり、風になびく。
本陣に、孫子の旗が復活した。
その猛々しさに、南北に陣する全軍からの歓喜が聞こえる。
みんなにこの旗が、見えたようだ。
ならば敵からも、見えるだろう。
歓喜は空気が揺れるほどに激しく、味方の士気は最高潮に達したと分かる。
内藤昌秀はそれを実感すると、表情を引き締めて、軍配を西にかざす。
そして、最後の号令を発した。
「我等が目指すは敵本陣が遥か彼方、武田信玄公がおわす、西方極楽浄土ぞ!」
「おう!」
「行くぞ。ミタ照覧っ!」
昌秀率いる八千の武田軍。
その一人ひとりの魂の中には、川中島で鬼神となった山本道鬼が蘇っている。
逃げ道なんか、既にない。
八千の全軍は一丸となって敵陣目掛け、怒涛の攻撃を開始した。
設楽原の東、戦場から離れた有海にある山本菅助と春日昌澄の陣。
菅助は昌澄にそのことを教えると、昌澄は泣きながら、
「これでは父上に顔向けができん!」
と叫び、我を忘れて自軍の指揮を放棄した。
昌澄は単騎で、無数の銃声が派手に鳴り響くほうへと馬を走らせた。
菅助は怒る。
「こらっ、待て! そっちに行きたいのはワシのほうなんだぞ!」
昌澄は視界から消えた。
菅助は急に昌澄の軍勢二百人まで預かることとなる。
仕方がないので、長坂釣閑斎に言われた通り、寒狭川の絶壁上の狭い街道を北上する、武田勝頼らの撤退を無事に済ませるため、最後まで見守るしかなかった。
本当に狭い崖道なので、両岸の道を使うしかない。
だから半分の兵は、再度渡河させなければならなかった。
退却組は、未の刻(午後二時)ごろにやっと渡河を終える。
この頃、設楽原では内藤昌秀の武田軍が、総崩れとなった。
あぜ道を渡るしかない武田軍。
何千もの兵が鉄砲の餌食になる。
水田は血の海と化す。
山県昌景が撃たれ、それでも後ろの兵が柵に食らいつき、ひとつひとつ壊しながら撃たれ、三重の柵を打ち破ったところで土屋昌次も撃たれ、その屍を踏みつけて敵陣内に乱入した内藤昌秀は、四方八方から串刺しにされた。
あの孫子の旗も、銃弾に打ち抜かれて倒され、敵兵に踏みにじられた。
武田軍の敗走が始まる。
敵連合軍は発砲をやめ、陣を出て、怒涛の追撃戦を始めた。
真田兄弟や馬場信春は、このときに討たれている。
有海では、武田勝頼の撤退組全員が無事に街道に乗った。
これで山本菅助は、敵が来る前に殿軍の役を全うできた。
「よし、ワシとて山本道鬼の血が流れてるのじゃ。やっぱり設楽原へ戦おう!」
と、気持ちを切り替える。
しかしここで突然、長篠城の奥平貞昌勢と酒井忠次・金森長近隊三千余名の猛攻を受ける。
この場を、戦場にされてしまった。
菅助は烈しく苛立った。
「くそう。にっくき家康めを、信長めを討たせろ! ワシを孫子の旗の下で死なせろ!」
とはいえ敵襲を受けた以上、撤退した勝頼たちの壁にならないといけない。
菅助は槍を持ち、自らも戦う。
四百の山本勢は必死に防戦するも、もろくも崩れてしまう。
菅助は見知らぬ雑兵に槍で横腹を突かれ、額にも刀のかすり傷をつけられた。
菅助は槍を捨て、刀を抜き、突かれた槍を叩き割って逃げる。
よろめきながらも、崖の上の森へ逃げ隠れた。
菅助は、木に背をつきながらしゃがみこむと、疲労がドッと出て意識がもうろうし、立てなくなる。
――風林火山、風林火山……。
声が出せず、心で叫ぶ。
すぐ下で行われてる小競り合いは五月蝿いのに、菅助は何も聞こえない。
この静寂の中で、菅助の脳裏から、胴と首が離れ、その首を手に持つ内藤昌秀が現れた。
昌秀は、菅助を睨んで叱る。
――このいくさの全てを悟れたにも関わらず、なぜ次に活かそうと考えないのじゃ? この死に急ぎ野郎め!
菅助は泣く。
失禁までする。
昌秀はすぐに消えた。
菅助はホッとすると、今度はおふうがフッと現れた。
処刑直後の姿だ。
乱れ髪で、額が血に染まってる。
――また騙されたの? 困った人ね。
と冷笑された。
菅助は心の中で、
――そ、そんなぁ……。
と、みじめに嘆く。
ここで突然、首筋に何か痛いものを感じた。
意識の全てが、ぷっつり切れた。
日暮れ、敵連合軍の勝鬨があがる。
西空には黒雲が現れ、雷鳴が聞こえていた。
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